都会ノ暮ラシ

テヅカミ ユーキ

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第二部「折り鶴の墓標」

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 翌日からの遥香は、時間さえあれば彼を見舞った。自発呼吸は確認されたためにしばらくして呼吸器は外されたが、喉にはぽっかりと穴が開けてある。時折彼が苦しそうに咳き込むので、そこから器具を使って痰を吸い取ってあげるのだ。肺に異物が入り込んで感染する嚥下性肺炎を忌避するためには、重要な介護だった。そのため、食事も鼻から通した管で流動食を流し込んでいる。そのチューブも、喉に開けられた穴も、腕に刺された点滴も、すべてが痛々しく見えてしまい、初めのうちは相当に彼女を挫けさせた。

 とはいえ、彼の母親から受けた言葉を思い出せば、気持ちを奮い立たせるしかなかった。その人がしていたように下の世話も請け負い、肌をきれいに拭き取ったあとは、要領よく腰を持ち上げて真新しいオムツに替える事も覚えた。それまで彼の肌に触れた事もなかった遥香は、そうして彼の身体を隅から隅まで覚えていった。

 伸ばし放題だった彼の長い髪も短く刈られ、遥香は時々、伸びてくる爪を切ってあげる時間がいちばん好きだった。

 元々が痩せ気味の彼は時と共にますます痩せ細っていたが、無骨な指先はそのままで、眠り続けたままでも律儀に伸びる爪は彼の生命力を感じた。彼女はその爪を、左はきれいに短く、そして右手は少しだけ長く残したままで切り揃えてあげるのだ。彼が目覚めた時、いつでもギターが弾けるようにと。
しかし、弦を押さえるために固く豆ができていた指先も、今はその名残もなく消えてしまっている。



 電話を待ちながら、また彼女は鶴を折る。その口元には、以前ならば見えたはずの薄っすらとした微笑はない。

 なぜ鶴を折るのか、遥香は考えてみた事もない。千羽鶴といえば病人の回復を願って折るものだと、いつだか盲腸で入院した友達にクラス一同で鶴を贈った彼女は知っていた。だが、二年を暮したこの広島で折り鶴と言えば、平和公園に奉納される平和の象徴だった。病気の回復が世界平和の象徴になるのならば、今の世の中はどんな大病を患っているのだろうかと、彼女は、酒に酔った彼が無表情に呟いていたような夢想に浸ってみる。

 彼女は、鶴を折る。

 すでに千羽をくだらないその折り鶴を、遥香は彼の病室に飾るつもりもない。彼女はただ、それを部屋の中に増やしていくだけだった。彼の回復を夢見て、彼と離れて費やすその時間を埋めるためだけに、折り鶴はテーブルの上で堆く積まれていくのだった。

 部屋の隅には彼のギターが入ったケースと、彼のために買った灰皿が、ずっと置き去りにされている。あの日のまま変わらないものはそれ以外にないのだろうかと、遥香は確かめるように瞼を閉じる。

 一昨年の原爆記念日の三週間前、原爆ドームと資料館に挟まれた小さなアーチ橋の上で、彼女は三木祐亮に出会った。

 観光客相手の遊覧船をのどかに見下ろす元安橋の上にはその頃、手描きのイラストを並べて座り込んでいる馴染みの男の姿もあった。年甲斐もなく派手なモヒカンで頭を飾り、いつも袖を落としたデニムに腕を通していたシンキチ。彼は、その容姿とは裏腹に物腰の柔らかい陽気な男で、遥香にとってはこの街に移り住んでから初めてできた知人でもあった。
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