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第一部「都会の暮らし」
16・悲願
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――やあ遥香ちゃん 仕事頑張ってるかい? 今夜は広島に戻って三越前だ 暇だったら来てくれ
そんなメールが入ったのは、あれから十日だった。朝から狂喜していた。明日も仕事だが関係はなかった。行くに決まっている。
昼間は気もそぞろで、相変わらず長田には怒られっぱなしだった。それでもつい口元が緩み、閉店時間を待っていた。
家へ帰るとまだ時間があったので、シャワーを浴びて休日用のワンピースを出した。午後八時になると居ても立ってもいられず、駅を目指して電車へ乗った。胡町で降りて、まだ彼が来ていないのを確かめて、コンビニで酒を買った。もちろん彼の分もだ。
時刻が九時になると落ち着かなくなり、周囲を見回していた。ゴロゴロと引きずるキャリーの音がすると、彼ではないかと振り返ったりもしていた。
「よう、久しぶり! でもないか」
ふと見れば、背中に彼が立っていた。音で気づかなかったのは、キャリーが大きなリュックに変わっていたからだ。
「キャリー、どうされたんですか?」
「タイヤがいかれてね。だいたいキャリーケースの最後はそうなる」
言いながらドサリと荷物を投げる。遥香は言いたかったことをすべて忘れ、
「今夜のお酒です」
鬼ころしを二合手渡す。
「サンキュ。今日は一日ブランクがあるからな。声が出ればいいけど」
そう言いながらも準備は淡々と進んでゆく。
「私、ジャマにならないように立ってます」
「そうか? じゃあ、ボチボチと始めよう」
ギターを構えると三木は大袈裟な発声を繰り返した。やがて調子が整ったのか、
「新曲だ。『原点回帰』」
ハーモニカを構えると、彼に似つかわしくないハードな曲が始まった。サビの、
――フルスロットルで 見知らぬ街に憧れて
――フルスロットルで 700マイル駆け出した
という箇所を不思議と覚えた。
曲が終わるとストローを口に、
「どうだった?」
彼が訊いてくるので、
「新鮮でした。そういう歌も唄うんだなって」
「まだ三十代。モデルチェンジに怯える歳じゃないからな」
それから彼はいつもの営業へと精を出し始めた。彼女はジャマをせぬよう道向かいに立っている。そして缶チューハイをチビチビと飲んでいると――。
「姉ちゃん! こがあな下手くそな歌聴かんと一緒にカラオケ行こうや!」
声に驚いて振り向くと見知らぬ男に肩を抱かれた。瞬間のことで固まってしまい怯えていると、三木が演奏をやめた。
「下手くそは自分で分かってるんだが、彼女は俺の歌を聴いてるんじゃない、心を抱かれに来てるんだ。アンタのカラオケでも、そりゃあ太刀打ちできないくらいにね」
若い男は顔を紅潮させ、
「東京もんかお前! 訳分からんこと言わんで東京帰れ! ここ広島なんで! ケンカ売っとるんか!」
三木はギターをケースへ置き、一歩踏み出す。男も詰め寄る。
「俺は訳あって自分から手は出せない。その代りこの街で俺に手を出すヤツがいたらそいつは十倍になって返ってくる。指一本折れば十本だ。この街で三木祐亮に手を出すってのは、そういうことなんだ」
男がさらに詰め寄ったその時、
「三木! どしたんな!」
武藤のタクシーが相変わらずの急ブレーキで止まった。その様子を見て男は怯む。
「いや、武藤君。大丈夫だから。今、話はまとまった」
「そうか! 何かあったらすぐ言えよ!」
三木はそこで煙草に火をつける。
「ってことだから。この辺一帯、俺のシマなんだ。分かったら彼女のことはあきらめて目の届かないとこまで行ってくれ」
男は言葉も続かず、小さく舌打ちすると早々に立ち去った。
そんなメールが入ったのは、あれから十日だった。朝から狂喜していた。明日も仕事だが関係はなかった。行くに決まっている。
昼間は気もそぞろで、相変わらず長田には怒られっぱなしだった。それでもつい口元が緩み、閉店時間を待っていた。
家へ帰るとまだ時間があったので、シャワーを浴びて休日用のワンピースを出した。午後八時になると居ても立ってもいられず、駅を目指して電車へ乗った。胡町で降りて、まだ彼が来ていないのを確かめて、コンビニで酒を買った。もちろん彼の分もだ。
時刻が九時になると落ち着かなくなり、周囲を見回していた。ゴロゴロと引きずるキャリーの音がすると、彼ではないかと振り返ったりもしていた。
「よう、久しぶり! でもないか」
ふと見れば、背中に彼が立っていた。音で気づかなかったのは、キャリーが大きなリュックに変わっていたからだ。
「キャリー、どうされたんですか?」
「タイヤがいかれてね。だいたいキャリーケースの最後はそうなる」
言いながらドサリと荷物を投げる。遥香は言いたかったことをすべて忘れ、
「今夜のお酒です」
鬼ころしを二合手渡す。
「サンキュ。今日は一日ブランクがあるからな。声が出ればいいけど」
そう言いながらも準備は淡々と進んでゆく。
「私、ジャマにならないように立ってます」
「そうか? じゃあ、ボチボチと始めよう」
ギターを構えると三木は大袈裟な発声を繰り返した。やがて調子が整ったのか、
「新曲だ。『原点回帰』」
ハーモニカを構えると、彼に似つかわしくないハードな曲が始まった。サビの、
――フルスロットルで 見知らぬ街に憧れて
――フルスロットルで 700マイル駆け出した
という箇所を不思議と覚えた。
曲が終わるとストローを口に、
「どうだった?」
彼が訊いてくるので、
「新鮮でした。そういう歌も唄うんだなって」
「まだ三十代。モデルチェンジに怯える歳じゃないからな」
それから彼はいつもの営業へと精を出し始めた。彼女はジャマをせぬよう道向かいに立っている。そして缶チューハイをチビチビと飲んでいると――。
「姉ちゃん! こがあな下手くそな歌聴かんと一緒にカラオケ行こうや!」
声に驚いて振り向くと見知らぬ男に肩を抱かれた。瞬間のことで固まってしまい怯えていると、三木が演奏をやめた。
「下手くそは自分で分かってるんだが、彼女は俺の歌を聴いてるんじゃない、心を抱かれに来てるんだ。アンタのカラオケでも、そりゃあ太刀打ちできないくらいにね」
若い男は顔を紅潮させ、
「東京もんかお前! 訳分からんこと言わんで東京帰れ! ここ広島なんで! ケンカ売っとるんか!」
三木はギターをケースへ置き、一歩踏み出す。男も詰め寄る。
「俺は訳あって自分から手は出せない。その代りこの街で俺に手を出すヤツがいたらそいつは十倍になって返ってくる。指一本折れば十本だ。この街で三木祐亮に手を出すってのは、そういうことなんだ」
男がさらに詰め寄ったその時、
「三木! どしたんな!」
武藤のタクシーが相変わらずの急ブレーキで止まった。その様子を見て男は怯む。
「いや、武藤君。大丈夫だから。今、話はまとまった」
「そうか! 何かあったらすぐ言えよ!」
三木はそこで煙草に火をつける。
「ってことだから。この辺一帯、俺のシマなんだ。分かったら彼女のことはあきらめて目の届かないとこまで行ってくれ」
男は言葉も続かず、小さく舌打ちすると早々に立ち去った。
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