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21・五月雨
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五月雨の降る土曜日だった。田村さんは土曜日の特別授業を抜け出して、僕とバスに揺られていた。
「ねえ、田村さん……」
「ええ」
「高校の制服、気に入ったの?」
「先週の萬代カレーの染みがあまりにもきれいに落ちて気持ちよかったから」
そういうチョイスなのか。
向かっているのは郊外のホームセンター。彼女はすでに里親探しの団体へ連絡をつけており、マリィを引き受ける段階まで話を進めていた。忙しい学校とバイトの合間に。
「猫は犬より手はかからないのよ。まずはエサより何よりトイレのトレーニング。これさえすめばあとはセールでひと缶八十八円の猫缶でもあれば十分なの。たぶんよ」
その「たぶん」のために今から重労働を強いられるらしい。キャットフードと猫のトイレの砂らしい。傘も差せず。
「軌道に乗ればコンビニでも調達できるものなの。最初の一歩に必要なのは初期投資。これは金額どうこうではないわ。かさばるものばかりだからつき合ってほしいのよ。都合よく、里親探しの方でケージは販売してくれるらしいから」
右手に猫のトイレの砂……。左手にドライフードと猫缶……。
「トイレというのはやはりかさばるわ。竜崎君がいなければ今ごろ私、白いリムジンをホームセンターに横付けしてカートで往復していたわ。ポーカーで勝っていたらと思うと恐ろしい結末になっていたかもしれない」
五月雨はまだしとしとと降っている。
「どうするの。バスの時間まだだよ」
僕が指も時間もしびれを切らせて言うと、
「そこのベンチに座りましょう。シャトルバスというのは時間通りだから。お礼に温かい缶コーヒーでも――」
「それはいい。帰って飲むから。ただ、今さらだけどこれだけで大丈夫なの?」
すると彼女は遠くの信号機を睨む目で、
「友人がいるから――」
それだけ言うと猫トイレを抱きしめた。
「友人?」
その疑問はバス共々持ち越して田村邸へ続く――。
ドアを開けてようやく荷物から解放されると、彼女は濡れた制服を堂々と着替えながら口走る。
「ウチには先輩犬のチョビがいるわ。幸い、猫は犬のように噛みついて遊んだりはしないらしいから、『無口で無挙動な相方だな』とでも思って和んでくれるはずよ」
そういえば噂のチョビがいないなと、彼女のすべらかな背中越しに部屋を見渡してみると、いた。壁のハンガーにチェーンをつけてぶら下がった全長十五センチのシベリアンハスキーだ。これに四千円使ったのかと胸が痛くなった。
青いクルーネックのシャツに着替えた彼女は、いそいそと買い物を袋から出し始めた。
「これね。白とブルーのツートーンがこの部屋を明るくしてくれるわ。ここにあの砂を入れるのね」
ところで田村さんは青が好きだ。それは僕の母の永遠のテーマでもあったカラーだ。
「エサを入れる容器はどうしたらいいかしら。私の使っているお皿を貸してあげたいけれど、その都度洗って交換するのもなんだわ」
「そこは専用に買った方が――」
「いえ。バイト先から一枚、手ごろなヤツをパクってくるわ。揚げ出し豆腐の器がちょうどいい。それぐらいお手のもの」
相変わらず発言が大胆だ。
「で、猫って寝床がいるんじゃないの?」
「私と同じ布団じゃダメかしら。それはひそかな夢なの」
「懐いてくれればいいだろうけど。田村さんがいない間はどうするの? 布団は出しっぱなし?」
「――そうね。店から手ごろなザルをパクってきてタオルでも置いたらどうかしら」
「なんでもかんでも取ってくるのはどうかと思うけど」
すると彼女は思案顔を見せて、
「追々考えるわ。まずは明日、マリィを引き取ってからが本番ですもの――」
それから彼女のバイト時間が来て、僕はマンションの前で別れた。何かへ静かに興奮している田村さんというものは、見ているだけで胸の奥が切なくなる。まるで母が作品に行き詰っていた時の、あの顔を思い出すからだ――。
ベランダに出てまだ雨の残る空を見上げると、彼女はもしかして淋しいのかもしれないと、一人暮らしの女の子がペットを飼うという動機を普通に思い描いていた。と、同時に、僕の中の淋しさというものを無理やり持ち出して、それを並べてみた。その二つは交じり合ったり重なり合ったり、田村さんとはそうして接してきたつもりだったけれど、他人は他人。不都合があれば離れてしまう仲なのだと思えばつらくなった。その時こそ僕は本当に一人になるのだと。
テーブルに置いた電話が鳴る。田村さんからしか鳴らないはずの電話を取ると――。
『真二か。明日は時間はあるか。いや、作ってほしいんだがな』
父だった。
「明日も明後日も忙しいよ。それに用事はない」
しばしの沈黙のあと、父は言った。
『マンションを売りに出そうと思っている。私ももう、そこに未練はない。いや、逆にいい思い出がない』
「そんなの勝手だよ。僕はここに住む。ずっとだ」
『そういう子供じみたことを言うほどにはまだ子供なんだな。いいか、私の気持ちひとつでお前はそこを出なければならないし、私と一緒に住むことになるんだぞ。それを覚えておけ。マンションの件は野々原の家の方にも話してある。私と住むのが嫌なら、あっちに引き取ってもらうか』
大人の都合だ。そして子供の僕には言い返せない。
「明日は午後から予定がある」
『じゃあ午前中でいい。十時に行く。長くなる話じゃない』
言うと、電話は切れた。父の声は、まだ母を恨んでいる声がした。父は僕のことも母のことも憎んでいるのだ。僕らが愛し合っていたことを。
「ねえ、田村さん……」
「ええ」
「高校の制服、気に入ったの?」
「先週の萬代カレーの染みがあまりにもきれいに落ちて気持ちよかったから」
そういうチョイスなのか。
向かっているのは郊外のホームセンター。彼女はすでに里親探しの団体へ連絡をつけており、マリィを引き受ける段階まで話を進めていた。忙しい学校とバイトの合間に。
「猫は犬より手はかからないのよ。まずはエサより何よりトイレのトレーニング。これさえすめばあとはセールでひと缶八十八円の猫缶でもあれば十分なの。たぶんよ」
その「たぶん」のために今から重労働を強いられるらしい。キャットフードと猫のトイレの砂らしい。傘も差せず。
「軌道に乗ればコンビニでも調達できるものなの。最初の一歩に必要なのは初期投資。これは金額どうこうではないわ。かさばるものばかりだからつき合ってほしいのよ。都合よく、里親探しの方でケージは販売してくれるらしいから」
右手に猫のトイレの砂……。左手にドライフードと猫缶……。
「トイレというのはやはりかさばるわ。竜崎君がいなければ今ごろ私、白いリムジンをホームセンターに横付けしてカートで往復していたわ。ポーカーで勝っていたらと思うと恐ろしい結末になっていたかもしれない」
五月雨はまだしとしとと降っている。
「どうするの。バスの時間まだだよ」
僕が指も時間もしびれを切らせて言うと、
「そこのベンチに座りましょう。シャトルバスというのは時間通りだから。お礼に温かい缶コーヒーでも――」
「それはいい。帰って飲むから。ただ、今さらだけどこれだけで大丈夫なの?」
すると彼女は遠くの信号機を睨む目で、
「友人がいるから――」
それだけ言うと猫トイレを抱きしめた。
「友人?」
その疑問はバス共々持ち越して田村邸へ続く――。
ドアを開けてようやく荷物から解放されると、彼女は濡れた制服を堂々と着替えながら口走る。
「ウチには先輩犬のチョビがいるわ。幸い、猫は犬のように噛みついて遊んだりはしないらしいから、『無口で無挙動な相方だな』とでも思って和んでくれるはずよ」
そういえば噂のチョビがいないなと、彼女のすべらかな背中越しに部屋を見渡してみると、いた。壁のハンガーにチェーンをつけてぶら下がった全長十五センチのシベリアンハスキーだ。これに四千円使ったのかと胸が痛くなった。
青いクルーネックのシャツに着替えた彼女は、いそいそと買い物を袋から出し始めた。
「これね。白とブルーのツートーンがこの部屋を明るくしてくれるわ。ここにあの砂を入れるのね」
ところで田村さんは青が好きだ。それは僕の母の永遠のテーマでもあったカラーだ。
「エサを入れる容器はどうしたらいいかしら。私の使っているお皿を貸してあげたいけれど、その都度洗って交換するのもなんだわ」
「そこは専用に買った方が――」
「いえ。バイト先から一枚、手ごろなヤツをパクってくるわ。揚げ出し豆腐の器がちょうどいい。それぐらいお手のもの」
相変わらず発言が大胆だ。
「で、猫って寝床がいるんじゃないの?」
「私と同じ布団じゃダメかしら。それはひそかな夢なの」
「懐いてくれればいいだろうけど。田村さんがいない間はどうするの? 布団は出しっぱなし?」
「――そうね。店から手ごろなザルをパクってきてタオルでも置いたらどうかしら」
「なんでもかんでも取ってくるのはどうかと思うけど」
すると彼女は思案顔を見せて、
「追々考えるわ。まずは明日、マリィを引き取ってからが本番ですもの――」
それから彼女のバイト時間が来て、僕はマンションの前で別れた。何かへ静かに興奮している田村さんというものは、見ているだけで胸の奥が切なくなる。まるで母が作品に行き詰っていた時の、あの顔を思い出すからだ――。
ベランダに出てまだ雨の残る空を見上げると、彼女はもしかして淋しいのかもしれないと、一人暮らしの女の子がペットを飼うという動機を普通に思い描いていた。と、同時に、僕の中の淋しさというものを無理やり持ち出して、それを並べてみた。その二つは交じり合ったり重なり合ったり、田村さんとはそうして接してきたつもりだったけれど、他人は他人。不都合があれば離れてしまう仲なのだと思えばつらくなった。その時こそ僕は本当に一人になるのだと。
テーブルに置いた電話が鳴る。田村さんからしか鳴らないはずの電話を取ると――。
『真二か。明日は時間はあるか。いや、作ってほしいんだがな』
父だった。
「明日も明後日も忙しいよ。それに用事はない」
しばしの沈黙のあと、父は言った。
『マンションを売りに出そうと思っている。私ももう、そこに未練はない。いや、逆にいい思い出がない』
「そんなの勝手だよ。僕はここに住む。ずっとだ」
『そういう子供じみたことを言うほどにはまだ子供なんだな。いいか、私の気持ちひとつでお前はそこを出なければならないし、私と一緒に住むことになるんだぞ。それを覚えておけ。マンションの件は野々原の家の方にも話してある。私と住むのが嫌なら、あっちに引き取ってもらうか』
大人の都合だ。そして子供の僕には言い返せない。
「明日は午後から予定がある」
『じゃあ午前中でいい。十時に行く。長くなる話じゃない』
言うと、電話は切れた。父の声は、まだ母を恨んでいる声がした。父は僕のことも母のことも憎んでいるのだ。僕らが愛し合っていたことを。
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