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1・春

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 電話のアラームが鳴る前から、閉じた瞼の向こうで何かがチラチラと動いている。それはひどく忙しない。夏のプールサイドで水面を見つめているような――。
 僕はあきらめて目を覚ます。枕の横に置いたケータイを取り、電話をかける。コールは二つで繋がる。

『……』

 声はない。

「田村さん――」
『ええ、おはよう』

 僕はベッドを抜けてドアを開け、西向きのベランダへ向かうとカーテンを開ける。

「頼むから、毎日窓に向けて鏡で朝日を反射させて遊ぶのやめてくれるかな」
『そんな。私はこれがやりたくてわざわざ目の前に越してきたというのに』
 本当にわざわざだ。向かいのマンションから、魔女のほうきのようなものを大きく振り動かしている彼女が見える。

『とにかくコーヒーを飲みに行くわ』

 ならば素直に最初からそうしてほしい。毎日、迷惑な起こされ方をするのは一日の始まりに不本意だ。

 顔を洗って着替えると、ドアの開く音がする。相変わらず鍵の意味のない人だ。彼女が触れた鍵はたちまちその意味を失くす。高校時代はそうやって屋上の鍵を開けては騒ぎを起こしていた。

「おはよう竜崎真二君」
「フルネームはやめてよ」

 彼女は構わない顔でキッチンへ向かうとヤカンに水を入れる。それをコンロに置くと火にかけた。僕の専属コーヒーメーカーでもある。

「時に竜崎真二君。あなたはなぜに一限目を入れていないの」
「なぜって、朝は頭も回ってないから」
「ではなぜ一限目は存在するの? 一限目を受けている者は誰もが頭のボーッとしたパーッとしたおバカさんということになるわ」

 そうは言ってない。

「一限目を入れるとその後の空き時間が多くなるんだよ。先輩もそう言うし」

「あらもう先輩ができたのね。でも私も負けていないわ。私だって友達ができたもの」

「友達?」

 田村さんが友達とは――。

「落とした消しゴムを拾ってもらったわ。三回」

 それはただの親切な人だ。しかも三回も落とすなんて。

「次はシャーペンの芯を貸してもらったら親友だわ。四年間ずっとそれで通せたら盟友と呼んでいい」

 厚かましいだけだ。

「でも、竜崎君がそうまで言うなら私も時間割を組み直してもいいわ。でないと、いつでも仲よく二人で登校して帰りは同じ方角であの二人はなんなのかしら、といったふうな学内の噂になれないもの」
「噂にならなくていいよ。とにかくコーヒー飲んだら学校行って。僕はゆっくり向かうから――」



 僕らの学科は情報メディア学科。僕の専攻は映像・アニメーション制作。何も考えていなかったのか、田村さんは情報デザインコースを選んだ。どちらにしても一年の段階では共通授業を選ぶ。

 それはそれとして、僕が就職に融通の利かないコースを選んだのは、ちっぽけな理由だ。母の作品を映像にして動かしてみたい。その気持ちに尽きた。その先の就職のことはどうでもよかった。

 バスが大学前につくと、途端に電話が鳴った。マナーモードにしていなかった僕は慌ててそれを取る。

「田村さん。バス降りたばっかりだから――」

『そう。一限目終わってすごくものすごく暇なのよ』

 言わんこっちゃない。

「そっちは暇でもこっちはさっそく映像基礎の授業なんだって。二時限目のあとにしてよ」
『そう。ならば思う存分に暇を謳歌するわ』
「じゃあ、とりあえず昼に学食で」

 そんな電話を切って授業へ向かう。と、今日もなぜか隣り合うツインテールの女の子がいつもの不機嫌そうな顔で肩を突いた。

「えっと――なに?」

 すると彼女は赤いジャケットの袖を突き出して、キャップの開いたシャーペンを見せる。

「あの、なに?」

 言うと激しく睨まれた。

「はあっ? アンタバカじゃないの? シャーペンの芯貸してって言ってるの」

 目つきどおりに少し怖い子だった。僕はシャーペンの芯を筆箱から出す。

「何これ。HBじゃない。普通2Bでしょ。二本もらうわよ」

 そうやって基礎セミナーが始まる――。


 二限目の授業が終わって田村さんと合流した。

「終わったわね。楽しい学食の時間なんだけれど、今日は私の友達も一緒していいかしら」

 消しゴムの友達か、と思い、

「別にいいよ」
「別に、というのが少し嫌がってる感じだわ。言い直しなさい」
「そ……歓迎します」
「言ってると来たわ。こっちよ――」

 そう言って彼女は賑わう学食入り口で大きく手を上げる。すると予想を裏切る銀髪の男子が現れた。てっきり女の子だと思っていた。

「竜崎君、紹介するわ。同じ学科の渚清治君」

 細身で銀髪の彼は気さくに笑い、

「どうも、渚です」

 右手を差し出してきた。

「はあ――竜崎真二です」

 そう手を握った時、声が響いた。

「清治! アンタバカじゃないの? 昼食は一緒にって決めたでしょ!」

 罵声を浴びせながらやって来たのは赤いジャケットに赤いスカートの女の子。シャーペンの彼女だ。

「ああ、ゴメン明日香。今日は友達の田村さんと竜崎君も一緒なんだ。じゃあ二人とも、紹介します。僕の恋人の二郷木明日香です」
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