25 / 32
25・バカだから
しおりを挟む
*
「お魚――骨があるものはなしね。昔、のどにつかえて以来トラウマなの。『ご飯を丸飲みしなさい!』って親が言うんだけれど意味も分からず、子供だからしつけられた通りよく噛んでモグモグして飲み込んだわ。まあ、大事にはならなかったけれど。あら、ブリの照り焼きなどはうかしら。まあ、結構高い」
「僕が払うから。いつも食材持ち込んでもらってるし」
「では迷わず切り身を二枚。そう、これにはあの、なんだか赤くて長いヤツが添えられて美味しそうなのがお似合い――なんだったかしら」
コーナーを変えて、
「はじかみ生姜だと思うよ。端っこしか噛めないって意味ではじかみ」
「たったそれだけのために五百円。しかも瓶入りで。これは散財ね、紅ショウガでも乗っけておくことにするわ。次なる冷やし中華のためにもチャーハンにも」
買い物は終わり、マンションへ戻る。もう陽は大きく傾いていた。
「あのさ、今さらなんだけど――」
「ええ。何かしら」
テレビを眺めていた彼女へ告げることにした。
「僕、自分の部屋で寝るから。よく考えなくても一緒に寝る必要ないんだし」
「あるわ」
「あるって――」
「私には竜崎君を精いっぱい守る必要がある。託されたの。人は眠りのうちに現実の幻を見るわ。それは時に甘く時に残酷。逃れられない現実から逃れて向かった幻の先でさらに幻を見れば、人はただ無力さを悔やむだけ。悔やんだ人間はそれまで躊躇っていた足を踏み出してしまうの。フェンスの向こうのフラクタルへ。まだ何も生まれなかった頃に還ることだけを夢見て。私はあなたをそうはさせない。初子さんの心を抱いたまま、あなたに生きて欲しい。それは、初子さんと同じ立場に立つという意味ではないわ。間違えないで、私は竜崎君を守るためだけにここにいる。あなたの寝姿の横で、それをじっと見つめているだけだったとしても。秩序を壊してでも」
言葉に深い意味はなかったろう。実際、彼女は言い終えてキッチンへ立った。お湯を沸かし始める――。
コーヒーの一時間後。食事が静かに終わり、洗い物をする。彼女が母の仕事机に向かいたがったので椅子を指した。
「私がここに居続ける限り、竜崎君がここにいない人を思い出すのか瞬間でも忘れられるのかは私には分からない。私がいることが正しいことなのかさえ私は本当のところ分からない。ただ分かって。私にはこれしか思いつかないの。バカだから」
いい加減に何か言わないと、と、
「田村さんに何か無理があるんなら、やめていいんだよ。こういうことは。母さんはそういうことを望んだ訳じゃないと思うから」
母のことを思い浮かべるのは彼女のせいじゃない。ここにいる限り、僕は母に囚われる。望みはたったそれだけ。彼女と続く奇妙な生活は、新しい驚きには届かない。僕はもう、そういう人間に成り果ててしまったのだから。
彼女はバスルームへ向かい、戻って来ると宿題を続ける僕の後ろへ立つ。風呂上がりの香りが漂う。
「進んでるの――」
「うん。お蔭で半分は」
「お願いがあるわ」
「……どんな」
「お願いだから私と同じベッドで寝てちょうだい。自分でも理解出来ないの。ずっと竜崎君のそばにいたいの。それは初子さんに『よろしく』と言われたからではなく。自分の意志のようなものかも知れない。それを越えた不思議な力のような気もする。ただ、この気持ちに嘘はないの。お願いよ。竜崎君」
僕は答えるべきか。本心を答えるべきなのか。これ以上「彼女」の場所を侵さないでほしいと。
「いいんだよ。さっきのことは気にしないで。僕もお風呂入って来るから」
椅子を立って振り返った時、ある錯覚に陥った。彼女がその身に何も着けていなかった
からだ。
「どうして……そういうことするの……」
「言ったじゃない。私にはなぜこうするのかさえ分からないと――」
部屋へ行き着替えを取り、脱衣所へ向かう。洗濯機の前に彼女の下着が落ちている。僕は黙ってそれを手に取り、洗濯機へ入れた。バスルームに入るとむせかえる。その、記憶によく似た甘い香りに。
風呂から戻ると彼女は寝室にいた。薄いブランケットの下は分からない。もう何度、分からない目に遭っているだろう。僕も――。彼女も――。
*
~次回最終話予定~
「お魚――骨があるものはなしね。昔、のどにつかえて以来トラウマなの。『ご飯を丸飲みしなさい!』って親が言うんだけれど意味も分からず、子供だからしつけられた通りよく噛んでモグモグして飲み込んだわ。まあ、大事にはならなかったけれど。あら、ブリの照り焼きなどはうかしら。まあ、結構高い」
「僕が払うから。いつも食材持ち込んでもらってるし」
「では迷わず切り身を二枚。そう、これにはあの、なんだか赤くて長いヤツが添えられて美味しそうなのがお似合い――なんだったかしら」
コーナーを変えて、
「はじかみ生姜だと思うよ。端っこしか噛めないって意味ではじかみ」
「たったそれだけのために五百円。しかも瓶入りで。これは散財ね、紅ショウガでも乗っけておくことにするわ。次なる冷やし中華のためにもチャーハンにも」
買い物は終わり、マンションへ戻る。もう陽は大きく傾いていた。
「あのさ、今さらなんだけど――」
「ええ。何かしら」
テレビを眺めていた彼女へ告げることにした。
「僕、自分の部屋で寝るから。よく考えなくても一緒に寝る必要ないんだし」
「あるわ」
「あるって――」
「私には竜崎君を精いっぱい守る必要がある。託されたの。人は眠りのうちに現実の幻を見るわ。それは時に甘く時に残酷。逃れられない現実から逃れて向かった幻の先でさらに幻を見れば、人はただ無力さを悔やむだけ。悔やんだ人間はそれまで躊躇っていた足を踏み出してしまうの。フェンスの向こうのフラクタルへ。まだ何も生まれなかった頃に還ることだけを夢見て。私はあなたをそうはさせない。初子さんの心を抱いたまま、あなたに生きて欲しい。それは、初子さんと同じ立場に立つという意味ではないわ。間違えないで、私は竜崎君を守るためだけにここにいる。あなたの寝姿の横で、それをじっと見つめているだけだったとしても。秩序を壊してでも」
言葉に深い意味はなかったろう。実際、彼女は言い終えてキッチンへ立った。お湯を沸かし始める――。
コーヒーの一時間後。食事が静かに終わり、洗い物をする。彼女が母の仕事机に向かいたがったので椅子を指した。
「私がここに居続ける限り、竜崎君がここにいない人を思い出すのか瞬間でも忘れられるのかは私には分からない。私がいることが正しいことなのかさえ私は本当のところ分からない。ただ分かって。私にはこれしか思いつかないの。バカだから」
いい加減に何か言わないと、と、
「田村さんに何か無理があるんなら、やめていいんだよ。こういうことは。母さんはそういうことを望んだ訳じゃないと思うから」
母のことを思い浮かべるのは彼女のせいじゃない。ここにいる限り、僕は母に囚われる。望みはたったそれだけ。彼女と続く奇妙な生活は、新しい驚きには届かない。僕はもう、そういう人間に成り果ててしまったのだから。
彼女はバスルームへ向かい、戻って来ると宿題を続ける僕の後ろへ立つ。風呂上がりの香りが漂う。
「進んでるの――」
「うん。お蔭で半分は」
「お願いがあるわ」
「……どんな」
「お願いだから私と同じベッドで寝てちょうだい。自分でも理解出来ないの。ずっと竜崎君のそばにいたいの。それは初子さんに『よろしく』と言われたからではなく。自分の意志のようなものかも知れない。それを越えた不思議な力のような気もする。ただ、この気持ちに嘘はないの。お願いよ。竜崎君」
僕は答えるべきか。本心を答えるべきなのか。これ以上「彼女」の場所を侵さないでほしいと。
「いいんだよ。さっきのことは気にしないで。僕もお風呂入って来るから」
椅子を立って振り返った時、ある錯覚に陥った。彼女がその身に何も着けていなかった
からだ。
「どうして……そういうことするの……」
「言ったじゃない。私にはなぜこうするのかさえ分からないと――」
部屋へ行き着替えを取り、脱衣所へ向かう。洗濯機の前に彼女の下着が落ちている。僕は黙ってそれを手に取り、洗濯機へ入れた。バスルームに入るとむせかえる。その、記憶によく似た甘い香りに。
風呂から戻ると彼女は寝室にいた。薄いブランケットの下は分からない。もう何度、分からない目に遭っているだろう。僕も――。彼女も――。
*
~次回最終話予定~
0
お気に入りに追加
5
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる