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母の――彼女の香りがベッドから消えない。それどころか先日より強くなっている気さえする。
コーヒーを淹れようとして思わず豆を二杯入れてしまった。そこへチャイム。
「早かったかしら」
青いノースリーブのワンピースで白い帽子を被っていた。
「アイスコーヒーがよかったかな」
「いいの。部屋は涼しいから。いただくわ」
彼女はカーテン越しのベランダを見て、
「布団を干したのね――」
「シーツは洗ってる」
「ずっと洗わないのかと思ってたわ」
「どうして」
「最後の形見だから」
だからこそ洗ったと、そのことは言わなかった。僕は少しずつ彼女の下を離れてゆかなければならない。無理やりにでも。
「考えてみたの。初子さんのこと」
彼女の言葉は時にタイミング悪く心を抉る。
「いいよ、母さんのことは。もう考えないようにするから」
「そんなこと……出来るはずはないし、出来たとしてもしてはいけないわ。竜崎君が考えなければ誰が考えるの」
「忘れる訳じゃないさ。考えない――今は打ち込むべきことに打ち込もうって思って」
「そう。じゃあ、私も今話そうとしたことは口にしないでおくわね」
分かり切った沈黙を、飲み干したコーヒーカップで埋めなければならない。
「いつか――神様の話をしたよね。神様はいないって」
彼女は前髪を指先でつまんだ。
「そこまで強烈には言ってないわ。信じられないといったの。神の存在は死を恐れる人間が生み出した偶像だから。悲しいかな、人はこの世の――あれ、そういう言い方をしたらあの世があるみたいね。言い直すわ。人はいずれこの世界の塵芥になるだけの自分を認められずにいる。私だってそう。認めたくないのよ。だから私は高次元に希望をかける。ここを含めた、ここでない場所を。二次元の絵が現実世界へ這い出して来れないのは次元の壁があるからよ。私たちもまた時間を含めた四次元から高次元へ抜け出せない。それを唯一可能にするのが死なのよ。もちろん仮説ね。そこはきっと意識の世界。四次元までにあるものはすべて存在してなお且つ自由な意識がある。だからこの次元の観察も出来る。意識と記憶だけだから自由なの。そこで私たちはきっと宇宙の創造と、私たちが神と呼ぶものに値する事象のなんたるかを知るの。そして更に高次元の存在のようなものはまた、意識で司られた五次元の存在理由を知る。最大の神秘は、そうやって上へ上へと続く階段は無限にあることよ。私たちはもう数学的に無限の概念を理解した生物なの。だからどこまでも高い次元へ進むパスポートは持っているわ。そして高次元へ向かうほど、存在は理由を求めなくなる。初子さんもまた、そこに向かったのね」
また面倒臭かったが、慰めようとしてくれているのは分かった。
「田村さん。そういうの含めて、僕は大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
「私はただ思いつきを話しただけよ? 竜崎君が神様だなんて言い出すから?? 何か心配した素振りがあったかしら???」
彼女は顔中を「へ」の字にした。
「建設的な話をしましょう。この夏、やってみたいことはある? 高校生最後の夏休みに」
「そうだな――屋上でコーラ飲めたらいいかな。田村さんと」
「ダメよ! いきなり告白なんて!」
「いや……なんか屋上の鍵、田村さんがいないと開いてない気がして」
「そう……。不思議なのよ。私が触れると鍵が開くの」
「それ、本当なの? 勘違いじゃなくて?」
彼女は自分の右手のひらを見つめる。
「何か、すごく大きな力を感じる時がある――。腐りかけた魚を気にならない程度の鮮度へ戻すくらいの」
すごいといえばすごいけれど。
「不思議なことって言えば僕もあって。あのシーツ、なんだか母さんの匂いが消えないんだ。それで――」
「その謎は解けるわ。悪いけれど初子さんのシャンプーとトリートメント、使ってたの。それに私の女子力エキスが作用した、なんらかの化学反応ね」
「そうなのかな」
「ええ。そうだわ――」
彼女は夕方になると素直に玄関へ向かう。それがすでに寂しく胸を揺らす。
「明日は久しぶりに、いっちょう晩メシでも作ってみることにするわ。いいわよね」
「いいけど、またパジャマ?」
「――考えといてみるわ」
不敵に笑い、出て行ってしまった。
母の――彼女の香りがベッドから消えない。それどころか先日より強くなっている気さえする。
コーヒーを淹れようとして思わず豆を二杯入れてしまった。そこへチャイム。
「早かったかしら」
青いノースリーブのワンピースで白い帽子を被っていた。
「アイスコーヒーがよかったかな」
「いいの。部屋は涼しいから。いただくわ」
彼女はカーテン越しのベランダを見て、
「布団を干したのね――」
「シーツは洗ってる」
「ずっと洗わないのかと思ってたわ」
「どうして」
「最後の形見だから」
だからこそ洗ったと、そのことは言わなかった。僕は少しずつ彼女の下を離れてゆかなければならない。無理やりにでも。
「考えてみたの。初子さんのこと」
彼女の言葉は時にタイミング悪く心を抉る。
「いいよ、母さんのことは。もう考えないようにするから」
「そんなこと……出来るはずはないし、出来たとしてもしてはいけないわ。竜崎君が考えなければ誰が考えるの」
「忘れる訳じゃないさ。考えない――今は打ち込むべきことに打ち込もうって思って」
「そう。じゃあ、私も今話そうとしたことは口にしないでおくわね」
分かり切った沈黙を、飲み干したコーヒーカップで埋めなければならない。
「いつか――神様の話をしたよね。神様はいないって」
彼女は前髪を指先でつまんだ。
「そこまで強烈には言ってないわ。信じられないといったの。神の存在は死を恐れる人間が生み出した偶像だから。悲しいかな、人はこの世の――あれ、そういう言い方をしたらあの世があるみたいね。言い直すわ。人はいずれこの世界の塵芥になるだけの自分を認められずにいる。私だってそう。認めたくないのよ。だから私は高次元に希望をかける。ここを含めた、ここでない場所を。二次元の絵が現実世界へ這い出して来れないのは次元の壁があるからよ。私たちもまた時間を含めた四次元から高次元へ抜け出せない。それを唯一可能にするのが死なのよ。もちろん仮説ね。そこはきっと意識の世界。四次元までにあるものはすべて存在してなお且つ自由な意識がある。だからこの次元の観察も出来る。意識と記憶だけだから自由なの。そこで私たちはきっと宇宙の創造と、私たちが神と呼ぶものに値する事象のなんたるかを知るの。そして更に高次元の存在のようなものはまた、意識で司られた五次元の存在理由を知る。最大の神秘は、そうやって上へ上へと続く階段は無限にあることよ。私たちはもう数学的に無限の概念を理解した生物なの。だからどこまでも高い次元へ進むパスポートは持っているわ。そして高次元へ向かうほど、存在は理由を求めなくなる。初子さんもまた、そこに向かったのね」
また面倒臭かったが、慰めようとしてくれているのは分かった。
「田村さん。そういうの含めて、僕は大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
「私はただ思いつきを話しただけよ? 竜崎君が神様だなんて言い出すから?? 何か心配した素振りがあったかしら???」
彼女は顔中を「へ」の字にした。
「建設的な話をしましょう。この夏、やってみたいことはある? 高校生最後の夏休みに」
「そうだな――屋上でコーラ飲めたらいいかな。田村さんと」
「ダメよ! いきなり告白なんて!」
「いや……なんか屋上の鍵、田村さんがいないと開いてない気がして」
「そう……。不思議なのよ。私が触れると鍵が開くの」
「それ、本当なの? 勘違いじゃなくて?」
彼女は自分の右手のひらを見つめる。
「何か、すごく大きな力を感じる時がある――。腐りかけた魚を気にならない程度の鮮度へ戻すくらいの」
すごいといえばすごいけれど。
「不思議なことって言えば僕もあって。あのシーツ、なんだか母さんの匂いが消えないんだ。それで――」
「その謎は解けるわ。悪いけれど初子さんのシャンプーとトリートメント、使ってたの。それに私の女子力エキスが作用した、なんらかの化学反応ね」
「そうなのかな」
「ええ。そうだわ――」
彼女は夕方になると素直に玄関へ向かう。それがすでに寂しく胸を揺らす。
「明日は久しぶりに、いっちょう晩メシでも作ってみることにするわ。いいわよね」
「いいけど、またパジャマ?」
「――考えといてみるわ」
不敵に笑い、出て行ってしまった。
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