16 / 32
16・分からねいけれず――
しおりを挟む
*
田舎の最終バスに乗り、マンションへ戻った。綿あめは半分の体積になっている。キッチンテーブルにはリンゴ飴が二つ並んでいる。金魚の木に、出目金はいなかった。
「本当に小さくなったわね。朝まで置いたら消えてなくなるかしら」
「元のザラメ以下にはならないよ」
「そうね。質量保存。ところで竜崎君、もう眠かったりする」
「まさか。三時に起きたヤツだよ。田村さんこそ寝てないんじゃないの」
「それが、私やっぱり自宅では眠れないのよ。今はちょっと分からねいけれず」
「噛んだよ。眠いんじゃない」
答えはなかった。
「僕さ、シャワー浴びて来るから。見るならテレビ見てて」
それでも答えはない。本当に寝ているのかと思ったがそうではない。目は開いている。が、そうやって寝る人もいるらしい。
シャワーから上がると、テレビもつけず彼女がソファーで倒れていた。やはり眠かったのだ。
「田村さん、不本意だけど寝るなら――」
そこへ、
「真二……ちょっと腰揉んで……ハードモードで……」
彼女が呟いた。冗談でも言えないはずの台詞を。
呆然と見下ろしていると、彼女が飛び跳ねるようにして身体を起こす。
その目は半分寝ぼけている。
「――はっ。私眠っていたのね。何分? 何十分?」
「田村さん、今なんて言ったか覚えてる?」
「『――はっ。私眠っていたのね。何分? 何十分?』」
「いや、その前」
「その前――。『それが、私やっぱり自宅では眠れないのよ。今はちょっと分からねいけれず』だったかしら」
「……分かった。いい。それよりきちんと寝た方がいいよ。着替えたらベッドに行ってて。僕は宿題でもやってるから」
「そう。そうさせてもらうわ。なんて眠いんでしょ。素敵」
母の作業場で、開いたままだった宿題を前にやっぱりペンは進まなかった。母の口癖そのままの台詞が、彼女の口からもれたのだから。なぜ、という問いかけよりも、どこか欠けていたものが戻ってきた感覚。あの日常が瞬間だけでも帰ってきた錯覚。それは一度苛立ちに変わったものではあるけれど、冷えた僕の心を温める偶然だった。それを分け合える相手はいなくとも、今はそれだけでいいことにしよう。
翌朝は彼女のいびきが聞けなかった。睡眠時刻から考えて彼女の方が先に起きていて当然だったからだ。いや、いびきが聞きたかった訳じゃない。
彼女がキッチンで立ち尽くしている。
「コーヒーというものを淹れてみようと思うのだけれど、何をどうやればよいのかさっぱりで、ご指導を頂けたらと思っているのが今の私」
「お湯を沸かして。ヤカンに半分くらい」
「半分。意外にたっぷりあるわ。そんなに蒸発するものなのね」
「カップとか温めるんだよ。ドリッパーにフィルターをセットして――」
「これは小学校の理科と既視感があるわ。漏斗と濾紙を使って」
「そう。それをコーヒー豆でやるんだよ」
お湯が沸く。二つのカップへ注いで置く。デキャンタにも一度お湯を注いでヤカンに戻す。ヤカンの残り湯と合わせてちょうどいいくらいの温度だ。
「ドリッパーに豆を二杯分」
「何かで豆をガリガリやるんじゃなかったの」
「それもあるけど、これはガリガリのあとの豆。それをこのスプーンで二杯入れたら。まずは少量のお湯で豆を蒸らす」
「蒸らす?」
「そうすることで成分が十分に抽出されやすくなるんだ」
「蒸らす――竜崎君はムラムラしたりはしないの」
「今はコーヒーのことだけ考えてほしいんだけど。で、豆がふんわりしてきたら、三回くらいに分けてお湯を注ぐ」
「やらせて」
「ゆっくり、あとは一回しすればいいから――」
二人でソファーに座る。距離感は少し近くなった。
田舎の最終バスに乗り、マンションへ戻った。綿あめは半分の体積になっている。キッチンテーブルにはリンゴ飴が二つ並んでいる。金魚の木に、出目金はいなかった。
「本当に小さくなったわね。朝まで置いたら消えてなくなるかしら」
「元のザラメ以下にはならないよ」
「そうね。質量保存。ところで竜崎君、もう眠かったりする」
「まさか。三時に起きたヤツだよ。田村さんこそ寝てないんじゃないの」
「それが、私やっぱり自宅では眠れないのよ。今はちょっと分からねいけれず」
「噛んだよ。眠いんじゃない」
答えはなかった。
「僕さ、シャワー浴びて来るから。見るならテレビ見てて」
それでも答えはない。本当に寝ているのかと思ったがそうではない。目は開いている。が、そうやって寝る人もいるらしい。
シャワーから上がると、テレビもつけず彼女がソファーで倒れていた。やはり眠かったのだ。
「田村さん、不本意だけど寝るなら――」
そこへ、
「真二……ちょっと腰揉んで……ハードモードで……」
彼女が呟いた。冗談でも言えないはずの台詞を。
呆然と見下ろしていると、彼女が飛び跳ねるようにして身体を起こす。
その目は半分寝ぼけている。
「――はっ。私眠っていたのね。何分? 何十分?」
「田村さん、今なんて言ったか覚えてる?」
「『――はっ。私眠っていたのね。何分? 何十分?』」
「いや、その前」
「その前――。『それが、私やっぱり自宅では眠れないのよ。今はちょっと分からねいけれず』だったかしら」
「……分かった。いい。それよりきちんと寝た方がいいよ。着替えたらベッドに行ってて。僕は宿題でもやってるから」
「そう。そうさせてもらうわ。なんて眠いんでしょ。素敵」
母の作業場で、開いたままだった宿題を前にやっぱりペンは進まなかった。母の口癖そのままの台詞が、彼女の口からもれたのだから。なぜ、という問いかけよりも、どこか欠けていたものが戻ってきた感覚。あの日常が瞬間だけでも帰ってきた錯覚。それは一度苛立ちに変わったものではあるけれど、冷えた僕の心を温める偶然だった。それを分け合える相手はいなくとも、今はそれだけでいいことにしよう。
翌朝は彼女のいびきが聞けなかった。睡眠時刻から考えて彼女の方が先に起きていて当然だったからだ。いや、いびきが聞きたかった訳じゃない。
彼女がキッチンで立ち尽くしている。
「コーヒーというものを淹れてみようと思うのだけれど、何をどうやればよいのかさっぱりで、ご指導を頂けたらと思っているのが今の私」
「お湯を沸かして。ヤカンに半分くらい」
「半分。意外にたっぷりあるわ。そんなに蒸発するものなのね」
「カップとか温めるんだよ。ドリッパーにフィルターをセットして――」
「これは小学校の理科と既視感があるわ。漏斗と濾紙を使って」
「そう。それをコーヒー豆でやるんだよ」
お湯が沸く。二つのカップへ注いで置く。デキャンタにも一度お湯を注いでヤカンに戻す。ヤカンの残り湯と合わせてちょうどいいくらいの温度だ。
「ドリッパーに豆を二杯分」
「何かで豆をガリガリやるんじゃなかったの」
「それもあるけど、これはガリガリのあとの豆。それをこのスプーンで二杯入れたら。まずは少量のお湯で豆を蒸らす」
「蒸らす?」
「そうすることで成分が十分に抽出されやすくなるんだ」
「蒸らす――竜崎君はムラムラしたりはしないの」
「今はコーヒーのことだけ考えてほしいんだけど。で、豆がふんわりしてきたら、三回くらいに分けてお湯を注ぐ」
「やらせて」
「ゆっくり、あとは一回しすればいいから――」
二人でソファーに座る。距離感は少し近くなった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
早春の向日葵
千年砂漠
青春
中学三年生の高野美咲は父の不倫とそれを苦に自殺を計った母に悩み精神的に荒れて、通っていた中学校で友人との喧嘩による騒ぎを起こし、受験まで後三カ月に迫った一月に隣町に住む伯母の家に引き取られ転校した。
その中学で美咲は篠原太陽という、同じクラスの少し不思議な男子と出会う。彼は誰かがいる所では美咲に話しかけて来なかったが何かと助けてくれ、美咲は好意以上の思いを抱いた。が、彼には好きな子がいると彼自身の口から聞き、思いを告げられないでいた。
自分ではどうしようもない家庭の不和に傷ついた多感な少女に起こるファンタジー。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる