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9・『カフェー真二』と晩メシ

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 午前一時のベッド。

「ダブルベッドだけど、身体は触れないようにしてて」

「ええ。気をつけるわ。寝乱れて腕や足を放り出してしまうかも知れないけれど、それでも今はその心配もないわ。なにせ眠れないんですもの」

 彼女は気をつけの姿勢で三十センチ隣りの壁際に眠っている。母がいつも眠っていた場所に。壁に貼りつくように。僕も僕でベッドの縁で同じようなものだった。その間に屈強な柔道家が一人眠れるほどの隙間を空けて。

「それはそれとして竜崎君。なぜに信用する気になったの。というか泊めてくれるの」

 泊まる気満々だった人がそういうことを言う。

「信じた訳じゃない。ただ、母さんの口癖だった。ポテトサラダ――。母さんが田村さんのとこへ行ったっていう日に話したのかも知れないけれど、この話を誰かにしている彼女を僕は知らない。僕だけの寝物語だったんだ。この世の中は消滅に向かうフラクタルで、それでも人間は進化を続けなければならないって」

「フラクタル。そのものの細部がその物自体の形状を表している図形、形状の物。だったら初子さんが言うフラクタルは観念的なものだったのね。決して形状は似通っていないけれど同じ目的、在り方のために同じ運命を辿るという」

 そしてそんな語り口調になぜか安らぎを覚えていつしか眠りについてしまっていた。


 朝――。

 目覚ましの前にカーテン越しの朝の陽射しと、豪快な彼女のイビキで目が覚めた。

 寝てる。腕や足を放り出して、ついでにパジャマの裾からヘソを出して。いわゆる美人系の彼女が出ベソだったのを知ったことは微かに大きい。

 彼女が眠っているうちに制服に着替えてコーヒーを淹れていると、ひとつボタンの外れた上着が左肩へ引っかかり、足元は裾がてろんてろんで、マンガのように起き出してきた。

「おかしいわね。すっかり眠ってしまっていたわ。実に十日ぶり。全身スッキリして、長いホテル暮らしから帰って我が家で寝たみたい。ああ、忘れてたわ。おはようございます」

「……。おはよう。まさか朝のコーヒーで眠くはならないよね」

「もちろん。朝のコーヒーなんて三日ぶり」

「……」

「うん。こんなにおいしいコーヒーは初めて。卒業後はぜひとも始めた方がいいわ喫茶店。『真二カフェ』いや、『カフェー真二』まあ、二択ね。あとは『中華・竜ちゃん』」

「進学するから」

 やけにゆっくりしている彼女を急かして寝室で着替えさせた。

「レパートリーがなくなったから。今日からはリクエストしていいわ。何がいい」

「何って」

「ディナーよ。それじゃちょっと堅苦しいわね。晩メシよ」

「いいよもう。充分いただいたから」

「そうはトンガとかそういうのが卸さないわ。私ともあろうものがカレーを忘れていたの。カレーね。これは時間がかかるわ。なにせ初子さんからよろしく頼まれたんですもの。では合鍵を」

「本気で言ってるの」

「今回はウソじゃないわ。朝はウソの出現率がグッと下がるの。頭が回らないせいね」

 もちろん鍵は渡せない。ただ、一時の気の迷いといえばあまりにも軽率だったが、この意外に無害な隣人を野放しにしてみようかと思った。伝言の内容がなんであれ、間違い電話であれ、母は田村敦子に最後の電話をかけていたのだから。最後の電話――。発信履歴――。

「田村さん。あれから警察に何か聞かれたんじゃないの」

「ええ。よく分かったわね」

「なんて答えたの」
「『あら間違えたわゴメンなさい、とだけ』と答えたわ。通話時間も不自然じゃないでしょう。それに私、本当に大事なことは誰にも話さないの。だから先日からは竜崎君にだけ初めて教えていることだらけ」


 バス停――。

「田村さん。バス停こっちなんだけど」

 彼女は横断歩道を渡ろうと赤信号を見つめている。

「いいの。私帰るから。下着とか替えたいし、晩メシの準備もある。補習は休むわ」

 信号が変わり、バッグを振り回しながら道向かいのバス停へ向かってしまった。
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