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6・生姜焼きよりもキャベツの千切りが

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「生姜焼きのタレというものを持って来たわ。絶対失敗しないと思うわ、たぶん、必ず。まずはお米のスイッチを押すわ。もうお腹空いてるかしら。七時ですものね。じゃあ、早炊きというのにしましょう。どれくらい早いのかしら。こちらも急いで作らなきゃいけないわ。でもお肉を焼いてタレを絡めるだけ。その間に何をしようかしら。ああそうね、自分で買って来ておいて忘れてたわ。キャベツの千切りがなきゃ。これがないと生姜焼きの半分を失ったも同然だから。そう言えば竜崎君、何してるの? 待ってなさい。きちんとテレビを見て待ってなさい」

 音だけは軽快な包丁とまな板のハーモニー。

 ――田村さん 今日は生姜焼きを作りに来てるんだが
 ――へえ 仲いいんだな 応援するよ

 羽白の反応は先日通りだ。テレビはNHKニュース。

「竜崎君の好みが分からないけれど。生姜焼きにはよくマヨネーズが添えられてるわよね。あれは元々千切りキャベツを食べるためのものでお肉につけてた訳じゃないの。それをデブが――いや、いわゆるマヨラーが『生姜焼きにマヨネーズうめー!』ってことになって、それからデブ――いえ、マヨラー以外もそれを真似するようになったの。人によってはもう、のっけからお好み焼きとかお洒落なイタリアンで見かけるようなあのマヨビーム状態でジグザグを描いて食べるまでになってるわ。竜崎君は赤だしのお味噌汁ってどう?」

 マヨネーズの話じゃなかった。

 田村敦子とのファーストコンタクトは三年になってから。校内でも名高い五月の自殺未遂事件。警察や救急車やレスキュー隊までもが駆けつける大事件だった。その騒ぎを他の生徒たち同様見上げていた僕は、屋上の彼女と目が合った気がした。じっと、僕だけを見ていたと。

 その後、彼女の自殺騒動は毎日のように続き、自宅療養という名で謹慎を受け、謹慎明けにもそれは止まず、教師もさじを投げてしまい今に至る。時折物好きな生徒が彼女のパンツの色を見るためだけに通りがかる程度になっていた。

 ただ、目立つという行為は影響力が大きいようで、その後、学年関係なく、彼女へ交際を申し入れる男があとを絶たなかったという。君の悩みを分け合いたいと。彼女は何も悩んでいなかった訳だが。


 そんな彼女と初めて言葉を交わした七月頭の放課後。


「竜崎君って、日陰が嫌いなのね。蝶みたい――」

 校舎の壁にもたれてコーラを飲んでいた僕へ、すでに悪名高い彼女が語りかけてきた。

「屋上はいいわよ。雲がなければ陰なんて一つもないから」

 何かの誘い文句に聞こえた僕は、翌日屋上へ上った。フェンスの向こうの彼女を初めて間近で見た。背中の指には恐ろしいほど金網が食い込んでていて、足もガクガク震えていた。そうまでしてフェンスを越える彼女のその訳を、僕はまだ聞いたことがない――。

「これは上出来ね。タレ力全開だわ。お代わり二回はいけそう」

「麻婆豆腐もそういうのあるよね、今度から機会があるならそうした方がいいよ。で、千切りキャベツってもしかしてだけど自分で切ったの」

「ええ。それだけは得意中の得意なの。トンカツの時には必ず母に台所へ呼ばれるわ」

 偏ったスキルだ。

「でも、美味しかったよ。ごちそう様。味噌汁も」

「そう。しかしそれはタナカニ園の『ひるげ』よ」

 洗い物を任されていると、彼女は持って来たバッグをけんめいに漁っている。本当にパジャマなのだろうか。彼女は腰を曲げたまま背中越しに話し始める。

「あらゆる宗教は、死を恐れる人間をその恐怖から救済するために生まれたカウンセリング機構だと思うの。いくつかの例を除いて、世界の宗教には魂の存在や死後の世界の存在が、古代の世から文献絵画にまで描かれているわ。善を行い徳を積み、立派なものだけが明るい天の国へ導かれ、そうでないものは極悪非道の魔物が住む修羅場に放り込まれるという、そういう振り分けも含めて説いて。けれどそうだとして、それを裁くのは竜崎君は何だと思う? 心に罪を背負って死んでいかなければならなかった魂はどこで誰に審判されるのかしら。それを思うと消極的無神論者の私は一つの答えにしか辿り着けない。魂はないのだと。死がもたらすものはその個に対しては何もなく、死は奪うのみだと。ならばあらゆる生はどれだけ視点をマクロに広げてみても膨張する宇宙のなかで一つの種を長引かせるためだけの歯車に過ぎない。歴史に残る宇宙的大発見も最新の哲学も、子孫のための明るい可能性を僅かでも残すためだけに存在しているのであって、根本的な人の死や生はそこに問われないんだもの。あら、破たんし始めたわね。お風呂入ってきていいかしら。やっとシャンプーとトリートメントが見つかったから。旅行に行った時のホテルのアメニティーなの」
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