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1・フラクタル
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*
――「この世のすべてのものはフラクタルなの。あなたの身体の細胞が日々壊れて生まれ変わっているように、あなたもまたヒトの生の歴史の中で役割を終えたら消えてゆくだけ。地球規模の生態系保持。宇宙規模の秩序。もっと大きなもののために。それも終わりを迎える。わかっていても、ヒトはこれからも進化を続けなければならない。あなたが今日、コンビニ弁当のポテトサラダが熱くなっていたことに不満を持つことで、いつか漬物とポテトサラダだけは温まらないお弁当が開発されるの。ヒトの歴史は反省と克服の歴史。そのことに不満を持つのはヒトが生きる意味をあなたがまだ理解していないからなのよ。」
*
まだ小学生の僕にそんな話を言い聞かせていた母が、一週間前に亡くなった。母の生は何を残したのだろう。僕ひとりを残したに過ぎないその生は。たった三十八年のフラクタルは、拡大鏡で見れば分かるだろうか。成層圏まで離れれば見えて来るのだろうか。
二十七日の正午は校舎の影をほぼ垂直に落として逃げ場もなかった。二十数メートルの差で海抜十三メートルの地上を選ぶか二十メートル弱の気圧差にかけて屋上を選ぶか、十七歳の僕はそれだけの判断に一分をかけていたが、買ったばかりの冷えたコーラが屋上を選ばせた。その方が美味しく飲めそうな気がしたからだ。けれどフェンス越しの田村敦子を見つけてげんなりとした。
「田村さん、まだやってたの」
緑のフェンスの向こうで田村敦子が背を向けたまま制服のスカートをなびかせている。
「竜崎君ね。この世のすべてのものはゼロへ向かっているの。限りなくゼロに近い時間の断片を繰り返して私たちは無駄を重ねているのよ。そして時間は連続ではない。最近では時間の最小単位が発見されたらしいわ。十の十七乗分の一秒だったかしら。そんなコマ送りの時間の中で私たちは残像を繋いで生きている」
コーラも開けず僕は陽射しを頭に受ける。
「それ危ないからもうやめた方がいいって。先生たちも、もう止めに来ないくらい呆れてるんだから」
彼女は指先で背中のフェンスを握りしめ、首の動きだけでこちらを向こうとしている。その体勢で向けるはずはなかった。
「じゃあ、あなたはどうしていつも影を避けて歩くの。夏休み真っ盛りの太陽真っ盛りの屋上へ来て何が楽しいの」
手にしたコーラを思い出した。
「その方がコーラ美味しいから」
「コーラ」
「うん、コーラ」
「コーラちょうだい。そしたらそっちに行ってもいい」
「やだよ、僕のコーラだから」
「でもコーラは誰が飲んでもいいものよ。子供でもおばあちゃんでも。赤ん坊だって炭酸抜けば飲めるかも。カフェインレスのやつ。万国共通、万人が飲んでいいの。世界のコーラだから」
「他人のコーラにいろいろ理屈つけないでくれないかな。僕が買ったコーラだって言ってるだけだよ」
「いい。そっち行くから」
彼女は身体を反転させてフェンスをよじ登る。短いスカートの下から思い切り白いパンツが見える。
「はあ、今日も死ぬかと思った。風が吹くと身体が揺れて」
「怖いならやめればいいのに」
それより普通は屋上を閉鎖するだろうに。
「嫌よ。これは私の存在証明なき証明のための日々変わりゆく自分へ向けたイニシエーションだから。夏休みだからって休むわけにはいかないの。コーラちょうだい」
「いいよ、もうやるから。それ危ないしやめてよね」
すでに最初の冷たさも失せたペットボトルを渡すと彼女は前髪をはらってキャップを開けた。
「分かってたわ。噴き出してこぼれることくらい」
「じゃあなんで盛大に制服にぶっかけてるんだよ」
「海でね、頭から冷えたコーラをぶっかけた時、すごく気持ちよかったの」
「それ水着の話でしょ。制服の染み、消えないからね」
「満足したからいいわ。コーラ返す」
「飲まないのかよ――」
気の抜けたぬるいコーラを飲む。求めていた爽快感がすべて失われたコーラ。僕たちの最後の夏休みは始まったばかり。
――「この世のすべてのものはフラクタルなの。あなたの身体の細胞が日々壊れて生まれ変わっているように、あなたもまたヒトの生の歴史の中で役割を終えたら消えてゆくだけ。地球規模の生態系保持。宇宙規模の秩序。もっと大きなもののために。それも終わりを迎える。わかっていても、ヒトはこれからも進化を続けなければならない。あなたが今日、コンビニ弁当のポテトサラダが熱くなっていたことに不満を持つことで、いつか漬物とポテトサラダだけは温まらないお弁当が開発されるの。ヒトの歴史は反省と克服の歴史。そのことに不満を持つのはヒトが生きる意味をあなたがまだ理解していないからなのよ。」
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まだ小学生の僕にそんな話を言い聞かせていた母が、一週間前に亡くなった。母の生は何を残したのだろう。僕ひとりを残したに過ぎないその生は。たった三十八年のフラクタルは、拡大鏡で見れば分かるだろうか。成層圏まで離れれば見えて来るのだろうか。
二十七日の正午は校舎の影をほぼ垂直に落として逃げ場もなかった。二十数メートルの差で海抜十三メートルの地上を選ぶか二十メートル弱の気圧差にかけて屋上を選ぶか、十七歳の僕はそれだけの判断に一分をかけていたが、買ったばかりの冷えたコーラが屋上を選ばせた。その方が美味しく飲めそうな気がしたからだ。けれどフェンス越しの田村敦子を見つけてげんなりとした。
「田村さん、まだやってたの」
緑のフェンスの向こうで田村敦子が背を向けたまま制服のスカートをなびかせている。
「竜崎君ね。この世のすべてのものはゼロへ向かっているの。限りなくゼロに近い時間の断片を繰り返して私たちは無駄を重ねているのよ。そして時間は連続ではない。最近では時間の最小単位が発見されたらしいわ。十の十七乗分の一秒だったかしら。そんなコマ送りの時間の中で私たちは残像を繋いで生きている」
コーラも開けず僕は陽射しを頭に受ける。
「それ危ないからもうやめた方がいいって。先生たちも、もう止めに来ないくらい呆れてるんだから」
彼女は指先で背中のフェンスを握りしめ、首の動きだけでこちらを向こうとしている。その体勢で向けるはずはなかった。
「じゃあ、あなたはどうしていつも影を避けて歩くの。夏休み真っ盛りの太陽真っ盛りの屋上へ来て何が楽しいの」
手にしたコーラを思い出した。
「その方がコーラ美味しいから」
「コーラ」
「うん、コーラ」
「コーラちょうだい。そしたらそっちに行ってもいい」
「やだよ、僕のコーラだから」
「でもコーラは誰が飲んでもいいものよ。子供でもおばあちゃんでも。赤ん坊だって炭酸抜けば飲めるかも。カフェインレスのやつ。万国共通、万人が飲んでいいの。世界のコーラだから」
「他人のコーラにいろいろ理屈つけないでくれないかな。僕が買ったコーラだって言ってるだけだよ」
「いい。そっち行くから」
彼女は身体を反転させてフェンスをよじ登る。短いスカートの下から思い切り白いパンツが見える。
「はあ、今日も死ぬかと思った。風が吹くと身体が揺れて」
「怖いならやめればいいのに」
それより普通は屋上を閉鎖するだろうに。
「嫌よ。これは私の存在証明なき証明のための日々変わりゆく自分へ向けたイニシエーションだから。夏休みだからって休むわけにはいかないの。コーラちょうだい」
「いいよ、もうやるから。それ危ないしやめてよね」
すでに最初の冷たさも失せたペットボトルを渡すと彼女は前髪をはらってキャップを開けた。
「分かってたわ。噴き出してこぼれることくらい」
「じゃあなんで盛大に制服にぶっかけてるんだよ」
「海でね、頭から冷えたコーラをぶっかけた時、すごく気持ちよかったの」
「それ水着の話でしょ。制服の染み、消えないからね」
「満足したからいいわ。コーラ返す」
「飲まないのかよ――」
気の抜けたぬるいコーラを飲む。求めていた爽快感がすべて失われたコーラ。僕たちの最後の夏休みは始まったばかり。
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