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ヤンデレルート
2−37 最終話
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「なんで」
次は修一が疑問を呈する番だった。
ーーお前は、俺に会いたかったんじゃないのか。まだ俺のことを好きなんだろう? その指輪も、写真も、さっきの看護師の言葉だってそれを裏付けてる。なのに、何故出て行けなんて言うんだ。酷いじゃないか。
修一は陽介に問い正すような視線を向けた。
修一は混乱する陽介を追い詰めたいわけではない。彼に自分から思いを吐露して欲しいのだ。それ故に黙って陽介の言葉を待った。
「なんでって、修のために言ってるんだ! 俺はまだ治ってない! 一緒にいたら、また修を傷つけるに決まってる……! もう、そんなことしたくないんだ。だから、お願い……」
部屋から出ていってくれと、そう言った陽介はまるで自分の殻に篭るみたいに頭を抱えて、背後の壁に追い詰められたまま蹲ってしまう。
そうやって懇願する姿が修一にはとても痛ましく思えた。
「陽介、大丈夫だよ。ちゃんと治ってる。先生もそう言っていたじゃないか」
そんな陽介を慰めるように修一は言った。ごめん、陽介。意地悪を言って……そんな気持ちを込めて声をかけるが、陽介はもう修一の方を向いてくれない。失敗した、つい馬鹿なことを言ってしまったと、意地悪を言ったことを早速後悔する。
「大丈夫なもんか! だって、俺はまだ、こんなに……ッ!」
「こんなに?」
続きを聞かせてくれ。修一のそんな思いは陽介には届かない。だがそれでもいい。今は陽介の言いたいように言わせたい。何でもいいから想っていることを教えて欲しい。
「…………修が、俺を愛してるだなんて有り得ない。……ねえ、もしかして、番解消の治療を受けられていないの? なんで? どうして受けられなかったの? それとも、まだ治療中なの?」
陽介が焦ったように顔を上げる。番の治療とは、過去に室賀が言っていた治験の話だろう。確かあれは最近になって正式な番解消治療として認可されていたはずだ。修一は今の所それに興味がなかったからよくは知らないが、医師である陽介ならばその新しい知見を得ていてもおかしくはない。彼は元々勤勉で、新しい医学知識を得ることに積極的だった。
それにしても陽介の口ぶりは、まるで修一が彼との番を解消したがっているという前提で話しているようだった。修一は一言も、そんなことは言っていないというのに。
「修、ごめん。その気持ちは嘘なんだ、偽物なんだよ! …………お、俺のせいだ。俺が、無理やり番にしたから……! でも、あ、安心して? 俺が絶対に治療を受けさせてあげる……! どんな手を使ってでも治してあげる! 本当にごめん、ごめんなさい……」
壊れた玩具みたいに謝罪を繰り返す陽介の姿が見るに忍びなくて、ようやく修一は自分の考えを伝えることにした。
「……心配をしてくれているところ悪いんだが、俺のホルモン値は正常だ。検査を受けたばかりだから間違いない。それに、治療は受けられていないんじゃない。俺の意思で、受けていないだけだ。だからお前が気に病む必要はないよ」
「……はぁ!? 受けてないって、どういうつもりなんだ! 修一の意思って、だってそれは修が……Ω、だから……」
自身がΩであることを否定的に捉えている修一の心情を知っている陽介は、憤慨する勢いを見せたと思えば途中から言い淀み、「Ωだから」と言ったところで言葉を詰まらせた。優しい彼はその先を言うと、きっと修一が嫌がると、傷つくと予想したのだろう。
その先を言われずとも修一には陽介の言いたいことが分かっていた。陽介は修一が番にされた影響で陽介に依存的になり、陽介に擬似的な好意や愛情を抱き続けている、ということを危惧しているのだ。そしてその自覚すらないのだと思っているのだろう。室賀がそう言ったことと同様に。
番になったあの日、確か陽介は抵抗する修一にそう説明した。修一らΩは適者生存の過程でそのように進化したと、番のαに依存し服従することは自然なことなのだと言った。
だが陽介は大事なことを忘れている。修一が陽介を愛し始めたことも、一度目の結婚を決意したことも、彼を愛して6年間の結婚生活を送ったことも、その後に再会した彼を再び愛して共に生きたいとプロポーズの指輪を用意したことも、全て彼と番になる前なのだ。陽介は、それらも全て偽物だったとでも言う気だろうか。
「分かってるよ、陽介の言いたいことは。…………なあ、それなら何でお前は、いつまでも指輪を着けているんだ?」
「……ッ」
裏切られたと知ってもなお着けているその指輪はなんだ。そこに修一の愛情があると信じたからではないのか? 偽物と思うなら、そんな指輪は無意味だろう。ただの金属をそんなに大事そうに身に着けて一体何の意味がある。それに、飾っている写真はなんだ。これを撮った時は番ではなかった。なのに、こんなに幸せそうじゃないか。それすらも偽物だと言うのか。俺たちはもう、この頃には戻れないのか?
修一の胸に、一瞬にしてそんな思いが溢れた。
「な、なんでって、これは…………俺の大事な思い出だから」
目の前にそれを贈った人間がいるのにがいるのに、勝手に思い出にするなんてあんまりじゃないか。ただの金属じゃなく俺を大事にしろと、思わず叱りつけてやりたくなった気持ちを修一はなんとか堪える。
「思い出か。確かにお前と離れてからもう2年も経った。思い出扱いされても仕方がないかもな。……でも俺はずっと考えてたよ、お前のことを。思い出じゃなくて、お前との未来を考えてた」
「…………は? 俺との未来って……修、何考えてるの……?」
縮こまって子犬みたいに震えているくせに、まるで愚か者でも見るような視線を寄越す陽介に修一は少しだけ腹が立つ。
「何って、お前のことに決まってるだろうが。考える時間なら、これまでお互いに腐るほどあっただろう? 陽介……お前はどうなんだ。この2年間何を考えていた? 少しは俺のことを考えてくれたか? ……俺のことを、まだ愛してるか。それとも憎んでる?」
自分は陽介を愛していると、修一は確信している。彼を思わない日はなかった。2年間ずっと考え続けて、自分と向き合った上で答えを出した。それだけ費やしたにも関わらず自分の気持ちが本物か偽物か分からないほどの馬鹿ではないと修一は自負していた。陽介や室賀がどう思っていようが、修一は自分自身を信じているのだ。自分の感情や思いを偽物だのと何だのと他人からとやかく言われるのはもう真っ平だった。
「ッ、俺が修を憎むなんて、そんなことあるわけないじゃないか。俺は、俺だって、ずっと……」
「ずっと、何だ? その先をお前は言ってくれないのか」
「だって、俺にはそんな資格ないんだ! また修を傷つけるくらいなら、俺はもう一人でいたい。だから放って置いてよ…………期待なんか、させないで……」
最後の方はあまりに声が小さくてよく聞こえなかったが、修一は断片的な彼の言葉と状況証拠から察するに、陽介が未だに修一を想っていることは間違いないと確信する。
後はこの頑固な男をどう説得するかだ。そのために、まずは。
「陽介。いい加減、側に行っていいか?」
「……駄目」
「じゃあお前が来てくれ。いつまでも、そんなに隅っこにいないで」
「嫌だ」
「……無理強いはしたくないんだ。頼むよ。ほら、こっちにおいで」
修一は両腕を広げて、こちらに来いと陽介を促した。だが陽介は子供みたいにいつまでも膝を抱えて蹲っている。
ーーこの野郎。俺のことが好きなくせに、いつまでも往生際の悪い。
焦れた修一は、もはや遠慮なく陽介に近づき彼の前で両膝をつく。その気勢に恐れをなしたのか陽介は「ヒッ……」と喉を引つらせ声を震わせた。
修一から顔を背けようとする陽介の顔をガシッと掴み、修一は自分の方へと強引に顔を向けさせる。
陽介の気持ちが分かっている以上、もはや遠慮するつもりはない。
「よく聞け、陽介。俺は間違いなくお前を愛してる。番になるずっと前からだ。だから今は番とか、そういうことはとりあえず置いとこう。…………いいか、お前がもう俺を愛してないって言うなら、俺はお前の前から消える。お前が望むなら、二度と姿は見せないと誓おう。だけど、違うなら……お前が俺を想ってくれるなら、まだ俺を愛してくれるって言うなら、俺はお前のことを諦めない」
だから覚悟しておけよと、まるで宣戦布告のように告げた。
修一の熱弁に絆されまいとする陽介は悪あがきのように視線をそらして俯こうとするが、そんなことは許さない。
修一の言葉を真正面から受け取った陽介は「嘘だ、嘘に決まってる」と顔色を青くして呟くばかりだった。
ーー相変わらず疑り深いやつだな。
だがふと思った。陽介は元々こういう性格だったではないか。病に冒されていた時の陽介の印象が強すぎてつい忘れていたが、疑り深くて心配症で、修一の言葉ひとつひとつにコロコロと表情を変える彼は、修一がかつて愛していた陽介そのものだ。
かわいい。愛しい。
2年前の、冷たい笑顔で淡々と修一に服従を迫る病気だった頃の彼とはとはまるで違うのに、治っていないと主張する陽介はそれに気がついていないのか?
ならば修一が教えてやらねばならない。彼が理解出来るまで、ずっと側で。
「陽介、こっちを見ろ。この際、率直に言え。お前は俺のことを愛してるのか?」
もはや議論も駆け引きも不要だ。場合によっては譲歩することも吝かではなかったが、どうやらそれも不要らしい。陽介の目を見れば分かる。
このまま陽介と議論を交わして彼の主張の矛盾を突き、論破をしてやり込めたいわけじゃない。無理矢理やり込めても意味がないのだ。
陽介の口からはっきりと彼の意思を、想いを聞きたい。それだけでいいのだ。
もちろん聞きたいことや言いたいことは色々とある。元気だったか。痩せたようだけどちゃんと飯は食べてるか。スタッフを困らせてるって聞いたけど本当か。俺のことをまだ好きか。愛してるか。酷いことをしてごめん。お前を裏切って、傷つけて、ここに閉じ込めて悪かった。どうか許してくれ。他にも、山ほどあった。
だがそれを伝える時間はこれから沢山あるはずだ。修一はそれを信じて疑わなかった。
修一が陽介の目をじっと見ていると、その表情が歪んだと思った次の瞬間に彼の目からポロポロと涙が溢れ出た。思わず指でその涙を拭ってやるが、次から次へと溢れ出る涙は一向に止まる気配がない。
修一は困り果てる。陽介を泣かせたいわけではないのだ。ただ一言、想ってる言葉を口にしてくれたらそれでいい。それで全て解決するのに、強情な陽介は未だ黙秘を続けていた。
「修……、修」
ようやく口を開いたと思ったら、小さく修一の名前を繰り返すだけだ。相変わらずその声は震えている。まだ、修一を愛してるとは言ってくれる気はないらしい。
いつまでも泣いている陽介を見ていると何だか可哀想になってくる。泣かせたのは自分なのに、慰めたくなってきてしまった。
修一は陽介をあやすように穏やかな声で語りかける。
「……お前をこんな所に閉じ込めて、本当に悪かった。この2年、お前は何を考えていた? ここを出たら何がしたい? 俺は、色々考えてたよ。やっぱりお前を愛してるし、一緒にいたい。それに連れて行きたい所も、食わせてやりたい物も沢山できたんだ。だから、一緒にいてくれ」
陽介が作ったくれたようなご馳走とまでは言えないけれど、この2年で上達した腕前で自宅には彼のために夕食を作って用意してある。二人で家に帰って、それを食べたい。陽介は驚いて、きっと褒めてくれるはずだ。それを想像すると楽しみで仕方ない。彼に「美味しい」と言って喜んでもらいたい、その一心で作った。……陽介が搬送された日、彼も同じような気持ちで修一の為に料理を作ってくれていたに違いなかった。それを裏切った自分がこんな事を期待するのはおこがましいと分かっている。だが、優しく陽介はそうしてくれそうな気がした。もし食べてくれなかったとしても構わない。陽介が今日でなくても、いつかあの家に戻って修一と暮らすことを受け入れてくれたらそれだけで嬉しい。
「なあ、陽介。俺はお前を裏切った。酷いことをしたよな。お前も、俺に酷いことをした」
俺に酷いことをと言った時、陽介の表情がいっそう歪む。だが修一は構わず先を続けた。
「だけど俺たちなら、きっとまた上手くやれると思わないか」
陽介が何も言ってくれないので修一はいつに無く饒舌になってしまった。元々、口数は多い方ではないのにこれだけ喋る羽目になっているのは陽介のせいだ。彼が泣いてばかりで何も言ってくれないから。こんなに熱心に誰かに語りかけたことが今までにあっただろうか。
ーー……あったな。確かそれも、陽介にだった。
こうやって修一を熱くさせるのはいつだって陽介で、陽介しかいなかった。そして恐らく、これからも。
追い打ちのように、どう思う? と問いかけても、やはり陽介は何も言わない。嗚咽のようなものを堪えることで精一杯の様で返事もしてくれなくなってしまった。
「約束しただろう? 一緒にいるって。一生側にいるって。また何度でもぶつかって、喧嘩しよう。そしたら仲直りしたらいいじゃないか、今までみたいに。俺はタフなんだよ。あれくらいのことではへこたれないからな。お前を諦めてなんかやらない。だからもう泣くな、陽介。…………お前に泣かれると弱いんだよ、俺は……」
「ーーッ! う、うぁ……しゅう……ッ」
泣くなと言ったのに余計に陽介が涙を零す。涙腺が壊れてしまったんじゃないかと心配になるくらいだ。その顔が少し不細工で、修一は少し笑ってしまった。そんな顔もかわいいなと思う。
密かに笑われていると気が付かない陽介が愛おしくて、彼の顔を包んでいた手を離して抱きしめる。2年ぶりに触れ合う陽介は相変わらず体温が高くて温かい。けれども2年前のように抱きしめ返してはくれなかった。
だが、それでもいいのだ。言質は取れなかったが陽介が修一を今も愛していることはもう分かった。自惚れのようだが、ここまで態度に表してくれている以上、間違いないと修一は思う。……もし間違いだったら、後で謝ればいい。
でもきっと間違いではないだろう。
陽介は、自分をこんなところに閉じ込めた修一をまだ好きなのだ。修一は、まるで呪いみたいに執着する陽介をかわいそうで、可愛くて、愛しく思った。そして修一もまた、呪いみたいに陽介に執着し、愛しく想っている。ここまで来たら、きっとこれは一生続くのだろう。そんな予感がした。
「だから、帰ろう。俺達の家に」
『いつかきっと』とあの日に心の中で誓った言葉は今日、実現する。なぜならば陽介が腕の中でコクコクと何度も頷いているのが分かるからだ。けっして気のせいではない。
陽介がまだ泣いているので修一はその背を優しく、心を込めて撫でてやる。陽介が泣き止むまで、気が済むまでずっと。そうしてやりながら、この先もこんな風に二人で過ごせる時間が沢山待っているのだと気がついた時、修一は心から安堵したのだった。
次は修一が疑問を呈する番だった。
ーーお前は、俺に会いたかったんじゃないのか。まだ俺のことを好きなんだろう? その指輪も、写真も、さっきの看護師の言葉だってそれを裏付けてる。なのに、何故出て行けなんて言うんだ。酷いじゃないか。
修一は陽介に問い正すような視線を向けた。
修一は混乱する陽介を追い詰めたいわけではない。彼に自分から思いを吐露して欲しいのだ。それ故に黙って陽介の言葉を待った。
「なんでって、修のために言ってるんだ! 俺はまだ治ってない! 一緒にいたら、また修を傷つけるに決まってる……! もう、そんなことしたくないんだ。だから、お願い……」
部屋から出ていってくれと、そう言った陽介はまるで自分の殻に篭るみたいに頭を抱えて、背後の壁に追い詰められたまま蹲ってしまう。
そうやって懇願する姿が修一にはとても痛ましく思えた。
「陽介、大丈夫だよ。ちゃんと治ってる。先生もそう言っていたじゃないか」
そんな陽介を慰めるように修一は言った。ごめん、陽介。意地悪を言って……そんな気持ちを込めて声をかけるが、陽介はもう修一の方を向いてくれない。失敗した、つい馬鹿なことを言ってしまったと、意地悪を言ったことを早速後悔する。
「大丈夫なもんか! だって、俺はまだ、こんなに……ッ!」
「こんなに?」
続きを聞かせてくれ。修一のそんな思いは陽介には届かない。だがそれでもいい。今は陽介の言いたいように言わせたい。何でもいいから想っていることを教えて欲しい。
「…………修が、俺を愛してるだなんて有り得ない。……ねえ、もしかして、番解消の治療を受けられていないの? なんで? どうして受けられなかったの? それとも、まだ治療中なの?」
陽介が焦ったように顔を上げる。番の治療とは、過去に室賀が言っていた治験の話だろう。確かあれは最近になって正式な番解消治療として認可されていたはずだ。修一は今の所それに興味がなかったからよくは知らないが、医師である陽介ならばその新しい知見を得ていてもおかしくはない。彼は元々勤勉で、新しい医学知識を得ることに積極的だった。
それにしても陽介の口ぶりは、まるで修一が彼との番を解消したがっているという前提で話しているようだった。修一は一言も、そんなことは言っていないというのに。
「修、ごめん。その気持ちは嘘なんだ、偽物なんだよ! …………お、俺のせいだ。俺が、無理やり番にしたから……! でも、あ、安心して? 俺が絶対に治療を受けさせてあげる……! どんな手を使ってでも治してあげる! 本当にごめん、ごめんなさい……」
壊れた玩具みたいに謝罪を繰り返す陽介の姿が見るに忍びなくて、ようやく修一は自分の考えを伝えることにした。
「……心配をしてくれているところ悪いんだが、俺のホルモン値は正常だ。検査を受けたばかりだから間違いない。それに、治療は受けられていないんじゃない。俺の意思で、受けていないだけだ。だからお前が気に病む必要はないよ」
「……はぁ!? 受けてないって、どういうつもりなんだ! 修一の意思って、だってそれは修が……Ω、だから……」
自身がΩであることを否定的に捉えている修一の心情を知っている陽介は、憤慨する勢いを見せたと思えば途中から言い淀み、「Ωだから」と言ったところで言葉を詰まらせた。優しい彼はその先を言うと、きっと修一が嫌がると、傷つくと予想したのだろう。
その先を言われずとも修一には陽介の言いたいことが分かっていた。陽介は修一が番にされた影響で陽介に依存的になり、陽介に擬似的な好意や愛情を抱き続けている、ということを危惧しているのだ。そしてその自覚すらないのだと思っているのだろう。室賀がそう言ったことと同様に。
番になったあの日、確か陽介は抵抗する修一にそう説明した。修一らΩは適者生存の過程でそのように進化したと、番のαに依存し服従することは自然なことなのだと言った。
だが陽介は大事なことを忘れている。修一が陽介を愛し始めたことも、一度目の結婚を決意したことも、彼を愛して6年間の結婚生活を送ったことも、その後に再会した彼を再び愛して共に生きたいとプロポーズの指輪を用意したことも、全て彼と番になる前なのだ。陽介は、それらも全て偽物だったとでも言う気だろうか。
「分かってるよ、陽介の言いたいことは。…………なあ、それなら何でお前は、いつまでも指輪を着けているんだ?」
「……ッ」
裏切られたと知ってもなお着けているその指輪はなんだ。そこに修一の愛情があると信じたからではないのか? 偽物と思うなら、そんな指輪は無意味だろう。ただの金属をそんなに大事そうに身に着けて一体何の意味がある。それに、飾っている写真はなんだ。これを撮った時は番ではなかった。なのに、こんなに幸せそうじゃないか。それすらも偽物だと言うのか。俺たちはもう、この頃には戻れないのか?
修一の胸に、一瞬にしてそんな思いが溢れた。
「な、なんでって、これは…………俺の大事な思い出だから」
目の前にそれを贈った人間がいるのにがいるのに、勝手に思い出にするなんてあんまりじゃないか。ただの金属じゃなく俺を大事にしろと、思わず叱りつけてやりたくなった気持ちを修一はなんとか堪える。
「思い出か。確かにお前と離れてからもう2年も経った。思い出扱いされても仕方がないかもな。……でも俺はずっと考えてたよ、お前のことを。思い出じゃなくて、お前との未来を考えてた」
「…………は? 俺との未来って……修、何考えてるの……?」
縮こまって子犬みたいに震えているくせに、まるで愚か者でも見るような視線を寄越す陽介に修一は少しだけ腹が立つ。
「何って、お前のことに決まってるだろうが。考える時間なら、これまでお互いに腐るほどあっただろう? 陽介……お前はどうなんだ。この2年間何を考えていた? 少しは俺のことを考えてくれたか? ……俺のことを、まだ愛してるか。それとも憎んでる?」
自分は陽介を愛していると、修一は確信している。彼を思わない日はなかった。2年間ずっと考え続けて、自分と向き合った上で答えを出した。それだけ費やしたにも関わらず自分の気持ちが本物か偽物か分からないほどの馬鹿ではないと修一は自負していた。陽介や室賀がどう思っていようが、修一は自分自身を信じているのだ。自分の感情や思いを偽物だのと何だのと他人からとやかく言われるのはもう真っ平だった。
「ッ、俺が修を憎むなんて、そんなことあるわけないじゃないか。俺は、俺だって、ずっと……」
「ずっと、何だ? その先をお前は言ってくれないのか」
「だって、俺にはそんな資格ないんだ! また修を傷つけるくらいなら、俺はもう一人でいたい。だから放って置いてよ…………期待なんか、させないで……」
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「……駄目」
「じゃあお前が来てくれ。いつまでも、そんなに隅っこにいないで」
「嫌だ」
「……無理強いはしたくないんだ。頼むよ。ほら、こっちにおいで」
修一は両腕を広げて、こちらに来いと陽介を促した。だが陽介は子供みたいにいつまでも膝を抱えて蹲っている。
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焦れた修一は、もはや遠慮なく陽介に近づき彼の前で両膝をつく。その気勢に恐れをなしたのか陽介は「ヒッ……」と喉を引つらせ声を震わせた。
修一から顔を背けようとする陽介の顔をガシッと掴み、修一は自分の方へと強引に顔を向けさせる。
陽介の気持ちが分かっている以上、もはや遠慮するつもりはない。
「よく聞け、陽介。俺は間違いなくお前を愛してる。番になるずっと前からだ。だから今は番とか、そういうことはとりあえず置いとこう。…………いいか、お前がもう俺を愛してないって言うなら、俺はお前の前から消える。お前が望むなら、二度と姿は見せないと誓おう。だけど、違うなら……お前が俺を想ってくれるなら、まだ俺を愛してくれるって言うなら、俺はお前のことを諦めない」
だから覚悟しておけよと、まるで宣戦布告のように告げた。
修一の熱弁に絆されまいとする陽介は悪あがきのように視線をそらして俯こうとするが、そんなことは許さない。
修一の言葉を真正面から受け取った陽介は「嘘だ、嘘に決まってる」と顔色を青くして呟くばかりだった。
ーー相変わらず疑り深いやつだな。
だがふと思った。陽介は元々こういう性格だったではないか。病に冒されていた時の陽介の印象が強すぎてつい忘れていたが、疑り深くて心配症で、修一の言葉ひとつひとつにコロコロと表情を変える彼は、修一がかつて愛していた陽介そのものだ。
かわいい。愛しい。
2年前の、冷たい笑顔で淡々と修一に服従を迫る病気だった頃の彼とはとはまるで違うのに、治っていないと主張する陽介はそれに気がついていないのか?
ならば修一が教えてやらねばならない。彼が理解出来るまで、ずっと側で。
「陽介、こっちを見ろ。この際、率直に言え。お前は俺のことを愛してるのか?」
もはや議論も駆け引きも不要だ。場合によっては譲歩することも吝かではなかったが、どうやらそれも不要らしい。陽介の目を見れば分かる。
このまま陽介と議論を交わして彼の主張の矛盾を突き、論破をしてやり込めたいわけじゃない。無理矢理やり込めても意味がないのだ。
陽介の口からはっきりと彼の意思を、想いを聞きたい。それだけでいいのだ。
もちろん聞きたいことや言いたいことは色々とある。元気だったか。痩せたようだけどちゃんと飯は食べてるか。スタッフを困らせてるって聞いたけど本当か。俺のことをまだ好きか。愛してるか。酷いことをしてごめん。お前を裏切って、傷つけて、ここに閉じ込めて悪かった。どうか許してくれ。他にも、山ほどあった。
だがそれを伝える時間はこれから沢山あるはずだ。修一はそれを信じて疑わなかった。
修一が陽介の目をじっと見ていると、その表情が歪んだと思った次の瞬間に彼の目からポロポロと涙が溢れ出た。思わず指でその涙を拭ってやるが、次から次へと溢れ出る涙は一向に止まる気配がない。
修一は困り果てる。陽介を泣かせたいわけではないのだ。ただ一言、想ってる言葉を口にしてくれたらそれでいい。それで全て解決するのに、強情な陽介は未だ黙秘を続けていた。
「修……、修」
ようやく口を開いたと思ったら、小さく修一の名前を繰り返すだけだ。相変わらずその声は震えている。まだ、修一を愛してるとは言ってくれる気はないらしい。
いつまでも泣いている陽介を見ていると何だか可哀想になってくる。泣かせたのは自分なのに、慰めたくなってきてしまった。
修一は陽介をあやすように穏やかな声で語りかける。
「……お前をこんな所に閉じ込めて、本当に悪かった。この2年、お前は何を考えていた? ここを出たら何がしたい? 俺は、色々考えてたよ。やっぱりお前を愛してるし、一緒にいたい。それに連れて行きたい所も、食わせてやりたい物も沢山できたんだ。だから、一緒にいてくれ」
陽介が作ったくれたようなご馳走とまでは言えないけれど、この2年で上達した腕前で自宅には彼のために夕食を作って用意してある。二人で家に帰って、それを食べたい。陽介は驚いて、きっと褒めてくれるはずだ。それを想像すると楽しみで仕方ない。彼に「美味しい」と言って喜んでもらいたい、その一心で作った。……陽介が搬送された日、彼も同じような気持ちで修一の為に料理を作ってくれていたに違いなかった。それを裏切った自分がこんな事を期待するのはおこがましいと分かっている。だが、優しく陽介はそうしてくれそうな気がした。もし食べてくれなかったとしても構わない。陽介が今日でなくても、いつかあの家に戻って修一と暮らすことを受け入れてくれたらそれだけで嬉しい。
「なあ、陽介。俺はお前を裏切った。酷いことをしたよな。お前も、俺に酷いことをした」
俺に酷いことをと言った時、陽介の表情がいっそう歪む。だが修一は構わず先を続けた。
「だけど俺たちなら、きっとまた上手くやれると思わないか」
陽介が何も言ってくれないので修一はいつに無く饒舌になってしまった。元々、口数は多い方ではないのにこれだけ喋る羽目になっているのは陽介のせいだ。彼が泣いてばかりで何も言ってくれないから。こんなに熱心に誰かに語りかけたことが今までにあっただろうか。
ーー……あったな。確かそれも、陽介にだった。
こうやって修一を熱くさせるのはいつだって陽介で、陽介しかいなかった。そして恐らく、これからも。
追い打ちのように、どう思う? と問いかけても、やはり陽介は何も言わない。嗚咽のようなものを堪えることで精一杯の様で返事もしてくれなくなってしまった。
「約束しただろう? 一緒にいるって。一生側にいるって。また何度でもぶつかって、喧嘩しよう。そしたら仲直りしたらいいじゃないか、今までみたいに。俺はタフなんだよ。あれくらいのことではへこたれないからな。お前を諦めてなんかやらない。だからもう泣くな、陽介。…………お前に泣かれると弱いんだよ、俺は……」
「ーーッ! う、うぁ……しゅう……ッ」
泣くなと言ったのに余計に陽介が涙を零す。涙腺が壊れてしまったんじゃないかと心配になるくらいだ。その顔が少し不細工で、修一は少し笑ってしまった。そんな顔もかわいいなと思う。
密かに笑われていると気が付かない陽介が愛おしくて、彼の顔を包んでいた手を離して抱きしめる。2年ぶりに触れ合う陽介は相変わらず体温が高くて温かい。けれども2年前のように抱きしめ返してはくれなかった。
だが、それでもいいのだ。言質は取れなかったが陽介が修一を今も愛していることはもう分かった。自惚れのようだが、ここまで態度に表してくれている以上、間違いないと修一は思う。……もし間違いだったら、後で謝ればいい。
でもきっと間違いではないだろう。
陽介は、自分をこんなところに閉じ込めた修一をまだ好きなのだ。修一は、まるで呪いみたいに執着する陽介をかわいそうで、可愛くて、愛しく思った。そして修一もまた、呪いみたいに陽介に執着し、愛しく想っている。ここまで来たら、きっとこれは一生続くのだろう。そんな予感がした。
「だから、帰ろう。俺達の家に」
『いつかきっと』とあの日に心の中で誓った言葉は今日、実現する。なぜならば陽介が腕の中でコクコクと何度も頷いているのが分かるからだ。けっして気のせいではない。
陽介がまだ泣いているので修一はその背を優しく、心を込めて撫でてやる。陽介が泣き止むまで、気が済むまでずっと。そうしてやりながら、この先もこんな風に二人で過ごせる時間が沢山待っているのだと気がついた時、修一は心から安堵したのだった。
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男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
夢見がちオメガ姫の理想のアルファ王子
葉薊【ハアザミ】
BL
四方木 聖(よもぎ ひじり)はちょっぴり夢見がちな乙女男子。
幼少の頃は父母のような理想の家庭を築くのが夢だったが、自分が理想のオメガから程遠いと知って断念する。
一方で、かつてはオメガだと信じて疑わなかった幼馴染の嘉瀬 冬治(かせ とうじ)は聖理想のアルファへと成長を遂げていた。
やがて冬治への恋心を自覚する聖だが、理想のオメガからは程遠い自分ではふさわしくないという思い込みに苛まれる。
※ちょっぴりサブカプあり。全てアルファ×オメガです。
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