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本編

旅行編4

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「…………は? な……に、言ってるの……?」

 自分の聴覚が信じられなかった。
 今、この男はなんと言ったのだ。パイプカットと言ったのか? パイプカット、医学的にいう精管結紮手術を修一が、受けると言ったのか。

 男として医師として、携わったことはないがそういう手術があることは知識として知っている。むしろ解剖学的な知識がある分、修一よりも詳しいと言えた。

「俺が他で子供を作るかもしれないのが不安なんだろう。だから手術を受けて、物理的に不可能にしたらいい。それで解決だ」

 解決だ、などと平然と述べる修一の態度に驚愕し、思わず目を見開く。
 あまりの驚愕に言葉を失う陽介を置いて、修一は信じ難い提案を続けた。

「もし二人で子供を作るにしても俺の精子は必要ないだろう? 考えてたんだ。番が無理なら代わりに何か、出来ることはないかって」

 ーー考えてた? いつから。そんな大事なことを、ひとりで?

「実はもう手術できるクリニックを見つけてあって、カウンセリングも済んでる。日帰りでできる上に局所麻酔をしてからほんの少し切るだけの、簡単な手術だって言われたよ。セックスは今まで通り普通にできて、単に精子が無くなるだけだ。……お前はどう思う」

 ーーどう思う、だと?

 自身の体が震える。自分の表情が歪むのが分かって、これは怒りから来るものだと少しの間を置いて理解した。
 このあまりにくだらない、馬鹿げた提案を聞かされて胸中にどす黒い感情が渦巻くのが分かる。そこに混じるわずかな昏い歓喜には気づかぬふりをして。

「ただその手術を受けるには、配偶者の……お前の同意が必要だ。同意書も貰ってある」

 修一は先程からテーブルに伏せていた2枚の紙を差し出す。
 震える手で差し出されたそれを手に取ると一枚には『精管結紮術を受けられる方へ』、そしてもう一枚には『手術同意書』と書かれていた。

 前者には手術部位の解剖図とともに詳しい手順が書かれており、手書きで付け足した跡も見受けられるからしっかりしたインフォームド・コンセントを受けたのだと推察できる。
 もう一枚の同意書には既に執刀医と修一の名は記入済で、配偶者の署名欄だけが空いていた。

 それを見た途端頭に血が登り、抑え切れなかったどす黒い感情が言葉と行動となって修一へと向かっていく。

「ふざけるな!」

 その勢いとともに修一の胸ぐらを掴み押し倒した。
 ガタン、とグラスが転げ落ちた音がした。グラスには中身がまだ入っていたから床が汚れているはずだ。割れたかもしれない。しかし今はそんなことを気にしている余裕はなかった。

 修一が驚いたように一瞬目を瞑るが、再度陽介をまっすぐに見つめる。

「ふざけてない。本気だ」

 なお悪い。
 精管結紮術などと、同じ男としてそれをどれほど覚悟で言っているのか察するにあまりある行為だ。

 精管結紮術、男性避妊は精管を結紮して精子の通り道を塞ぐというものだ。精液自体は無くならないし、性欲やホルモンバランスに影響するということもない。ただそれを行ってしまえば彼は生涯、男性機能を用いて子供を作ることが出来なくなるだろう。再建術も不可能ではないが、機能回復の可能性は著しく低い。

 それを修一はこんなつまらない男の不安を取り除く為だけに行おうというのか。自分の体に必要のないメスを入れて、生涯癒えない傷をつけようというのか。

 ーー番の代わりになんて。それで解決って、そんな馬鹿なことを!
 
「馬鹿を言うなよ、そんなの望んでない! 勝手にそんなことしたら絶対に許さないから……!」

 のしかかったまま感情の勢いそのままに怒鳴りつける。
 しかし陽介に恫喝まがいに怒鳴りつけられても、修一の表情は変わることなく真剣だった。
 こうして同意書まで用意している周到さからみて冗談や軽い気持ちで言っているわけではないことがありありと分かる。

「お前のサインが無ければ手術はできないんだ。勝手になんてしないよ」

「サインなんてそんなもの、いくらでも偽造できるじゃないか! 絶対にやらないって、今ここで約束して!」

 修一の胸元を掴んでいる手を無意識に強く握る。
 陽介のその剣幕に少し驚いたようではあったが、修一はその言葉に同意した。

「約束する。しない。……でもそういう覚悟があるってことは知っておいて欲しい」

「本当にしない? 絶対にって、約束してくれるよね……?」

 ああ、絶対にと復唱する修一の言質を取り、頭に登っていた血が少し落ち着いた気がした。

 悲しくて、嬉しくて、安心して目に涙が滲んだ。思わずその顔を見られまいと修一の胸に顔を伏せる。

 自分のためにそこまで行動させてしまった修一を思うとたまらなく心苦しく、申し訳なく思った。しかも自分は、修一がパイプカットをすると聞いて一瞬、歓喜が産まれなかっただろうか。これで修一は女と子供を作ることは出来ない、また一つ修一の逃げ道を塞ぐことが出来るのだと。
 そんな自分に吐き気すら覚えた。

 だがそんな陽介の頭を修一は優しく撫でる。
 すると余計に涙が溢れてきて彼の胸元を汚した。

「俺のために、自分の体に必要のないメスを入れるなんてしないでよ。お願いだから……」

「お前が嫌だって言うならしないよ。でもそれくらい愛してるってこと、伝わってるか」

「うん、うん、わかってる。疑ってごめん。修一は悪くないのに疑り深くて、嫉妬深くてごめん。こんなに俺のことを考えてくれてるのに自分が狭量で情けないよ。恥ずかしい……」

 俺は修一に見合わない。口の中で小さくそう呟くと突然両頬を手の平で抑えられ顔を挙げさせられた。

「見合わないなんて言うな。嫉妬深くたっていい。そういうところも含めて、愛してる」

 ぶわ、と更にあふれ出る涙を堪えることが出来なかった。愛してる、との言葉にいい大人が嗚咽を漏らして泣いていた。しかも修一が手を離してくれないので、みっともない泣き顔を彼に晒してしまっている。

「はは、相変わらずよく泣くなぁ」

 霞む視界で可笑しそうに、目尻に皺を寄せて修一が笑う。嘲笑しているのではない、愛しくてたまらないといったふうに彼は笑うのだ。その顔がとても好きだった。

 なんだか恥ずかしくなってきたので彼の手を外し、彼に跨ったまま再びその胸に顔を寄せ抱きつく。大きい男二人が一つのソファに横になっているのでいくら3人掛けといってもいっぱいいっぱいだ。

「なぁ、今度の旅行は観光地を回るよりもホテルか宿でゆっくり過ごさないか」

 修一が陽介の頭を優しく撫でる。陽介をいつも甘やかすその手が好きだ。

「プライベートプール付きのホテルなんかどうだ? 伊豆の方にあるんだよ。もしくは、そんなに長期休暇は取れないけど沖縄くらいまでなら足を伸ばしたっていい。どこか二人きりで過ごせるところに行こうか」

「……こんなことになったのに、次も行ってくれるの」

「もちろん。今まで行けなかった分、たくさん旅行しよう。……前はあまり行けなかったからな」

 以前の結婚生活のことを行っているのだろう。旅行に行きたいと、我儘を言った記憶がある。そんなことも覚えていてくれたのだ。
 
「修とならどこでもいい。もう馬鹿な嫉妬なんてしないから……」

 ぐす、と鼻をすすり顔を上げた。

「お、泣き止んだな。よかった」

 相変わらず泣き虫だな、と陽介の目元を拭う。
 
 ーー恥ずかしい……。

 彼の前でしょっちゅう泣いている気がする。大の大人の男がこんなことでいいのだろうか。いや、よくない。

「いい大人が泣き虫で悪かったね……」

 つい不貞腐れたように言ってしまう。だが修一はそんな陽介に優しく告げた。

「そういうところも好きだから、そのままでいい」

 かわいいよ、と陽介の額に口付ける。

「……っ」

 ーー相変わらず格好良くてずるいんだから……!

 今回は山に行ったから次は海にしようか。人の少ない離島もいい。いや、山奥の温泉地も捨てがたいと、次の旅行先に思いを馳せるのが楽しくて、二人は夜が更けるまで窮屈なソファで身を寄せ合っていた。



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