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本編
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ーー今日も午前様か。
ため息混じりに、井領陽介は辟易した表情で目の前のソファに沈む夫を見下ろした。今日はだいぶ深酒をしたようだ。最近では珍しくもない光景だった。
だらしなく床に散らばっているジャケットやコートをハンガーに掛ける。彼のためにはベッドで寝たほうがいいと思うが、この様子ではしばらく起きそうにない。
運んでやりたいが、自分と同じ180センチメートル台の身長で、おまけに意識のない相手を担ぐのは相当に骨が折れる。なので運ぶことは諦めた。
季節はまだ冬の終わりで、気密性の高いマンションとはいえ暖房の切れた30帖ほどの広いリビングは冷える。陽介は寒そうに縮こまって眠りこけている彼に毛布をかけてやった。
明け方5時に酔っぱらって帰宅し、ソファで眠りこけているどうしようもないこの男は、陽介が5年前から一緒に住んでいるパートナーなのだ。
彼の左手の薬指には陽介が嵌めているものと同じ、結婚当初に二人で選んだ高級宝飾ブランドの指輪が収まっている。それを見て陽介はかつての二人の生活を思い出す。
ーーあの頃は、こんなんじゃなかったな。
目を伏せていても分かる彼の端正な顔立ちを眺めながら、寂寥感を覚える。
アルコールが回っているようで血色は良いが、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。激務と接待で寝不足なのだろう。いくら健康診断の結果が問題なしとはいえ、このところの生活を思うと体調が心配だ。せめてもう少し酒をセーブしてくれてもいいじゃないかと思いながら、陽介は一人きりのベッドに戻った。
陽介の夫、如月修一は大手法律事務所に勤める弁護士である。現在はアソシエイトであるが、将来パートナー弁護士となるため熾烈な出世レースに臨んでいる。
その仕事は激務で平日は陽介が起きる前に家を出て、日付が変わる頃にようやく帰ってくる。そのまま休むこともあるが、個人の書斎で何やら仕事の続きか、調べものをしている日も多い。
たいていの金曜日は今日のように接待などで飲みに行った後、明け方に帰宅し土曜日の昼過ぎから再び出勤する。日曜日はもっぱら付き合いでゴルフか麻雀である。たしか新しい上司が麻雀好きで自分も最近覚えたのだと言っていた。
ーーそんなものを覚える暇があるのなら、もう少し自分との時間を作ってくれないか。
そう口をついて出そうになる言葉を陽介は辛うじて堪えた。喧嘩になるのが嫌だったからだ。
愛し合って一緒にいるのに二人の共有する時間はあまりに少ない。せっかく二人でいられる時は仲良く、甘く、穏やかに過ごしたいのだ。
結婚当初に『不満は溜め込まない。喧嘩をしたら長くても次の日には話し合って解決する』と交わした約束は守ることができないでいた。
なぜならば、修一が多忙すぎて話し合う時間がもてないからだ。
たいてい夜遅く言い争いをした後、ズルズルと日を跨ぎ家の中に気まずい雰囲気が続く。数日、下手をすると一週間が過ぎた頃にようやく時間のとれた修一が陽介にアクションを起こし、仲直りをするというのがここ最近のお決まりのパターンだ。
早期解決に向けて陽介が先にアクションを起こすと「悪い、疲れてるから」とかわされてしまう。
確かに、夜遅く疲れて帰ってきた後にパートナーが真剣な顔で話し合いを持ちかけてきたら精神的にも体力的にも辛いだろう。
陽介にとって、二人の家は心休まる居心地のいいものであって欲しい。いくら喧嘩をしていても、家に帰りたくないと思われるのだけは嫌だった。だから修一の時間が取れるのを待つことにしたのだ。
陽介もフルタイムで働いているが、修一に比べたらそれほどハードワークではない。
医大に入り医師免許を取得してストレートで医学部を卒業した陽介は、何年か大学病院で経験を積んだ後に父親の経営するクリニックで働き始めた。いずれは後を継ぐことも決まっている。
都内ターミナル駅から徒歩五分という好立地で、朝9時から診療を開始し、ほぼ残業なく18時には診療時間終了となる。水曜日と土曜日の午後は休診。小さなクリニックで、まったりとした診療時間ながらも患者の入りはまずまず、陽介が継ぐ頃には開院当初に組んだローンも返し終えるだろうという目算だ。
修一よりも圧倒的に早い時間に帰宅する陽介は、毎日ではないが家の掃除をし、洗濯、料理をこなす。二人分の家事を一人で担っているわけではあるが、陽介自身それが大したことだとは思っていない。
最新のロボット掃除機やドラム式洗濯乾燥機を使っているし、普段の洋服やスーツはランドリーサービスに頼んでいる。料理だって修一はほとんど家で食べないから簡単に自分の分と、修一の朝食を就寝前に用意しておくだけ。
以前は一緒に夕食をとっていたが、修一が今のように忙しくなってからは、遅い帰宅の後に食べると胃がもたれるからと、帰宅前に夕食を済ませてくるようになった。
外食続きになる修一の栄養状態を心配した陽介が、せめて朝だけでも体にいいものを食べてほしいと提案したのが朝食作りなのだ。
よって陽介は家事が負担とは思っていない。家のことを陽介にばかりやらせてしまって申し訳ないと、家事代行サービスを使うことを何度か修一に提案されたことがあった。もちろん費用は自分が負担するからと。
しかし陽介は断った。本当にたいしたことはしていないし、なにより二人の家に誰かに入られるのが嫌だったからだ。それが例え仕事が目的の業者だったとしても。
それに家事のことを修一が負い目に感じて、家にいる時間を少しでもいいから増やしてくれるのではないかという下心もあった。今のところその目論見は成功していないが
ーー寂しい。
結婚とはこんなにも寂しいものなのか。仕事で仕方ないとはいえ、ドラマや映画なんかでたまに聞く、
『私と仕事、どっちが大事なの』
なんて馬鹿なセリフを吐きたくなる気持ちがよくわかる。
どちらも大事だ。両者を比べられないことはよく分かっている。理屈では分かっているが感情では割り切れない。物分りのいい夫でいることは辛い。
修一は週末になるとこうしてしょっちゅう午前様で帰って来るが、陽介は浮気を疑ったことはない。
二人で過ごす時間が少ない分、それを補うように二人でいるときは愛情表現を欠かさないし、陽介の誕生日や結婚記念日も忘れたことはない。スマートフォンだってプライベート用のものはいつでも見てかまわないから、とロック番号を教えてくれている。陽介が強請った位置情報共有アプリも入れてくれた。よくある嗅ぎなれない石鹸の匂いを漂わせて帰ってきたなんてことはないし、いつ誰と飲んでいるというのもちゃんと連絡してくれる。大抵が上司や顧客だ。
修一なりに忙しいながらも最大限に寄り添おうとしてくれているのだ。
それでもただ一つ不安なのは、修一はΩでありαの陽介と番ではないということだ。
つまり、発情期になれば修一の意思の有無に関わらずαの誰とでも番になれるということだ。
番とはαとΩの間に結ばれる特別な繋がりのことを指す。Ωの発情期にαがその項を噛むことによって成立する不可逆的な契約である。
結婚前、番になりたいという陽介の提案を修一は断った。番にならなくても愛し合える、結婚に問題はない。それに万が一、陽介と別れたり先立たれてしまったときに苦しむのは嫌だと。
自分の身体は自分だけのもので、誰にも支配されたくないのだと彼は言った。
発情期はフェロモンが極力少なくなるよう薬で厳格にコントロール出来ているし、わずかに漏れる時期には保護帯を着けているから万が一事故があっても問題はない。誰とも番になることはないと。
その件は連日連夜話し合った。お互い譲らず、果ては怒鳴り合いにまでなった。平行線が続いた末とうとう修一が、
「どうしても番になれと言うならお前と結婚はできない」
と沈痛な面持ちで言った。これには陽介は焦った。社会や周囲に認められて修一とずっと一緒にいることが望みなのにこれでは本末転倒だ。
しぶしぶ譲るしかなかった。生涯誰とも番にならない。それでももし、誰かと番になるとしたら陽介だと言ってくれる。それだけで十分ではないか。そう自分を納得させた。
他にも、子供は作らないと。我儘ばかりでごめん。それでもこの2つは譲ることはできない。それでもよかったらどうか結婚してくれと修一は懇願したのだ。
それが修一と結婚できる条件なら飲むしかなかった。
番はまだしも、子供の件は今は二人が若いからそう思っているだけかもしれない。歳を重ね、周囲に子供を持つ友人や知り合いが増えたら考えを変えるかもしれない。
それに、子供ができて二人の関係が揺るぎないものになれば、番になることを受け入れてくれるかもしれない。
人は変わる。未来は分からない。僅かな希望を胸に秘め、陽介は修一と結婚した。
ため息混じりに、井領陽介は辟易した表情で目の前のソファに沈む夫を見下ろした。今日はだいぶ深酒をしたようだ。最近では珍しくもない光景だった。
だらしなく床に散らばっているジャケットやコートをハンガーに掛ける。彼のためにはベッドで寝たほうがいいと思うが、この様子ではしばらく起きそうにない。
運んでやりたいが、自分と同じ180センチメートル台の身長で、おまけに意識のない相手を担ぐのは相当に骨が折れる。なので運ぶことは諦めた。
季節はまだ冬の終わりで、気密性の高いマンションとはいえ暖房の切れた30帖ほどの広いリビングは冷える。陽介は寒そうに縮こまって眠りこけている彼に毛布をかけてやった。
明け方5時に酔っぱらって帰宅し、ソファで眠りこけているどうしようもないこの男は、陽介が5年前から一緒に住んでいるパートナーなのだ。
彼の左手の薬指には陽介が嵌めているものと同じ、結婚当初に二人で選んだ高級宝飾ブランドの指輪が収まっている。それを見て陽介はかつての二人の生活を思い出す。
ーーあの頃は、こんなんじゃなかったな。
目を伏せていても分かる彼の端正な顔立ちを眺めながら、寂寥感を覚える。
アルコールが回っているようで血色は良いが、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。激務と接待で寝不足なのだろう。いくら健康診断の結果が問題なしとはいえ、このところの生活を思うと体調が心配だ。せめてもう少し酒をセーブしてくれてもいいじゃないかと思いながら、陽介は一人きりのベッドに戻った。
陽介の夫、如月修一は大手法律事務所に勤める弁護士である。現在はアソシエイトであるが、将来パートナー弁護士となるため熾烈な出世レースに臨んでいる。
その仕事は激務で平日は陽介が起きる前に家を出て、日付が変わる頃にようやく帰ってくる。そのまま休むこともあるが、個人の書斎で何やら仕事の続きか、調べものをしている日も多い。
たいていの金曜日は今日のように接待などで飲みに行った後、明け方に帰宅し土曜日の昼過ぎから再び出勤する。日曜日はもっぱら付き合いでゴルフか麻雀である。たしか新しい上司が麻雀好きで自分も最近覚えたのだと言っていた。
ーーそんなものを覚える暇があるのなら、もう少し自分との時間を作ってくれないか。
そう口をついて出そうになる言葉を陽介は辛うじて堪えた。喧嘩になるのが嫌だったからだ。
愛し合って一緒にいるのに二人の共有する時間はあまりに少ない。せっかく二人でいられる時は仲良く、甘く、穏やかに過ごしたいのだ。
結婚当初に『不満は溜め込まない。喧嘩をしたら長くても次の日には話し合って解決する』と交わした約束は守ることができないでいた。
なぜならば、修一が多忙すぎて話し合う時間がもてないからだ。
たいてい夜遅く言い争いをした後、ズルズルと日を跨ぎ家の中に気まずい雰囲気が続く。数日、下手をすると一週間が過ぎた頃にようやく時間のとれた修一が陽介にアクションを起こし、仲直りをするというのがここ最近のお決まりのパターンだ。
早期解決に向けて陽介が先にアクションを起こすと「悪い、疲れてるから」とかわされてしまう。
確かに、夜遅く疲れて帰ってきた後にパートナーが真剣な顔で話し合いを持ちかけてきたら精神的にも体力的にも辛いだろう。
陽介にとって、二人の家は心休まる居心地のいいものであって欲しい。いくら喧嘩をしていても、家に帰りたくないと思われるのだけは嫌だった。だから修一の時間が取れるのを待つことにしたのだ。
陽介もフルタイムで働いているが、修一に比べたらそれほどハードワークではない。
医大に入り医師免許を取得してストレートで医学部を卒業した陽介は、何年か大学病院で経験を積んだ後に父親の経営するクリニックで働き始めた。いずれは後を継ぐことも決まっている。
都内ターミナル駅から徒歩五分という好立地で、朝9時から診療を開始し、ほぼ残業なく18時には診療時間終了となる。水曜日と土曜日の午後は休診。小さなクリニックで、まったりとした診療時間ながらも患者の入りはまずまず、陽介が継ぐ頃には開院当初に組んだローンも返し終えるだろうという目算だ。
修一よりも圧倒的に早い時間に帰宅する陽介は、毎日ではないが家の掃除をし、洗濯、料理をこなす。二人分の家事を一人で担っているわけではあるが、陽介自身それが大したことだとは思っていない。
最新のロボット掃除機やドラム式洗濯乾燥機を使っているし、普段の洋服やスーツはランドリーサービスに頼んでいる。料理だって修一はほとんど家で食べないから簡単に自分の分と、修一の朝食を就寝前に用意しておくだけ。
以前は一緒に夕食をとっていたが、修一が今のように忙しくなってからは、遅い帰宅の後に食べると胃がもたれるからと、帰宅前に夕食を済ませてくるようになった。
外食続きになる修一の栄養状態を心配した陽介が、せめて朝だけでも体にいいものを食べてほしいと提案したのが朝食作りなのだ。
よって陽介は家事が負担とは思っていない。家のことを陽介にばかりやらせてしまって申し訳ないと、家事代行サービスを使うことを何度か修一に提案されたことがあった。もちろん費用は自分が負担するからと。
しかし陽介は断った。本当にたいしたことはしていないし、なにより二人の家に誰かに入られるのが嫌だったからだ。それが例え仕事が目的の業者だったとしても。
それに家事のことを修一が負い目に感じて、家にいる時間を少しでもいいから増やしてくれるのではないかという下心もあった。今のところその目論見は成功していないが
ーー寂しい。
結婚とはこんなにも寂しいものなのか。仕事で仕方ないとはいえ、ドラマや映画なんかでたまに聞く、
『私と仕事、どっちが大事なの』
なんて馬鹿なセリフを吐きたくなる気持ちがよくわかる。
どちらも大事だ。両者を比べられないことはよく分かっている。理屈では分かっているが感情では割り切れない。物分りのいい夫でいることは辛い。
修一は週末になるとこうしてしょっちゅう午前様で帰って来るが、陽介は浮気を疑ったことはない。
二人で過ごす時間が少ない分、それを補うように二人でいるときは愛情表現を欠かさないし、陽介の誕生日や結婚記念日も忘れたことはない。スマートフォンだってプライベート用のものはいつでも見てかまわないから、とロック番号を教えてくれている。陽介が強請った位置情報共有アプリも入れてくれた。よくある嗅ぎなれない石鹸の匂いを漂わせて帰ってきたなんてことはないし、いつ誰と飲んでいるというのもちゃんと連絡してくれる。大抵が上司や顧客だ。
修一なりに忙しいながらも最大限に寄り添おうとしてくれているのだ。
それでもただ一つ不安なのは、修一はΩでありαの陽介と番ではないということだ。
つまり、発情期になれば修一の意思の有無に関わらずαの誰とでも番になれるということだ。
番とはαとΩの間に結ばれる特別な繋がりのことを指す。Ωの発情期にαがその項を噛むことによって成立する不可逆的な契約である。
結婚前、番になりたいという陽介の提案を修一は断った。番にならなくても愛し合える、結婚に問題はない。それに万が一、陽介と別れたり先立たれてしまったときに苦しむのは嫌だと。
自分の身体は自分だけのもので、誰にも支配されたくないのだと彼は言った。
発情期はフェロモンが極力少なくなるよう薬で厳格にコントロール出来ているし、わずかに漏れる時期には保護帯を着けているから万が一事故があっても問題はない。誰とも番になることはないと。
その件は連日連夜話し合った。お互い譲らず、果ては怒鳴り合いにまでなった。平行線が続いた末とうとう修一が、
「どうしても番になれと言うならお前と結婚はできない」
と沈痛な面持ちで言った。これには陽介は焦った。社会や周囲に認められて修一とずっと一緒にいることが望みなのにこれでは本末転倒だ。
しぶしぶ譲るしかなかった。生涯誰とも番にならない。それでももし、誰かと番になるとしたら陽介だと言ってくれる。それだけで十分ではないか。そう自分を納得させた。
他にも、子供は作らないと。我儘ばかりでごめん。それでもこの2つは譲ることはできない。それでもよかったらどうか結婚してくれと修一は懇願したのだ。
それが修一と結婚できる条件なら飲むしかなかった。
番はまだしも、子供の件は今は二人が若いからそう思っているだけかもしれない。歳を重ね、周囲に子供を持つ友人や知り合いが増えたら考えを変えるかもしれない。
それに、子供ができて二人の関係が揺るぎないものになれば、番になることを受け入れてくれるかもしれない。
人は変わる。未来は分からない。僅かな希望を胸に秘め、陽介は修一と結婚した。
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