上 下
45 / 47

45. 1月11日 パーティーの控え室

しおりを挟む
 ヘンリーが出て行ってからしばらく経つ。ヒューバート王子もセレナーデの様子を見に行ったはずだけど、二人とも全然戻ってこない。


 カミラとルーシーはセレナーデを突き飛ばした令嬢に声をかけ、さっそく親交を深めている。令嬢はカミラとルーシーの間に座って、今夜の武勇伝を披露している。輪に加わろうという気は起きないので、わたしは目の前の三人に声をかけた。

「ヘンリーが遅いから様子を見てこようかしら」

「いいじゃない。あの性悪女からクラーク卿を取り戻してきてよ」
令嬢はわたしに叫んで手を振った。

とまどいつつも、わたしは彼女たちに小さく手をふり返した。


 広い屋敷を歩きまわり、ある部屋を通り過ぎようとしたとき、部屋の中から男女の話し声が聞こえてきた。ドアに一人が通れるほどの隙間があった。わたしは声をかけるべきか悩んでしまった。

わたしは控えめに声を出した。
「ヘンリーいる?」

返事がない。この部屋ではないのだろう。念のためにドアの隙間から中の様子を確認してみる。
わたしは目の前の光景が信じられなかった。


 部屋の中にいる二人は向き合い、びしょ濡れのままのセレナーデがヘンリーを見上げている。

「あたしのことが嫌いなの?ヘンリー、あたしはあなたが好きだと言っているのよ」
先ほどまでの陽気なセレナーデからは想像もつかないほど、その声は真剣だ。

「光栄だけど、僕はあなたの気持ちには答えられない」
ヘンリーは困った顔で、諭すような口調でセレナーデに告げた。セレナーデはヘンリーの首に両腕を回そうとするが、ヘンリーはセレナーデの手を取ると、両腕を体の横に戻した。

「このパーティーはあなたのためにテッドが開いてくれたんだから、主役が会場にいないなんてだめだろう?テッドが着替えを用意してくれたんだ。着替えるといいよ。僕は出ているから」
ヘンリーはセレナーデに背を向け、こちらを向いた。

まずいと思ったときには、すでにヘンリーはわたしの姿を捉えていた。ヘンリーの青い目とわたしの茶色い目ががっちりと重なる。
 

 「ヘンリー」
セレナーデが涙を流したように見えた。すると、セレナーデの姿に異変が起きた。

わたしはヘンリーからセレナーデに目線を移し、そのままセレナーデに釘付けになってしまった。セレナーデの足に何色にも光るうろこが生えはじめ、足を覆っていく。二本の足は一本の足ヒレと変わり、セレナーデが動く角度によって複雑にきらめき、宝石のように美しい。セレナーデの姿が人魚へと変身を遂げた。


 さらに驚くことに、次第にセレナーデの全身は泡に包まれ、除々に消えかけていく。儚いセレナーデがあまりに美しく、わたしは金縛りにあったかのように声が出なかった。


 「アリーだよね?どうしたの?」
部屋の前を通りがかったヒューバート王子がわたしに気がついて声をかけた。

わたしは王子の声でわれに返ったが、王子に口をぱくぱくと動かしただけで声にならなかった。この状態をうまく言語化できない。

「この部屋がどうしたの?」
王子は部屋のドアを全開にして、部屋の中をのぞきこんだ。
「あれはセレナーデ?」

王子はまさに消えそうになっているセレナーデの体に驚いて目をこする。

セレナーデはわたしたちの存在を目で捉えた。その目は恐怖すら感じるほど醒めきっていた。儚げに揺らめいていた赤毛も、消えかけていた体も元の完全な姿に戻り、纏っていた泡もいつの間にか消えていた。


 「一瞬セレナーデが人魚の姿に見えたけど、シャンパンを飲みすぎたかな」と、王子はつぶやいた。

ヘンリーははっと表情を変え、急いでこちらに走ってくる。ヘンリーよりもわずかに速くセレナーデは動きだし、わたしを睨みながら王子の腕を取って部屋の外へ出て行ってしまった。
わたしは呆然と立ちすくむばかりで、セレナーデが最後に何か言っていたようだが、聞き取ることは出来なかった。
次の瞬間、耳をつんざくような音が聞こえた。鋭い物で引っ掻いたような甲高い悲鳴だ。

「アリー伏せて!」
最後に目に映ったのは、切迫した表情を浮かべるヘンリーだった。
しおりを挟む

処理中です...