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橘 金春

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 ――逃げろッ!

 反射的に十束は少女に向かって叫んでいた。

 セーラー服に鮮血がじわじわと広がっていく。

 か、ひゅう。
 少女の口から、呟きとも吐息とも判らない音が漏れる。

 ――頼む、逃げてくれ!

 再び十束は叫んだが、その声が少女に届くはずもない。

 自分が今見ている光景が夢だということは、とうの昔に頭から吹き飛んでいる。

 ――止血をしなければ……誰か、近くにいないのか? スマホで救急車、警察に連絡を……。

 それほど、今、目の前にある光景は生々しくリアルで――十束の心をかき乱した。

 痛みで動けない少女の視線は目の前の男に向けられたままだ。

 立ち去ることもなく少女の目の前に立っていた『顔のない男』が再び、動いた。

 少女の腹に突きたてられたナイフに男の手が伸び、グリップを掴んだ。

 ――やめろおおおおおおッ!!

 男が何をしようとしているのか気づいた十束が声にならない声を張り上げるも、結果は変わらない。

 男の手は躊躇ためらうことなく、傷口からナイフを引き抜いた。

 どばり、と、溢れ出た大量の血が、スカートを濡らし少女の下半身を赤く染めていく。

『――痛い、怖い、助けて、誰か、こんなの嘘だ、嫌だ、痛い、痛い、痛い!』

 耳をふさぎたくなるほどの少女の絶叫が響き渡る。

 まだ目の前にある、血に染まったナイフの刃。辺りに充満する血の匂いを十束は確かに嗅いだと思った。

 ――貴様ァあああああああああッ!

 怒りに満ちた十束の叫びは虚しく立ち消え、目の前の男には届かない。

 がくん、と目の前の景色がブレて目の前に地面が迫ってくる。……少女がその場に崩れ落ちたのだと、十束は悟った。

 ――誰でもいい! 近くに誰かいないのかッ!?

 視界が少しずつ暗くなり少女の声は弱まっていく。

 死にゆく少女を目の当たりにしながら十束にはどうすることもできない。

 ただ、少女と意識を共にし、最期の瞬間を共にすることしか――。

『いやだ』

『帰りたい』

『家に帰りたい』

『お母さん』

『お父さん』

『お兄ちゃん』

 視界が涙で霞んでいくのが十束にははっきりとわかった。

『――会いたいよ』

『――イヤだ、もう会えないなんて、嫌だ――……』

 ふっつりと少女の声が途絶えたと同時に視界が完全に閉ざされた。

 ――ちくしょう、何だってこんな夢を……。

 暗闇の中で十束は呻いた。

 ――あの子に、何もしてやれなかった。

 会ったこともない少女の、無残で壮絶な最期。

 現実の出来事ではないにせよ、すぐ目の前で起こった卑劣な犯行に対して、何一つできなかったという無力感に苛まれる。

 ――せめて、早く覚めてくれ……!

 音も光もない、完全に無となった空間で十束は悪夢から目覚めることをひたすら祈っていた、その時。

 テレビのチャンネルが切り替わったように突然目の前の景色が変わった。

 見知らぬ部屋。

 ごく普通の一般家庭の部屋の真ん中に佇んでいるようだ。

 窓にはカーテンがかかっていて外の様子は見えないが、部屋の中は天井の照明で明々と照らされている。

 再び、十束の意識とは関係なく視界が動き部屋の壁へと向けられる。

 壁一面にびっしりと張られた写真……そして。

『獲物候補』 
『捕獲』
『調理』
『実食』
『評価』
 ……

 突如視界に入ったその文字を十束は信じられない思いで見つめた。

 壁に直接書き殴られたそれらの文字は、少女連続殺人犯の。

 弟切の、部屋にあったものではなかったか?

 ――もしかして、ここは。 弟切の部屋……だというのか? 

 混乱する十束の頭の中に再び声が降ってきた。

『――同じ、だ』

 ――! あの子の声だ!

 聞き間違いではない。まぎれもないあの少女の声が確かに聞こえた。

『――同じだ、アイツと同じだ』

 続けて聞こえて来た少女の声は怒りを押し殺したような暗い声だった。

『――コイツも、私を殺したアイツと同じだ!』

 殺意さえ感じられるほどの憎悪に満ちた叫びが発せられたのと同時に写真の張られた壁から黒い靄のようなモノが湧きだした。

 その靄を目にした瞬間……十束は全身が総毛立つような感覚に襲われた。

 湧きだした黒い靄は大蛇のようにうねうねとのたくるように細く伸び、少女の周りを取り囲んだ。

 靄の中に黒と灰色の濃淡でできた人の顔のようなものが浮かんだように見えた。

 幾つもの目が虚ろに見開かれ、口にあたる真っ黒な部分がパクパクと不気味に蠢いている。

『アイツハ チカニ イル』

 聞き逃してしまいそうなほどか細い声が靄の中から立ち上ってくる。

『イッショニ イコウ……』

 別の口から幽かな声が漏れ出たのと同時に、少女は部屋を飛び出した。

 黒い靄は先導するように階段を流れ落ち、それに従って少女は廊下を進み地下への階段を駆け下りる。

 地下室の扉は閉まっている……にもかかわらず、少女は速度を緩めることなく扉へ向かって突っ込んでいく。

 ――ぶつかる!

 十束がそう思った瞬間、少女の身体は扉をすり抜けていた。

 薄暗い部屋の中にはドアを背にして立っている男の後姿と手足を縛られ床の上に転がされている少女――。

 傍のワゴンには注射器にメス、鉈、包丁……。

 これから男が彼女に何をしようとしているかは明白だった。

 少女の前にしゃがんだ男が少女の髪をすくい上げた瞬間。

 迷うことなく身体が動き、包丁に手が伸びる。

 扉をすり抜けた身体が包丁の柄を捉えて振り上げる。

『――死ね!』

 男の背に包丁が突き立てられた。

 肉に刃が食い込む、ぐじゅりとした感触が手に伝わる。

『死ね』

『オマエナンカガ』

『お前のような奴が』

『ワタシタチヲ』

「私を』

『シネ』

『よくも殺したな』

『ダイキライダ』

『『死んでしまえ!!』』

 いくつもの少女たちの声が重なり混ざり合い、十束の頭の中で反響する。

 包丁を引き抜いた背中から血が噴き出し辺りを染めた。

 血の匂いで頭がくらくらする。

 少しずつ意識が遠のいていくのを十束は感じていた。
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