ひとりむすめ

山下真響

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13・どこかへと続く道

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 出発はそれからすぐのことでした。夫は一泊分の荷物を用意するように私へ告げると、スマホで何か調べ物を始め、彼自身もクローゼットから引きずり出した鞄に荷物を詰め始めます。

「旅行ですか?」

 夫はしっかりと頷きました。
 二人で少しの遠出はしたことがありますが、旅行は初めてです。世の中には新婚旅行という言葉がありますが、今から向かう旅行は何なのでしょうか。少なくとも、そのようなスイートなものにならないことは無いことは確かです。

 そして私と夫は、車に乗り込んだのでした。






 車の中ではラジオの道路情報が流れていました。滑舌の良い美しい声の早口が、リスナーのドライバーに安全運転を促して、別の番組へと繋がるジングルが流れ始めます。運転する夫は前を向いたまま、左手だけでラジオを切りました。高速道路の対向車線を走る車のヘッドライトが一瞬私達を照らし出して、すぐに遠のいていきます。夫は無表情なままでした。いえ、少しずつ変化しています。車は走っているのではなく、道路が車に乗る私達を先へ先へと止まらないベルトコンベアに乗せて運んでいくようです。粛々とどこかへ向かっているのですが、その目的地を私はまだ知りません。真夜中の世界は全てが寝静まっていて、穏やかでした。

「今夜はここで」

 しばらくすると、車はサービスエリアに入っていきます。自販機とお手洗いの灯りを避けるように、駐車場の隅っこに停止すると、夫は車を降りました。トランクを開けて、次に助手席のドアを一度ノックしてから開けます。

「夜は冷えるから、これを着た方が良い」

 夫は大きなブランケットを手渡してくれました。少し埃っぽいですが、どこか夫の匂いのするものでした。

「ごめん、少し寝る」

 夫はまた運転席に戻ってくると、席をリクライニングさせて羽織ってきたコートの襟を立てると目を閉じます。私は夫が眠るところを初めて見ました。すぐに規則的な寝息が始まります。ブランケットを横に広げると、僅かに上下運動する夫の身体と私の身体覆うようにして被せました。

 少しずつブランケットの温もりに微睡み始めます。眠りにつくかつかないかの頃、そういえば先程の夫の声は小さくなかったなと思いました。









 二つ目の船を降りると、そこも少し寂れた漁村のような風体でした。そう言うと、夫はこれでも昔よりは栄えていると言って肩を竦めるのです。

 私達は海沿いの道を滑るように進みました。小雨が続いていますが、海はあまり荒れていません。少し離れたところの山間(やまあい)からは、白く細い煙があちらこちらから立ち上っていました。

「何か燃やしているのかしら」
「あれは、湯煙だよ」

 私達は、別府に入りました。








 火山灰でできた扇状地。断崖のように急に勾配が高くなる山々に囲まれ、深い青の海を臨むその土地は日本有数の温泉地であり、外国人を含む多くの観光客が訪れています。生ける大地がその漲る生命力を湯に注ぎ込んで吹き上げて、人々に恵みをもたらしていました。

「足湯もあるし、住宅街に入ると吹き上げる蒸気で蒸し料理を作る井戸端のような場所もある」

 夫はナビも使わずに迷わずどこかを目指して車を進めていきます。以前鏡台を買いに行った時なんて、運転中一言も発さなかったのに。饒舌な上にクリアな音声。私は夫の横顔を見つめましたが、何度見てもそれは別人でないのです。

「大昔、ここは地中から熱気や熱泥、熱湯が突然吹き出る場所として恐れられていたんだ。だから、ここは地獄。いくつもの地獄があって、僕の家もそんな地獄の一つ」

 地獄。その言葉と同時にさらっと夫から目に見えぬ黒煙が漏れ出たのを私は見てしまいます。
車がカーブを勢いよく曲がって、そこからすぐにあった赤信号で急停止します。

「だったと思ってる」

 自嘲するような声でした。私の背中はすっと冷たくなります。夫が自分の話を、しかも過去を話そうとしていました。これも初めてのこと。

「今夜は布団で眠ろう」

 夫はハンドルを切って、巨大なホテルの立体駐車場へと入っていきます。

 私のお腹はチクリと痛みました。








 夫はいつの間にかインターネットで宿を予約していたようでした。フロントで名前を記入する夫の横で、私はホテルの制服を着た男性に声をかけられます。

「奥様、こちらをお使いください」

 横を見ると、荷物を置くためのテーブルがありました。私は一瞬遅れて、持っていた夫のバッグと自分の小型スーツケースをそこに置きます。荷物は軽くなったはずなのに、肩は重いままでした。






 フロントから部屋までは五分以上歩き続けました。ホテルは海へ向かって平行に建っていますので、部屋からは良い景色を眺めることができます。部屋は和洋室タイプで、私たちのような夫婦には都合の良い広さでした。夫は洋室部分のベッドへ横になり、私は和室の片隅から橙に染まってチラチラと白い光を放つ海とその上を行くいくつもの船を眺めて過ごします。

 寛(くつろ)ぎの時間を同じ部屋で過ごすことも初めてですから、この無音の空間は重苦しくて潰れてしまいそうでした。

「千代子」

 夫の声はホテルに入ってから音量が小さくなることはありません。私は夫の方を向くと、崩していた足を整え、ベッドの上であぐらをかく夫の顔を見上げます。その距離およそ五メートル。

「地獄の話を始めよう」

 夫の声は、僅かに揺れています。
 私はしっかりと頷きました。ここから始まるのは本当の旅。どこかへと続く道。まだ見ぬ何かを知るために。得るために。

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