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12・孵化と産卵
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「泣いてる」
夫はスマホを握ったまま語気を強めてこちらに近づいてきました。私は玄関で靴を脱ぐのに手間取っているフリをして、夫が去っていくのを待っていましたが、彼は動きません。
私は夫の顔を見る気になれませんでした。視線を薄暗いフローリングに落としたままでいると、視界に夫が裸足で侵入してきます。ジーンズを履いているのだと気づきました。きっと帰宅後着替えたのでしょう。私はこのままベッドへ横になって十日ぐらいそのまま眠り続けたい気分なのに。どこか余裕がある夫が恨めしくて、その足を踏みつけようかと出来もしないことを考えそうになってしまいます。
「今夜はグラタンだよ」
夫は覆い被さるようにして私の肩を抱くと、耳元で囁きました。
「千代子の好きなチーズがたっぷり入ってるよ。一緒に食べたい」
やはり夫は私を恐れているわけではないようです。けれど、扱いをなるべく丁寧にしようと努めていることは伝わってきました。私に彼の声がきちんと届くように、わざわざあちらから歩み寄ってきたのです。これが十歳の差なのでしょうか。いつしか私の涙は逃避の苦さから悔しさの辛さへと変わり、最後は夫から与えられた人肌の温もりに負けて癒しの砂糖水になっていました。
「食べます」
急にお腹が空いて、歩き始めたばかりの幼子(おさなご)のようによたよたと夫についてリビングに入っていきました。
小ぶりのダイニングテーブルには赤いギンガムチェックのランチョンマットが二つ向き合って並んでいて、その上にあるグラタン皿からは湯気が立ち上っています。まるで私がまさにこのタイミングで帰ってくることをあらかじめ知っていたかのように、それは焼きたての状態でした。
まだ手洗いウガイもしていませんが、夫に促されるままに席につきます。部屋は少し空調がかかっているので、頬に触れる白い水蒸気は心地よく感じられました。夫の口が「どうぞ」と動いたのを合図に、私は皿の横に置かれたスプーンを手に取ります。
私の好きなほうれん草とマッシュルームが入っていました。鶏肉は少し大きめにカットされていたので、少し食べにくいものの、ちゃんと火は通っています。焼き加減もやや物足りなさがありました。
先日のムニエルは完敗だっただけに、ほっとする気持ちが五割。それでも十分に美味しくて、それを素直に認められない気持ちが四割。最後の一割は、隠しようもない幸福感ですが、理由を見つけることができませんので心に蓋をしておきます。
夫は熱いものが得意なのか、あっという間に平らげてしまいました。そして頬杖をついてじっとこちらを見つめています。「ゆっくり食べていいよ」と言われたようでした。
「私、明日からは、食事を作ります」
夫の目尻が少し下がりました。そして何か言います。さすがの私も、予想できる内容でなければ、音量ボタンも無しに夫の言いたいことを理解できるわけではありません。
「聞こえません」
夫は一度息を深く吐いた後、何らかの意思を強くその瞳に宿してこう言いました。
「おかえり」
たかが挨拶。されど挨拶。
「ただいま」
いつから私はこんなに泣き虫になったのでしょうか。ぽたりぽたりとランチョンマットに染みをつくるのと同じペースで、私を覆う卵の殻にヒビが広がっていきます。
夫はまた何か言いました。その言葉が何だったのかは分かりませんが、それがトリガーとなったのは確かです。殻は完全に割れたました。
「私も」
夫は一瞬激しく首を振ると、席を立ってこちらへやってきます。急にしゃがみこんで私のお腹周りに腕を回したかと思うと、声を殺して泣き始めました。反対に私の涙はピタリと止まります。
「千代子」
夫が話すと、その吐息で私のお腹が暖かくなります。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
私はこれまで男性にほとんど興味を持ったことがありませんでした。女子高だったこともありますし、男性と言えばそれは父のことでした。父はいつも私に背中しか見せず、こちらに正面から向き合うことはありません。何を考えているか分からないけれど、ただただ厳格で、私の生死を握る人という存在でした。
だからこそ、こうやって大人の男性が私に縋って震えているなんて信じられないことです。でも現に、私の夫はそうやって今私と繋がり、温もりと時間を共有しているのです。そして私は、おそらく今も、この人の妻なのです。
「ここが私の家なので」
「千代子、人が帰る場所っていうのは家じゃない。人なんだよ。人がいる場所が家なんだ」
夫が顔を上げました。涙で前髪が額にくっついているのを見つけて、無意識にそれを払いのけてあげました。
「でも、建物が無いと家ではありません」
「無くても家だよ。僕の家はここにあるし、ここにしか無い」
夫は、私の胸の谷間の部分に人差し指と中指を揃えて差し込みました。鳩尾(みぞおち)から体内に何かが入ってきます。不思議と性的な感じは全くしませんでした。蝶や魚に卵を産み付けられているかのような感触と快感。
「千代子の家もここにある」
夫は私の手を取ると、そっと彼の鳩尾に押し当てます。彼がゼロとスペースでできた暗号のプログラムを流し込み、私の中のある部分がハックされてプログラムの書き換えが行われ、何らかの『最適化』がなされます。正常とは何かという哲学的な問いや、その他普通の人間が求める普遍的な美しさや懐かしさ、そういったものを一つ一つ再定義するにも関わらず、最後には私本来の素の部分に様々なものが委ねらます。これら全てに夫は少しずつ祈りを込めていました。私は全てを受け入れます。夫の指がそのまま私の胸を突き抜けて皮膚が一続きになってしまったらどうしようと思う程、その瞬間私達は一つになったのでした。そう、鍵は壊れていたかもしれませんが、鍵穴は無事だったのです。私と夫、その二つの存在が損なわれない限り、また二人で鍵を新しく用意し、こうしてまた向き合うことができる。
「ありがとう」
そうでした。私には帰るところがここしかありません。きっと夫もそうなのでしょう。
今なら、夫は教えてくれるかもしれません。
私はゆっくりと口を開いて切り出しました。
「教えてください」
夫は微かに頷きます。
「どうして、家では声が小さいのですか?」
夫はスマホを握ったまま語気を強めてこちらに近づいてきました。私は玄関で靴を脱ぐのに手間取っているフリをして、夫が去っていくのを待っていましたが、彼は動きません。
私は夫の顔を見る気になれませんでした。視線を薄暗いフローリングに落としたままでいると、視界に夫が裸足で侵入してきます。ジーンズを履いているのだと気づきました。きっと帰宅後着替えたのでしょう。私はこのままベッドへ横になって十日ぐらいそのまま眠り続けたい気分なのに。どこか余裕がある夫が恨めしくて、その足を踏みつけようかと出来もしないことを考えそうになってしまいます。
「今夜はグラタンだよ」
夫は覆い被さるようにして私の肩を抱くと、耳元で囁きました。
「千代子の好きなチーズがたっぷり入ってるよ。一緒に食べたい」
やはり夫は私を恐れているわけではないようです。けれど、扱いをなるべく丁寧にしようと努めていることは伝わってきました。私に彼の声がきちんと届くように、わざわざあちらから歩み寄ってきたのです。これが十歳の差なのでしょうか。いつしか私の涙は逃避の苦さから悔しさの辛さへと変わり、最後は夫から与えられた人肌の温もりに負けて癒しの砂糖水になっていました。
「食べます」
急にお腹が空いて、歩き始めたばかりの幼子(おさなご)のようによたよたと夫についてリビングに入っていきました。
小ぶりのダイニングテーブルには赤いギンガムチェックのランチョンマットが二つ向き合って並んでいて、その上にあるグラタン皿からは湯気が立ち上っています。まるで私がまさにこのタイミングで帰ってくることをあらかじめ知っていたかのように、それは焼きたての状態でした。
まだ手洗いウガイもしていませんが、夫に促されるままに席につきます。部屋は少し空調がかかっているので、頬に触れる白い水蒸気は心地よく感じられました。夫の口が「どうぞ」と動いたのを合図に、私は皿の横に置かれたスプーンを手に取ります。
私の好きなほうれん草とマッシュルームが入っていました。鶏肉は少し大きめにカットされていたので、少し食べにくいものの、ちゃんと火は通っています。焼き加減もやや物足りなさがありました。
先日のムニエルは完敗だっただけに、ほっとする気持ちが五割。それでも十分に美味しくて、それを素直に認められない気持ちが四割。最後の一割は、隠しようもない幸福感ですが、理由を見つけることができませんので心に蓋をしておきます。
夫は熱いものが得意なのか、あっという間に平らげてしまいました。そして頬杖をついてじっとこちらを見つめています。「ゆっくり食べていいよ」と言われたようでした。
「私、明日からは、食事を作ります」
夫の目尻が少し下がりました。そして何か言います。さすがの私も、予想できる内容でなければ、音量ボタンも無しに夫の言いたいことを理解できるわけではありません。
「聞こえません」
夫は一度息を深く吐いた後、何らかの意思を強くその瞳に宿してこう言いました。
「おかえり」
たかが挨拶。されど挨拶。
「ただいま」
いつから私はこんなに泣き虫になったのでしょうか。ぽたりぽたりとランチョンマットに染みをつくるのと同じペースで、私を覆う卵の殻にヒビが広がっていきます。
夫はまた何か言いました。その言葉が何だったのかは分かりませんが、それがトリガーとなったのは確かです。殻は完全に割れたました。
「私も」
夫は一瞬激しく首を振ると、席を立ってこちらへやってきます。急にしゃがみこんで私のお腹周りに腕を回したかと思うと、声を殺して泣き始めました。反対に私の涙はピタリと止まります。
「千代子」
夫が話すと、その吐息で私のお腹が暖かくなります。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
私はこれまで男性にほとんど興味を持ったことがありませんでした。女子高だったこともありますし、男性と言えばそれは父のことでした。父はいつも私に背中しか見せず、こちらに正面から向き合うことはありません。何を考えているか分からないけれど、ただただ厳格で、私の生死を握る人という存在でした。
だからこそ、こうやって大人の男性が私に縋って震えているなんて信じられないことです。でも現に、私の夫はそうやって今私と繋がり、温もりと時間を共有しているのです。そして私は、おそらく今も、この人の妻なのです。
「ここが私の家なので」
「千代子、人が帰る場所っていうのは家じゃない。人なんだよ。人がいる場所が家なんだ」
夫が顔を上げました。涙で前髪が額にくっついているのを見つけて、無意識にそれを払いのけてあげました。
「でも、建物が無いと家ではありません」
「無くても家だよ。僕の家はここにあるし、ここにしか無い」
夫は、私の胸の谷間の部分に人差し指と中指を揃えて差し込みました。鳩尾(みぞおち)から体内に何かが入ってきます。不思議と性的な感じは全くしませんでした。蝶や魚に卵を産み付けられているかのような感触と快感。
「千代子の家もここにある」
夫は私の手を取ると、そっと彼の鳩尾に押し当てます。彼がゼロとスペースでできた暗号のプログラムを流し込み、私の中のある部分がハックされてプログラムの書き換えが行われ、何らかの『最適化』がなされます。正常とは何かという哲学的な問いや、その他普通の人間が求める普遍的な美しさや懐かしさ、そういったものを一つ一つ再定義するにも関わらず、最後には私本来の素の部分に様々なものが委ねらます。これら全てに夫は少しずつ祈りを込めていました。私は全てを受け入れます。夫の指がそのまま私の胸を突き抜けて皮膚が一続きになってしまったらどうしようと思う程、その瞬間私達は一つになったのでした。そう、鍵は壊れていたかもしれませんが、鍵穴は無事だったのです。私と夫、その二つの存在が損なわれない限り、また二人で鍵を新しく用意し、こうしてまた向き合うことができる。
「ありがとう」
そうでした。私には帰るところがここしかありません。きっと夫もそうなのでしょう。
今なら、夫は教えてくれるかもしれません。
私はゆっくりと口を開いて切り出しました。
「教えてください」
夫は微かに頷きます。
「どうして、家では声が小さいのですか?」
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