ひとりむすめ

山下真響

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6・空っぽ

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 その人は、五十嵐(いがらし)と名乗りました。

「千代子ちゃんだよね? オレ、あいつの同級生ってか、友達?なんだ。悪いんだけど、君の旦那さん酔いつぶれちゃってさ」

 そして彼が指さした方角を見ると、非常口の緑の灯りとお手洗いのマークが並んでいます。私は東さんと顔を見合わせました。

「旦那さん?」

 東さんにはもちろんのこと、高校の人には私が既婚であることを知らせていません。私はそれを思い出して、どうすれば良いか迷ってしまいました。声が小さい上、今夜も『飲みに行く』としかメールしてこなかった通称・夫ですが、曲がりなりにも夫婦です。ここで見捨てたりしたら、私は人でなしになってしまいます。

「あたし、一緒に行こうか?」

 同じテーブルのオジサンは興味津々の様子でこちらを見ています。

「大丈夫です」
「後でちゃんと説明してよ?」

 私は無理やり作った笑顔を東さんに向けると、五十嵐さんについていきました。

「あの、私の主人とは、春日部零(かすかべ れい)で間違いありませんでしょうか?」

 テーブル間の狭い隙間を縫うようにしてスイスイと進む五十嵐さん。女の子の扱いに長けたお兄さんといった印象を受けるのは、整いすぎたお顔と若干のタレ目のせいかもしれません。

「そうだよ、蕨野千代子(わらびの ちよこ)ちゃん。仲間内では一番のリア充なんだよ、アイツ。十歳下でしかもまだ十代の幼妻とか爆発しろ!って言ってたら、零の奴、急にヤケ酒みたいに飲みまくっちゃってさ」

 返事は、何もしないでおきました。店の中の音が一瞬私から遠のいたのと同時に、手足が冷たくなるのを感じただけでした。

「ここ」

 非常口の扉を出てすぐ隣。お手洗いのドアは固く閉ざされたままです。五十嵐さんはそこへ荒っぽく拳を叩きつけ、夫の名前を連呼します。

「ったく、いつまで篭ってる気だよ。おい! 大丈夫か?! 奥さん心配して迎えにきてくれたぞ?! 美人なお、く、さ、ん!」

 奥さんと呼ばれると一気に老け込んだような気持ちになります。けれど、これは抗えない事実です。
 五十嵐さんの声が今度こそ届いたのか、中から水が流れる音が聞こえてきました。

「さっきさ、千代子ちゃんが店に来た途端テーブルの下に隠れやがったの。隠れて飲みに来たの?って聞いたら違うって言うんだけどさ。ホントのところはどうなの?」
「えっと……連絡はありました」
「よかった。ま、アイツに限って大胆な不貞なんてするとは思えないし、心配しなくていいよ。もしアイツの好みが熟女に変わったら、オレが責任を持って絶対に千代子ちゃんにバレないようにしておくから……」

「うるさい!!」

 五十嵐さんの話が終わるか終わらないかの刹那、お手洗いの扉が吹き飛びそうな勢いで開きます。私は、視界の端でそこに立つ人物が確かに夫であることを確認すると、つっと瞼を伏せました。まるで、悪さをした子どもが叱られるのを待つかのように。

「千代子」

 私は、思わず自分の腰の辺りを手でまさぐります。東さんに着せられた身体にぴったりと沿う赤い大人びたワンピースにはポケットがありません。ましてや、カーステレオやテレビのリモコンが入っているわけでもありません。

 私はハッとして、夫を見つめました。
 夫もこちらを見つめています。
 お互い、お互いに違うものをその表情の向こうに探して、見極めているのです。それは五秒だったのか、五分だったのか。

 沈黙を破ったのは五十嵐さんでした。

「何だよ、こんな所で夫婦喧嘩か? やめとけって! ほら、向こう戻って続き飲もうぜ」

 別に喧嘩をしているつもりはありません。でも、喧嘩をしていると思われても仕方が無い程、私の気は高ぶっていました。それには夫も気がついているようです。まだ短い期間とは言え、伊達に同居人をやっているだけのことはあります。

「ごめん」

 夫の声はどこまでも明瞭で柔らかくて、耳あたりの良い音質と音量でした。ここには、何のギミックも働いていないことが、傍にいる五十嵐さんの様子からも明らかです。

「ごめん」

 お詫びの言葉は重ねれば重ねるほど陳腐化するもののようです。それも中身が空っぽであれば尚のこと。言われている相手の私でさえ思い当たらないことに謝罪して、勝手にそんな自分に満足しているようならば、そんなもの初めから必要が無いのです。

「ごめん」

 私の非ならば、いくらでも思いつきます。

 私がまだ若いのがいけないのかもしれません。大人しく家で留守番していなかったことも気に触ったのかもしれません。このような格好があまりにも似合っていないのかもしれません。

 では、私はどうすれば正解だったのでしょうか。一人で夕飯を済ませて、そのまま暗い家に一人で居ることに耐えられなかったことが、そもそも悪だったのでしょうか。

 それよりも、もっと根本的な問題。私が私であること。それが夫をこうも狂わせているのでしょうか。

 もし私がもっと……

 夫には夫婦としての幸せを掴む権利があったはずなのに、それを踏みにじったのは私と言う存在かもしれない。そう思うと身体が焼けるように熱くなりました。

 気づいたら店の外。深夜に近い夜更けの商店街に灯りはほとんど無く、お化け屋敷のようです。アーケードを出た途端、何も無い濡れた地面で転び、元々膝にあった傷がさらに深く抉られました。あまり痛くなかったのが辛くて、我武者羅に走ります。なのにもう、転ぶことはできませんでした。

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