ひとりむすめ

山下真響

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2・ままならないチョコ

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 夕飯は、チキン南蛮にしました。夫の大好物です。穴が開いてしまったパックの鶏肉を早速調理することで、私は先程のことを無かったことにしておきました。こういうことは早く忘れるに限ります。あまりに恥ずかしすぎますから。

 私の歳になると、自転車に乗れない人なんていません。私が通う高校では、ほとんどの人が自転車通学で、今更こける人なんて他にはいないことでしょう。ではなぜ、私はこんなに下手なのか。それは、私が所謂『お嬢さん』だったからです。

 私は、十七歳のお誕生日を迎えるまで、ここから少し離れた山辺の街に住んでいました。私の家はとても大きくて、父親と二人だけで暮らすにはあまりに広すぎました。唯一良かったことは、お庭に池があったことです。

 池というものは、そこが一つの世界を創り出し、独立しています。もちろん水がないと成り立たないのですが、とても閉鎖的で美しい空間です。川のように流れがあるわけではないので、大きな変化にさらされることもなく、ただそこに在ればいいのです。大雨の日は水面が波打ちますし、いつの間にか藻が広がって緑のベールに包まれてしまうこともありますが、それも一興。中の透明でヒンヤリとした空間が損なわれるわけではないのです。

 私はそんな池のような実家を出て、結婚することになりました。


 ある日、父が私を広い畳の部屋に呼び出して、言ったのです。

「千代子。明日からお前はこの家の人間ではない。出ていきなさい」

 こんな厳しい言葉を貰うことになるなんて、私にはまるで心当たりがありませんでした。幼い頃のように、家の中を駆け回って五月蝿くすることもありませんし、夜に父親を起こしてお手洗いに付いてきてもらうこともありません。なぜ私は、父に突き放されなければならないのでしょうか。あまりにも唐突で残酷です。

 放心状態のまま自分の部屋に戻ると、通いの家政婦さんが私の元へやってきました。もう十年来のお付き合いがあり、母親がいない私にいつも優しく接してくれますし、悩み事を聞いてもらうこともあります。そして連れていかれたのは、家の端にある暗い部屋でした。明かりをつけると、中にはなんとたくさんの家具や家電が所狭しと置かれてありました。

「ここにあるものは全て、千代子様のために旦那様が手自らご用意されたものなのですよ」

 家政婦さんはまるで自分の手柄のように胸を張りますが、私は足元の床が突然抜け落ちたかのような心持ちになりました。ですが、私がいくら驚き悲しみ、信頼していた人からの裏切りに心を引き裂かれても、何も変わりはいたしません。

 これまでも、あらゆることが父によって決められてきました。父は、私をかろうじて生かしている人。ずっと人間らしい安全な生活を与えられてきた私には、今回のお沙汰も仕方のないことなのだと思えました。私の人生は、新幹線の車窓の風景のように、いつの間にかどこかへ運ばれて、移ろって、流れていくのです。

 昔、誰かが言いました。私にも母親というものが居たということを。その人は、人生の大抵のことはままならないのだと話していましたから、きっと私もそれに当てはまるのでしょう。

 翌朝、父は一人の男性を連れてきました。私は迷った挙句、それまで通っていた女子校の制服であるブレザーに袖を通し、その人を迎えます。

「春日部零(かすかべ れい)だ。娘のことをよろしく頼む」

 父からの紹介はこれだけでした。すぐに、婚姻届とボールペンが差し出されます。妻になる人の欄以外は全て、既に記入されておりました。どうやら私は、嫁に出されるのでこの家を追い出されるようです。父が視線で早く書けと言っていましたので、私は躊躇うことなく自分の名前をサインをしました。蕨野千代子(わらびの ちよこ)、と。そこで初めて、向かいにいる人物が私の夫となる人であり、その人の齢の頃も知ることになったのです。

 父にこの家から放り出されると、行く所もありません。実のところ、お友達と呼べるような方もおりません。それに、全ては私の預かり知らぬところでお膳立てされていたのです。引き返そうにも、道は前にしか続いていません。ただ一本しかない、糸のようにか細く白い道。

 てっきり、家を出されるということは、何かの原因で家が差し押さえられるか、身売りさせられるか、それとも単なる父の気まぐれかと思っていましたのに。こんな年で誰かのものになってしまうなんて、気が遠くなりそう事実ですが、家を出るには真っ当すぎる理由です。

 私はとりあえず、目の前の人についていくことに決めました。
そうして、必死に妻を演じる高校生がここに誕生したのです。

 最後に家を離れる時、父は見送りにも来てくれませんでした。父との間には長年溝がありましたから、不思議ではありません。けれど、当時の私はその本当の理由は知りませんでしたので、捨てられたという感覚が引っかき傷のように心に残りました。小さな傷なのに、それは長く痛むことになるのです。






 夫はあっという間にチキン南蛮を平らげてしまいました。ちょうど見ていたクイズ番組も終わってしまったので、テレビを切ってしまいます。私は、夫の手から離れたリモコンを眺めました。その黒いリモコンの中ほどには上下のボタンがあり、それで音量が調整できます。

 夫は、こちらを向いて静かに手を合わせました。そして、何か言います。ニコニコしているので、今日は何か良いことでもあったのでしょうか。

 急に私は、もう一度あの奇跡が起こるのか確かめたくなってしまいました。夫が食べ終わった食器を持ってキッチンへ向かった隙に、素早くテレビのリモコンを自分の元へ引き寄せます。

 だいたい、夫がいけないのです。私のことを大人しすぎる、言いたいことははっきり言った方が良いなどと筆談で伝えてくる癖に、私がもっと声を聞かせて欲しいと言うと笑って誤魔化してしまうのですから。それなのに、肌に触れるぐらいに近寄ってその声を聞くと、胸がギュッと締め付けられるような不思議で甘美でもある音を発し、私を誘惑するのです。こうも聞きたくてたまらなくなるのは、あの声にはきっと中毒性があるにちがいありません。

 夫がダイニングテーブルに戻ってきました。私は膝の上に忍ばせたリモコンに指を這わせます。テレビとカーステレオは別物なので、おそらく上手くいかないことでしょう。でも私は、夫の心に1ミリでも良いので近づきたかったのでした。

 夫がテーブルの片隅にあるバスケットの中へ手を伸ばしながら、ゆっくりと口を開きます。中にはお菓子が入っています。
 同時に、私はリモコンの上向きボタンを連打しました。

「ちょこ」

 ちょこ。チョコ? 私が思わず首を傾げたのを見て、夫ははっと目を見開きました。私が夫の声を聞くことができたことが、バレてしまったのかもしれません。

 私は慌てて、聞こえない時にいつもならばどうしているのかを思い出しました。そうです。耳に手を当て、目を閉じて意識を集中するのです。しばらく完全なる静寂が続き、今夜は無理かもしれないと声を聞くのを諦めかけたその時でした。


「チョコ、チョコ、ちよこ、食べよかな」


 反射的に目を開けると、夫は向かいの席で頬杖をついて、ニヤニヤしていました。
 私はできるだけ平静を装って、膝の上のリモコンで音量を下げます。

 私の夫は、なんて人間なのでしょう。ちよことは千代子で私のこと。そして食べるとは、きっとおそらくもしかしなくとも、そういうことなのでしょう。まだ十七歳の私に、こんな破廉恥なことを言うなんて信じられません。これが他人ならば警察にでも突き出したい気分ですが、彼は私の夫なので無罪です。

 世の中って、やはりままならないことばかりなのですね。

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