雨の夜に君を想う

山下真響

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雨の夜に君を想う

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 鍋の中で、味噌を溶かす手を止める。湯気の向こう、壁の時計に目を遣ると、先程スマホが鳴ってから、早三十分が過ぎていた。

 塾帰りの息子が、定期を使って最寄り駅の改札から出てくると、自動的にメールが届くようになっている。着信音は他と別のメロディを指定しているので、間違えようがないのに。

「遅いわね」

 エプロンを外しながら玄関へ向かう。ドアを開けてマンションの廊下に顔だけ出すものの、人気は無かった。聞こえるのは雨音だけ。

 がっかりしながら扉を閉めると、傍らにあった傘立てに膝が当たった。その中から、見慣れた紺のチェック柄がこちらを気不味そうに見上げている。

「朝、あれ程言ったのに」

 今日は珍しく仕事が早く終わって、一番に帰宅していた私。手早く夕飯を作っている途中、窓が予報通りの雨で濡れ始めたのは知っていたが、息子が傘を持って行き忘れたことには今気がついた。

「もしかして」

 我が家は、駅から徒歩十五分もかかる。息子は荷物が重くなるからと言って、折り畳み傘を持ち歩く習慣はない。となると、今頃、改札から出た辺りで、途方に暮れているのだろうか。

「仕方ないわね」

 スマホを操作する。私の指捌きは掌の中のテクノロジーを上回っているらしく、思うように画面が素早く切り替わらなくて、苛立ちが募っていった。

「ちゃんと出てよね」

 タップしたのは通話ボタン。昨今、恐いニュースも多いものだ。まさかとは思うが、息子が何か事件に巻き込まれていやしないか。そんな可能性を捨てきれないと思うと、呼び出し音がいつも以上に悠長な気がして腹が立つ。

「何?」
「もしもし? 希夕きせき? 大丈夫なの?」
「何が? あ、雨のこと?」

 返ってきたのは、のんびりとした息子の声。安堵と共に、体にまとわりついていた緊張感が解けていく。

「あんた、今どこにいるのよ? 心配してたんだから」
「まだ駅だけど。雨やまないし、腹減ってたからコンビニでチキン買って食べてた」
「嘘、何それ。夕飯もチキンよ」
「えー」

 この頃には、もうすっかりいつも通りの私だ。

「それより! あんた、傘持って行くの忘れたでしょ?」
「そうそう。ちょうど良かった。迎えに来てよ」

 この子が傘を忘れるのなんて何度目だか。こうなったら、一度濡れ鼠になって帰宅させれば、今後痛い目に遭わないように学習できるのではなかろうか。私もわざわざ、一方通行が多くて運転しにくい駅前へ車を出すのも面倒なのだ。けれど、そんなことをしては、所謂ネグレクトの類にならないとも限らない。

 私は、母という名を頂いた女として、責任とプライド、躾、本音など、様々な事に思いを巡らせ、板挟みになり、苦しむことを二秒程やり過ごし、決意する。

「分かった。今からすぐに迎えに行くから、いつもの所で待ってなさい」

 結果的に勝ったのは、純粋な息子への愛ではなく、良い母親でありたい自分への愛だった。情けない。せっかく残業が無くて良いことが起こりそうだったのに、気分は最悪である。


 ◇
 

 マンションのロビーで傘を開くと、小走りで駐車場へ向かう。雨は、強くなってきた。車に乗り込むと、フロントガラスを叩く雫で視界は歪み、朧気になっている。

 その時だ。

「貴子」

 はっとして背後を振り返る。かれこれ車検を三度は通したかと記憶している、このコンパクトカーに乗っているのは、私一人。後部座席は無人。なのに――。

 祖父の声がした。

 祖父は、その昔、車屋の営業をやっていた。まだ自家用車が当たり前ではなかった時代の話だ。仕事柄、長距離運転は当たり前。たくさんの車を頻繁に乗り換えて、時代を走り抜けてきた。もちろん、運転技術は素晴らしい。傘寿を前に免許証を自主返納するまで、一分の隙きも無い丁寧なハンドル裁きとアクセルワーク、そして慎重さには、いつも目が奪われていたものだ。

 そんな祖父に、こんな口癖がある。

「車は、愛と狂気の結晶だ」

 車は人生を載せている乗り物。人々の幸せを運ぶこともあるが、物理的な凶器になりうることもある。全ては、乗り手の度量と覚悟に委ねられていると。そして、口酸っぱく繰り返すのだ。

「慣れた頃が危ないぞ」

 私はもう、車を運転し始めて二十年以上経つ。けれど、祖父の気配を感じる度に、その言葉を振り返り、身が引き締まる思いをするのだった。

 エンジンをかける。ワイパーが左右に振れて、少しだけ世界が明るくなった。

 私の車はマンション裏手の路地に出ると、すぐに突き当たった片側二車線の道路に吸い込まれていく。ふと目に止まった乾物屋の前では、そこのご主人が勢いよくシャッターを閉めていた。その背格好、今夜はなぜか祖父と重なってしまう。

 祖父は、孫には優しい人だった。

 幼い頃は、夏休みになると必ずと言っていい程、泊りがけで遊びに行った私。日頃は頑なに入ろうとしない台所へ行き、「貴子、アイスクリーム食べるか?」と言いながら冷凍庫を開けてくれるのだ。

 大きくなってからは、珈琲を淹れてくれた。私はブラック。祖父はミルクとスティックのお砂糖二本分を混ぜて。

 なぜ料理をしないのかと尋ねると、米ぐらい洗える、でもそれをすると、祖母の仕事を奪うことになるし、祖母がますますボケてしまうから絶対にしないのだと茶目っ気たっぷりに話していたっけ。

 そんな孫だけに見せてくれる顔が好きだった。なのに、私は地元から離れた会社に就職。いつの間にか会う機会は減って、気づいた時にはお葬式の祭壇の中央で、やや気取ったように微笑む祖父の写真を見つめているのだった。

 いつか私が料理して、祖父の好きなカレイの煮付けや茶粥を食べさせてあげる予定だったのに。

 子供時代、私は早く大きくなりたいと思っていたけれど、その分祖父も早く年を取ることになるのは分かっていなかった。

 人って、一緒に居られる時間が意外と限られているものなのだ。それが大切な人になればなるほど、とても短くなる。

「希夕は、いつまで一緒にいてくれるのかな」

 交差点の渋滞で、車の流れが止まる。濡れたアスファルトに赤信号の光が映り込み、それを眺めていると鼓動が早くなってきた。

 希夕は、その呼び方の通り、奇跡の子だった。子どもは皆、奇跡に奇跡を重ね合わせたような確率をもって、この世に生を受ける。

 それは分かってはいるものの、当時はまだまだ珍しい不妊治療を乗り越えて、ようやく授かった事を思うと、あの子は私にとってこの世における最大の奇跡的存在になるのだ。

 そんな息子も大きくなって、今や高校二年生。来年にはいよいよ受験生だ。彼の志望大学はこの街からは遠く、無事合格すれば下宿生活になるだろう。

 となると、共に一つ屋根の下で暮らせるのは、後二年も残されていない。

 大学を卒業しても、このご時世だ。わざわざこの街に戻る事を念頭に置いて就活しないだろうし、そういうものに囚われずに好きな仕事を選んでほしい。

 働き始めて稼げるようになったら、次はどうなるだろう。そうだ、結婚もするかもしれない。あの子の事だ。きっと突然、私の知らない女の子を家へ連れて帰ってくるにちがいない。

 そして希夕は、今度こそ私の元を離れ、その女の子のものになってしまうのだろう。

 あぁ、夜の雨の日なんて一番運転に向いていないのに、なぜ私は今ハンドルを握っているのか。ワイパーが壊れたわけでもないのに、全てが波打って、歪んで見える。

 青信号になって、そっとアクセルを踏んだ。

 分かっている。最近、どんどん知らない男になっていく息子のことが怖くて、誇らしくて、嬉しくて、そして本当は置いていかれるのが寂しいのだ。

 でも、祖父が私に言葉を遺して逝ったにも関わらず、未だに私の中で生きているように、私はあの子の中で役に立てるような存在になればいい。

 いや、そんな大層な事ができるだろうか。はっきり言って、息子は夫に似て私よりも頭が良い。背も随分前に越されてしまって、叱る時などは座らせないと、こちらがその高さを威圧に感じて負けてしまう。つまり、本当の意味で、私にできることなんて何も無いのだ。

 だから、心配だけしておこう。心配するのは勝手なのだから。そして、残された僅かな時間を、できるだけ笑顔で過ごせるようにしてやりたい。

 車はようやく駅へ近づいて、タクシー乗り場近くのロータリーに入った。駅の構内へ続くコンコースから、こちらへ走り寄る影がある。

「ただいま」

 息子が、香ばしい鶏肉臭と共に、後部座席へ転がり込んできた。

「おかえり」

 バックミラーで確認すると、この僅かな間でも、かなり濡れてしまったようだ。私がバッグの中から片手でタオルを取り出して渡すと、当然のように無言で受け取って頭と制服と鞄を拭き始める息子。

 なぜか、溜息が出る。礼も言えないなんて、誰が育てたのだか。けれど、これが愛しき息子の今なのである。せいぜい、共に過ごす残り時間は、しっかりと躾に勤しむことにしようか。

「お母さん、なんか機嫌良い?」

 息子が、食べ残したらしいチキンを包みで丁寧に覆い、鞄の中に押し込んでいる。

「別に」

 と言いつつ、私は祖父の話を語って聞かせた。この子が生まれる前に他界してしまったので、こんな機会でもないと彼のルーツを伝えるチャンスは巡ってこないのだ。

 息子は、案外真剣に話を聞いてくれた。こんなに興味を持ってくれるならば、もっと早く話しておくのだった。

「ねぇ、また聞かせてよ」
「いいわよ。でもとりあえず家に着いたし、先に夕飯にしましょう。すぐにお父さんも帰ってくるから」

 我が家は六階だ。二人並んで、エレベーターの到着を待つ。息子は目を細めて、外灯に照らされた柔らかな雨を見つめていた。

「明日も、雨降るといいな」
「なんで?」

 私が尋ねると、彼はニヤリと笑う。

「迎えに来てくれたら、昔の話が聞けるし。それに、駅から歩いて帰らなくて済むと楽だしな」

 絶対に、後者が本音だ。

 それでもいい。
 私は、君が旅立つまで、自己満足かもしれないけれど何かを伝えて何かを残したいのだ。そして、愛を降らせ続けたい。今夜のやまない雨のように。

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