魔風恋風〜大正乙女人生譚

縁談

　家に帰って訪問着を片していると、襖の外から婆やの「文子様」と呼ぶ声がする。
　私が「なあに？」と返事すると、満面に笑みを浮かべた婆やが、いそいそと部屋に入って来た。

「どうしたの？」
「お嬢様、今日の音楽会はどうでした？」
「そうね、とても素晴らしい催しだった、としか言えないわ。お招きいただけてよかったわ」

「それだけでございますか？」
「それだけって？」
　婆やは何が言いたいのだろう。

「他に何か気になることはございませんでしたか？」
　婆やに尋ねられた瞬間、頬に血が上るのを感じた。皮膚が薄く、色白の私は赤くなってしまったのだろう。目ざとい婆やは、それを見咎みとがめたようだ。
「素敵な殿方がいらっしゃったはずですが」

「人気のオペラ歌手の方は、とても素敵だったわ」
　誤魔化したつもりだったが、そんなのは婆やには通用しない。
「そんなこと聞いていません。観客の中に素敵な方がいらしたはずですが」

　困った。
　返答に詰まった私を、更に追い詰めるように婆やが言う。
「合原利晴ごうばるとしはる様とおっしゃる方が、今日の催しに行かれていたのですが」

　ごうばるとしはる？
　後ろの席にいらした方のお名前だろうか？
　いや、まさか。

「実は、お嬢様にご縁談がありまして」
「えっ！」
　私は、手にしていた訪問着の端を、思わず握りしめる。

「取手のおじ様や取引先の方が、早速お嬢様に見合う方を探して来てくれたのです。それで、いきなりではございますが、お嬢様たちが今日音楽会に行かれることをお伝えしたのです」
　私は話の続きを促すように、上目遣いで婆やを見た。

「正式なお見合いはまた後日、ということなのですが、合原様が、どうしてもお見合いの前にお嬢様を見たいと仰って」
『見たい』という言い方が気になったが、縁談おはなしは、私の意思に関わらず進められるのであろう。