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エピローグ〜その二
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「今日は私に何の用事?」
「あっ、いえ。久しぶりだし、お元気かなって」
上条は手土産のクッキーを渡したが、この吐きそうな匂いの中では、とても食べる気は起きないだろう、食事はどうしているのだろう? と心配になる。
「上条さんは、ずっと今も働いてるのね。すごいなぁ。私は結局、社会に出ていたのはわずか四年。そのあとは四十年近く引きこもり」
裕子が悲しげに言った。
「それは仕方ないです。あんな目に遭って……。でも、こうしてお元気でいらっしゃって何よりです」
上条は心の底からそう思っていた。
通り魔に遭い、外に出られなくなった裕子の年月を思うと、胸が締め付けられる思いがする。
「ありがとう。でも、私がこうして引きこもりになったのは、他にも理由があるの。呪われている私は、外に出てはいけないの」
「は?」
裕子が立ち上がり、床に無造作に置かれた埃まみれの箱らしき物を持ち上げた。
「これはね、呪いの箱なの。これが悪さしないように、私が見張ってる」
彼女が何を言っているのかわからず、上条が戸惑っていると、
「よかったら見て」
と、裕子が箱を渡してきた。
見た目より重みのある大理石のような箱は、蓋は全体がひび割れ、本体も所々欠けている。適当にガムテープで補修されていて、ただのゴミにしか見えない。
上条は箱を受け取り、蓋を開けて中も見てみるが、天鵞絨布貼りの内部もぼろぼろであった。
上条が箱を裕子に返そうとした時、箱が彼女の手の中で、かすかに動いた気がした。びっくりした上条は箱をとり落とした。あわてて拾い、裕子に謝る。
「揺れた? 揺れたわね」
裕子は目を輝かせている。
「もう一度、中を覗いてみて」
彼女はうきうきしているように見えた。
上条は、仕方なく再び箱の中を見た。次の瞬間、ひどい悪臭もゴミ屋敷も消えて、彼女は消毒薬の匂いに包まれていた。医療機器やベッドが数台、目に飛び込んでくる。
慌ただしく医師や看護師が働いている。全員が黄色い防護服を身につけている様子を見ると、ここは集中治療室だろうか。しかし、おかしい。防護服だけでなく、堅牢なマスクをつけているのはどういうことか。
ピッピッピーと、あちこちで電子音が鳴っている。
「何が見えた?」
裕子の声が聞こえ、声のする方を振り向いた上条は、元の汚いキッチンにいた。
「今のは……」
「上条さん、見えたのね。見ちゃったのね」
裕子は、はしゃいでいる。
「もう不幸は他人事じゃない。でも安心して。あなただけじゃない。世界中みんなが呪われているの、多分。千津子さん、私もうすぐ七十歳なの。そろそろかなあ」
裕子が天を仰いで言う。
熱に浮かされたようで、明らかに様子がおかしい。
突然彼女は、ふっと真顔になり、上条に向かって言った。
「ここ十年ほど、私は両親の介護してたの。大変だったな。父は三年前に亡くなったけど、母は昨日、九十歳のお誕生日を迎えたわ」
「そうだったんですか。お母様は今どちらに?」
「奥の和室で寝たきりなの。よかったら、会ってくれる?」
上条は驚いた。てっきり施設に入っていると思っていたからだ。
廊下を挟んで斜め向かいの部屋の前に案内され、建て付けの悪い襖を裕子がガタガタ音を立てて、苦労しながら引いた。
その瞬間、ブワンと音がして、真っ黒な雲のようなものが飛び出してきた。上条は驚いて頭を抱えてしゃがみ込む。蠅の大群だ。
部屋の中は、目が開けられないほどひどい匂いが充満している。
ハンカチで鼻だけでなく、口も押さえた上条は、その部屋のベッドで真っ黒なミイラのような物が横たわっているのを見つけた。
「当麻さんっ! これは!」
裕子は、上条の悲鳴のような問いには答えず、ぶつぶつ何かつぶやいている。
「これで、お話も終わりね。ありがとうございました。お代は見てのお帰りって、昔は見せ物小屋で言ってたんですって。そうそう、さっき希望が大勢、飛んで行ったわね。大丈夫。きっと希望はある」
上条の通報で駆けつけた警察官に向かって、裕子はひとりごとを言い続ける。
「パンドラの箱の現在の持ち主は私なの。箱の底に『予知』が潜んでいて、持ち主が代わる度にカタカタ揺れるのよ。箱に呼ばれた女は、開けて覗かなければならないの」
上条は、夕暮れの西の空を見上げた。美しい赤い空に、何故か不吉なものが混じって見えた。
[了]
「あっ、いえ。久しぶりだし、お元気かなって」
上条は手土産のクッキーを渡したが、この吐きそうな匂いの中では、とても食べる気は起きないだろう、食事はどうしているのだろう? と心配になる。
「上条さんは、ずっと今も働いてるのね。すごいなぁ。私は結局、社会に出ていたのはわずか四年。そのあとは四十年近く引きこもり」
裕子が悲しげに言った。
「それは仕方ないです。あんな目に遭って……。でも、こうしてお元気でいらっしゃって何よりです」
上条は心の底からそう思っていた。
通り魔に遭い、外に出られなくなった裕子の年月を思うと、胸が締め付けられる思いがする。
「ありがとう。でも、私がこうして引きこもりになったのは、他にも理由があるの。呪われている私は、外に出てはいけないの」
「は?」
裕子が立ち上がり、床に無造作に置かれた埃まみれの箱らしき物を持ち上げた。
「これはね、呪いの箱なの。これが悪さしないように、私が見張ってる」
彼女が何を言っているのかわからず、上条が戸惑っていると、
「よかったら見て」
と、裕子が箱を渡してきた。
見た目より重みのある大理石のような箱は、蓋は全体がひび割れ、本体も所々欠けている。適当にガムテープで補修されていて、ただのゴミにしか見えない。
上条は箱を受け取り、蓋を開けて中も見てみるが、天鵞絨布貼りの内部もぼろぼろであった。
上条が箱を裕子に返そうとした時、箱が彼女の手の中で、かすかに動いた気がした。びっくりした上条は箱をとり落とした。あわてて拾い、裕子に謝る。
「揺れた? 揺れたわね」
裕子は目を輝かせている。
「もう一度、中を覗いてみて」
彼女はうきうきしているように見えた。
上条は、仕方なく再び箱の中を見た。次の瞬間、ひどい悪臭もゴミ屋敷も消えて、彼女は消毒薬の匂いに包まれていた。医療機器やベッドが数台、目に飛び込んでくる。
慌ただしく医師や看護師が働いている。全員が黄色い防護服を身につけている様子を見ると、ここは集中治療室だろうか。しかし、おかしい。防護服だけでなく、堅牢なマスクをつけているのはどういうことか。
ピッピッピーと、あちこちで電子音が鳴っている。
「何が見えた?」
裕子の声が聞こえ、声のする方を振り向いた上条は、元の汚いキッチンにいた。
「今のは……」
「上条さん、見えたのね。見ちゃったのね」
裕子は、はしゃいでいる。
「もう不幸は他人事じゃない。でも安心して。あなただけじゃない。世界中みんなが呪われているの、多分。千津子さん、私もうすぐ七十歳なの。そろそろかなあ」
裕子が天を仰いで言う。
熱に浮かされたようで、明らかに様子がおかしい。
突然彼女は、ふっと真顔になり、上条に向かって言った。
「ここ十年ほど、私は両親の介護してたの。大変だったな。父は三年前に亡くなったけど、母は昨日、九十歳のお誕生日を迎えたわ」
「そうだったんですか。お母様は今どちらに?」
「奥の和室で寝たきりなの。よかったら、会ってくれる?」
上条は驚いた。てっきり施設に入っていると思っていたからだ。
廊下を挟んで斜め向かいの部屋の前に案内され、建て付けの悪い襖を裕子がガタガタ音を立てて、苦労しながら引いた。
その瞬間、ブワンと音がして、真っ黒な雲のようなものが飛び出してきた。上条は驚いて頭を抱えてしゃがみ込む。蠅の大群だ。
部屋の中は、目が開けられないほどひどい匂いが充満している。
ハンカチで鼻だけでなく、口も押さえた上条は、その部屋のベッドで真っ黒なミイラのような物が横たわっているのを見つけた。
「当麻さんっ! これは!」
裕子は、上条の悲鳴のような問いには答えず、ぶつぶつ何かつぶやいている。
「これで、お話も終わりね。ありがとうございました。お代は見てのお帰りって、昔は見せ物小屋で言ってたんですって。そうそう、さっき希望が大勢、飛んで行ったわね。大丈夫。きっと希望はある」
上条の通報で駆けつけた警察官に向かって、裕子はひとりごとを言い続ける。
「パンドラの箱の現在の持ち主は私なの。箱の底に『予知』が潜んでいて、持ち主が代わる度にカタカタ揺れるのよ。箱に呼ばれた女は、開けて覗かなければならないの」
上条は、夕暮れの西の空を見上げた。美しい赤い空に、何故か不吉なものが混じって見えた。
[了]
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