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その十六
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「うわああっ」
悲鳴を上げて、雅也は弾かれたように走り出し、すぐ近くの階段を駆け上がった。
屋上に通じる重い鉄扉は、何故か鍵がかかっていない。
雅也は屋上の端まで歩いて行くと、箱を掲げ、渾身の力を込めて投げ落とした。
最初からこうしておけばよかった。
始末すれば良いだけなのだ。
ほっとした瞬間、背後からしっとりと柔らかなものが彼の体にまとわりついたのを感じる。同時に、あたりに生臭い血の匂いが立ち昇る。
「死んでも一緒にいたいの」
徳子の声が聞こえたような気がしたが、その時には、雅也の体は柵を乗り越えて下に落ちていた。
ドーンという激しい音に、病院にいた当直の医師、看護婦や事務員が三々五々集まってくる。中庭のコンクリートの床に、若い男性が倒れているのを発見した誰かが悲鳴を上げた。
男性は既に死んでいるようだが、ひとりの看護婦が「動いている?」と言った。
その声に全員が駆け寄る。
驚愕の表情を浮かべ、事切れている男性の傍らには、ひび割れた大理石様の箱が転がっていた。
「田所さん!」
診察室にいた女医が呼びかけた。
研修医である彼女は、突然の事態にどうすることもできず、指示を仰ぐようにそこにいる全員の顔を見回す。
「変です、この方。私に、マダムお許しください、とか言ってたし。何かに怯えていたし」
まだ若い彼女は顔を歪め、内心、こんな日に当直だった自分の不幸を呪う。
その頃、裕子のほうは徳子のマンションを訪れていた。
箱のことが気になり、やはり徳子の通夜に参列することにしたのだ。
裕子がマンションに到着した時、部屋の中はざわついており、額にタオルを当てて座っている男性や、深刻な顔で電話をしている男性、いくつかのグループに分かれ、ひそひそ話をしている人たちと、およそ通夜に似つかわしくない光景が繰り広げられていた。
裕子は、近くにいた女性の参列者に、「何かあったのですか?」と聞いてみた。
すると女性は、「よくわかりませんが喧嘩があったようです」と小声で教えてくれる。
雅也がそんなことになっているとは知らない裕子は、部屋に入って彼を探す。参列者ひとりひとりを確認するように部屋中をうろうろするが、やはり彼はいない。
(どうしたのかしら? トイレ?)
バスルームものぞいてみるが、誰もいない。
その時、バスルームの天井灯がチカチカして消えた。不気味な気配に呼ばれるように、裕子は洗面台の鏡を見る。鏡に映る自分の背後に、雅也が立っていた。
彼は寂しそうに微笑んで、裕子に手を振った。驚いて後ろを振り向いたが、彼の姿はなかった。
ジーという音がして、再び天井灯は点いた。明るい鏡に映るのは自分だけ。
あわてて玄関まで戻った裕子は、タオルを当てた男性が、急いだ様子でやって来たのと鉢合わせする。タオルは血が滲んでいた。
裕子は、思い切って彼に声をかけた。
「あの、失礼ですが、何があったのですか?」
男性は忌々しそうに、「会社の部下が大暴れして、勝手にマダムの宝石箱を持ち出して飛び出て行ってしまったんです」と返事して、出て行こうとする。
「宝石箱を? 待って! 待って下さい」
呼び止める裕子に男性が、
「しかもあいつ、この先の救急病院の屋上から飛び降り自殺してしまったようなんです。全く、なんて奴だ!」
そう吐き捨てるように言った。
「嘘でしょ……」
裕子は彼を引き止め、必死で頼む。
「病院へ行かれるのですか? ご一緒させて下さい!」
すると男性が、「君は、あいつの、田所の知り合いなの?」と聞いてきた。
裕子がうなずいて、「田所雅也さんとお付き合いしています」と答えると、男性は「そうか」と、うなだれた。
悲鳴を上げて、雅也は弾かれたように走り出し、すぐ近くの階段を駆け上がった。
屋上に通じる重い鉄扉は、何故か鍵がかかっていない。
雅也は屋上の端まで歩いて行くと、箱を掲げ、渾身の力を込めて投げ落とした。
最初からこうしておけばよかった。
始末すれば良いだけなのだ。
ほっとした瞬間、背後からしっとりと柔らかなものが彼の体にまとわりついたのを感じる。同時に、あたりに生臭い血の匂いが立ち昇る。
「死んでも一緒にいたいの」
徳子の声が聞こえたような気がしたが、その時には、雅也の体は柵を乗り越えて下に落ちていた。
ドーンという激しい音に、病院にいた当直の医師、看護婦や事務員が三々五々集まってくる。中庭のコンクリートの床に、若い男性が倒れているのを発見した誰かが悲鳴を上げた。
男性は既に死んでいるようだが、ひとりの看護婦が「動いている?」と言った。
その声に全員が駆け寄る。
驚愕の表情を浮かべ、事切れている男性の傍らには、ひび割れた大理石様の箱が転がっていた。
「田所さん!」
診察室にいた女医が呼びかけた。
研修医である彼女は、突然の事態にどうすることもできず、指示を仰ぐようにそこにいる全員の顔を見回す。
「変です、この方。私に、マダムお許しください、とか言ってたし。何かに怯えていたし」
まだ若い彼女は顔を歪め、内心、こんな日に当直だった自分の不幸を呪う。
その頃、裕子のほうは徳子のマンションを訪れていた。
箱のことが気になり、やはり徳子の通夜に参列することにしたのだ。
裕子がマンションに到着した時、部屋の中はざわついており、額にタオルを当てて座っている男性や、深刻な顔で電話をしている男性、いくつかのグループに分かれ、ひそひそ話をしている人たちと、およそ通夜に似つかわしくない光景が繰り広げられていた。
裕子は、近くにいた女性の参列者に、「何かあったのですか?」と聞いてみた。
すると女性は、「よくわかりませんが喧嘩があったようです」と小声で教えてくれる。
雅也がそんなことになっているとは知らない裕子は、部屋に入って彼を探す。参列者ひとりひとりを確認するように部屋中をうろうろするが、やはり彼はいない。
(どうしたのかしら? トイレ?)
バスルームものぞいてみるが、誰もいない。
その時、バスルームの天井灯がチカチカして消えた。不気味な気配に呼ばれるように、裕子は洗面台の鏡を見る。鏡に映る自分の背後に、雅也が立っていた。
彼は寂しそうに微笑んで、裕子に手を振った。驚いて後ろを振り向いたが、彼の姿はなかった。
ジーという音がして、再び天井灯は点いた。明るい鏡に映るのは自分だけ。
あわてて玄関まで戻った裕子は、タオルを当てた男性が、急いだ様子でやって来たのと鉢合わせする。タオルは血が滲んでいた。
裕子は、思い切って彼に声をかけた。
「あの、失礼ですが、何があったのですか?」
男性は忌々しそうに、「会社の部下が大暴れして、勝手にマダムの宝石箱を持ち出して飛び出て行ってしまったんです」と返事して、出て行こうとする。
「宝石箱を? 待って! 待って下さい」
呼び止める裕子に男性が、
「しかもあいつ、この先の救急病院の屋上から飛び降り自殺してしまったようなんです。全く、なんて奴だ!」
そう吐き捨てるように言った。
「嘘でしょ……」
裕子は彼を引き止め、必死で頼む。
「病院へ行かれるのですか? ご一緒させて下さい!」
すると男性が、「君は、あいつの、田所の知り合いなの?」と聞いてきた。
裕子がうなずいて、「田所雅也さんとお付き合いしています」と答えると、男性は「そうか」と、うなだれた。
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