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その八
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翌日の午後、約束した時刻きっかりに、千津子は男性に伴われて現れた。連れの男性は千津子より少し若いようだが、二人はどことなく似ている。
白髪をまっすぐ切り揃えたおかっぱ頭、地味な銀鼠の着物姿の千津子は、童女のような不思議な雰囲気を持つ女性だった。
千津子の連れの男性は、彼女の甥にあたる玉川稔で、長年地元の農協に勤めていた、と自己紹介する。
裕子が応接室に二人を案内すると、すぐに上条がお茶を運んできてくれた。
甥の稔が、ずっと無言の千津子に代わって、彼女のこれまでを話し始める。
「叔母たち一行は、地震の日は命からがら上野まで逃れることができたのです。が、上野の避難場所で叔母の連れと避難民との間で揉め事が起きて、叔母と連れ二人とは、別れ別れになってしまいました。以後、その二人とは一度も会うことはなかったようです」
千津子は無表情で、口を挟まない。
「叔母は、なんとか実家に帰って来ることができたのですが、次第に様子がおかしくなって、遠い軽井沢の精神病院に入院することになりました。地震の翌年です。費用など一切の世話は、児島正三郎氏が運営している社会福祉財団がしてくれました。叔母は最近まで、そこに入院していたんです」
「地震の翌年から最近まで?」
驚いて大きな声を上げてしまった裕子を見て、初めて千津子が口を開いた。
「五十年ほど、癲狂院で暮らしておりましたのですよ」
衝撃を隠せない裕子に、控えめな笑みを浮かべた千津子が言う。
「私ね、片耳しかない上に、最近は残った耳も遠くなってしまい、会話についていけないこともあります」
「え?」と訝る裕子に、千津子が白髪をかき上げて見せた。
右耳がない。
わずかに盛り上がった肉が、耳の痕跡をとどめている。
「どうなさったんですか?」
「震災の時、一緒に逃げた松子さんと捨吉さんという人は嬲り殺しのような目に遭ってしまいました。私は助けてくれた警察の人に連れられ実家に帰ったものの、耳に入ってくるのは嫌な言葉ばかり。だから自分で耳を切り落としてしまったんです」
一息ついた千津子は「いただきます」と、お茶を飲んだ。
「子どもの頃、私が一番恐れていたのは癲狂院に入れられることと、早死にすることでした。昔の私は、他人の心の声を聞くことができたし、両親と兄弟はみんな早死にでしたからね。それが、半世紀も癲狂院で過ごすことになるとは皮肉なものですね。でも、おかげで私は七十まで生きることが出来ました。一族で一番長生きです」
千津子の佇まいが醸し出す静謐さに、裕子はここが編集部室でなく、どこか静かな異空間のように思えてくる。
「あなたもあの箱を覗いてしまったのですか?」
千津子の問いに、裕子が自分の見たものを伝えると、千津子が「それはいけませんね」と震え声で言った。
「私は、自分の不幸な未来は見えなかった。お世話になった梅ねえさんと旦那さんの最期を見てしまったわけですけど、あなたはご自分が殺されたかもしれない幻を見たのですね?」
千津子の目は、あれかこれか考えている様子で、落ち着きなく泳いでいる。
しばらく経って、彼女は恐ろしい言葉を放った。
「梅ねえさんは言ってました。自分の身代わりになって姉は死んだ、と。あなたが助かるには、誰か違う人が身代わりで死ぬしかないのかもしれない」
千津子の隣でお茶を飲んでいた稔が、「千津子ねえさん、なんて恐ろしいことを言うんだ」と驚いていたが、千津子のまなざしは、彼女の言葉に説得力を持たせるのに十分な強さを持っていた。
訪問を終えて帰る千津子と稔を、外まで見送りに行った裕子は、「またお電話してもよろしいでしょうか?」と尋ねた。
千津子は「いつでも」と即答し、「もっと梅ねえさんからいろいろ聞いておけばよかった、って私は後悔してるんです」と続けた。
千津子の話は、裕子を打ちのめすと同時に、大いなる示唆を与えてくれた。
自分が為すべきことは何か?
危険が迫っているようだが、現実味はなかった。しかし、何かが起こるまで、のんびりと傍観しているわけにはいかない。
白髪をまっすぐ切り揃えたおかっぱ頭、地味な銀鼠の着物姿の千津子は、童女のような不思議な雰囲気を持つ女性だった。
千津子の連れの男性は、彼女の甥にあたる玉川稔で、長年地元の農協に勤めていた、と自己紹介する。
裕子が応接室に二人を案内すると、すぐに上条がお茶を運んできてくれた。
甥の稔が、ずっと無言の千津子に代わって、彼女のこれまでを話し始める。
「叔母たち一行は、地震の日は命からがら上野まで逃れることができたのです。が、上野の避難場所で叔母の連れと避難民との間で揉め事が起きて、叔母と連れ二人とは、別れ別れになってしまいました。以後、その二人とは一度も会うことはなかったようです」
千津子は無表情で、口を挟まない。
「叔母は、なんとか実家に帰って来ることができたのですが、次第に様子がおかしくなって、遠い軽井沢の精神病院に入院することになりました。地震の翌年です。費用など一切の世話は、児島正三郎氏が運営している社会福祉財団がしてくれました。叔母は最近まで、そこに入院していたんです」
「地震の翌年から最近まで?」
驚いて大きな声を上げてしまった裕子を見て、初めて千津子が口を開いた。
「五十年ほど、癲狂院で暮らしておりましたのですよ」
衝撃を隠せない裕子に、控えめな笑みを浮かべた千津子が言う。
「私ね、片耳しかない上に、最近は残った耳も遠くなってしまい、会話についていけないこともあります」
「え?」と訝る裕子に、千津子が白髪をかき上げて見せた。
右耳がない。
わずかに盛り上がった肉が、耳の痕跡をとどめている。
「どうなさったんですか?」
「震災の時、一緒に逃げた松子さんと捨吉さんという人は嬲り殺しのような目に遭ってしまいました。私は助けてくれた警察の人に連れられ実家に帰ったものの、耳に入ってくるのは嫌な言葉ばかり。だから自分で耳を切り落としてしまったんです」
一息ついた千津子は「いただきます」と、お茶を飲んだ。
「子どもの頃、私が一番恐れていたのは癲狂院に入れられることと、早死にすることでした。昔の私は、他人の心の声を聞くことができたし、両親と兄弟はみんな早死にでしたからね。それが、半世紀も癲狂院で過ごすことになるとは皮肉なものですね。でも、おかげで私は七十まで生きることが出来ました。一族で一番長生きです」
千津子の佇まいが醸し出す静謐さに、裕子はここが編集部室でなく、どこか静かな異空間のように思えてくる。
「あなたもあの箱を覗いてしまったのですか?」
千津子の問いに、裕子が自分の見たものを伝えると、千津子が「それはいけませんね」と震え声で言った。
「私は、自分の不幸な未来は見えなかった。お世話になった梅ねえさんと旦那さんの最期を見てしまったわけですけど、あなたはご自分が殺されたかもしれない幻を見たのですね?」
千津子の目は、あれかこれか考えている様子で、落ち着きなく泳いでいる。
しばらく経って、彼女は恐ろしい言葉を放った。
「梅ねえさんは言ってました。自分の身代わりになって姉は死んだ、と。あなたが助かるには、誰か違う人が身代わりで死ぬしかないのかもしれない」
千津子の隣でお茶を飲んでいた稔が、「千津子ねえさん、なんて恐ろしいことを言うんだ」と驚いていたが、千津子のまなざしは、彼女の言葉に説得力を持たせるのに十分な強さを持っていた。
訪問を終えて帰る千津子と稔を、外まで見送りに行った裕子は、「またお電話してもよろしいでしょうか?」と尋ねた。
千津子は「いつでも」と即答し、「もっと梅ねえさんからいろいろ聞いておけばよかった、って私は後悔してるんです」と続けた。
千津子の話は、裕子を打ちのめすと同時に、大いなる示唆を与えてくれた。
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