37 / 52
その五
しおりを挟む
驚いた裕子が声を上げる前に、雅也の声がした。
「マダム、本当ですか?」
呆気に取られたような雅也に対する徳子の返事は、まるで歌っているかのように、のんびりしたものだった。
「うん、本当に本当。ごめんなさいね、勝手に決めちゃって。でも、あなたに迷惑はかけないわ。ひとりで産んで育てますから。認知して欲しいけど、無理なら全然構わない」
裕子は予想外の出来事に、どう対応すればいいのかわからない。『一番大切な人』って、こんな時、どうするんだろう?
怒る?
それとも泣く?
息を詰めている裕子の耳に、カタカタカタ、とかすかな音が聞こえてきた。何かが動いているのを、裕子の目の端が捉える。
リビングの隅に置かれたアンティーク調の白い飾り棚。その棚の最上段に収められた物が小刻みに動いている。
(あれはたしか、今日問い合わせがあった宝石箱じゃないかしら! なぜ、あれが動いているの? あっ、もしかして地震?)
裕子は「地震!」と叫んで、椅子を引いて立ち上がる。
え? という顔をして、雅也と徳子も立ち上がった。
「地震? 揺れてないけど」
「でも、あれが、あの飾り棚の中の物が動いてました」
あわてる裕子の声に、徳子が飾り棚を見る。彼女はしずしずと近づいて、飾り棚のガラス扉を開いた。
「本当に? 小さな地震でもあったのかしら」
彼女が裕子の方を振り返り、そう言った瞬間、宝石箱がまた動いた。
「あっ、 ほら!」
裕子も飾り棚まで近づき、宝石箱を指さす。
「なんの変哲もない、ただの宝石箱ということはあなたもご存知でしょ?」
徳子は怪訝そうな顔をして宝石箱を取り出すと、ポンと裕子に渡してきた。
裕子は恐る恐る受け取った。箱の蓋を開けてみる。
以前、取材に訪れた時は、手に取ることはなかったが……。
「私と彼はもうすぐ結婚するんです。児島さん、お願いです。子どもは諦めてください」
「いやよ、私にとって最後のチャンスかもしれないのよ。誰の子どもであっても産みたいの」
「誰の子どもであっても? そんな……。ひどい!」
裕子は叫んで、徳子に掴みかかる。
「やめろ、マダムは妊娠してるんだ」
雅也が裕子を後ろから羽交い締めにした。さっき八重洲で支えてくれた時とは打って変わった乱暴な態度に、裕子はカッとなる。
「離して! 雅也さん、あなた馬鹿にされてるのよ? この人は子どもが産みたいだけ、誰の子どもでもいいんだから。それに子どもが欲しいんじゃなくて、もう年寄りだから、最後のチャンスで産みたいだけなのよ」
裕子の言葉に、徳子の眉がぴくりと上がった。
「年寄り?」
「ええ、そうよ。いい年して何やってんのよ!」
「裕子、どうしたんだ、落ち着いて」
雅也が宥めるように言ってくるが、裕子は怒りが収まらない。
綺麗なフローリングに敷かれた、高価そうな毛足の長いラグ。それすらも苛立たしさを助長する。
「そもそも雅也さんの子どもっていう証拠は? このサロンは不特定多数の男性が出入りしてますよね。ここを開く際に、ご主人からの慰謝料だけじゃなくて、いろんな人から融資もしてもらったって聞いてます。どうやったら、そんなお金を引き出すことが出来たのかな? 体を使ったとかじゃないですか?」
言いすぎた。どうしよう。
あら? 徳子の姿が見えない、と裕子は少し冷静になったが遅かった。
徳子が猟銃を提げて、リビングの隣の部屋から出てきた。
「マダム、何を!」という、雅也の切迫した声を合図のように、彼女が猟銃をぴたりと裕子の方に向けて構えた。
ズドン! という音がして、裕子はその場に仰向けに倒れる。今までに経験したことのない激しい痛みで朦朧となる。
息ができない、苦しい、裕子はハアハアと喘いだ。白い壁紙に血が飛び散り、壁を伝い落ちているのが目に入ったが、それが自分の体から出たものだと理解するのに時間がかかる。
「マダム!」
雅也と徳子がもみ合い、再び銃声がして、雅也がのけぞるように後ろに吹っ飛んだ。純白のラグを血に染めて、倒れた雅也の口と顎は原型をとどめず、しばらく痙攣してから彼は動かなくなった。
「マダム、本当ですか?」
呆気に取られたような雅也に対する徳子の返事は、まるで歌っているかのように、のんびりしたものだった。
「うん、本当に本当。ごめんなさいね、勝手に決めちゃって。でも、あなたに迷惑はかけないわ。ひとりで産んで育てますから。認知して欲しいけど、無理なら全然構わない」
裕子は予想外の出来事に、どう対応すればいいのかわからない。『一番大切な人』って、こんな時、どうするんだろう?
怒る?
それとも泣く?
息を詰めている裕子の耳に、カタカタカタ、とかすかな音が聞こえてきた。何かが動いているのを、裕子の目の端が捉える。
リビングの隅に置かれたアンティーク調の白い飾り棚。その棚の最上段に収められた物が小刻みに動いている。
(あれはたしか、今日問い合わせがあった宝石箱じゃないかしら! なぜ、あれが動いているの? あっ、もしかして地震?)
裕子は「地震!」と叫んで、椅子を引いて立ち上がる。
え? という顔をして、雅也と徳子も立ち上がった。
「地震? 揺れてないけど」
「でも、あれが、あの飾り棚の中の物が動いてました」
あわてる裕子の声に、徳子が飾り棚を見る。彼女はしずしずと近づいて、飾り棚のガラス扉を開いた。
「本当に? 小さな地震でもあったのかしら」
彼女が裕子の方を振り返り、そう言った瞬間、宝石箱がまた動いた。
「あっ、 ほら!」
裕子も飾り棚まで近づき、宝石箱を指さす。
「なんの変哲もない、ただの宝石箱ということはあなたもご存知でしょ?」
徳子は怪訝そうな顔をして宝石箱を取り出すと、ポンと裕子に渡してきた。
裕子は恐る恐る受け取った。箱の蓋を開けてみる。
以前、取材に訪れた時は、手に取ることはなかったが……。
「私と彼はもうすぐ結婚するんです。児島さん、お願いです。子どもは諦めてください」
「いやよ、私にとって最後のチャンスかもしれないのよ。誰の子どもであっても産みたいの」
「誰の子どもであっても? そんな……。ひどい!」
裕子は叫んで、徳子に掴みかかる。
「やめろ、マダムは妊娠してるんだ」
雅也が裕子を後ろから羽交い締めにした。さっき八重洲で支えてくれた時とは打って変わった乱暴な態度に、裕子はカッとなる。
「離して! 雅也さん、あなた馬鹿にされてるのよ? この人は子どもが産みたいだけ、誰の子どもでもいいんだから。それに子どもが欲しいんじゃなくて、もう年寄りだから、最後のチャンスで産みたいだけなのよ」
裕子の言葉に、徳子の眉がぴくりと上がった。
「年寄り?」
「ええ、そうよ。いい年して何やってんのよ!」
「裕子、どうしたんだ、落ち着いて」
雅也が宥めるように言ってくるが、裕子は怒りが収まらない。
綺麗なフローリングに敷かれた、高価そうな毛足の長いラグ。それすらも苛立たしさを助長する。
「そもそも雅也さんの子どもっていう証拠は? このサロンは不特定多数の男性が出入りしてますよね。ここを開く際に、ご主人からの慰謝料だけじゃなくて、いろんな人から融資もしてもらったって聞いてます。どうやったら、そんなお金を引き出すことが出来たのかな? 体を使ったとかじゃないですか?」
言いすぎた。どうしよう。
あら? 徳子の姿が見えない、と裕子は少し冷静になったが遅かった。
徳子が猟銃を提げて、リビングの隣の部屋から出てきた。
「マダム、何を!」という、雅也の切迫した声を合図のように、彼女が猟銃をぴたりと裕子の方に向けて構えた。
ズドン! という音がして、裕子はその場に仰向けに倒れる。今までに経験したことのない激しい痛みで朦朧となる。
息ができない、苦しい、裕子はハアハアと喘いだ。白い壁紙に血が飛び散り、壁を伝い落ちているのが目に入ったが、それが自分の体から出たものだと理解するのに時間がかかる。
「マダム!」
雅也と徳子がもみ合い、再び銃声がして、雅也がのけぞるように後ろに吹っ飛んだ。純白のラグを血に染めて、倒れた雅也の口と顎は原型をとどめず、しばらく痙攣してから彼は動かなくなった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【本当にあった怖い話】
ねこぽて
ホラー
※実話怪談や本当にあった怖い話など、
取材や実体験を元に構成されております。
【ご朗読について】
申請などは特に必要ありませんが、
引用元への記載をお願い致します。
呪縛 ~呪われた過去、消せない想い~
ひろ
ホラー
二年前、何者かに妹を殺された―――そんな凄惨な出来事以外、主人公の時坂優は幼馴染の小日向みらいとごく普通の高校生活を送っていた。しかしそんなある日、唐突に起こったクラスメイトの不審死と一家全焼の大規模火災。興味本位で火事の現場に立ち寄った彼は、そこでどこか神秘的な存在感を放つ少女、神崎さよと名乗る人物に出逢う。彼女は自身の身に宿る〝霊力〟を操り不思議な力を使うことができた。そんな現実離れした彼女によると、件の火事は呪いの力による放火だということ。何かに導かれるようにして、彼は彼女と共に事件を調べ始めることになる。
そして事件から一週間―――またもや発生した生徒の不審死と謎の大火災。疑いの目は彼の幼馴染へと向けられることになった。
呪いとは何か。犯人の目的とは何なのか。事件の真相を追い求めるにつれて明らかになっていく驚愕の真実とは―――
薄幸華族令嬢は、銀色の猫と穢れを祓う
石河 翠
恋愛
文乃は大和の国の華族令嬢だが、家族に虐げられている。
ある日文乃は、「曰くつき」と呼ばれる品から溢れ出た瘴気に襲われそうになる。絶体絶命の危機に文乃の前に現れたのは、美しい銀色の猫だった。
彼は古びた筆を差し出すと、瘴気を墨代わりにして、「曰くつき」の穢れを祓うために、彼らの足跡を辿る書を書くように告げる。なんと「曰くつき」というのは、さまざまな理由で付喪神になりそこねたものたちだというのだ。
猫と清められた古道具と一緒に穏やかに暮らしていたある日、母屋が火事になってしまう。そこへ文乃の姉が、火を消すように訴えてきて……。
穏やかで平凡な暮らしに憧れるヒロインと、付喪神なヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:22924341)をお借りしております。
怪異から論理の糸を縒る
板久咲絢芽
ホラー
怪異は科学ではない。
何故なら彼此の前提条件が判然としないが故に、同じものを再現できないから。
それ故に、それはオカルト、秘されしもの、すなわち神秘である。
――とはいえ。
少なからず傾向というものはあるはずだ。
各地に散らばる神話や民話のように、根底に潜む文脈、すなわち暗黙の了解を紐解けば。
まあ、それでも、どこまで地層を掘るか、どう継いで縒るかはあるけどね。
普通のホラーからはきっとズレてるホラー。
屁理屈だって理屈だ。
出たとこ勝負でしか書いてない。
side Aは問題解決編、Bは読解編、みたいな。
ちょこっとミステリ風味を利かせたり、ぞくぞくしてもらえたらいいな、を利かせたり。
基本章単位で一区切りだから安心して(?)読んでほしい
※タイトル胴体着陸しました
カクヨムさんに先行投稿中(編集気質布教希望友人に「いろんなとこで投稿しろ、もったいないんじゃ」とつつかれたので)
本当にあった怖い話
邪神 白猫
ホラー
リスナーさんや読者の方から聞いた体験談【本当にあった怖い話】を基にして書いたオムニバスになります。
完結としますが、体験談が追加され次第更新します。
LINEオプチャにて、体験談募集中✨
あなたの体験談、投稿してみませんか?
投稿された体験談は、YouTubeにて朗読させて頂く場合があります。
【邪神白猫】で検索してみてね🐱
↓YouTubeにて、朗読中(コピペで飛んでください)
https://youtube.com/@yuachanRio
※登場する施設名や人物名などは全て架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる