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その五
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興行師は女連れだった。
彼の後ろにいる、すらりとした美しい女は、島田髪に黒い訪問着姿であった。
芸者さんだ、と思った千津子は、胸がどきどきした。本物の芸者を見るのは初めてである。
彼女も、口許と首を黒い布で覆っていたが、その布をはらりと外した瞬間、「きれい!」と、千津子はつぶやいてしまった。
千津子の声に、「まあ」と言って女は笑った。興行師の男も笑っている。
「狭くて汚くてすみません。てまえどもの暮らしなんてこんなもんでさ。この長屋はほぼ、浅草あたりの芸人の住処なんですがね。おっと、申し遅れました、永井と申します。今後とも、末長くよろしくお願い申します」
彼は深々とお辞儀して、早速ですが、と何やら懐から紙を出して、小父さんに渡した。小父さんはその紙を隅から隅まで眺め、紙に書かれた文章をじっくりと読んでいる。
それから彼は「結構です。よろしくお願いします」と、お辞儀した。
「契約成立ってことで」
永井のその言葉を合図とし、玄関脇の台所でごそごそしていた芸者姿の女が、二人に湯呑みを出してくれた。中には煎茶が入っている。
「今日から私がお前さんの親代わりですよ。家にいる時と同じようにして下さいねえ」
女は見た目だけでなく、声も美しかった。
「梅、菓子も出してくんな」
永井は女に言いつけた。あいよ、と返事して、梅と呼ばれた芸者は再び台所に降りると、水屋の扉を開いて菓子器を取り出した。
梅は干菓子の入ったそれを千津子の前に置くと、小父さんに軽く微笑みかけて、「それじゃ失礼します。あたしは今からお座敷があるもんで」
そう言い残し、出かけて行った。
千津子は、先ほどからずっと気になっていたことがあった。
永井の後ろに梅が控えていた際、さらにその後ろに、ひっそりと女が立っていた。それなのに、家に入って来たのは梅一人である。
いつのまにか、もう一人の女は消えていた。
「奥様ですか? 本当にお綺麗で」
小父さんの問いに永井がうなずいたので、千津子は彼に尋ねてみた。
梅の後ろにいたもう一人の女は誰なのか?
梅そっくりで、梅より若い女。季節外れの浴衣姿で、彼女にべったりくっついているように立っていた女は誰だろう。そして、何故、彼女は家に入って来なかったのか。
千津子の問いに、永井の顔色がサッと変わった。恐ろしいまでに。
「嬢ちゃん、いま何て?」
「もう一人の女の人は何処に行かれたんですか?」
「留守番してくれてた奴は、自分の家に帰ったよ」
「あっ、その人じゃなくて、奥様のすぐ後ろに奥様そっくりの女の人がいましたよね?」
永井は黙り込んでしまった。
小父さんが不思議そうに言う。
「千津子、誰のことを言ってるんだい? 永井さんと奥様しかいなかったじゃないか」
「えっ?」
狐につままれたとはこういうことか、と千津子は思った。
「そうか、あんたには見えたのかい。そうかい……。まあ、いい、気にしないでくれ。それより、今日からあんたは梅と一緒にここで暮らしてもらうけど、いいね? 梅のことを、本当の親や姉みたいに思って甘えてくれ」
永井の返事は奇妙なものであり、納得いかないままではあるが、うなずいた千津子だった。
そんなことより、新しい生活が始まる緊張感の方が大きく、自分の見たことなど、どうでもよくなったのも事実である。
自分の目には見える物も、他人には見えないこともあるだろう。現に小父さんには、女の人の姿は見えていないようだし。
それに、それに私は。
他人の心の声が聞こえるような人間なのだし。
彼の後ろにいる、すらりとした美しい女は、島田髪に黒い訪問着姿であった。
芸者さんだ、と思った千津子は、胸がどきどきした。本物の芸者を見るのは初めてである。
彼女も、口許と首を黒い布で覆っていたが、その布をはらりと外した瞬間、「きれい!」と、千津子はつぶやいてしまった。
千津子の声に、「まあ」と言って女は笑った。興行師の男も笑っている。
「狭くて汚くてすみません。てまえどもの暮らしなんてこんなもんでさ。この長屋はほぼ、浅草あたりの芸人の住処なんですがね。おっと、申し遅れました、永井と申します。今後とも、末長くよろしくお願い申します」
彼は深々とお辞儀して、早速ですが、と何やら懐から紙を出して、小父さんに渡した。小父さんはその紙を隅から隅まで眺め、紙に書かれた文章をじっくりと読んでいる。
それから彼は「結構です。よろしくお願いします」と、お辞儀した。
「契約成立ってことで」
永井のその言葉を合図とし、玄関脇の台所でごそごそしていた芸者姿の女が、二人に湯呑みを出してくれた。中には煎茶が入っている。
「今日から私がお前さんの親代わりですよ。家にいる時と同じようにして下さいねえ」
女は見た目だけでなく、声も美しかった。
「梅、菓子も出してくんな」
永井は女に言いつけた。あいよ、と返事して、梅と呼ばれた芸者は再び台所に降りると、水屋の扉を開いて菓子器を取り出した。
梅は干菓子の入ったそれを千津子の前に置くと、小父さんに軽く微笑みかけて、「それじゃ失礼します。あたしは今からお座敷があるもんで」
そう言い残し、出かけて行った。
千津子は、先ほどからずっと気になっていたことがあった。
永井の後ろに梅が控えていた際、さらにその後ろに、ひっそりと女が立っていた。それなのに、家に入って来たのは梅一人である。
いつのまにか、もう一人の女は消えていた。
「奥様ですか? 本当にお綺麗で」
小父さんの問いに永井がうなずいたので、千津子は彼に尋ねてみた。
梅の後ろにいたもう一人の女は誰なのか?
梅そっくりで、梅より若い女。季節外れの浴衣姿で、彼女にべったりくっついているように立っていた女は誰だろう。そして、何故、彼女は家に入って来なかったのか。
千津子の問いに、永井の顔色がサッと変わった。恐ろしいまでに。
「嬢ちゃん、いま何て?」
「もう一人の女の人は何処に行かれたんですか?」
「留守番してくれてた奴は、自分の家に帰ったよ」
「あっ、その人じゃなくて、奥様のすぐ後ろに奥様そっくりの女の人がいましたよね?」
永井は黙り込んでしまった。
小父さんが不思議そうに言う。
「千津子、誰のことを言ってるんだい? 永井さんと奥様しかいなかったじゃないか」
「えっ?」
狐につままれたとはこういうことか、と千津子は思った。
「そうか、あんたには見えたのかい。そうかい……。まあ、いい、気にしないでくれ。それより、今日からあんたは梅と一緒にここで暮らしてもらうけど、いいね? 梅のことを、本当の親や姉みたいに思って甘えてくれ」
永井の返事は奇妙なものであり、納得いかないままではあるが、うなずいた千津子だった。
そんなことより、新しい生活が始まる緊張感の方が大きく、自分の見たことなど、どうでもよくなったのも事実である。
自分の目には見える物も、他人には見えないこともあるだろう。現に小父さんには、女の人の姿は見えていないようだし。
それに、それに私は。
他人の心の声が聞こえるような人間なのだし。
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