19 / 52
その四
しおりを挟む
一家の主人であり、働き手であり、跡継ぎでもある兄の死は、一家の存亡の危機である。
義姉ひとりでは農家の仕事は無理だ。甥もまだ小さい。
少しなら貯えはあるものの、来年の作付けの種も買わなくてはならないし、時期によっては作男も雇わなくてはならないだろう。しばらくの現金収入も必要である。
当面、親戚に当たる玉川本家から農業の手伝いは来てくれることとなった。
しかし、千津子が女学校に行くことは諦めなくてはならなくなった。
さらには、親戚筋が集まり相談した結果、千津子には奉公に行ってもらおう、という話になった。千津子に否やはなく、口入屋に頼んで彼女の奉公先を探すことで話はまとまった。
その時になって、千津子は、あの見せ物興行師を思い出した。
恐る恐る本家の主人に、見せ物興行師の話を伝えたところ、主人は呆れ返ってものも言えない、といった風であったが、千津子は必死だった。
家の中で交わされる親戚たちの会話が、彼らの心の中の言葉と入り混じり、千津子の頭の中でわんわんと鳴り響くので、彼女はおかしくなりそうだった。
以前はここまで他人の心の声は聞こえてこなかった。何故、急激に変化が訪れたのか?
わからない。
しかし、一刻も早くこの村から、この状況から離れて暮らさないと、自分は本当に脳病になってしまう。
そんな中、千津子の訴えに耳を傾けてくれた親戚が一人いた。その親戚の小父さんは若い頃に警視庁で働いていたこともあって、さまざまな世界に通じており、伝手を頼って話をつけてくれた。
彼によると、 “悪所” や “芸能” で働く人は普通の人ということだった。
その小父さんと共に、千津子は北多摩村から浅草まで、はるばるやって来た。
初めて見る大都会東京、千津子は何もかも珍しく、口をあんぐりさせ、きょろきょろするばかり。
とにかく人が多い。建物も多い。
「お前、この辺に来るのは初めてかい?」
小父さんの問いに、千津子はしばらく考えるが、記憶にある限りで都会に来た覚えはない。
「田舎暮らしから都会に来ると、慣れないことばかりで大変だろうが、儂がよくよく頼んでおいたから、心配することは何もないよ」
うなずく千津子の目の前を、土埃を立てて市電が通り過ぎる。一両だけの車内は超満員であった。その脇を、大八車を引いている少年が歩いているが、彼は千津子とさほど歳が変わらないように見えた。
(子どももみんな、働いてるんだ)
千津子は、自分を可哀想とは思わなかった。女学校には行きたかったが、今は仕方のないことである。
それよりも不思議なのは、こんなにたくさんの人がいるのに、彼等彼女等の心の声は全然聞こえてこないことであった。市電が通行人に注意喚起する「チンチン」という警笛、人々の話し声、荷車の車輪の音、それらが渾然一体となって、ざわめき響いているだけ。
やがて、今回の目的地である浅草寺が見えて来た。
浅草寺の裏手には、道路を挟んで向かい合わせに、ぎっしりと小家が並んでいる。どこからか、ぷうんとどぶの匂いがしてくる。
千津子は顔をしかめ、小父さんの顔を思わず見上げる。彼も眉を顰めてから、一軒一軒、玄関を確かめて歩いて行く。
どこの家にもきちんと表札が掛けられ、道路は塵一つ落ちていない。ぺらぺらの木の表札には、名字が判然としないものもあった。
「あった、あった。ここだ」
小父さんがほっとしたように言って、一軒の家の引き戸を叩いた。
「ごめんよ、お邪魔します。金森さんに紹介されてきました玉川です」
「はい」女の声がして、戸が開いた。
玄関先に現れた女の姿を見て、千津子はギョッとした。
寒さ避けだろうか、黒い布で鼻から首まで覆っていて、女の顔は目許しか見えない。しかし、大きな目の周りと額、見えている部分の皮膚は、爛れてカサカサだった。ただ、耳の横で一つに束ねられている長い黒髪だけは艶があって美しい。
「いらっしゃい。旦那から聞いてますよ、どうぞお上がりくださいませ」
そう言って、女は少し体を斜めにずらした。
千津子はおどおどとお辞儀をして、中に入る。
女はどうぞ、と部屋の隅に積まれていた座布団を勧めてくれた。
「あたしは留守番なんですよ。もうちょっとだけ待ってて下さい。ねえさんが旦那を呼びに行ってますから」
ねえさんと旦那さんって誰だろう、と千津子が思っていると、背後でガラリと戸が開く音がして、「お待たせしてすみません」と言う男の声がした。
聞き覚えのある声に振り向いた千津子は、玄関にあの興行師の姿を認め、なんとなく安心した。
「それじゃ、あたしはこれで」
留守番の女は興行師にうなずいて、家から出て行った。
義姉ひとりでは農家の仕事は無理だ。甥もまだ小さい。
少しなら貯えはあるものの、来年の作付けの種も買わなくてはならないし、時期によっては作男も雇わなくてはならないだろう。しばらくの現金収入も必要である。
当面、親戚に当たる玉川本家から農業の手伝いは来てくれることとなった。
しかし、千津子が女学校に行くことは諦めなくてはならなくなった。
さらには、親戚筋が集まり相談した結果、千津子には奉公に行ってもらおう、という話になった。千津子に否やはなく、口入屋に頼んで彼女の奉公先を探すことで話はまとまった。
その時になって、千津子は、あの見せ物興行師を思い出した。
恐る恐る本家の主人に、見せ物興行師の話を伝えたところ、主人は呆れ返ってものも言えない、といった風であったが、千津子は必死だった。
家の中で交わされる親戚たちの会話が、彼らの心の中の言葉と入り混じり、千津子の頭の中でわんわんと鳴り響くので、彼女はおかしくなりそうだった。
以前はここまで他人の心の声は聞こえてこなかった。何故、急激に変化が訪れたのか?
わからない。
しかし、一刻も早くこの村から、この状況から離れて暮らさないと、自分は本当に脳病になってしまう。
そんな中、千津子の訴えに耳を傾けてくれた親戚が一人いた。その親戚の小父さんは若い頃に警視庁で働いていたこともあって、さまざまな世界に通じており、伝手を頼って話をつけてくれた。
彼によると、 “悪所” や “芸能” で働く人は普通の人ということだった。
その小父さんと共に、千津子は北多摩村から浅草まで、はるばるやって来た。
初めて見る大都会東京、千津子は何もかも珍しく、口をあんぐりさせ、きょろきょろするばかり。
とにかく人が多い。建物も多い。
「お前、この辺に来るのは初めてかい?」
小父さんの問いに、千津子はしばらく考えるが、記憶にある限りで都会に来た覚えはない。
「田舎暮らしから都会に来ると、慣れないことばかりで大変だろうが、儂がよくよく頼んでおいたから、心配することは何もないよ」
うなずく千津子の目の前を、土埃を立てて市電が通り過ぎる。一両だけの車内は超満員であった。その脇を、大八車を引いている少年が歩いているが、彼は千津子とさほど歳が変わらないように見えた。
(子どももみんな、働いてるんだ)
千津子は、自分を可哀想とは思わなかった。女学校には行きたかったが、今は仕方のないことである。
それよりも不思議なのは、こんなにたくさんの人がいるのに、彼等彼女等の心の声は全然聞こえてこないことであった。市電が通行人に注意喚起する「チンチン」という警笛、人々の話し声、荷車の車輪の音、それらが渾然一体となって、ざわめき響いているだけ。
やがて、今回の目的地である浅草寺が見えて来た。
浅草寺の裏手には、道路を挟んで向かい合わせに、ぎっしりと小家が並んでいる。どこからか、ぷうんとどぶの匂いがしてくる。
千津子は顔をしかめ、小父さんの顔を思わず見上げる。彼も眉を顰めてから、一軒一軒、玄関を確かめて歩いて行く。
どこの家にもきちんと表札が掛けられ、道路は塵一つ落ちていない。ぺらぺらの木の表札には、名字が判然としないものもあった。
「あった、あった。ここだ」
小父さんがほっとしたように言って、一軒の家の引き戸を叩いた。
「ごめんよ、お邪魔します。金森さんに紹介されてきました玉川です」
「はい」女の声がして、戸が開いた。
玄関先に現れた女の姿を見て、千津子はギョッとした。
寒さ避けだろうか、黒い布で鼻から首まで覆っていて、女の顔は目許しか見えない。しかし、大きな目の周りと額、見えている部分の皮膚は、爛れてカサカサだった。ただ、耳の横で一つに束ねられている長い黒髪だけは艶があって美しい。
「いらっしゃい。旦那から聞いてますよ、どうぞお上がりくださいませ」
そう言って、女は少し体を斜めにずらした。
千津子はおどおどとお辞儀をして、中に入る。
女はどうぞ、と部屋の隅に積まれていた座布団を勧めてくれた。
「あたしは留守番なんですよ。もうちょっとだけ待ってて下さい。ねえさんが旦那を呼びに行ってますから」
ねえさんと旦那さんって誰だろう、と千津子が思っていると、背後でガラリと戸が開く音がして、「お待たせしてすみません」と言う男の声がした。
聞き覚えのある声に振り向いた千津子は、玄関にあの興行師の姿を認め、なんとなく安心した。
「それじゃ、あたしはこれで」
留守番の女は興行師にうなずいて、家から出て行った。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
ヒナタとツクル~大杉の呪い事件簿~
夜光虫
ホラー
仲の良い双子姉弟、陽向(ヒナタ)と月琉(ツクル)は高校一年生。
陽向は、ちょっぴりおバカで怖がりだけど元気いっぱいで愛嬌のある女の子。自覚がないだけで実は霊感も秘めている。
月琉は、成績優秀スポーツ万能、冷静沈着な眼鏡男子。眼鏡を外すととんでもないイケメンであるのだが、実は重度オタクな残念系イケメン男子。
そんな二人は夏休みを利用して、田舎にある祖母(ばっちゃ)の家に四年ぶりに遊びに行くことになった。
ばっちゃの住む――大杉集落。そこには、地元民が大杉様と呼んで親しむ千年杉を祭る風習がある。長閑で素晴らしい鄙村である。
今回も楽しい旅行になるだろうと楽しみにしていた二人だが、道中、バスの運転手から大杉集落にまつわる不穏な噂を耳にすることになる。
曰く、近年の大杉集落では大杉様の呪いとも解される怪事件が多発しているのだとか。そして去年には女の子も亡くなってしまったのだという。
バスの運転手の冗談めかした言葉に一度はただの怪談話だと済ませた二人だが、滞在中、怪事件は嘘ではないのだと気づくことになる。
そして二人は事件の真相に迫っていくことになる。
鬼村という作家
篠崎マーティ
ホラー
あの先生、あんまり深入りしない方が良いよ――……。
得体のしれない社会不適合女のホラー作家鬼村とその担当の不憫な一口が、日常の中に潜む何かと不意に同じ空間に存在してしまう瞬間のお話
第6回ホラー・ミステリー小説大賞で奨励賞を頂きました。投票してくださった皆様有難う御座いました!(二十二話時)
岬ノ村の因習
めにははを
ホラー
某県某所。
山々に囲われた陸の孤島『岬ノ村』では、五年に一度の豊穣の儀が行われようとしていた。
村人達は全国各地から生贄を集めて『みさかえ様』に捧げる。
それは終わらない惨劇の始まりとなった。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
醜い屍達の上より
始動甘言
ホラー
男は教祖だった。彼は惨めな最期を遂げる。
それまでに彼が起こした軌跡を描く。酷く、醜い一人の男の軌跡。
彼が敷くのは崩壊への序曲か、それとも新しい世界への幕開けか。
これまで書いた5作の裏を書く、胸焼けするような物語。
無能な陰陽師
もちっぱち
ホラー
警視庁の詛呪対策本部に所属する無能な陰陽師と呼ばれる土御門迅はある仕事を任せられていた。
スマホ名前登録『鬼』の上司とともに
次々と起こる事件を解決していく物語
※とてもグロテスク表現入れております
お食事中や苦手な方はご遠慮ください
こちらの作品は、
実在する名前と人物とは
一切関係ありません
すべてフィクションとなっております。
※R指定※
表紙イラスト:名無死 様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる