パンドラの予知

花野未季

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その四

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 一家の主人あるじであり、働き手であり、跡継ぎでもある兄の死は、一家の存亡の危機である。
 義姉ひとりでは農家の仕事は無理だ。甥もまだ小さい。

 少しなら貯えはあるものの、来年の作付けの種も買わなくてはならないし、時期によっては作男も雇わなくてはならないだろう。しばらくの現金収入も必要である。
 当面、親戚に当たる玉川本家から農業の手伝いは来てくれることとなった。

 しかし、千津子が女学校に行くことは諦めなくてはならなくなった。
 さらには、親戚筋が集まり相談した結果、千津子には奉公に行ってもらおう、という話になった。千津子に否やはなく、口入屋に頼んで彼女の奉公先を探すことで話はまとまった。
 その時になって、千津子は、あの見せ物興行師を思い出した。

 恐る恐る本家の主人に、見せ物興行師の話を伝えたところ、主人は呆れ返ってものも言えない、といった風であったが、千津子は必死だった。
 家の中で交わされる親戚たちの会話が、彼らの心の中の言葉と入り混じり、千津子の頭の中でわんわんと鳴り響くので、彼女はおかしくなりそうだった。

 以前はここまで他人の心の声は聞こえてこなかった。何故、急激に変化が訪れたのか? 
 わからない。
 しかし、一刻も早くこの村から、この状況から離れて暮らさないと、自分は本当に脳病になってしまう。

 そんな中、千津子の訴えに耳を傾けてくれた親戚が一人いた。その親戚の小父さんおじさんは若い頃に警視庁で働いていたこともあって、さまざまな世界に通じており、伝手を頼って話をつけてくれた。
 彼によると、 “悪所” や “芸能” で働く人は普通の人ということだった。
 

 その小父さんと共に、千津子は北多摩村から浅草まで、はるばるやって来た。
 初めて見る大都会東京、千津子は何もかも珍しく、口をあんぐりさせ、きょろきょろするばかり。
 とにかく人が多い。建物も多い。

「お前、この辺に来るのは初めてかい?」
 小父さんの問いに、千津子はしばらく考えるが、記憶にある限りで都会に来た覚えはない。

「田舎暮らしから都会に来ると、慣れないことばかりで大変だろうが、わしがよくよく頼んでおいたから、心配することは何もないよ」

 うなずく千津子の目の前を、土埃つちぼこりを立てて市電が通り過ぎる。一両だけの車内は超満員であった。その脇を、大八車を引いている少年が歩いているが、彼は千津子とさほど歳が変わらないように見えた。

(子どももみんな、働いてるんだ)
 千津子は、自分を可哀想とは思わなかった。女学校には行きたかったが、今は仕方のないことである。

 それよりも不思議なのは、こんなにたくさんの人がいるのに、彼等彼女等の心の声は全然聞こえてこないことであった。市電が通行人に注意喚起する「チンチン」という警笛、人々の話し声、荷車の車輪の音、それらが渾然一体となって、ざわめき響いているだけ。

 やがて、今回の目的地である浅草寺が見えて来た。
 浅草寺の裏手には、道路を挟んで向かい合わせに、ぎっしりと小家が並んでいる。どこからか、ぷうんとどぶの匂いがしてくる。

 千津子は顔をしかめ、小父さんの顔を思わず見上げる。彼も眉を顰めひそめてから、一軒一軒、玄関を確かめて歩いて行く。

 どこの家にもきちんと表札が掛けられ、道路はちり一つ落ちていない。ぺらぺらの木の表札には、名字が判然としないものもあった。

「あった、あった。ここだ」
 小父さんがほっとしたように言って、一軒の家の引き戸を叩いた。
「ごめんよ、お邪魔します。金森さんに紹介されてきました玉川です」

「はい」女の声がして、戸が開いた。
 玄関先に現れた女の姿を見て、千津子はギョッとした。

 寒さ避けだろうか、黒い布で鼻から首まで覆っていて、女の顔は目許しか見えない。しかし、大きな目の周りと額、見えている部分の皮膚は、爛れてカサカサだった。ただ、耳の横で一つに束ねられている長い黒髪だけは艶があって美しい。

「いらっしゃい。旦那から聞いてますよ、どうぞお上がりくださいませ」
 そう言って、女は少し体を斜めにずらした。
 千津子はおどおどとお辞儀をして、中に入る。

 女はどうぞ、と部屋の隅に積まれていた座布団を勧めてくれた。
「あたしは留守番なんですよ。もうちょっとだけ待ってて下さい。ねえさんが旦那を呼びに行ってますから」

 ねえさんと旦那さんって誰だろう、と千津子が思っていると、背後でガラリと戸が開く音がして、「お待たせしてすみません」と言う男の声がした。

 聞き覚えのある声に振り向いた千津子は、玄関にあの興行師の姿を認め、なんとなく安心した。
「それじゃ、あたしはこれで」
 留守番の女は興行師にうなずいて、家から出て行った。
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