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その十二
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二人が無言でぶらぶら歩いていると、休憩中の人力車夫が道端でしゃがみ込んで煙草を吸っているのが目に入った。
「あれに乗ってお帰りになりますか?」
「いいえ、歩いて帰ります」
「しかし、ご気分が悪いのなら、途中まででも車で帰られたらいかがですか?」
「おおきに。けど大丈夫です。それより、ウチはまだ帰りとうないんです。家まで歩きたい」
(米ちゃん、今頃どうしてるやろ。さぞ心細いやろな。小まんさんも小寅姉さんも怒ってはるやろな。早よ帰らんと。けど、なんでか帰りとうないんや!)
「まだ帰りたくない」ではなく、「帰らないほうがいい、帰ってはいけない」。
なぜか、そんな焦燥感にかられる梅であった。
そんな梅の葛藤を知るよしもない児島は、うなずいて一緒にゆっくり歩いてくれた。
一時間ほど歩いて、ようやく難波まで戻って来たが、暗い顔をして黙りこくったままの梅を気遣ってか、児島は時折「大丈夫ですか?」などと尋ねてくれた。
その都度、無理に微笑んで「大丈夫です」や、「おおきに」と答えるしかない梅であった。
なぜなら、彼女の中で “幻” は “確信” になりつつあったのだが、それは説明しようのないことだからだ。
(いずれ、おとうはんにウチらは殺されるかもしれん。どないしたらええんや?! けど、そんなこと言うたかて、誰も信じてくれへんやろし)
それに……。
梅は心のどこかで、庄三郎を信じていたかった。最近では酒量が増えて毎晩のように泥酔しているが、決して梅たちに乱暴な口を聞いたり、手を上げたりしたことはない。ふさぎ込むこともあるが、大体は陽気で優しい人であった。
興福楼のある通りまで帰って来た。
近辺の妓楼からは賑やかな音が聞こえてくるが、興福楼は今日は予約もないからか、一階座敷は真っ暗であった。
店の裏手に回ってから、梅は児島に深々と頭を下げた。
「児島さん、結局送っていただいて、すんまへんでした」
「いいえ。最初からそのつもりでしたから」
「けど、今からどうやって中之島までお帰りになりますの?」
「歩いて帰ります。どうぞ、私のことはご心配なく」
うなずいた梅は、ふと思い立って児島に頼んでみた。
「こんな時間になってしもたんで、おとうはんやみんなに会うていただけまへんやろか? ウチ、きまり悪うて。今日せっかく、おとうはんがご馳走取ってくれてんのに、すっぽかしてしもたんです」
児島は、え? という顔をしてから思案している様子だったが、
「わかりました。梅さんを連れ回してしまったのは僕ですので、きちんとお詫びさせてください」
と言ってくれたので、梅はほっとした。
「米ちゃんにも会って下さい」
梅の言葉に、児島が目を輝かせた。
そのとき、梅は気づいた。
肝心なことを見落としていたことに。
おとうはんは、「梅、梅はまだか?」って言うてた。さっきまでウチがおらんかったみたいに。
身震いしながら、さらに考える。
おとうはんに斬られた腕は米ちゃんの藍微塵の浴衣を着てた。それに、あの場に美松ねえさんはおらんかった……。
梅は血の気の引く思いで、興福楼の勝手口の引き戸を開けた。
目を凝らして、真っ暗な台所を見わたす。配膳台には、食べ終えた皿とお銚子が転がっている。
梅は、わなわな震える身体を両手で抱きしめ力を込めた。台所から、しいんとした室内に入って行った。暗い廊下の先で、灯が漏れている庄三郎と初子の部屋を目指す。物音一つしない。
そこで見たものは、『幻』と同じ光景。
ひいぃひいぃ、という喘ぐような悲鳴を漏らしながら、梅は二階に上がっていく。足取りがおぼつかない。
惨状は見なくてもわかる気がした。
信じたくはなかったが、部屋では米と小寅が血まみれで絶命していた。
それを見た梅は、その場にへたり込んでしまった。
「なんで、こんなことになってしもたん……」
「これは!」
児島の声がする。
彼は梅の背後で、両手で口を押さえ、襖にもたれるようにして立っていた。
ギシ、トン、ギシ、トンという、児島が階段を降りる音を聞きながら、梅は泣き続けた。
しばらくして、児島が近所の人や警察官を連れて戻って来た。
その頃には梅の声は枯れてしまって、「おおお、おおお」という、獣の鳴き声のような声しか出ていなかった。立ち上がることもできず、叫ぶしかできない。
警察の人や児島に支えられて、ようやく立ち上がったが、立っているのがやっとである。
そこに、お座敷上がりで帰って来た美松が、ドタドタ派手な音と共に芸妓たちの居室に走り込んで来た。
「げえっ」と言って、彼女はその場にしゃがみ込む。
それに気づいた梅は、のろのろと美松に近づいて彼女に抱きついた。
「あれに乗ってお帰りになりますか?」
「いいえ、歩いて帰ります」
「しかし、ご気分が悪いのなら、途中まででも車で帰られたらいかがですか?」
「おおきに。けど大丈夫です。それより、ウチはまだ帰りとうないんです。家まで歩きたい」
(米ちゃん、今頃どうしてるやろ。さぞ心細いやろな。小まんさんも小寅姉さんも怒ってはるやろな。早よ帰らんと。けど、なんでか帰りとうないんや!)
「まだ帰りたくない」ではなく、「帰らないほうがいい、帰ってはいけない」。
なぜか、そんな焦燥感にかられる梅であった。
そんな梅の葛藤を知るよしもない児島は、うなずいて一緒にゆっくり歩いてくれた。
一時間ほど歩いて、ようやく難波まで戻って来たが、暗い顔をして黙りこくったままの梅を気遣ってか、児島は時折「大丈夫ですか?」などと尋ねてくれた。
その都度、無理に微笑んで「大丈夫です」や、「おおきに」と答えるしかない梅であった。
なぜなら、彼女の中で “幻” は “確信” になりつつあったのだが、それは説明しようのないことだからだ。
(いずれ、おとうはんにウチらは殺されるかもしれん。どないしたらええんや?! けど、そんなこと言うたかて、誰も信じてくれへんやろし)
それに……。
梅は心のどこかで、庄三郎を信じていたかった。最近では酒量が増えて毎晩のように泥酔しているが、決して梅たちに乱暴な口を聞いたり、手を上げたりしたことはない。ふさぎ込むこともあるが、大体は陽気で優しい人であった。
興福楼のある通りまで帰って来た。
近辺の妓楼からは賑やかな音が聞こえてくるが、興福楼は今日は予約もないからか、一階座敷は真っ暗であった。
店の裏手に回ってから、梅は児島に深々と頭を下げた。
「児島さん、結局送っていただいて、すんまへんでした」
「いいえ。最初からそのつもりでしたから」
「けど、今からどうやって中之島までお帰りになりますの?」
「歩いて帰ります。どうぞ、私のことはご心配なく」
うなずいた梅は、ふと思い立って児島に頼んでみた。
「こんな時間になってしもたんで、おとうはんやみんなに会うていただけまへんやろか? ウチ、きまり悪うて。今日せっかく、おとうはんがご馳走取ってくれてんのに、すっぽかしてしもたんです」
児島は、え? という顔をしてから思案している様子だったが、
「わかりました。梅さんを連れ回してしまったのは僕ですので、きちんとお詫びさせてください」
と言ってくれたので、梅はほっとした。
「米ちゃんにも会って下さい」
梅の言葉に、児島が目を輝かせた。
そのとき、梅は気づいた。
肝心なことを見落としていたことに。
おとうはんは、「梅、梅はまだか?」って言うてた。さっきまでウチがおらんかったみたいに。
身震いしながら、さらに考える。
おとうはんに斬られた腕は米ちゃんの藍微塵の浴衣を着てた。それに、あの場に美松ねえさんはおらんかった……。
梅は血の気の引く思いで、興福楼の勝手口の引き戸を開けた。
目を凝らして、真っ暗な台所を見わたす。配膳台には、食べ終えた皿とお銚子が転がっている。
梅は、わなわな震える身体を両手で抱きしめ力を込めた。台所から、しいんとした室内に入って行った。暗い廊下の先で、灯が漏れている庄三郎と初子の部屋を目指す。物音一つしない。
そこで見たものは、『幻』と同じ光景。
ひいぃひいぃ、という喘ぐような悲鳴を漏らしながら、梅は二階に上がっていく。足取りがおぼつかない。
惨状は見なくてもわかる気がした。
信じたくはなかったが、部屋では米と小寅が血まみれで絶命していた。
それを見た梅は、その場にへたり込んでしまった。
「なんで、こんなことになってしもたん……」
「これは!」
児島の声がする。
彼は梅の背後で、両手で口を押さえ、襖にもたれるようにして立っていた。
ギシ、トン、ギシ、トンという、児島が階段を降りる音を聞きながら、梅は泣き続けた。
しばらくして、児島が近所の人や警察官を連れて戻って来た。
その頃には梅の声は枯れてしまって、「おおお、おおお」という、獣の鳴き声のような声しか出ていなかった。立ち上がることもできず、叫ぶしかできない。
警察の人や児島に支えられて、ようやく立ち上がったが、立っているのがやっとである。
そこに、お座敷上がりで帰って来た美松が、ドタドタ派手な音と共に芸妓たちの居室に走り込んで来た。
「げえっ」と言って、彼女はその場にしゃがみ込む。
それに気づいた梅は、のろのろと美松に近づいて彼女に抱きついた。
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