アストリッドと夏至祭の魔法使い

上津英

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Ⅰ Trollmann―魔法使い―

7 「…………すみません、それは難しい、です」

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 今通ってきた通路に向かってボソボソと呟いている青年に話しかける。何時の間にか火の玉が消えている。月明かりだけで見るとこの青年の横顔は青白い。

「私お母様にドイツで勉強したいって言ったから、ドイツに本当に行っちゃったらすぐに見付かってここに連れ戻されると思うの」

 ウィルが頷いたのを見て続ける。少し見ていなかった間に、地面がすっかり塞がっていたのはもう気にしない事にした。

「ピアニストになるだけならドイツに行く必要無いんだから、この際ドイツに行くのは諦める」

 ピアノの勉強が出来るならどこでも良い。ドイツの風はピアニストになってからでも感じられる機会はあるだろう。

「代わりにスウェーデンで誰かの師事を受けようと思うの。ストックホルムにも音楽院があるから、十分な指導を望めるでしょう。お母様にはドイツで私を探し続けて貰う事にするわ、まさかドイツに行きたがってた私が隣の国に居るとは思わないでしょうからね」

 ふふっと唇の端を持ち上げて笑う。
 それにスウェーデン人にノルウェー語で話しかけても意思疎通が図れる程、ノルウェー語とスウェーデン語は似ているのだ。言語の壁が無いのもスウェーデンにした理由だ。

「良いですね。ストックホルムまでは船で行かれるのですか?」
「うん、そうしたいところだけど」

 その方法を採るには1点問題があったが、ウィルに手伝って貰えば問題無いのでひとまず頷く。今は一刻も早くここから逃げたかった。

「では早速港に行きましょうか」
「あ、ちょっと待って! 1回私の部屋に寄りたいの。貯めていたお金を持っていかないと」
「……あっ。そうでした、人間は通貨が要りますよね。分かりました」

 思い出したように金髪の魔法使いは頷いた。
 通貨と無縁だったらしいこの青年は、今までどんな風に生きてきたのか。きっと自分達とは違う時間を送ってきたのだろう。ウィルは自分を守ってくれるつもりらしいが、自分もウィルを守る必要がありそうだ。
 木々の切れ目から先程まで居た屋敷を見上げる。
 月と窓からの明かりのおかげで、赤い壁に灰色の三角屋根と白い窓枠の建物が浮かび上がっている。あの屋敷の3階にあるのが自分の部屋で、あそこにコツコツ貯めていた銀貨がある。

「ねえウィル、手伝って欲しいの。3階にある私の部屋まで私を行かせてくれない? 窓は開いてるから入れる。それで私が準備を済ませたらここに戻してほしいんだけど、出来る?」 

 自然と眉が下がる。ウィルはふむ、と考え込んでしまったので一層居た堪れない。

「出来ますが、それくらい俺が魔法で取りますよ? どこに置いてあります?」
「本当? 聖書に挟んでいる鍵を使って、机の下の箱を開けて袋を取り出すの!」

 ウィルが取ってくれるならそれが一番良い。表情を明るくする自分とは反対に、魔法使いの表情がどんどん強張って行く、気がした。

「…………すみません、それは難しい、です」

 続いて搾り出されたのは、風の音にかき消されてしまいそうな位小さな声。格好つけられず落ち込む少年のような声にハッとなる。
 そうだ、彼は不器用なのだ。

「……アストリッド1人で取りに戻ります?」
「……うん、そうしたいんだけど良いかな」
「構いませんよ。ですがその前に覚えていて欲しい事があります。1つ目は、魔法で俺が話しかけても驚かない事、です」

 次の瞬間、「こんな風に」と耳元で声がした。
 ウィルの声だが本人は目の前に居る。この奇妙な聞こえ方は魔法なのだろう。

「っ!」

 驚いて声を上げてしまいそうになったが、すんでのところで堪える。分かった、と頷き目線を持ち上げて次の言葉を待った。

「2つ目は、部屋から逃げる時は何も言わずに窓から飛び降りてほしい事です。声で誰かにバレては困るでしょう? 怖いとは思いますが、俺が助けますから安心して窓から飛び降りてください」
 え!? と思ったがこれも頷く。ウィルの言う通りだ。自分は勿論、魔法使いであるウィルだって気付かれたら困る筈。

「では行きましょう。あそこまで貴女を飛ばせば良いんですよね……少し浮いて頂きますが落ち着いて下さいね」
「う、……っ!」

 「浮く?」と聞き返したかったが、すぐにその言葉の意味が分かった。文字通り雪の上から浮いたのだ。初めての感覚に状況も忘れて胸が弾む。
 ふわり、と。
 鳥が地面から大空に羽ばたくように、そのまま体が自室まで飛んでいく。
 今夜はオーロラも出ていないし、ここは路地の反対側。裏庭を飛んでいる自分に気付く人物は誰もいない。

「わあ……っ!」

 不思議で、特別な時間。
 粉雪と冷たい風も今は少しも気にならなかった。どんどん地面が離れていく。
 気持ち良くて自然と口元が緩んだ。

***

 サーモンのムニエルを乗せた銀のトレイを持って歩くと、バターの芳醇な匂いを強く感じる。
 リーナ・シュルルフが厨房に入った時、他の2人の女中は何時も以上に自分と目を合わせようとしなかった。「自分がアストリッドにピアノを弾ける場所を紹介した」事になっているのは、やっぱり彼女らが自分のせいにしたからなのだろう。
 ロヴィーサに張られた頬がずきりと痛んだ。

「……っ」

 何故こんな仕打ちを受けないといけないのか。
 しかし彼女らも機嫌が良い時のロヴィーサですら「子供は特別」と言って息子のレオンを可愛がってくれている。それは感謝しているので、結局のところ自分が我慢すれば良いだけなのだ。
 地下室へ続く階段を降りていく。数段降りただけでひんやりした空気に変わり、アストリッドは寒がっていないかと心配になった。寒そうだったら後でケープを持ってこよう。

「お嬢様、夕食をお持ちしました。今晩はサーモンのムニエルとマッシュルームのポタージュです」

 声をかけてみるも、アストリッドからの返事は無い。

「お嬢様?」
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