ユユラングの幽霊

上津英

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0 「育てがいがあるだろう?」

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 自分が既に死んでいることが嫌になる。
 こういう状況になると何も出来ないからだ。

「おい! お前らは飛び込まないのか!」

 燃え盛る船の一室で責め立てるように叫んだ。彼とその息子以外はみな溺れることを選んだというのに、この親子だけはそうしようとしなかった。

「お前らは馬鹿か! 焼かれて死ぬなんて辛いだけだぞ!」

 火は嫌いだが、なんとか父親の耳元まで近付いて叫んだ。それまで静かに死を待っていた男が眉を潜める。

「うるさいぞ。溺れて死ぬ方が私は嫌なんだ。寒いし、オーロラが見えなくなる」
「馬鹿を言うな! 海なら助かるかもしれないだろう! 焼かれることなんかない!」
「みんなそう叫んでいたがな、こんな北の海の真ん中で助かるか? 凍え死ぬだろ」

 目の前に炎が迫っている割に、男は淡々と返す。
 今ここにいるもう一人ーー息子の方は床に膝をついて何かをずっと呟いている。きっと神へこれから行く挨拶をしているのだ。たしかに、こんなところに助けが来ることはないだろう。
 正論を突かれ言葉を飲み込み、いや、と続けた。

「っ、そんな問題か! お前らが死んだらユユラングはどうなるんだ!? セオドアだって……っ」

 男のもう一人の息子の名前を口にしたら涙が込み上げてきた。
 二人が死んでしまったら、ユユラングで待っているあの少年は一人になってしまう。そんなのはあんまりだ。

「セオドアの名前を出されると弱るな……」

 男が目を伏せて呟いた。
 手応えを感じた気がして表情を明るくする。今ならまだ、窓を破れば海に逃げられるはずだ。

「そうだ! セオドアにユユラング領主が務まると思っているのかっ」
「なかなか酷いことを言うじゃないか」

 男は厚手の服のせいだけではない汗を額に滲ませ、喉を鳴らして笑いこう続けた。

「育てがいがあるだろう?」

 こんな時に笑う男を見ていると空元気に思えて悲しくなる。熱い物を堪えるように眉を寄せ返す。

「……あいつは育てる以前の問題だ。嫌がるに決まってる。だから、な!」
「たしかに最初は嫌がるだろうな。だがあれはやると決めたらやる。安心しろ」

 息子を誇る男の目から迷いが消えていき、最後に話は終わりだとばかりに息をついた

「息子と居たいんだ。死に方くらい選ばせてくれ」

 強い意思を孕んだその声を聞いて思った。
 この男はいくら自分が説得しようが、応じようとしないだろう。運命が変わることはないのだ、と。
 いつの間にか流れていた涙を好きにさせていると男は続けた。

「もうユユラングに帰れ、お前が人の死を見ることはない」
「馬鹿が…………ん」

 涙を流す村娘を宥める老騎士のように諭され、反射的に首を縦に振る。
 心のどこかで次にするべきことが分かっている自分が憎かった。
 炎が男の服に引火する瞬間を見まいと体の向きを変え、一度鼻を啜る。

「セオドアを頼んだぞ、リリヤ」

 背中から声がかかった。
 自分を信用してくれているその声を聞いてもう一度鼻を啜り、今までの気持ちを振り払うように胸を張る。
 僅かに顎を突き出して、振り返らずに応えた。

「ふん、私を誰だと思っている」

 いつものように堂々とした口ぶりで答えると、男が安心したように笑うのが分かった
 微かなその音にまた熱いものが込み上げてきて、ごまかすように壁の前に進む。
 壁を通り抜ける直前に、祈りを捧げ終えたらしい息子がどこか呆然とした声で尋ねてくる。

「……さっきから思っていたのですが、父上は誰かと話しているんですか?」

 そう言えば彼に自分は見えなかったのだと、その言葉に己の役目を改めて思い出した。
 本当ならこの皮のジレを着た男とも話せたというのに。
 少なくともセオドアの番ではなかったというのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 気を抜くと泣いてしまいそうだから、遠回りをして帰ろう。ユユラングに戻るのは、それからでも大丈夫なはずだ。
 幽霊の少女は、思いを振り払うように壁を擦り抜け、炎が照らす夜の海に出た。
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