スマイリング・プリンス

上津英

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第3章 九州大学病院の一角で

第11話 「は〜天使……はいはいはい」

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「お疲れ様、金曜日帰りの送迎には出んしゃいよ」

 パソコンの前に居た小百合に淡々と声をかけられた。

「はい。じゃあ俺帰りますたい、お疲れ様です~」
「はい、またね」

 挨拶をしてから事務所を出る。まだおおぞらに残っている職員は雑談を楽しんでいたので、その輪にも挨拶をし歩は自動ドアを開けた。
 途端。むわっと肌にまとわりつく蒸し暑い空気が押し寄せてきて、思わず眉を潜める。
 駐輪場にある原付バイクの元に辿り着く前に、ポケットに押し込んでいたスマートフォンを取り出した。
 SNSチェックをしようかと思ったものの、アプリをタップする前に日付の横にある火曜日という文字が目に飛び込んできた。

 火曜日。後三回朝を迎えればもう金曜日で、尚也と会う日になる。
 尚也の午前の過ごし方を考えて、少しでも笑顔に近付ける手伝いになればいい。
 歩は一度自分を鼓舞するように頷いた後、煮物の匂いが漂って来る隣家の前を通って帰路についた。



『マスター、朝ですよ。起床の準備を開始して下さい』

 チュンチュンと朝を告げる鳥の鳴き声が窓の外から聞こえてくる朝。六畳の和室に凛とした女性の声が響いた。

「ん~……はっ!?」

 推しの声が引き金となって歩は目を覚ます。最初に視界に映ったのは天井からぶら下がっている暗い和風シーリングライトだった。

『マスター、朝ですよ。起床の準備を開始して下さい』
「は~天使……はいはいはい」

 目覚ましアラームに設定した推しの声が、壁紙を推しにしたスマートフォンから繰り返される。毎朝最高の気分で朝日を浴びられるので、仕事に遅刻した事が無いのが歩の密かなる自慢だった。
 液晶画面に表示されている停止ボタンをタップして天使の声を止める。そこには「金曜日」という文字もあって、否が応でも拳に力が入った。

「っと!」

 起き上がってまず冷蔵庫に向かった。良く冷えた麦茶を飲み、一度深呼吸をする。
 今日はおおぞらの送迎に参加した後、九州大学病院に向かう予定だ。一日のスケジュールを思い浮かべながら、歩は卓袱台で納豆を作り出勤した。
 おおぞらから九州大学病院まで近いので、歩はギリギリまでおおぞらに居た。今日の味処奥津による昼食は夏野菜カレーとコーンスローだったので「昼には帰ろう」と決意する。
 目玉焼きが作れるのでは……と思う程熱くなったアスファルトの上を、水色の車のタイヤで乗り上げた。
 小百合が「茹でダコになりたくなかよね。やったら送迎車乗って行きんしゃい」と言ってくれたので、歩は直射日光浴び放題の原付バイクではなくエアコンの効いた車に乗る事が出来た。

「ありがとー、藤沢さん」

 FMラジオが流れている車内、歩は所長に感謝を捧げながら車を走らせた。
 十五分程で病院の駐車場に入る事が出来、病院の中に入った時には九時四十四分――約束の時間の六分前――だった。約束通り受付の近くで鴻野母子の到着を待つ。
 「病院で携帯を使ってはいけない」という古いルールが何故か染み付いているので、スマートフォンの電源を切った後は大人しく院内に視線を巡らせていた。
 平日の昼の病院には色々な人が居る。子供と手を繋いでいる母親も居れば、妻の車椅子を押している白髪の男性の姿もあった。様々な人達を見ていたら、自分に近寄って来る車椅子の少年と、それを押している女性の姿が目に入る。

「すみません、遅れました~!」

 あ、と思う暇もなく声を掛けられ二人がどんどん近寄ってくる。

「こんにちは。おおぞらの佐古川です。今日はどうも有り難う御座いました」

 ミディアムヘアの女性に挨拶をする。
 ばっちり化粧をして黒いブラウスを着ているこの人が志摩子だ。おおぞらで見たあの女性でやっぱり合っていた。
 車椅子に座っている尚也は紺色のTシャツを着ていて、何時ものように無表情だった。

「鴻野君、こんにちは。今日は付き添いOKしてくれて有り難うね」
「……いえ」

 返って来たのは、何時もと同じくそっけない返事。

「尚也……、もっとしっかり挨拶して」

 あまりにそっけないと思ったのか、志摩子が困り顔で息子の事を窘めていた。
 小百合の話を聞く限り尚也は志摩子にも必要最低限しか話さないようで、息子への扱いはどこか恐る恐る接しているように見える。母親ですら気を遣う程、尚也は塞ぎ込んでいるという事なのだろう。
 その事実に自分も無意識に肩に力が入った。

「…………」

 しかし尚也は母親の言葉に反応をしなかった。それを見て志摩子が悲しそうに笑う。
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