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第一話 二ヶ月くらいは帰ってこない

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 一月中旬、平日の午前十時過ぎ。

 保育所に通う双子の妹を見送った後の二度寝、布団の誘惑に積極的に負けて以てのそれは至福だが、いよいよ目が冴えてしまい、指の爪が伸びる瞬間を目撃しようという非生産的段階に突入したなら起きるしかないだろうと思った。

 出掛けねばならぬ時間までゲームでもして過ごそうと、三塚松理ミツヅカマツリが居間へ行くと、居る筈のない父がいた。

「しばらく対戦出来なくなるから、少し、相手をしてもらおうかと思ってな」

 高価な辞書ほどの大きさで威容を誇るゲームカセット、数本並べたそれの中からいずれか選べと誘われた。

「てゆーか仕事は」

「試用期間過ぎても時給が上がらねえって休憩室で文句言ってたら不満があるなら帰れって店長に言われて」

「そのまま帰って来たんだ」

 たんたん、とスティックコントローラーのボタンを叩いて返事をする父、その能天気さに松理が呆れて天を仰ぐ。

 しかし、ぽんこつ度を競うものとするなら松理も負けていない、無闇矢鱈な子供扱いが気に入らないという理由で入所から三日後に保育所を退所している。

 血は争えないとはよく言ったものだ。

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 およそ二時間後。

 床に並んで胡坐で座った父子がまだまだゲームに熱中していたところへ、母の千秋チアキが予定外の帰宅をした。

「昼休みの間、ちょっとだけね」

 その手に、忍者に憧れて来日したイタリア人が経営するピザ屋の箱を提げていた。

「午前中に広告の打ち合わせがあったから」

 千秋は、地域情報を扱うフリーペーパーを発行する会社に勤務している。

「なにこれ壮行会的なやつ」

 四月、松理は小学校に入学する。詰まり大勢の他者との共同生活の場、一度離脱をしているそこに再び放り込まれる訳だが、その際に耐性を発揮出来るかどうか、順応して果せるかどうかを親子で話し合った結果、いずれ本番前に予行練習をしておくべきとの結論に至った。

「本棚から教材拾い上げて自習してる内は結局、自分のものの考え方を肯定してくれるものばかりを先生に選び勝ちだからな」

「だから綾子と一緒に暮らしてみて、思わぬ事故に遭って欲しいって母さんは思う訳」

「いずれ学びがありそうならそりゃあ乗るよね、全力で」

 果たして入学式までの期間を松理は、千秋の妹、即ち叔母が独り暮らしをするアパートに居候させてもらう事となった。

 そして今日これから、叔母の部屋を訪ねるという段取り、普段は独りで、スープとサラダで済ませている昼食が今日に限って華やいでいるのはそういう訳だ。

「ところでまつ、娯楽用に一本だけゲームを持ってってもいいってなってたと思うけど」

「うん、もう決めてバッグにも詰めた」

「なににしたの」

 千秋の問いに松理が、蛸と青葱のピザを頬張りながら答えた。

「スーファミといたスト2」

 という事は、積極的に外へ出掛けていく事はせず引き篭もる気満々だと、両親が顔を見合わせた。

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第一話 二ヶ月くらいは帰ってこない

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 最寄りの鉄道駅から無料シャトルバスで約十五分、シネコン、ゲーセン、フードコートなどを擁する幹線道路沿いの複合施設内のコンビニエンスストアが一ノ瀬綾子イチノセアヤコのバイト先。

「よければ連絡先、教えてもらえませんか」

「よくないんで駄目です」

 高校卒業後から働き始め、次の四月で勤続二年。週五日、十五時から二十一時までが基本シフト。店側としては学生を雇いたい時間帯かも分からないが、綾子には規定以上の通勤手当が支払われている。仕事振りは真面目で模範的、だが声の調子は常に暗く、愛想を振り撒くような接客はしない。それでも綾子が厚遇されている理由は、言ってしまえば一顧傾城、小学校高学年の頃に既に地元の美少女リスト入りを果たしていたその容姿が故。

「要するに客寄せパンダって事よ。それってどういう事か分かる、今日太」

「どーぶつえんにぎょーれつできてたいへんなやつ。わかるよおれ」

「その役回りをあたしは甘んじて受け入れてる訳、この顔に生まれた時点で背負った宿命と割り切ってね」

 店の外、スタンド灰皿の側でココアシガレットを咥え、やさぐれた気分にどっぷりと浸かっている綾子。

「会計時に衝動的に連絡先訊いてくるとかほんと暴力。処理するのに余計な体力使わなくちゃならないからほんと迷惑」

 彼女がその重そうなストレートのワンレンロングで隠しているのは、顔の左半分と、心の奥の仄暗い感情の渦。

「そーゆーときあやこねーさん、かぶとむししなせたみたいなきもちなんだろ。わかるよおれ」

 その渦の底から生じる愚痴を聞かされている相手、千葉今日太チバキョウタは、近所の団地に住むコンビニの常連客。

「持つべきは理解者。相変わらず頼りになるじゃない、今日太」

 唯一、綾子本人の公認を得て親衛隊と名乗る事を許されているその男、未就学児童だ。

「きょうはふんぱつしてちょこばっとおごる。だからげんきだしな」

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 ショート丈の赤のダッフルコートを羽織って身支度完了、居間で午後ローを観ながら居眠りしている父に声を掛けぬまま家を出る。最寄りのバス停までは徒歩で五分、時折、斜め掛けしたスポーツバッグを背中に押し戻しながら往く。

 車窓からの景色を眺めて二十五分、終点の鉄道駅で降りたら駅構内を突っ切り反対側へ、そこからは千秋が描いた地図を頼りに、補足情報として案内がある猫の集会スポットに赴きコンビニで仕入れたかにかまで挨拶するなどの寄り道をしつつ、果たして難なく、目的地に到着した。

 太陽ハイツ、二階の角部屋、207号室。住人である叔母はバイト中で留守の為、千秋から渡された合鍵を使い中に入る。

 玄関から直ぐの左手に風呂とトイレ、天井の低い縦長のキッチンスペースを抜けると八帖相当の洋間、振り返り梯子を上がったL字型のロフトは収納及び寝床として使われている様子。

 テレビ、CDコンポ、ドレッサーは量産廉価品。箱型のトロリーテーブルと、二つ並べれば大人も寝られそうなサイズのビーズクッションにはこだわりが反映されていると思しい。いずれ部屋全体の色味は静かで落ち着いており、それは松理の好みとも一致した。

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 合皮製の、黄色いショルダータイプの通園カバンを玄関に打っ棄ったなら千秋の制止も聞かずに脱兎、先ずは一階の居間を覗く。

「いない」

 続いて二階へ。階段を駆け上がる彼女を、頭の両脇、耳より高い位置に結んだいわゆるラビットスタイルのツインテールが必死に追い掛ける。

「こっちもいない」

 子供部屋から取って返して再び一階、両親の書斎の扉を開ける。

「やっぱりいない」

 果たして、カートゥーンの主人公みたいに家中を駆けずり回った薄水色のスモックが、その最後にキッチンに転がり込んで買い物を冷蔵庫に仕舞っている千秋を捕まえて、訊ねた。

「おかあしゃん、まつりしゃんいない」

 松理の双子の妹のるるが、円らな瞳を千秋に向けて訊いた。

「まつりしゃんどこ」

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 早速、土中から頭だけを出したワーム型の怪物に尻から喰われているみたいな格好でビーズクッションに身を沈め、ゲームに興じていた松理。

「っしゃ、エリア独占。いよいよ増資を始めるか」

 ふとパネル時計に目をやり、そろそろ帰宅したるるが騒ぎ出す頃だろうかと連想した。

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 事後伝達が最善との見解で一致した。だがそれは起こり得る面倒を避ける為の安全策であり、るるが、聞き分けが悪いという事では決してない。

「松理はね、今まで保育所に通ってなかった分、ちょっと綾子んちに厄介になる事になったの」

「あやこしゃん。るるあやこしゃんすき。るるもあやこしゃんちいく」

「るるも一緒だったら綾子一人じゃ面倒見切れなくなっちゃう」

 ダイニングテーブルに着きヨーグルトを食す事を、るるは保育所から帰った後の日課としている。それを見守りながら千秋は、一杯の紅茶でリラックスする。

「じゃあかえってくるのまつ。きょう」

「今日は帰ってこない」

「あした」

「明日も帰ってこない」

「あしたのあした」

「明日の明日も帰ってこない。二ヶ月くらいは帰ってこないかな」

「にかげつはなんにち」

「二ヶ月はだいたい六十日」

「だいたいろくじゅうにちはだいたいなんじゅうにち」

「十日が六回で六十日」

「そしたららいねんになる」

「来年にはならない。二ヶ月くらいだから」

「だいたいいっぱいだ。いっぱいまつりしゃんがいないとるるはいっぱいさみしいね」

「でも、ちゃんと帰ってくるよ」

「らいねん」

「もっと早い。だいたい六十日」

「じゃあがまんする。がまんしたらまつりしゃんがほめてくれるからね」

「母さんも褒めちゃおうかな。るるは偉いね」

「えへへ」

「特別に、ヨーグルトもう一個あげようか」

「いらない。げんきになるけどすっぱいからね」

 周囲の様子を探る兎を連想させる、そんな仕草でるるが首を横に振った。

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 二十一時半を過ぎた頃、アパートに帰り着いた綾子は、誰が訪ねてくる予定もないのに自部屋の灯りが点いているという事態に遭遇し、しかし慌てる事なくスクーターを駐車場に停め、その場で、ワインレッドのMA-1の内ポケットから携帯電話を取り出し心当たりを直撃した。

「どゆこと」

「単刀直入。さすが綾ちゃん」

「感心するとこそこじゃないし、そもそも感心するとこじゃないし」

 ともすれば大それた計画を事前連絡もなしに実行する姉が姉なら、妹の肝の太さもなかなかのもの。斯く斯くの次第と千秋から説明を受けて綾子は、それを二つ返事で引き受けた。

「いずれ学びはありそうだし」

 ちょうど松理と同じ理由で。

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 そうして。

 階段を上りながら部屋の鍵を用意したものの、それをジーパンのポケットに仕舞って綾子は、呼び鈴を押した。

 果たして。

 屋内からはしかし一切の反応がなく、仕方なく、鍵を使って部屋に入った。

 1Rと1Kを隔てる壁、キッチンと洋間を仕切る扉を押し開くと、ビーズクッションの上に丸まって寝息を立てている松理の姿があった。気疲れが呼び込んだそれは抗い難い睡魔だったかどうか、トロリーテーブルの上のドリトスの袋と烏龍茶のペットボトルは随分とくつろいだ情態を云っている。照明とテレビを点け放しな件はともかく、歯磨きをしていないのならばそれは改めさせる必要がある。敢えて綾子は、松理に気遣いや遠慮をせず、普段通り過ごす事とした。

 スウェットの上下に着替える。

 洗濯機を回す。

 バイト先でもらった消費期限切れ直前のミートソーススパゲティをレンジで温める。

 テーブルの上を片す。

 電源スイッチを切りスーファミをテレビ台の前に追い遣る。

 部屋干ししていた洗濯物を畳んでクローゼットに仕舞う。

 テレビのバラエティ番組などを流しながら箸でスパゲティを食す。

 そうこうしている内に。

「やっぱ箸だよね。カルボナーラだって箸でいくよね」

 松理がむくりと上体を起こした。

「こんばんわ。今日からしばらくお世話になります」

「うん。姉さんから事情は聞いた。お正月にみんなで初詣に行った時は、なんにも言ってなかったのに」

「松が取れる頃に、今年小学校入学だけどどうするって話になって、そこで決まった」

「相談もないとかはいつもそうだから、まぁ、いいんだけど」

 スポーツバッグの底の方から茶封筒を取り出し、それを松理が綾子に差し出す。

「とりあえず一月分のショバ代という事で。おれの小遣いもそこから出るそうなんで」

「うん。後で確認する。ちょうど明日あたし休みだから、日用品なんか買い出しに行こうか」

「よろしくお願いします」

 言って頭を下げた松理が、そのまま横に倒れてビーズの海に沈む。

「眠い。ごめんすっげー眠い」

「その前に、してないなら歯磨きしな」

「した。嘘してない。する」

「諸々、ルールなんかは明日起きてから決めようか。お菓子食べたらちゃんと片付けるとかさ」

「すいません反省します」

「ほれ、洗面台こっち。着いてきな」

「ほんと明日から本気出す。今日は寝る」

「一旦起きな。五分だけ起きて歯磨きしな」

 そんなふうに特段の変化も起きてないみたいに。

 六歳の甥と二十歳の叔母、松理と綾子の共同生活は始まって。

 そして昨日の繰り返しであるかのようにその一日目の夜は、更けた。


('94.4.19)
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