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第三章 永遠のまどろみ
3-6. アクール神殿の神官長
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「お許し下さい。私はここを出たくありません」
シグルド王宮からの、神殿を出て魔女を装えという通達に、イシスは血の気を引かせてかぶりをふった。
「イシス、姫巫女だからといって、貴方の勝手が何でも通るものではありません。その貴方の身勝手で、どれだけの大事となるか――貴方は、考えたことがあるのですか。十九にもなってその分別のなさ、恥を知りなさい」
厳粛で、静かで、威圧的な神官長の声が響く。
部屋の外から立ち聞きし、アディスはみるみる眉をひそめた。
美しいと言われる声だが、アディスは過去一度も、それに同意できたことがない。
アクール神殿神官長、セキュリア・ファートラット。
若い頃には抜きん出た美貌を謳われ、今もなお面影があると賞賛される人物ながら、アディスの目には、か弱い老女と見受けられるだけだった。声も容姿も美しいというより、無機質に思える。備えた理知は冷たく、整然としていて、例外を許さない。
それでも、赤の他人だったら構うことはなかっただろう。しかし。
アディスは知っている。
イシスの勝手がまるで通りはしないということを。『何でも』どころか『何一つ』通らないのだ。だから、イシスはここを出たくない。アクール神殿ではなく、その中の、他人の干渉を受けない彼女の空間――その小さな部屋を。
「貴方の恥は、アクール神殿の恥となるのです。私や皆に、恥をかかせるつもりなのですか。貴方が普通でないことを、隠し通すだけでも、私たちにどれだけ気を遣わせているか――貴方は考えもしないのですか。イシス、これ以上の勝手は許しませんよ」
顔を覆って部屋を出てきたイシスを、アディスは叫ばれないよう口元を押さえながら、物陰に連れ込んだ。
「――っ!」
イシスは初め、パニックに陥るかというくらい驚いて、次には拒絶の瞳で彼を睨んだ。
「イシス――……まだ、セキュリア様を庇うの」
イシスの口元を押さえていた手を離し、アディスが問いかけた。
「言ったわ。神殿内のことに口を出さないで。二度と、お母様に会わないで」
――貴方が手を回したくせに――
言葉にせず、目だけでアディスに怒り、非難する少女。
アディスはじっとイシスを見、その蒼い瞳から頬へと、幾筋も伝う涙を指先でなぞった。
「私が話せば止められる――行きたくないと思うのが、貴方の勝手なものか。勝手なのは、皆の方なんだから……」
本音を言うなら、それでも彼女と過ごせたらと、願っているけれど。
「やめて。できやしないわ。貴方はお母様を壊してしまう」
アディスには何も言えなかった。
過去、アディスはやはりイシスのことで、セキュリアと直に話し合いを持ったことがあるのだ。ところが、話し合いは決裂し、その際、セキュリアにひどい精神的苦痛を与えてしまったようだった。
セキュリアにとっては、『シグルドの王子が女装している』という噂だけでも、非常識この上ないことなのだ。あまつさえ、そのキチガイに意見させてなるものかと、まさに『聞く耳持たない』態度で応じたセキュリアは、彼の質問には決して答えず、話し合いを終わらせよう、終わらせようと、それだけに躍起になった。用意した、持てる限りの言葉の刃を放ち、アディスを退けようとした。(セキュリアは『規格通り』のものには誰より礼儀正しく、配慮して接するが、『規格外』のものには過剰なほどの嫌悪を示し、情け容赦なく排除しにかかる)しかし、それに対してアディスが怒りもせず、怯みもせず、怜悧な瞳で話し合いに持ち込む隙をうかがい続けると、アディスが何も言わないうちから、セキュリアは恐慌状態に陥ってしまった……。
結局アディスはその日、言いたいことなどちっとも言えないままに、帰らざるを得なかった。
後日、そのことでヒステリー気味になったセキュリアが、イシスにつらく当たり、他ならぬイシスにやめてくれと止められたので、アディスはそれ以来、黙っていることしかできなくなった。セキュリアのイシスに対する仕打ちがどんなに腹立たしくても。
それでもイシスがセキュリアを庇うなら、できることは、ただ一つだから。
「――わかった。なら、おいで。貴方は嫌がるけれど、私はずっと、貴方はここを出た方がいいと思っていた。私が必ず守るから――」
イシスは何も答えなかった。アディスは静かに、彼女を背中から抱いた。
「貴方はおかしくないし、決して、あんな風に言われるような、勝手を言ってもいなかった。もっと、貴方は自由になるべきなんだ。貴方の意志が通るべきなんだ。イシス――」
アディスはイシスの銀の髪にそっと口付けると、悪戯そうに微笑みかけて言ってのけた。
「魔女の館にするそうだから、貴方の好きな魔道書を何でもそろえてあげるよ。たとえ禁書であってもね。私が手を回すから」
「……アディス……?」
「大丈夫、少し、遊びに行くだけなんだから――灼熱月までには必ず、貴方が戻りたいと思った時に、戻れるようにしてあげる。大丈夫だ」
イシスは本当は方術よりも、むしろ魔術を好む。
その才はどちらにおいても類稀で、彼女が魔術を使う姿を見れば、人は彼女を『大魔法使いイシス』と呼んだし、アクール神殿で彼女を見れば、『奇跡の姫巫女イシス』と呼んだ。
「……」
イシスはこくりと頷くと、なお虚ろに、それでもアディスの腕に収まった。
――本日のイシス、鈴掛。
◆ 鈴掛(リグラ) ― 礼儀正しく大人しい。自分以外の全ての他人を尊重し、思いやる。何かあると、皆自分が悪いと感じる。セキュリアのお説教を受けた後などに出やすい。
シグルド王宮からの、神殿を出て魔女を装えという通達に、イシスは血の気を引かせてかぶりをふった。
「イシス、姫巫女だからといって、貴方の勝手が何でも通るものではありません。その貴方の身勝手で、どれだけの大事となるか――貴方は、考えたことがあるのですか。十九にもなってその分別のなさ、恥を知りなさい」
厳粛で、静かで、威圧的な神官長の声が響く。
部屋の外から立ち聞きし、アディスはみるみる眉をひそめた。
美しいと言われる声だが、アディスは過去一度も、それに同意できたことがない。
アクール神殿神官長、セキュリア・ファートラット。
若い頃には抜きん出た美貌を謳われ、今もなお面影があると賞賛される人物ながら、アディスの目には、か弱い老女と見受けられるだけだった。声も容姿も美しいというより、無機質に思える。備えた理知は冷たく、整然としていて、例外を許さない。
それでも、赤の他人だったら構うことはなかっただろう。しかし。
アディスは知っている。
イシスの勝手がまるで通りはしないということを。『何でも』どころか『何一つ』通らないのだ。だから、イシスはここを出たくない。アクール神殿ではなく、その中の、他人の干渉を受けない彼女の空間――その小さな部屋を。
「貴方の恥は、アクール神殿の恥となるのです。私や皆に、恥をかかせるつもりなのですか。貴方が普通でないことを、隠し通すだけでも、私たちにどれだけ気を遣わせているか――貴方は考えもしないのですか。イシス、これ以上の勝手は許しませんよ」
顔を覆って部屋を出てきたイシスを、アディスは叫ばれないよう口元を押さえながら、物陰に連れ込んだ。
「――っ!」
イシスは初め、パニックに陥るかというくらい驚いて、次には拒絶の瞳で彼を睨んだ。
「イシス――……まだ、セキュリア様を庇うの」
イシスの口元を押さえていた手を離し、アディスが問いかけた。
「言ったわ。神殿内のことに口を出さないで。二度と、お母様に会わないで」
――貴方が手を回したくせに――
言葉にせず、目だけでアディスに怒り、非難する少女。
アディスはじっとイシスを見、その蒼い瞳から頬へと、幾筋も伝う涙を指先でなぞった。
「私が話せば止められる――行きたくないと思うのが、貴方の勝手なものか。勝手なのは、皆の方なんだから……」
本音を言うなら、それでも彼女と過ごせたらと、願っているけれど。
「やめて。できやしないわ。貴方はお母様を壊してしまう」
アディスには何も言えなかった。
過去、アディスはやはりイシスのことで、セキュリアと直に話し合いを持ったことがあるのだ。ところが、話し合いは決裂し、その際、セキュリアにひどい精神的苦痛を与えてしまったようだった。
セキュリアにとっては、『シグルドの王子が女装している』という噂だけでも、非常識この上ないことなのだ。あまつさえ、そのキチガイに意見させてなるものかと、まさに『聞く耳持たない』態度で応じたセキュリアは、彼の質問には決して答えず、話し合いを終わらせよう、終わらせようと、それだけに躍起になった。用意した、持てる限りの言葉の刃を放ち、アディスを退けようとした。(セキュリアは『規格通り』のものには誰より礼儀正しく、配慮して接するが、『規格外』のものには過剰なほどの嫌悪を示し、情け容赦なく排除しにかかる)しかし、それに対してアディスが怒りもせず、怯みもせず、怜悧な瞳で話し合いに持ち込む隙をうかがい続けると、アディスが何も言わないうちから、セキュリアは恐慌状態に陥ってしまった……。
結局アディスはその日、言いたいことなどちっとも言えないままに、帰らざるを得なかった。
後日、そのことでヒステリー気味になったセキュリアが、イシスにつらく当たり、他ならぬイシスにやめてくれと止められたので、アディスはそれ以来、黙っていることしかできなくなった。セキュリアのイシスに対する仕打ちがどんなに腹立たしくても。
それでもイシスがセキュリアを庇うなら、できることは、ただ一つだから。
「――わかった。なら、おいで。貴方は嫌がるけれど、私はずっと、貴方はここを出た方がいいと思っていた。私が必ず守るから――」
イシスは何も答えなかった。アディスは静かに、彼女を背中から抱いた。
「貴方はおかしくないし、決して、あんな風に言われるような、勝手を言ってもいなかった。もっと、貴方は自由になるべきなんだ。貴方の意志が通るべきなんだ。イシス――」
アディスはイシスの銀の髪にそっと口付けると、悪戯そうに微笑みかけて言ってのけた。
「魔女の館にするそうだから、貴方の好きな魔道書を何でもそろえてあげるよ。たとえ禁書であってもね。私が手を回すから」
「……アディス……?」
「大丈夫、少し、遊びに行くだけなんだから――灼熱月までには必ず、貴方が戻りたいと思った時に、戻れるようにしてあげる。大丈夫だ」
イシスは本当は方術よりも、むしろ魔術を好む。
その才はどちらにおいても類稀で、彼女が魔術を使う姿を見れば、人は彼女を『大魔法使いイシス』と呼んだし、アクール神殿で彼女を見れば、『奇跡の姫巫女イシス』と呼んだ。
「……」
イシスはこくりと頷くと、なお虚ろに、それでもアディスの腕に収まった。
――本日のイシス、鈴掛。
◆ 鈴掛(リグラ) ― 礼儀正しく大人しい。自分以外の全ての他人を尊重し、思いやる。何かあると、皆自分が悪いと感じる。セキュリアのお説教を受けた後などに出やすい。
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