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本編
⑨遠く離れても
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「落ち着いて、柊くん」
「で…でも、電話も通じないし…、メッセージも既読にならないんです! ま…まさか…燿一郎に、何かあったら……」
徹夜して朝まで待っても連絡がつかなくて、家を飛び出した俺は、開店準備中だった茜のカフェに飛び込んだ。
髪はボサボサだし、ここに来るまでに走って転んだので、泥だらけのひどい格好だった。
とりあえず入ってと言われて、スタッフルームに通された。取り乱した俺とは対照的に茜は落ち着いていて、着替えと簡単な朝食を用意してくれた。
「心当たりはあるのよ。前もこんな感じだったから、暴力の件で呼び出されて…、そのまま飛行機に乗せられたの。自分の言う通りにならなければ、父はそこまでする人だから」
「じゃあ…今回も……」
「柊くん。私はもちろん、二人を応援したいけど、貴方達はまだ大人に見えて立場は子供なのよ。父がダメだと言えばこんな風に、無理矢理会えないようにすることもできる」
背中に寒気が走った。
二人でずっと生きていきたいと思っていた。けれど、ずっとこのままではいられないという思いが常に付き纏っていた。
素直にそう考えていられるほど、お互い普通の家ではなかった。
胸に宿った焦燥感。それを象徴するかのように、俺のスマホが震え出した。
恐る恐る画面を見ると母親の名前が表示されていた。
一気に身体中が冷えて、俺は震える手で通話ボタンを押した。
久々に戻った家はひどく冷たくて、寒かった。
ぽたぽたと水が落ちる音が、色のなくなった部屋に響いていた。
そこにパシンっと乾いた音が加わって、俺は身動きせずに痛みを受け止めた。
「九鬼家から正式に抗議の連絡が来ました。この恥知らずが!」
「……………」
「お前が体を使って誘惑して、御子息をたらし込んだというのはすでに調査済みだそうよ。あちらは九鬼家の跡取りとして、すでに婚約の話もあって、お前のようなオメガが近くにいる事は迷惑でしかない。ましてや、御子息は番になりたいなんて言っているそうじゃない。そんな事になったら……どんな代償があるか……」
「代償……」
「そうよ! お金だけじゃ済まされない。草壁の家の名も傷がつく……なんて親不孝な子なの! オメガになって役立たずのくせに…また迷惑を……」
体が痺れたように動かなかったが、腹の奥から怒りが湧いてきた。
母に怒鳴られても、何も言えずに黙って耐えてきた。
それは俺がオメガになってしまったことで、俺のせいだと言われるままに受け止めていたから。
だけど、燿一郎はオメガの俺も発情していない時でも、俺のことを求めてくれた。
アルファの仮面をつけて、その下で泣いていた俺。燿一郎はその仮面を外して涙を拭いてくれた。
俺が今ここで何も言わずに、また仮面を黙って付けることは、せっかく支えてくれた燿一郎を傷つけることになる。
そんなこと、絶対に嫌だった。
「母さん、認めてよ。俺はオメガであっても、母さんの子供だよ」
「………」
「いや、アルファと呼ばれていた時から、母さんは、俺のこと……認めてくれなかったよね」
「………」
今まで立ち上がったまま俺を睨みつけていた母は、動揺したように少し後ろに下がった。
「もう…、認めなよ。父さんは帰らない。恋人を選んだって」
「し…柊!!」
「草壁がなんだよ…、しがみついて守り抜いて、何が残るんだよ! 結局父さんは帰って来ない。息子達は巣立って…それで終わり。ここにいて母さんに何が残るんだ!」
「あ…あなたに、何が分かるの!」
「分かるよ! 俺だってしがみついていた。アルファじゃないと認めてもらえない。オメガじゃダメなんだ、アルファじゃなくなった自分に価値はない……」
まるで自分のことを言われたようにショックを受けた顔をして、母は椅子に崩れるように座った。
「俺は…燿一郎と本気で愛し合っている。燿一郎は俺にとって運命の番、オメガである俺のことを認めてくれた。何にもなくても何もできなくても……俺のこと……好きだって言ってくれた! 俺は燿一郎のために、何かしたい! ずっと一緒にいられるならなんでもする!」
「バカね、子供よ。そんなの……そんな相手なんて……」
「母さんだっていたでしょう。そういう相手が……。俺のことバカだって言える? 後悔してないって…言えるの?」
一瞬だけ母の目が幼い少女のように見えた。辛辣な言葉でいつも俺を傷つけてきた母。けれどいつも寂しげで悲しそうな瞳をした人だった。そしてその瞳が伯父を見るときにだけ、少し輝いて見えたのは見間違いじゃないはずだ。
政略結婚で、愛されることはなく、ただひたすら草壁の名でいることにこだわったのは、伯父を想って、伯父と同じ名字でいたかったのではないか、そう考えていた。
母は何も言わなかった。
ただ机の上で組まれた手が小刻みに震えていて、それをずっと見つめていた。
「……ごめんね。母さんの好きなアルファになれなくて。俺…オメガになって……ごめん」
「やめて…、も……いいの……。柊は……悪くない。ダメなのは…私。欲張りだった……何もかも欲しくてたまらなかった。だって…私は結局……誰からも愛されず……何も……ない。柊が……羨ましかった。私もオメガだったら……誰かに愛してもらえたかもしれないって……」
今まで傷つけられたものはまだ癒えることはないし、俺の根底に深く根付いてしまったけれど、俺はもともと母のことが嫌いになれなかった。
泣き崩れて机に突っ伏した母の背中を撫でた。
記憶にある母より、ずっと痩せていて小さな背中だった。
「柊、行きなさい」
「……え?」
「九鬼の本家。今日、御子息の頭を冷やすためにまた海外へ送ろうとしていると聞いたわ。夜の便だと聞いたから…、まだ間に合うかもしれない。貴方は私よりずっと強い子だわ……私みたいな後悔はしないで……」
ぐっと手に力を入れて、俺は息を吸い込んでから走って玄関を出た。
表通りに出ると運良くタクシーがつかまったので、運転手さんに急いでくださいとお願いして九鬼の本家へ向かった。
燿一郎はきっと、俺に連絡を取りたくても取れない状況にいる。
もしかしたら、どれだけ話しても通じ合えない父親に、心が疲れ切ってしまっているのかもしれない。
絶対、絶対に行かせない。
信号が赤になる度に、小さく唸りながら、俺は一秒でも早く到着するように願い続けた。
九鬼家の長い塀を抜けて、玄関付近までたどり着くと、数台の車列があった。
今まさに走り出そうとして、人が乗り込んでいるところだった。
タクシーを降りた俺は、全速力で走って先頭の車の前に飛び出した。
当然クラクションを鳴らされたが、そんなことでは怯まなかった。
「燿一郎を……燿一郎を出してください! 連れて行かないでください! じゃないと俺は絶対にここから動かない!」
幼すぎる抵抗だった。
すぐに数人の男達が出てきて俺を取り押させて、路肩に連れて行かれそうになる。
必死に歯を食いしばって耐えようしていると、真ん中の車がガタガタと揺れ始めて、車内の方でも騒ぎ出した。
「し…柊! 柊!」
間もなくして開かれたドアから転がるように飛び出してきたのは、燿一郎だった。
後ろ手に縛られて、口に布を巻かれていたようだが、対抗したらしくそれが外れて首元まで下がっていた。
「燿一郎! 離せっ…離せよ!!」
燿一郎の姿が見えたら心臓が壊れそうになって、頭がカッと熱くなった。
押さえてくる男達から無我夢中でもがいて燿一郎の元へ行きたいのに、強い力で後ろから羽交い締めにされてそれが叶わない。
燿一郎もまた、車外に飛び出したところで、駆けつけてきた者達に取り押さえられてしまった。
このままどうなってもいから暴れて燿一郎を助けたいと思って体に力を入れたが、それを悟ったのか、燿一郎は急に力が抜けたようになって優しい声で俺の名前を呼んだ。
「柊…だめだ。怪我をして欲しくない」
「燿一郎…や…やだ…いやだ」
「必ず…力をつけて、今度は誰にも邪魔されないようにして…帰ってくるから……柊、待っていてくれ」
心は大人のように振る舞っても、俺達が持てる力など限られている。ここから二人で逃げ出したとしても、ずっと追われる身でいつか連れ戻されてしまうだろう。
そんなこと……
そんなことは分かっている
それでも……
最後の抵抗と、歯を食いしばってもがいて引き剥がそうとする俺を見て、燿一郎は泣いていた。
「柊……愛している。離れても…どこにいても…いつもお前を思っている」
燿一郎は男達に立たされて、また車の中に入れられてしまった。
直ぐに動き出した車、スモークがかかった窓には、下を向いている燿一郎の姿がうっすらと見えた。
とっくに力が抜けてしまった俺を、取り押さえていた男達は路肩に放置して、自分達も車に乗り込んだ。
ひとり路上に座り込んで、去っていく車を愕然としながら見つめた。
だが、小さくなっていく車が耐えきれなくて、俺はよたよたと立ち上がって歩き出した。
今さら追いつけるわけがないのに、だんだんと速度が上がり、いつしか本気で走り出した。
もうとっくに車は行ってしまい、影すら見えることはないのに、俺は走り続けた。
汗だくで息も上がり、ひどすぎる姿だったが構わず走り続けた。
足を止めたくなかった。
足を止めたら、もう二度と燿一郎に会えない気がして、止めることができなかった。
それでも終わりはやってくる。
ぼろぼろになった足に力が入らなくなり、めくれたコンクリートに躓いて、俺はついに路上に倒れ込んだ。
仰向けになった俺に、ギラギラと強い夏の日差しが降り注いだ。
悔しくてポロリとこぼれた涙が目尻から下に落ちていった。
「くっ……くそっ…くそぉ……」
自分の無力さが悔しくてたまらなかった。
地面に染み込んでいく涙、動かない手足。
どこからか聞こえてくる蝉の声がずっと頭に響いていた。
運命のように出会い、全力で恋をした。
俺と燿一郎の夏は、誰よりも早く終わってしまった。
※※※※
「柊くーん、これ二番テーブル」
はい、と返事をして、カウンターに置かれたケーキが載せられた皿を持って歩き出した。
ポニーテールの可愛らしい女子高生達が座っているテーブルにお皿を置いた。
店の常連である二人の白いワンピースを見て懐かしさに目を細めた。
「お待たせしました。本日のデザート、チーズケーキベリー添えです」
大きな瞳を輝かせて、にっこりと笑う女の子達が眩しい。可愛らしい女の子達とスイーツは絵になるようによく似合っていた。
俺もにっこりと笑ってテーブルを離れると、二人の話す小さな声が聞こえていた。
「ねぇ、草壁さんってウチの卒業生なんでしょう」
「えっ…カッコいいけど、オメガだよね…」
「そういえば…、ちょっと甘い匂いが…」
彼女達に見えないようにクスリと笑いながら、気づかないフリをしてキッチンスペースへ戻った。
「柊くん、来週さ、貸切り入っちゃってフルで頼める?」
苺柄の派手なエプロンを付けた茜が事務室から飛び出して来た。ちょうど予約の電話を受けたばかりなのだろう。
「いいですよ。もう卒論も終わりましたし、授業はほとんどありませんから」
「ありがとう! 最近大口の予約なかったから、困ってたのよ。助かる」
茜はルンルンで事務室に戻って行った。可愛く揺れるお団子頭を見ながら、俺は微笑んだ。
俺が運命の出会いをしてから、約五年の月日が流れていた。
俺と燿一郎はというと、離れ離れになってしまったが、二人の線は途切れることなく繋がっている。
と、俺は思っている。
待っていてくれと言われて、俺は待ち続けている。
燿一郎は海外へ連れて行かれ、そのまま海外の大学へ進んだ。
俺は伯父の心遣いで系列の大学へ進み、もうすぐ卒業を控えていた。
茜に声をかけてもらい、大学に通いながらカフェでアルバイトをしている。
高校を卒業してからは、自分がオメガであることを隠してはいない。
強い薬を飲まなくなったので、匂いでバレてしまうことも多いし、発情期は休むことになるので、いっそのこと堂々と言うことにした。
それで離れていく人間もいたが、もう気にはしていない。
周りの人間と適当に上手くやるが、俺が本当に側にいて欲しい人間は一人だけだ。
オメガであることで、他の人間がからいくら冷たい視線を浴びても、痛くも痒くもない。
「柊」
名前を呼ばれて心臓がドキッとした。でもそれが燿一郎の声でないことはすぐに分かって、俺は冷静になって振り向いた。
「いつものコーヒー頼むよ」
「堤先輩」
今日も近くまで来たからフラリと立ち寄ったのか、背が高くがっしりとした体格にシルバーグレーのスーツはピッタリ似合っていた。
甘い顔だが、目だけやけに鋭くて、何となく燿一郎に似ている気がして心が緩んでしまう。
「サボりなんて言わないでくれよ。柊の顔を見ないと落ち着かないんだ」
「言いませんよ。会社遠いのに、わざわざ来てくれるお得意様ですから」
堤は大学の二年先輩で、同じゼミだったこともあり在学中からよく世話になった。
アルファらしく優秀な人だが、尊大な態度はなく、誰にでも公平に優しい人だ。
就職難で困っていた俺のために口を利いてくれて、オメガであってもいいと言ってくれる会社を紹介してくれた。
おかげで早々に就職先も決まり、のんびりと残りの学生生活を過ごすことができた。
「今日は帰りが遅いのかな? 良かったら車を出すよ。帰り道だし」
「そんな…悪いですから…大丈夫です」
誰にでも公平に優しいが、たまに俺には優しすぎる気もする。正直一人で生きていくのは色々と大変なこともあり、その優しさに甘えてしまっていた。
高校卒業とともに、俺は一人で暮らし始めた。
と言っても、家族はバラバラになってしまったから、一人で暮らすしかなかった。
高二の時、愛人の家から帰らなくなった父。
実は愛人が不治の病にかかっていて、離れることができなかったそうだ。
その後、愛人を看取ったが、母との仲が戻るわけもなく、二人は離婚した。
母は兄夫婦の家に行き、父は一人で暮らしている。
母とも父とも、まだ良好とは言えない関係である。それでもいつかは変わることができるかもしれないと思っている。
今すぐには無理だが、きっといつかは……
「料理は? ちゃんと自炊はできてる?」
「ご飯だけは上手く炊けるようになりました」
「ははっ…ボタンを押すだけじゃないか」
いつもの調子でからかってくる堤を軽く睨んでから、他のテーブルで呼ばれたのでオーダーに向かった。
店内の掃除が終わり、ゴミの処理をして、店内の明かりを消してから鍵をかけた。
子供がまだ小さい茜は先に上がって、俺が締め作業を任されるのはよくあった。
今日は途中から熱っぽくて早く帰りたかったが仕方がなかった。
まだ電車のある時間だが、人通りは少ない。
肌を刺すように冷たい風が吹いてきて、慌ててコートの前を合わせた。
学校にバイト。
いつも人に囲まれているが、こうやって一人きりになるといつも考えてしまう。
燿一郎とはメールで連絡を取るくらいだ。
本当は声を聞きたいけれど、一度声を聞いたら待つという約束を忘れて、全て投げ出して会いに行ってしまいそうでできなかった。
向こうも同じなのかもしれない。
当たり障りのない近況を送りあって、いつも画面に映る燿一郎の書いた文字を指で撫でていた。
会いたいと、何度入力して消したか分からない。
その度に涙を流す燿一郎の顔を思い出して耐えた。
遠い異国で頑張っている恋人。
いつか帰ってくると、5年前に聞かされた約束を必死で信じて待っている。
普段は強く張った糸のように、揺るぎない気持ちで耐えることができる。だが発情期はつらくてたまらなかった。
弱い薬で抑えても、抑えきれないものが体から溢れてくる。
燿一郎の名を呼び、頭に思い浮かべながら、何度果てるか分からない。
夜道を歩いていたら、足元がフラついて、やはりマズイと感じてきた。
慌てて鞄から薬を取り出そうとしたが、ピルケースをカフェのロッカーに忘れてきたことに気がついた。
今から戻るより、自宅に帰ったほうが早い。
俺は下を向きながら必死で足を進めた。
三ヶ月に一度は来ていた発情期だが、燿一郎と会えなくなってから、半年に一度、年に一度と少なくなっていた。
少なければそれで楽なのだが、まるでいなくなった相手を体が求めて悲鳴を上げるみたいに、発情期が始まると狂ったようにフェロモンを撒き散らして相手を求めてしまう。
家には常にこもれる準備をして、前兆があれば前日から部屋にこもり、ドアや窓にガムテープを貼って絶対に誰にも会うことなく過ごす。
唯一茜だけは気にして来てくれるが、他の人間とは絶対に接触しなかった。
油断をしていた。
前回の発情が三ヶ月前。周期が遅くなって次はまだ先だろうと思い込んでいた。
「はぁ…ゃ…帰らないと……」
ふと気がつくと、後ろから付けられているような気配がした。
幸い夜の遅い時間は人通りがなかったが、完全に誰も来ないわけではない。
まだそこまで出ていないはずだが、フェロモンを嗅ぎつけたやつがいるのかもしれない。このままだとマズイと思って俺は走り出した。
道端に転がっている小石に躓いて転びそうになりながら俺は走った。
この5年、飛躍的に向上したのは家事の能力ではなく、走るスピードかもしれない。
全速力で走ってマンションまでたどり着いてから、部屋に飛び込んで鍵を掛けた。
これで大丈夫、そう思ってとりあえず玄関に置いていた緊急抑制剤をがぶ飲みしたところでインターフォンが鳴り響いた。
さっき追いかけて来たやつかもしれない。こんな状態で出られるわけがないし、居留守を使おうと思っていたら、今度はガタガタとドアノブが動いた。
恐怖で足がすくんで思わず座り込んでスマホを手に取った。
助けを求めようとしたところで、ふと前にもこんな状況があったような気がして手を止めた。
埃っぽくて薄暗い教室。
積み上げられた机や椅子の横で、初めて抱かれた記憶。
まさか…
期待と不安が入り混じった状態で震える手を伸ばして、俺はドアにゆっくりと触れた。
□□□
「で…でも、電話も通じないし…、メッセージも既読にならないんです! ま…まさか…燿一郎に、何かあったら……」
徹夜して朝まで待っても連絡がつかなくて、家を飛び出した俺は、開店準備中だった茜のカフェに飛び込んだ。
髪はボサボサだし、ここに来るまでに走って転んだので、泥だらけのひどい格好だった。
とりあえず入ってと言われて、スタッフルームに通された。取り乱した俺とは対照的に茜は落ち着いていて、着替えと簡単な朝食を用意してくれた。
「心当たりはあるのよ。前もこんな感じだったから、暴力の件で呼び出されて…、そのまま飛行機に乗せられたの。自分の言う通りにならなければ、父はそこまでする人だから」
「じゃあ…今回も……」
「柊くん。私はもちろん、二人を応援したいけど、貴方達はまだ大人に見えて立場は子供なのよ。父がダメだと言えばこんな風に、無理矢理会えないようにすることもできる」
背中に寒気が走った。
二人でずっと生きていきたいと思っていた。けれど、ずっとこのままではいられないという思いが常に付き纏っていた。
素直にそう考えていられるほど、お互い普通の家ではなかった。
胸に宿った焦燥感。それを象徴するかのように、俺のスマホが震え出した。
恐る恐る画面を見ると母親の名前が表示されていた。
一気に身体中が冷えて、俺は震える手で通話ボタンを押した。
久々に戻った家はひどく冷たくて、寒かった。
ぽたぽたと水が落ちる音が、色のなくなった部屋に響いていた。
そこにパシンっと乾いた音が加わって、俺は身動きせずに痛みを受け止めた。
「九鬼家から正式に抗議の連絡が来ました。この恥知らずが!」
「……………」
「お前が体を使って誘惑して、御子息をたらし込んだというのはすでに調査済みだそうよ。あちらは九鬼家の跡取りとして、すでに婚約の話もあって、お前のようなオメガが近くにいる事は迷惑でしかない。ましてや、御子息は番になりたいなんて言っているそうじゃない。そんな事になったら……どんな代償があるか……」
「代償……」
「そうよ! お金だけじゃ済まされない。草壁の家の名も傷がつく……なんて親不孝な子なの! オメガになって役立たずのくせに…また迷惑を……」
体が痺れたように動かなかったが、腹の奥から怒りが湧いてきた。
母に怒鳴られても、何も言えずに黙って耐えてきた。
それは俺がオメガになってしまったことで、俺のせいだと言われるままに受け止めていたから。
だけど、燿一郎はオメガの俺も発情していない時でも、俺のことを求めてくれた。
アルファの仮面をつけて、その下で泣いていた俺。燿一郎はその仮面を外して涙を拭いてくれた。
俺が今ここで何も言わずに、また仮面を黙って付けることは、せっかく支えてくれた燿一郎を傷つけることになる。
そんなこと、絶対に嫌だった。
「母さん、認めてよ。俺はオメガであっても、母さんの子供だよ」
「………」
「いや、アルファと呼ばれていた時から、母さんは、俺のこと……認めてくれなかったよね」
「………」
今まで立ち上がったまま俺を睨みつけていた母は、動揺したように少し後ろに下がった。
「もう…、認めなよ。父さんは帰らない。恋人を選んだって」
「し…柊!!」
「草壁がなんだよ…、しがみついて守り抜いて、何が残るんだよ! 結局父さんは帰って来ない。息子達は巣立って…それで終わり。ここにいて母さんに何が残るんだ!」
「あ…あなたに、何が分かるの!」
「分かるよ! 俺だってしがみついていた。アルファじゃないと認めてもらえない。オメガじゃダメなんだ、アルファじゃなくなった自分に価値はない……」
まるで自分のことを言われたようにショックを受けた顔をして、母は椅子に崩れるように座った。
「俺は…燿一郎と本気で愛し合っている。燿一郎は俺にとって運命の番、オメガである俺のことを認めてくれた。何にもなくても何もできなくても……俺のこと……好きだって言ってくれた! 俺は燿一郎のために、何かしたい! ずっと一緒にいられるならなんでもする!」
「バカね、子供よ。そんなの……そんな相手なんて……」
「母さんだっていたでしょう。そういう相手が……。俺のことバカだって言える? 後悔してないって…言えるの?」
一瞬だけ母の目が幼い少女のように見えた。辛辣な言葉でいつも俺を傷つけてきた母。けれどいつも寂しげで悲しそうな瞳をした人だった。そしてその瞳が伯父を見るときにだけ、少し輝いて見えたのは見間違いじゃないはずだ。
政略結婚で、愛されることはなく、ただひたすら草壁の名でいることにこだわったのは、伯父を想って、伯父と同じ名字でいたかったのではないか、そう考えていた。
母は何も言わなかった。
ただ机の上で組まれた手が小刻みに震えていて、それをずっと見つめていた。
「……ごめんね。母さんの好きなアルファになれなくて。俺…オメガになって……ごめん」
「やめて…、も……いいの……。柊は……悪くない。ダメなのは…私。欲張りだった……何もかも欲しくてたまらなかった。だって…私は結局……誰からも愛されず……何も……ない。柊が……羨ましかった。私もオメガだったら……誰かに愛してもらえたかもしれないって……」
今まで傷つけられたものはまだ癒えることはないし、俺の根底に深く根付いてしまったけれど、俺はもともと母のことが嫌いになれなかった。
泣き崩れて机に突っ伏した母の背中を撫でた。
記憶にある母より、ずっと痩せていて小さな背中だった。
「柊、行きなさい」
「……え?」
「九鬼の本家。今日、御子息の頭を冷やすためにまた海外へ送ろうとしていると聞いたわ。夜の便だと聞いたから…、まだ間に合うかもしれない。貴方は私よりずっと強い子だわ……私みたいな後悔はしないで……」
ぐっと手に力を入れて、俺は息を吸い込んでから走って玄関を出た。
表通りに出ると運良くタクシーがつかまったので、運転手さんに急いでくださいとお願いして九鬼の本家へ向かった。
燿一郎はきっと、俺に連絡を取りたくても取れない状況にいる。
もしかしたら、どれだけ話しても通じ合えない父親に、心が疲れ切ってしまっているのかもしれない。
絶対、絶対に行かせない。
信号が赤になる度に、小さく唸りながら、俺は一秒でも早く到着するように願い続けた。
九鬼家の長い塀を抜けて、玄関付近までたどり着くと、数台の車列があった。
今まさに走り出そうとして、人が乗り込んでいるところだった。
タクシーを降りた俺は、全速力で走って先頭の車の前に飛び出した。
当然クラクションを鳴らされたが、そんなことでは怯まなかった。
「燿一郎を……燿一郎を出してください! 連れて行かないでください! じゃないと俺は絶対にここから動かない!」
幼すぎる抵抗だった。
すぐに数人の男達が出てきて俺を取り押させて、路肩に連れて行かれそうになる。
必死に歯を食いしばって耐えようしていると、真ん中の車がガタガタと揺れ始めて、車内の方でも騒ぎ出した。
「し…柊! 柊!」
間もなくして開かれたドアから転がるように飛び出してきたのは、燿一郎だった。
後ろ手に縛られて、口に布を巻かれていたようだが、対抗したらしくそれが外れて首元まで下がっていた。
「燿一郎! 離せっ…離せよ!!」
燿一郎の姿が見えたら心臓が壊れそうになって、頭がカッと熱くなった。
押さえてくる男達から無我夢中でもがいて燿一郎の元へ行きたいのに、強い力で後ろから羽交い締めにされてそれが叶わない。
燿一郎もまた、車外に飛び出したところで、駆けつけてきた者達に取り押さえられてしまった。
このままどうなってもいから暴れて燿一郎を助けたいと思って体に力を入れたが、それを悟ったのか、燿一郎は急に力が抜けたようになって優しい声で俺の名前を呼んだ。
「柊…だめだ。怪我をして欲しくない」
「燿一郎…や…やだ…いやだ」
「必ず…力をつけて、今度は誰にも邪魔されないようにして…帰ってくるから……柊、待っていてくれ」
心は大人のように振る舞っても、俺達が持てる力など限られている。ここから二人で逃げ出したとしても、ずっと追われる身でいつか連れ戻されてしまうだろう。
そんなこと……
そんなことは分かっている
それでも……
最後の抵抗と、歯を食いしばってもがいて引き剥がそうとする俺を見て、燿一郎は泣いていた。
「柊……愛している。離れても…どこにいても…いつもお前を思っている」
燿一郎は男達に立たされて、また車の中に入れられてしまった。
直ぐに動き出した車、スモークがかかった窓には、下を向いている燿一郎の姿がうっすらと見えた。
とっくに力が抜けてしまった俺を、取り押さえていた男達は路肩に放置して、自分達も車に乗り込んだ。
ひとり路上に座り込んで、去っていく車を愕然としながら見つめた。
だが、小さくなっていく車が耐えきれなくて、俺はよたよたと立ち上がって歩き出した。
今さら追いつけるわけがないのに、だんだんと速度が上がり、いつしか本気で走り出した。
もうとっくに車は行ってしまい、影すら見えることはないのに、俺は走り続けた。
汗だくで息も上がり、ひどすぎる姿だったが構わず走り続けた。
足を止めたくなかった。
足を止めたら、もう二度と燿一郎に会えない気がして、止めることができなかった。
それでも終わりはやってくる。
ぼろぼろになった足に力が入らなくなり、めくれたコンクリートに躓いて、俺はついに路上に倒れ込んだ。
仰向けになった俺に、ギラギラと強い夏の日差しが降り注いだ。
悔しくてポロリとこぼれた涙が目尻から下に落ちていった。
「くっ……くそっ…くそぉ……」
自分の無力さが悔しくてたまらなかった。
地面に染み込んでいく涙、動かない手足。
どこからか聞こえてくる蝉の声がずっと頭に響いていた。
運命のように出会い、全力で恋をした。
俺と燿一郎の夏は、誰よりも早く終わってしまった。
※※※※
「柊くーん、これ二番テーブル」
はい、と返事をして、カウンターに置かれたケーキが載せられた皿を持って歩き出した。
ポニーテールの可愛らしい女子高生達が座っているテーブルにお皿を置いた。
店の常連である二人の白いワンピースを見て懐かしさに目を細めた。
「お待たせしました。本日のデザート、チーズケーキベリー添えです」
大きな瞳を輝かせて、にっこりと笑う女の子達が眩しい。可愛らしい女の子達とスイーツは絵になるようによく似合っていた。
俺もにっこりと笑ってテーブルを離れると、二人の話す小さな声が聞こえていた。
「ねぇ、草壁さんってウチの卒業生なんでしょう」
「えっ…カッコいいけど、オメガだよね…」
「そういえば…、ちょっと甘い匂いが…」
彼女達に見えないようにクスリと笑いながら、気づかないフリをしてキッチンスペースへ戻った。
「柊くん、来週さ、貸切り入っちゃってフルで頼める?」
苺柄の派手なエプロンを付けた茜が事務室から飛び出して来た。ちょうど予約の電話を受けたばかりなのだろう。
「いいですよ。もう卒論も終わりましたし、授業はほとんどありませんから」
「ありがとう! 最近大口の予約なかったから、困ってたのよ。助かる」
茜はルンルンで事務室に戻って行った。可愛く揺れるお団子頭を見ながら、俺は微笑んだ。
俺が運命の出会いをしてから、約五年の月日が流れていた。
俺と燿一郎はというと、離れ離れになってしまったが、二人の線は途切れることなく繋がっている。
と、俺は思っている。
待っていてくれと言われて、俺は待ち続けている。
燿一郎は海外へ連れて行かれ、そのまま海外の大学へ進んだ。
俺は伯父の心遣いで系列の大学へ進み、もうすぐ卒業を控えていた。
茜に声をかけてもらい、大学に通いながらカフェでアルバイトをしている。
高校を卒業してからは、自分がオメガであることを隠してはいない。
強い薬を飲まなくなったので、匂いでバレてしまうことも多いし、発情期は休むことになるので、いっそのこと堂々と言うことにした。
それで離れていく人間もいたが、もう気にはしていない。
周りの人間と適当に上手くやるが、俺が本当に側にいて欲しい人間は一人だけだ。
オメガであることで、他の人間がからいくら冷たい視線を浴びても、痛くも痒くもない。
「柊」
名前を呼ばれて心臓がドキッとした。でもそれが燿一郎の声でないことはすぐに分かって、俺は冷静になって振り向いた。
「いつものコーヒー頼むよ」
「堤先輩」
今日も近くまで来たからフラリと立ち寄ったのか、背が高くがっしりとした体格にシルバーグレーのスーツはピッタリ似合っていた。
甘い顔だが、目だけやけに鋭くて、何となく燿一郎に似ている気がして心が緩んでしまう。
「サボりなんて言わないでくれよ。柊の顔を見ないと落ち着かないんだ」
「言いませんよ。会社遠いのに、わざわざ来てくれるお得意様ですから」
堤は大学の二年先輩で、同じゼミだったこともあり在学中からよく世話になった。
アルファらしく優秀な人だが、尊大な態度はなく、誰にでも公平に優しい人だ。
就職難で困っていた俺のために口を利いてくれて、オメガであってもいいと言ってくれる会社を紹介してくれた。
おかげで早々に就職先も決まり、のんびりと残りの学生生活を過ごすことができた。
「今日は帰りが遅いのかな? 良かったら車を出すよ。帰り道だし」
「そんな…悪いですから…大丈夫です」
誰にでも公平に優しいが、たまに俺には優しすぎる気もする。正直一人で生きていくのは色々と大変なこともあり、その優しさに甘えてしまっていた。
高校卒業とともに、俺は一人で暮らし始めた。
と言っても、家族はバラバラになってしまったから、一人で暮らすしかなかった。
高二の時、愛人の家から帰らなくなった父。
実は愛人が不治の病にかかっていて、離れることができなかったそうだ。
その後、愛人を看取ったが、母との仲が戻るわけもなく、二人は離婚した。
母は兄夫婦の家に行き、父は一人で暮らしている。
母とも父とも、まだ良好とは言えない関係である。それでもいつかは変わることができるかもしれないと思っている。
今すぐには無理だが、きっといつかは……
「料理は? ちゃんと自炊はできてる?」
「ご飯だけは上手く炊けるようになりました」
「ははっ…ボタンを押すだけじゃないか」
いつもの調子でからかってくる堤を軽く睨んでから、他のテーブルで呼ばれたのでオーダーに向かった。
店内の掃除が終わり、ゴミの処理をして、店内の明かりを消してから鍵をかけた。
子供がまだ小さい茜は先に上がって、俺が締め作業を任されるのはよくあった。
今日は途中から熱っぽくて早く帰りたかったが仕方がなかった。
まだ電車のある時間だが、人通りは少ない。
肌を刺すように冷たい風が吹いてきて、慌ててコートの前を合わせた。
学校にバイト。
いつも人に囲まれているが、こうやって一人きりになるといつも考えてしまう。
燿一郎とはメールで連絡を取るくらいだ。
本当は声を聞きたいけれど、一度声を聞いたら待つという約束を忘れて、全て投げ出して会いに行ってしまいそうでできなかった。
向こうも同じなのかもしれない。
当たり障りのない近況を送りあって、いつも画面に映る燿一郎の書いた文字を指で撫でていた。
会いたいと、何度入力して消したか分からない。
その度に涙を流す燿一郎の顔を思い出して耐えた。
遠い異国で頑張っている恋人。
いつか帰ってくると、5年前に聞かされた約束を必死で信じて待っている。
普段は強く張った糸のように、揺るぎない気持ちで耐えることができる。だが発情期はつらくてたまらなかった。
弱い薬で抑えても、抑えきれないものが体から溢れてくる。
燿一郎の名を呼び、頭に思い浮かべながら、何度果てるか分からない。
夜道を歩いていたら、足元がフラついて、やはりマズイと感じてきた。
慌てて鞄から薬を取り出そうとしたが、ピルケースをカフェのロッカーに忘れてきたことに気がついた。
今から戻るより、自宅に帰ったほうが早い。
俺は下を向きながら必死で足を進めた。
三ヶ月に一度は来ていた発情期だが、燿一郎と会えなくなってから、半年に一度、年に一度と少なくなっていた。
少なければそれで楽なのだが、まるでいなくなった相手を体が求めて悲鳴を上げるみたいに、発情期が始まると狂ったようにフェロモンを撒き散らして相手を求めてしまう。
家には常にこもれる準備をして、前兆があれば前日から部屋にこもり、ドアや窓にガムテープを貼って絶対に誰にも会うことなく過ごす。
唯一茜だけは気にして来てくれるが、他の人間とは絶対に接触しなかった。
油断をしていた。
前回の発情が三ヶ月前。周期が遅くなって次はまだ先だろうと思い込んでいた。
「はぁ…ゃ…帰らないと……」
ふと気がつくと、後ろから付けられているような気配がした。
幸い夜の遅い時間は人通りがなかったが、完全に誰も来ないわけではない。
まだそこまで出ていないはずだが、フェロモンを嗅ぎつけたやつがいるのかもしれない。このままだとマズイと思って俺は走り出した。
道端に転がっている小石に躓いて転びそうになりながら俺は走った。
この5年、飛躍的に向上したのは家事の能力ではなく、走るスピードかもしれない。
全速力で走ってマンションまでたどり着いてから、部屋に飛び込んで鍵を掛けた。
これで大丈夫、そう思ってとりあえず玄関に置いていた緊急抑制剤をがぶ飲みしたところでインターフォンが鳴り響いた。
さっき追いかけて来たやつかもしれない。こんな状態で出られるわけがないし、居留守を使おうと思っていたら、今度はガタガタとドアノブが動いた。
恐怖で足がすくんで思わず座り込んでスマホを手に取った。
助けを求めようとしたところで、ふと前にもこんな状況があったような気がして手を止めた。
埃っぽくて薄暗い教室。
積み上げられた机や椅子の横で、初めて抱かれた記憶。
まさか…
期待と不安が入り混じった状態で震える手を伸ばして、俺はドアにゆっくりと触れた。
□□□
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