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本編
③温もりは思い出の中に
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いつも発情期を薬で抑えると、慢性的な頭痛に苦しめられた。
今回は何も不調がなくて、体はすこぶる調子がいい。それがなんとも言えない気まずい気持ちだった。
初対面に近い人間と発情期のセックスをしたあの日、俺は途中で意識が飛んで保健室で目覚めた。
廊下で倒れていたところを発見されて、生徒が運んできてくれたと保健医からは説明された。
黒髪が綺麗な見たことがない生徒だと言われたから、あの男がそこまでしたのだろう。
体は汚れていなかったし、制服もちゃんと着ていたところがまたなんとも言えない。
首の辺りを確かめたが、なんの傷もなかった。番にはされなかったのだとホッとして息を吐いた。
アルファはオメガを噛むことで番にすることができる。
番なんてものを作るつもりはないし、よく知らない男と番になどになったら一生後悔するだろう。何となく記憶にあるのは、あの男が自分の腕を噛んでいたというものだった。
向こうもわずかな理性は保ってくれたらしい。
自宅に戻ってすぐにいざという時のために用意されていた緊急避妊薬を飲んだ。
まさか、使うとは思わなかったので、机の奥に押し込んでいたものだった。
結局そのまま週末まで休んでしまった。
週明けからは行こうと思っているが、アイツとはもう二度と顔を合わせたくない。
まさかの薬の飲み違いだと項垂れてベッドに転がったが、よく考えたらベッドサイドには強いものしか置いていなかったので、朝晩飲めばいいものを間違えるはずがない。
あの伯父ですら、少しだけ感じるくらいだと言っていたのだから。
冷静になった今なら何となく分かる気がする。あの日は匂いがした。
原始的なアルファはオメガを誘うために、オメガにしか分からない特有のフェロモンを常に纏っていると聞いたことがある。それは、若ければ若いほど色濃く、歳を重ねれば自分で調節できるのだそうだ。伯父はもちろん調節している。でなければ、二人きりでいたらオメガの俺はすぐ理性がぶっ飛んでしまう。それくらい強いものだからと注意されたことがある。
校内に漂う独特な香り、あれは明らかにその類いのものだった。
発情期だった俺は無意識にその香りを追っていた。
追っていて、途中で耐えきれなくなり抑制効果を超えてヒート状態に入ってしまった。
そしてあの男、あの男からは俺が求めていた匂いがした。あれはあの男の匂いだった。それが分かった時はもう遅かった。
薬の作用なんてなぎ倒して、俺はアルファを求めた。
そう、やつは同じ原始的な血が流れるアルファだ。それも、純血に近い濃いもの。
そんな人間に今まで気づかなかったとは、思えない。
十中八九、ヤツが九鬼燿一郎であることは間違いないと思われた。
朝、校門の付近で車から降りた生徒達が登校していく中、一人明らかに雰囲気の違う生徒が歩いているのが見えた。
漂う空気はまるで手負の獣のよう。鋭い目を光らせて、今にも襲いかかりそうな気配に誰もが遠巻きにして近づくことができない。
そんな中、俺はそいつを見つけると、スタスタと歩いて行ってその隣りに並んだ。
「待っていたぞ、九鬼燿一郎」
「あ!?」
燿一郎は突然横から声をかけられたので、面倒くさそうに顔を上げて睨みつけてきた。だが、その黒い双眼が俺を捕らえると驚いたように見開かれた。
「……おっ…お前、柊か」
「話がある。ちょっと顔を貸せ」
顎を引いて校舎裏に目線を送ると、燿一郎はいいぜと言って口の端を上げてニヤリと笑った。
こんなに悪い顔が似合う男もそうはいない。
とにかく先手を打つべく俺は動いたのだ。
「先週は休みだったな。クラスまで顔を見に行ったが、ずっといなかったから……。連絡先くらい聞いておくべきだったな」
人気のない校舎裏に連れていくと、燿一郎はすぐにそう口にした。
「へぇ、気にしていただいて、それはご丁寧に。で、俺のことは知っているんだな」
「ああ、あれから調べたらすぐ分かった。草壁柊、学年一の秀才で優秀なアルファとして女生徒から大人気の王子様だってな」
「王子様ではないが、俺はお前のお目付役だ」
「はぁ!?」
再び驚いた顔で口を開けている燿一郎に、不機嫌そうな顔よりこっちの方がいいと思いながら俺は伯父から依頼された件について話した。
「ハッ…親父のやつ…余計なことを……」
「この前みたいな絡まれて喧嘩を買ったりしたらだめだ。いいか、とりあえず俺達の身分は学生だ。何があって荒れてるのか知らないが、そういうのは卒業してからじっくりやってくれ。今は大人しく机に齧り付いてお勉強するのが学生の本分だ。一人前になってそれでも荒れたいと思うなら勝手にやってくれ」
きっとその頃にはなぜあんなに怒って荒れていたかなんて思い出せないだろう。人生とは若さとはそんなものかもしれない。
「はーん…、お目付役を頼まれたお前は、俺が大人しく過ごすことが目的だからな。それで? お前に何の利益がある? 理事長の座でも約束されたのかよ」
「それは無理だろう。代々ここの理事は本家の人間がやっている。伯父にはアルファの息子が三人いるから、俺に回ることは月がひっくり返ってもないだろうな」
燿一郎は理解できないという顔で、片眉を持ち上げた。
それならなぜという意味が込められているように感じた。
「……お前には理解できないだろう。アルファの一族に生まれたオメガ。伯父は俺を助けてくれて色々と良くしてくれている。恩を返したいんだ。……できるうちに」
母には卒業後は草壁との縁を切り、関係ないところで生きてくれと言われている。
伯父の力になれるとしたら、今しかないだろうと思っていた。
「恩、ね……」
燿一郎はまだ理解できないという顔で近づいてきた。
「それじゃ、荒れ狂う厄介者の俺が大人しく学生をやる方法を教えてやろうか?」
今度は俺が何のことだという目で見る番だった。
燿一郎は手を伸ばしてきて、長い指を俺のワイシャツのボタンに引っ掛けてきた。
何をするんだと思ったが、強い視線に痺れたように心臓が鳴り出して、手で払うどころか動くこともできなかった。
「発散させてくれよ。柊の体で……」
「なっ…!?」
「言っただろう、俺の女にしてやるって」
黒曜石のような黒く耀く瞳を細めて、燿一郎は妖しげに微笑んだ。
「荒れ狂う若さあふれるこの俺を…抑えてくれるんだろう? なぁお目付役」
「くっ……、ほ…本気なのか?」
校舎の壁に押し付けられて、顔を近づけられた。あと少しで唇が重なるところで燿一郎はピタリと動きを止めた。
「お前からしろよ。伯父さんのためにどこまでできるか見ものだ」
俺はぐっと唾を飲み込んで喉を鳴らした。まさか、あの狂った時間をまた求められるとは思わなかった。
もしかしてこいつは気付いているのだろうか。俺がこいつの匂いですでに腹の奥に熱が灯っていることに……。
抗えない本能。
そんなものに惑わされない、優秀なアルファだった俺はもういない。
ここにいるのはまともなフリしながら、アルファの匂いをまともにくらって、アソコを半勃ちにしている変態だ。
自分から口を寄せて、燿一郎の唇に重ねた。
「んっ……」
燿一郎は余裕な顔をして挑発してきたように見えたが、唇が重なった途端、食らいつくように深く口を合わせてきた。
もしかしたら、こいつも俺の匂いでおかしくなっているかもしれない。そんな風に思えるくらい激しい口付けだった。
呼吸も全部吸い取られるくらいのキスをして、やっと唇が離れたら二人の間には唾が銀糸のように伸びていて、それが朝日を浴びて妖艶に光っていた。
「柊……、お前、いい加減にしろ。甘いフェロモン出しまくりじゃねーか。頭がおかしくなる」
「は…? そっ…そんな自分じゃ…よく分からな……あっ…!」
どうすんだよこれ、と言われながら燿一郎は股間を押し付けてきた。硬くて存在感のあるものが布越しに伝わってきて、俺の下半身にも一気に熱が集中した。
そこで授業開始前のチャイムが鳴った。
しばらく考えるように二人で顔を見合わせたが、チャイムが鳴り終わったことが合図のように、再び噛み付くような口付けが始まって、お互いのズボンに手をかけた。
「大丈夫か? 久々に登校してきたと思ったら遅刻するし、まだ本調子じゃないのかよ」
教室に入るなり、自分の席に突っ伏している俺に悠真が声をかけてきた。
「大丈夫、大丈夫。単純な寝坊だ。夜更かししちゃってさ」
ヘラヘラと力なく笑うことしかできない。クラスには心臓が弱いと伝えられているが、優秀なアルファが体が弱いなんておかしいと思われているかもしれない。
心臓はもちろん大丈夫だが、今は尻の違和感がありすぎてもぞもぞと動いてしまう。
燿一郎のやつが中で出したので、トイレで掻き出すはめになった。
それだけでも疲れたのに、いまだ違和感が残っていて授業にも集中できなかった。
……朝からヤルものではない。
あぁ、こんなバカなジョークみたいなのを思いつくくらいおかしくなってしまった。
濃厚なキスをして二人して盛ってしまい、校舎裏でそのまま体を繋げてしまった。
発情期の残りか、後ろの方は慣らさなくても従順に燿一郎を飲み込んだ。
そのまま、声を我慢しながら向かい合って一回…、ダメだと言ったのに後ろに体位を変えて一回…。
「柊! 次体育だよ」
悠真の声に今度こそ飛び上がって驚いた。慌てて体操着に着替えてグラウンドに向かうはめになった。
「俺のこと、オメガだって言いふらさないのか? 親連中が抗議して学園からいなくなるだろうから、うるさいお目付役がいなくなるぞ」
行為が終わった後、燿一郎はどこからか濡らしたタオルを持ってきて俺の体を拭いた。雑そうに見えて意外とマメなのだなと思いながら、大人しく拭かれていると、なぜそうしないのか疑問が湧いてきてすぐに口にしてしまった。
「冗談だろ、なんでこんな面白い機会を自分から無くさないといけないんだ」
「面白い?」
「ああ、俺の言うこと聞いて、どこでもケツを差し出すオメガがいるんだぜ。面白すぎるだろう」
「…………」
まともに考えていた俺がバカだった。
燿一郎にとっての基準が分からないが、単なる玩具のようなものなのだろう。
それなら別に、こっちだって感情抜きだと思いながら無言で下を向いて拳を震わせた。
ついに俺はアルファの玩具になった。
どこまで堕ちていくのか、考えるだけで頭が痛くなった。
「最近、九鬼の人間と親しくしているようね」
階段で一階に降りたところで、ばったり母に会ってしまった。
家にいても食事は別だし、同じ空気を吸うことはほとんどない。久々の会話だった。
あれから燿一郎とはとても親しくしている。
毎日のように空き教室に呼び出されて、口淫させられたり、自慰をさせられたり、言われればお望み通りに股を開いている。
三ヶ月に一度の発情期はまだだが、そんな毎日にすっかり慣れてしまった。
燿一郎の瞳に見つめられる体がおかしくなる。従わないといけないという衝動に突き動かされて言う通りになってしまう。
「え…ええ。伯父さんから、海外から帰国したばかりで慣れないだろうから、友人になって欲しいと頼まれたので……」
伯父のことを言えば、母はだいたい納得して何も言わずに行ってしまう。
だが、今回は何故か俺に胡乱な視線を向けてきた。
「相手は旧家のアルファよ。なんでも九鬼家で原始的な血を一番受け継いでいるらしいじゃない。そんな方の側にいて本当に大丈夫なの?」
母から大丈夫という台詞が出てきて驚いた。もしかして俺のことを心配してくれているのではと淡い期待が胸に宿った。
「母さん……俺は……」
「所詮、お前もオメガということか。汚らわしい」
一瞬で凍りついた。
聞き間違いではなかったのかと、顔を上げたが、そこには本当に軽蔑するような目で俺を見上げる母の顔があった。
「草壁の名を捨てたら、九鬼に乗り換えるつもりだね」
「捨てたらって…そんなっ!! 俺を…俺を追い出すのは母さんじゃないか!」
「ふふっ…何を言ってるのよ。アルファじゃない子なんて、私の子供じゃない」
言葉が出てこなかった。
唇を噛みすぎて血の味が口の中に広がった。
以前に病院でも言われたことだ。
あの時は混乱していたからだと頭の中で勝手に位置付けてなかったことにしていた。
けれど、これではもう決定的だった。
下を向いて震えていたら、いつの間にか母の姿は消えていた。まるでそこには初めから誰もいなかったように。
たった一人で喋っていたように。
それなら、そうであってくれたら……どんなによかったか……。
部屋に戻ることができなくて、とりあえずスマホだけ持って外へ出た。
こんな夜遅い時間に外に出るなんて初めてだ。
もやもやとする頭に外の冷たい空気は心地よかった。
どれくらい歩き続けたのだろう。
気がつけばよく知らない町の公園まで来ていた。
夜の公園には誰もいない。昼間の喧騒の色は消え、闇の中に浮かび上がるブランコは月明かりに照らされて、夜空に浮かび上がっているみたいだった。
ブランコに乗ったことはない。
子供の頃、近所で遊ぶ子供達を見て俺も乗りたいとねだったが、乗せてもらえなかった。
大事なアルファの体が怪我でもして傷ができたらどうする。
そう言われて、親に背中を押されて楽しそうに揺れている子供達をただ見つめることしかできなかった。
この歳になって初めて触って、せっかくだからと座ってみることにした。もう体が大きくなり過ぎて、座席は小さいし狭くて笑ってしまった。
「あぁ…これに、子供の頃に座れたらな…。自分の子供には絶対……」
そこまで言いかけて俺はハッとして口をつぐんだ。
俺が子供を……。
オメガが相手を妊娠させることができる可能性は少ないと言われている。
オメガが子供を授かるということは、自分の腹に子供を宿すということだ。
そんなこと、本当にできるのだろうか。
自分のお腹に手を当ててみたが何の実感も湧かなかった。
突然ブブーっとバイブが鳴り出して、俺はポケットから急いでスマホを取り出した。
まさか母からではないだろうと思ったが、表示されたのは燿一郎の名前だった。
「柊、お前明日時間ある?」
電話に出るといきなりそう聞かれたので、驚いて声が出てくるのが遅れてしまった。
おい、聞いてる? と言われて、聞いていると返事をした。
「明日? 別に…いいけど……」
「あーさー、じゃ待ち合わせは……って、お前どこにいんの? 車の音するけど外?」
何故だか分からない。
何故だか分からないが、燿一郎の声を聞いたら涙が溢れてきた。
吐き気がするくらい孤独だった。
耳に入ってきた低い声が、たまらなく優しく聞こえた。
燿一郎に触れられたい。
あの熱い手で俺の凍った胸を溶かして、どろどろにして貫いて欲しい。
「よ…いち……ろ……、あ…い…会いたい」
一粒涙が溢れたら、次々と溢れてきて、まともに喋ることができなかった。
なぜ俺のことを玩具のように扱う男にこんな感情をと思ったが止まらなかった。
どこにいるんだと焦ったような燿一郎の声が聞こえて、よく分からない公園の入り口に書かれていた名前を伝えた。
待ってろという声が聞こえて電話が切れた。
まさかこんな真夜中に、男から変なことを言われて燿一郎は本当に会いに来てくれるのか。
そこまで考えたが、込み上げてくる嗚咽に、涙腺が崩壊したように涙がこぼれ落ちてきて手で顔を覆って泣き崩れた。
胸が体が凍りついたように痛かった。
俺がアルファじゃなかったから。
アルファじゃないから俺は誰にも愛されない。
お前なんか知らないと切り捨てられて、このまま夜の闇の中で朽ち果ててしまいそうで、怖くて怖くてたまらなかった。
「うっ……ぁ………くっ……」
子供のように大声で泣けたらどんなにいいだろう。
母にはいつも、声を上げて泣くんじゃないと言われて怒られた。
アルファが泣くなんて情けない。
泣くなら声を殺して泣けと……。
「ひとりでそんなに、苦しそうに泣くなよバカ」
「嘘……本当に……」
自分で会いたいと言ったが、まさか本当に来てくれるとは思わなかった。
いや、燿一郎なら……来てくれる気がした。俺は朝まででも待つつもりだった。
顔を上げると風呂上がりだったのか、首にタオルを引っ掛けたまま、髪から水をぼたぼたと垂らして、肩で息をしている燿一郎がいた。
「俺が幻ならもっとカッコつけた格好で登場させてくれよ。風呂上がりで、タクシー飛ばしてきたんだ。まったく一人でこんな遠いところまで来て…」
「…ありがとう」
これではまるでドラマに出てくるような、彼氏を深夜に呼び出す面倒くさい女だ。
まさか現実に本当に来てくれる男がいると思わなかった。
悪ぶっているけれど、燿一郎は優しい。
そんなことはとっくに気付いていたけれど、これで十分すぎるほど分かってしまった。
俺がブランコから立ち上がると、おもむろに近づいてきた燿一郎は俺をぎゅっと包み込むように抱きしめた。
「ほら、声出して泣け」
「え……?」
「なんか、辛いことがあったんだろう。我慢しないで大声で泣け、俺が付いているから…大丈夫だから」
なんて温かいんだろう。
家族の誰からももらえなかった温もりを、まさかこの男がくれるなんて。
夢にも思わなかった。
「うぅ…ぅ…、うううっぁ…あぁぁ」
まるで子供が大声で泣くみたいに、大きな口を開けて泣いた。
泣くなと、ずっと泣くなと言われてきた。
辛い時に大声で泣くことが、こんなに気持ちを楽にさせてくれるなんて知らなかった。
ひとしきり泣いた後、燿一郎は俺の口にキスをしてきた。
血の味がすると言って、まるで自分が怪我をしたみたいに痛そうな顔をした。
誰にも心を開くつもりなどなかった。
ましてや、俺のことを自分の女なんて言うような相手に。
それでも、信じたくないけれど、確実に俺の心に燿一郎という男が入り込んでいく。
広い背中に手を回しながら、透明な水に垂らされたインクように、俺の心が染まっていくのを感じていた。
□□□
今回は何も不調がなくて、体はすこぶる調子がいい。それがなんとも言えない気まずい気持ちだった。
初対面に近い人間と発情期のセックスをしたあの日、俺は途中で意識が飛んで保健室で目覚めた。
廊下で倒れていたところを発見されて、生徒が運んできてくれたと保健医からは説明された。
黒髪が綺麗な見たことがない生徒だと言われたから、あの男がそこまでしたのだろう。
体は汚れていなかったし、制服もちゃんと着ていたところがまたなんとも言えない。
首の辺りを確かめたが、なんの傷もなかった。番にはされなかったのだとホッとして息を吐いた。
アルファはオメガを噛むことで番にすることができる。
番なんてものを作るつもりはないし、よく知らない男と番になどになったら一生後悔するだろう。何となく記憶にあるのは、あの男が自分の腕を噛んでいたというものだった。
向こうもわずかな理性は保ってくれたらしい。
自宅に戻ってすぐにいざという時のために用意されていた緊急避妊薬を飲んだ。
まさか、使うとは思わなかったので、机の奥に押し込んでいたものだった。
結局そのまま週末まで休んでしまった。
週明けからは行こうと思っているが、アイツとはもう二度と顔を合わせたくない。
まさかの薬の飲み違いだと項垂れてベッドに転がったが、よく考えたらベッドサイドには強いものしか置いていなかったので、朝晩飲めばいいものを間違えるはずがない。
あの伯父ですら、少しだけ感じるくらいだと言っていたのだから。
冷静になった今なら何となく分かる気がする。あの日は匂いがした。
原始的なアルファはオメガを誘うために、オメガにしか分からない特有のフェロモンを常に纏っていると聞いたことがある。それは、若ければ若いほど色濃く、歳を重ねれば自分で調節できるのだそうだ。伯父はもちろん調節している。でなければ、二人きりでいたらオメガの俺はすぐ理性がぶっ飛んでしまう。それくらい強いものだからと注意されたことがある。
校内に漂う独特な香り、あれは明らかにその類いのものだった。
発情期だった俺は無意識にその香りを追っていた。
追っていて、途中で耐えきれなくなり抑制効果を超えてヒート状態に入ってしまった。
そしてあの男、あの男からは俺が求めていた匂いがした。あれはあの男の匂いだった。それが分かった時はもう遅かった。
薬の作用なんてなぎ倒して、俺はアルファを求めた。
そう、やつは同じ原始的な血が流れるアルファだ。それも、純血に近い濃いもの。
そんな人間に今まで気づかなかったとは、思えない。
十中八九、ヤツが九鬼燿一郎であることは間違いないと思われた。
朝、校門の付近で車から降りた生徒達が登校していく中、一人明らかに雰囲気の違う生徒が歩いているのが見えた。
漂う空気はまるで手負の獣のよう。鋭い目を光らせて、今にも襲いかかりそうな気配に誰もが遠巻きにして近づくことができない。
そんな中、俺はそいつを見つけると、スタスタと歩いて行ってその隣りに並んだ。
「待っていたぞ、九鬼燿一郎」
「あ!?」
燿一郎は突然横から声をかけられたので、面倒くさそうに顔を上げて睨みつけてきた。だが、その黒い双眼が俺を捕らえると驚いたように見開かれた。
「……おっ…お前、柊か」
「話がある。ちょっと顔を貸せ」
顎を引いて校舎裏に目線を送ると、燿一郎はいいぜと言って口の端を上げてニヤリと笑った。
こんなに悪い顔が似合う男もそうはいない。
とにかく先手を打つべく俺は動いたのだ。
「先週は休みだったな。クラスまで顔を見に行ったが、ずっといなかったから……。連絡先くらい聞いておくべきだったな」
人気のない校舎裏に連れていくと、燿一郎はすぐにそう口にした。
「へぇ、気にしていただいて、それはご丁寧に。で、俺のことは知っているんだな」
「ああ、あれから調べたらすぐ分かった。草壁柊、学年一の秀才で優秀なアルファとして女生徒から大人気の王子様だってな」
「王子様ではないが、俺はお前のお目付役だ」
「はぁ!?」
再び驚いた顔で口を開けている燿一郎に、不機嫌そうな顔よりこっちの方がいいと思いながら俺は伯父から依頼された件について話した。
「ハッ…親父のやつ…余計なことを……」
「この前みたいな絡まれて喧嘩を買ったりしたらだめだ。いいか、とりあえず俺達の身分は学生だ。何があって荒れてるのか知らないが、そういうのは卒業してからじっくりやってくれ。今は大人しく机に齧り付いてお勉強するのが学生の本分だ。一人前になってそれでも荒れたいと思うなら勝手にやってくれ」
きっとその頃にはなぜあんなに怒って荒れていたかなんて思い出せないだろう。人生とは若さとはそんなものかもしれない。
「はーん…、お目付役を頼まれたお前は、俺が大人しく過ごすことが目的だからな。それで? お前に何の利益がある? 理事長の座でも約束されたのかよ」
「それは無理だろう。代々ここの理事は本家の人間がやっている。伯父にはアルファの息子が三人いるから、俺に回ることは月がひっくり返ってもないだろうな」
燿一郎は理解できないという顔で、片眉を持ち上げた。
それならなぜという意味が込められているように感じた。
「……お前には理解できないだろう。アルファの一族に生まれたオメガ。伯父は俺を助けてくれて色々と良くしてくれている。恩を返したいんだ。……できるうちに」
母には卒業後は草壁との縁を切り、関係ないところで生きてくれと言われている。
伯父の力になれるとしたら、今しかないだろうと思っていた。
「恩、ね……」
燿一郎はまだ理解できないという顔で近づいてきた。
「それじゃ、荒れ狂う厄介者の俺が大人しく学生をやる方法を教えてやろうか?」
今度は俺が何のことだという目で見る番だった。
燿一郎は手を伸ばしてきて、長い指を俺のワイシャツのボタンに引っ掛けてきた。
何をするんだと思ったが、強い視線に痺れたように心臓が鳴り出して、手で払うどころか動くこともできなかった。
「発散させてくれよ。柊の体で……」
「なっ…!?」
「言っただろう、俺の女にしてやるって」
黒曜石のような黒く耀く瞳を細めて、燿一郎は妖しげに微笑んだ。
「荒れ狂う若さあふれるこの俺を…抑えてくれるんだろう? なぁお目付役」
「くっ……、ほ…本気なのか?」
校舎の壁に押し付けられて、顔を近づけられた。あと少しで唇が重なるところで燿一郎はピタリと動きを止めた。
「お前からしろよ。伯父さんのためにどこまでできるか見ものだ」
俺はぐっと唾を飲み込んで喉を鳴らした。まさか、あの狂った時間をまた求められるとは思わなかった。
もしかしてこいつは気付いているのだろうか。俺がこいつの匂いですでに腹の奥に熱が灯っていることに……。
抗えない本能。
そんなものに惑わされない、優秀なアルファだった俺はもういない。
ここにいるのはまともなフリしながら、アルファの匂いをまともにくらって、アソコを半勃ちにしている変態だ。
自分から口を寄せて、燿一郎の唇に重ねた。
「んっ……」
燿一郎は余裕な顔をして挑発してきたように見えたが、唇が重なった途端、食らいつくように深く口を合わせてきた。
もしかしたら、こいつも俺の匂いでおかしくなっているかもしれない。そんな風に思えるくらい激しい口付けだった。
呼吸も全部吸い取られるくらいのキスをして、やっと唇が離れたら二人の間には唾が銀糸のように伸びていて、それが朝日を浴びて妖艶に光っていた。
「柊……、お前、いい加減にしろ。甘いフェロモン出しまくりじゃねーか。頭がおかしくなる」
「は…? そっ…そんな自分じゃ…よく分からな……あっ…!」
どうすんだよこれ、と言われながら燿一郎は股間を押し付けてきた。硬くて存在感のあるものが布越しに伝わってきて、俺の下半身にも一気に熱が集中した。
そこで授業開始前のチャイムが鳴った。
しばらく考えるように二人で顔を見合わせたが、チャイムが鳴り終わったことが合図のように、再び噛み付くような口付けが始まって、お互いのズボンに手をかけた。
「大丈夫か? 久々に登校してきたと思ったら遅刻するし、まだ本調子じゃないのかよ」
教室に入るなり、自分の席に突っ伏している俺に悠真が声をかけてきた。
「大丈夫、大丈夫。単純な寝坊だ。夜更かししちゃってさ」
ヘラヘラと力なく笑うことしかできない。クラスには心臓が弱いと伝えられているが、優秀なアルファが体が弱いなんておかしいと思われているかもしれない。
心臓はもちろん大丈夫だが、今は尻の違和感がありすぎてもぞもぞと動いてしまう。
燿一郎のやつが中で出したので、トイレで掻き出すはめになった。
それだけでも疲れたのに、いまだ違和感が残っていて授業にも集中できなかった。
……朝からヤルものではない。
あぁ、こんなバカなジョークみたいなのを思いつくくらいおかしくなってしまった。
濃厚なキスをして二人して盛ってしまい、校舎裏でそのまま体を繋げてしまった。
発情期の残りか、後ろの方は慣らさなくても従順に燿一郎を飲み込んだ。
そのまま、声を我慢しながら向かい合って一回…、ダメだと言ったのに後ろに体位を変えて一回…。
「柊! 次体育だよ」
悠真の声に今度こそ飛び上がって驚いた。慌てて体操着に着替えてグラウンドに向かうはめになった。
「俺のこと、オメガだって言いふらさないのか? 親連中が抗議して学園からいなくなるだろうから、うるさいお目付役がいなくなるぞ」
行為が終わった後、燿一郎はどこからか濡らしたタオルを持ってきて俺の体を拭いた。雑そうに見えて意外とマメなのだなと思いながら、大人しく拭かれていると、なぜそうしないのか疑問が湧いてきてすぐに口にしてしまった。
「冗談だろ、なんでこんな面白い機会を自分から無くさないといけないんだ」
「面白い?」
「ああ、俺の言うこと聞いて、どこでもケツを差し出すオメガがいるんだぜ。面白すぎるだろう」
「…………」
まともに考えていた俺がバカだった。
燿一郎にとっての基準が分からないが、単なる玩具のようなものなのだろう。
それなら別に、こっちだって感情抜きだと思いながら無言で下を向いて拳を震わせた。
ついに俺はアルファの玩具になった。
どこまで堕ちていくのか、考えるだけで頭が痛くなった。
「最近、九鬼の人間と親しくしているようね」
階段で一階に降りたところで、ばったり母に会ってしまった。
家にいても食事は別だし、同じ空気を吸うことはほとんどない。久々の会話だった。
あれから燿一郎とはとても親しくしている。
毎日のように空き教室に呼び出されて、口淫させられたり、自慰をさせられたり、言われればお望み通りに股を開いている。
三ヶ月に一度の発情期はまだだが、そんな毎日にすっかり慣れてしまった。
燿一郎の瞳に見つめられる体がおかしくなる。従わないといけないという衝動に突き動かされて言う通りになってしまう。
「え…ええ。伯父さんから、海外から帰国したばかりで慣れないだろうから、友人になって欲しいと頼まれたので……」
伯父のことを言えば、母はだいたい納得して何も言わずに行ってしまう。
だが、今回は何故か俺に胡乱な視線を向けてきた。
「相手は旧家のアルファよ。なんでも九鬼家で原始的な血を一番受け継いでいるらしいじゃない。そんな方の側にいて本当に大丈夫なの?」
母から大丈夫という台詞が出てきて驚いた。もしかして俺のことを心配してくれているのではと淡い期待が胸に宿った。
「母さん……俺は……」
「所詮、お前もオメガということか。汚らわしい」
一瞬で凍りついた。
聞き間違いではなかったのかと、顔を上げたが、そこには本当に軽蔑するような目で俺を見上げる母の顔があった。
「草壁の名を捨てたら、九鬼に乗り換えるつもりだね」
「捨てたらって…そんなっ!! 俺を…俺を追い出すのは母さんじゃないか!」
「ふふっ…何を言ってるのよ。アルファじゃない子なんて、私の子供じゃない」
言葉が出てこなかった。
唇を噛みすぎて血の味が口の中に広がった。
以前に病院でも言われたことだ。
あの時は混乱していたからだと頭の中で勝手に位置付けてなかったことにしていた。
けれど、これではもう決定的だった。
下を向いて震えていたら、いつの間にか母の姿は消えていた。まるでそこには初めから誰もいなかったように。
たった一人で喋っていたように。
それなら、そうであってくれたら……どんなによかったか……。
部屋に戻ることができなくて、とりあえずスマホだけ持って外へ出た。
こんな夜遅い時間に外に出るなんて初めてだ。
もやもやとする頭に外の冷たい空気は心地よかった。
どれくらい歩き続けたのだろう。
気がつけばよく知らない町の公園まで来ていた。
夜の公園には誰もいない。昼間の喧騒の色は消え、闇の中に浮かび上がるブランコは月明かりに照らされて、夜空に浮かび上がっているみたいだった。
ブランコに乗ったことはない。
子供の頃、近所で遊ぶ子供達を見て俺も乗りたいとねだったが、乗せてもらえなかった。
大事なアルファの体が怪我でもして傷ができたらどうする。
そう言われて、親に背中を押されて楽しそうに揺れている子供達をただ見つめることしかできなかった。
この歳になって初めて触って、せっかくだからと座ってみることにした。もう体が大きくなり過ぎて、座席は小さいし狭くて笑ってしまった。
「あぁ…これに、子供の頃に座れたらな…。自分の子供には絶対……」
そこまで言いかけて俺はハッとして口をつぐんだ。
俺が子供を……。
オメガが相手を妊娠させることができる可能性は少ないと言われている。
オメガが子供を授かるということは、自分の腹に子供を宿すということだ。
そんなこと、本当にできるのだろうか。
自分のお腹に手を当ててみたが何の実感も湧かなかった。
突然ブブーっとバイブが鳴り出して、俺はポケットから急いでスマホを取り出した。
まさか母からではないだろうと思ったが、表示されたのは燿一郎の名前だった。
「柊、お前明日時間ある?」
電話に出るといきなりそう聞かれたので、驚いて声が出てくるのが遅れてしまった。
おい、聞いてる? と言われて、聞いていると返事をした。
「明日? 別に…いいけど……」
「あーさー、じゃ待ち合わせは……って、お前どこにいんの? 車の音するけど外?」
何故だか分からない。
何故だか分からないが、燿一郎の声を聞いたら涙が溢れてきた。
吐き気がするくらい孤独だった。
耳に入ってきた低い声が、たまらなく優しく聞こえた。
燿一郎に触れられたい。
あの熱い手で俺の凍った胸を溶かして、どろどろにして貫いて欲しい。
「よ…いち……ろ……、あ…い…会いたい」
一粒涙が溢れたら、次々と溢れてきて、まともに喋ることができなかった。
なぜ俺のことを玩具のように扱う男にこんな感情をと思ったが止まらなかった。
どこにいるんだと焦ったような燿一郎の声が聞こえて、よく分からない公園の入り口に書かれていた名前を伝えた。
待ってろという声が聞こえて電話が切れた。
まさかこんな真夜中に、男から変なことを言われて燿一郎は本当に会いに来てくれるのか。
そこまで考えたが、込み上げてくる嗚咽に、涙腺が崩壊したように涙がこぼれ落ちてきて手で顔を覆って泣き崩れた。
胸が体が凍りついたように痛かった。
俺がアルファじゃなかったから。
アルファじゃないから俺は誰にも愛されない。
お前なんか知らないと切り捨てられて、このまま夜の闇の中で朽ち果ててしまいそうで、怖くて怖くてたまらなかった。
「うっ……ぁ………くっ……」
子供のように大声で泣けたらどんなにいいだろう。
母にはいつも、声を上げて泣くんじゃないと言われて怒られた。
アルファが泣くなんて情けない。
泣くなら声を殺して泣けと……。
「ひとりでそんなに、苦しそうに泣くなよバカ」
「嘘……本当に……」
自分で会いたいと言ったが、まさか本当に来てくれるとは思わなかった。
いや、燿一郎なら……来てくれる気がした。俺は朝まででも待つつもりだった。
顔を上げると風呂上がりだったのか、首にタオルを引っ掛けたまま、髪から水をぼたぼたと垂らして、肩で息をしている燿一郎がいた。
「俺が幻ならもっとカッコつけた格好で登場させてくれよ。風呂上がりで、タクシー飛ばしてきたんだ。まったく一人でこんな遠いところまで来て…」
「…ありがとう」
これではまるでドラマに出てくるような、彼氏を深夜に呼び出す面倒くさい女だ。
まさか現実に本当に来てくれる男がいると思わなかった。
悪ぶっているけれど、燿一郎は優しい。
そんなことはとっくに気付いていたけれど、これで十分すぎるほど分かってしまった。
俺がブランコから立ち上がると、おもむろに近づいてきた燿一郎は俺をぎゅっと包み込むように抱きしめた。
「ほら、声出して泣け」
「え……?」
「なんか、辛いことがあったんだろう。我慢しないで大声で泣け、俺が付いているから…大丈夫だから」
なんて温かいんだろう。
家族の誰からももらえなかった温もりを、まさかこの男がくれるなんて。
夢にも思わなかった。
「うぅ…ぅ…、うううっぁ…あぁぁ」
まるで子供が大声で泣くみたいに、大きな口を開けて泣いた。
泣くなと、ずっと泣くなと言われてきた。
辛い時に大声で泣くことが、こんなに気持ちを楽にさせてくれるなんて知らなかった。
ひとしきり泣いた後、燿一郎は俺の口にキスをしてきた。
血の味がすると言って、まるで自分が怪我をしたみたいに痛そうな顔をした。
誰にも心を開くつもりなどなかった。
ましてや、俺のことを自分の女なんて言うような相手に。
それでも、信じたくないけれど、確実に俺の心に燿一郎という男が入り込んでいく。
広い背中に手を回しながら、透明な水に垂らされたインクように、俺の心が染まっていくのを感じていた。
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