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27 それは幸せ
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「はぁぁーー、やってしまった。なんてことをしたんだ、俺はーーー」
オルキヌスは地面に座り込んで頭を抱えた。
何とか平静を保って歩いてきたが、外へ出て部下に引き継いだ後、木の陰まで来たらガクンと崩れてしまった。
人手不足で下っ端として忙しいウルガの代わりに、自分がルキオラの世話をするからと申し出て、ウルガにはくれぐれもよろしくお願いしますと言われていた。
服を着替えさせるくらい、いざとなったら目をつぶってしまえばできると思っていた。
しかし、ルキオラのソコが反応している姿を見たら、プチンと糸が切れてしまった。
ルキオラの衣の下は想像以上の美しさだった。
絹のように白く透き通った肌に、下生えはないと言っていいほど無垢な体だった。
それでいて、ソコはしっかりと主張していて、あれを見て冷静でいられるほど自分は人間ができていなかった。
欲望に負けて手を出してしまったことに後悔していた。
あれでは強引な男だと嫌われても仕方ない。
今まで女性相手では紳士に遊んできたつもりだった。
経験してきたものなんて全く意味がなかった。
ただ、夢中で夢中になって、求めてしまった。
今でもルキオラに触れた手の熱が冷めなくて、深く息を吐いた時、地面を踏むわずな音を感じて、オルキヌスは顔を上げた。
「どうかされましたか? そんなところで……」
「少し休んでいただけだ。報告は?」
明らかにおかしい様子のオルキヌスを見たからか、何か言いたそうな顔をして現れたのはウルガだった。
一瞬難しそうな顔をしたが、時間がないのか、辺りを確認してすぐ横に腰を下ろしてきた。
「ゴングルから連絡が来ました。やはりマクベス家とアーバン家は繋がっていました。反政府組織を立ち上げて秘密裏に活動を……、と言っても暴力的なものはなく、同盟者が集まっての会合ぐらいですね。政に対しての批判や矛盾を報告し合って、皇帝への不信感を募らせているようです」
「さすが諜報部隊出身だ。確実に集めてくるな」
「苦労したようですよ。上手くアーバン家に入り込んで、信用されるために、だいぶ酒を飲み交わしたとか……。公爵が酒好きでよかったです」
「酔わせて聞き出すのはアイツの得意分野だ。全面的に協力はできないだろうが、いざという時、動いてもらう必要がある。線は作っておけと伝えてくれ」
分かりましたと言ってウルガが頷いたので、オルキヌスは立ち上がって、体についた葉や土を払った。
「ジェントの方はどうした?」
「皇帝に動きはないようです。相変わらず、皇帝宮に閉じこもったまま出てこないそうです。担当のメイドは、時々奇声が聞こえると言って怯えているようです。まだか、まだか、早く寄越せと……」
「なるほど……ついに気でも狂ったか」
「結局、ファルコン殿下の企みは皇帝に一喝されて終わったようです。英雄様の成人の儀を前にして、戦争などしている場合ではないと」
「頭が働く時はあるようだな。いずれにせよ、その状態なら、この国の制度だと、ファルコンに皇位を譲るのも早そうだな。ヤツもそう思って退いたんだろう」
「私もそう思います」
その時、バチバチっと音が聞こえて、火柱が大きくなったのが見えた。
火はすぐに小さくなったので、どうやら部下が薪をくべる量を間違えたらしい。
何事もなさそうなので、オルキヌスはホッとして焚き火のある方角を見ていた。
「後、一山越えると海に出ますね。エイレンに寄る予定ですが、大丈夫ですか?」
「……もう昔の話だ」
大丈夫だと口にしながら、オルキヌスはどこか遠くを見る目をしていた。
ウルガは静かに頷いた後、先に戻りますと言って去って行った。
帝国唯一の港町エイレン。
閉鎖的な貴族の集まる首都とは違い、海の玄関口であるため、さまざまな国の者たちが集まる場所。
活気ある町には、やはり男達の長旅を癒すための場所もある。
母が幼い兄を抱いてエイレンに降り立った時、オルキヌスはまだ母の腹の中にいた。
敵国である帝国に逃げたのは、あの頃の母からしたら最善の選択だったのだろう。
しかし、活気ある港町とはいえ、身重の女が働ける場所などなかった。
空腹と寒さで倒れていた母子を助けてくれたのは、歓楽街にある娼館の主人だった。
母はとにかく器量が良かったので、主人は目をつけたのだろう。
動けるようになったら働くことを条件に、母子に部屋を与えて世話をしてくれることになった。
こうして、オルキヌスはその娼館で生まれた。
兄とオルキヌスは母に似て整った顔をしていたので、姉さん方からもたいそう可愛がられた。
やがて生きていくために、母が客を取るようになった。
母が客と過ごす夜は、物置部屋に入れられたが、兄と二人、押し入れの中に入って肩を寄せ合って眠った。
二十年前のあの日もそうだった……
当時、オルキヌスは七歳、兄は一つ上の八歳だった。
二人とも体が大きくなって、押し入れの中は狭かったけれど、二人で背中を合わせながら寝ていた。
真夜中、兄に揺り起こされた時、誰かが叫ぶ声が聞こえて、焦げくさい臭いがした。
母はよく言っていた。
いつもと違う時、何かおかしい時、自分のことはいいから二人で外へ逃げろと。
兄は外へ行こうと言った。
母の言いつけを守り、オルキヌスの手を引いた。
しかしオルキヌスはいやだと言って首を振った。
母のいる部屋は分かっている。
二階の一番奥が母に与えられた仕事部屋だった。
オルキヌスは兄の制止を聞かずに押し入れから飛び出した。
しかし物置部屋を出ると、世界は真っ赤になっていた。
至る所から火が上がっていて、人々は叫び逃げ回っていた。
だめだ、オルキヌス!
兄が叫ぶ声が聞こえたが、母のことしか頭にないオルキヌスは、逃げ惑う人々の間をすり抜けて階段に向かった。
すでに火はかなりの勢いで回っていた。
二人がいた物置部屋はかろうじて火の手から逃れていただけで、他の部屋からは火柱が上がり、木造の娼館は崩壊寸前だった。
崩れていく階段をオルキヌスは必死に上った。
その時、気づいておくべきだったかもしれない。
もし母が難を逃れていたら、必ず二人を助けに来たということを。
母が来なかったということは……
二階に上がったオルキヌスは、長い廊下の奥が大きな炎に包まれて崩れ落ちていくのを目にした。
そこはまさに母の部屋で、逃げ遅れた人達が炎に飲まれていく瞬間を目にしてしまった。
その中に母がいたのか、オルキヌスは今でも思い出そうとするが分からない。
オルキヌスは恐怖で固まってしまい、その場から一歩も動けなくなった。
炎は残った建物まで全て燃やし尽くそうと暴れ出した。
オルキヌスの足元まで迫ってきて、床が今にも抜けそうな音がして揺れた。
その時……
後ろから手を引かれて、オルキヌスは床の崩壊から間一髪逃れた。
兄が助けに来てくれた。
炎から守るように大丈夫かと言いながら、オルキヌスを抱きしめてくれた。
しかし二人はまだ、崩壊しながら燃え盛る建物の中にいた。
息を吸うと肺まで熱くなって、ゲホゲホとむせた。
一刻も早く逃げなくてはいけない。
兄に手を引かれながらオルキヌスは走った。
ほとんど崩れ落ちた階段を何とか降りて、火の中を走った。
ガラガラと壁が崩れていく。
火の粉を浴びながら、走れたのは兄のおかげだ。
兄が強く手を握っていてくれたから……。
あと少し、あと少しで外へ……
二人が娼館の出口まで差し掛かった時、今までで一番大きな音が響いて、一部残っていた二階部分と、一階の壁が崩れ落ちてきた。
このままだと間に合わない。
立ち止まった兄が、オルキヌスの後ろに回り強く背中を押した。
オルキヌスは転がりながら外に飛び出した。
背中の方で、ガラガラと音が鳴って、地面が揺れた。
地面に手をついて四つん這いになっていたオルキヌスが振り返ると、そこには崩壊した建物の残骸があった。
いまだ火が消えないその瓦礫の山に向かって、オルキヌスは叫んだ。
兄さん
兄さんと……
「オルキヌス卿?」
自分を見下ろす緑色の宝石のような瞳が見えて、オルキヌスは息を吸い込んだ。
額から汗が流れ落ちて、背中も濡れている感覚がした。
「起こしてごめんなさい。すごくうなされていたので……」
オルキヌスは、地面の上に適当に布を敷いて作った簡易的な寝床に寝ていた。
気がつくと、同じ天幕の中だが、奥のベッドで寝ているはずのルキオラが、自分の寝床に座っていたので体を起こした。
「……うるさかっただろう。悪かったな」
「いえ、私は……大丈夫です。それより、怖い夢でも見ましたか? すごい汗……」
ルキオラはオルキヌスの額に流れている汗を布で拭ってくれた。
健気なその姿に心を打たれて、抱きしめたくなってしまった。
「昔の記憶だ……。忘れようとしても忘れられなくて、いまだに苦しめられる時がある。……いや、ただの夢なのに、心が弱い証拠だ」
「……辛い経験をしたのですね」
抱きしめたかったのは自分だったのに、気がつけばルキオラに抱きしめられていた。
細い腕が自分の肩に回って、優しく背中を撫でられた。
オルキヌスはまるでこれも、夢かもしれないと思ってしまった。
「どうしたって忘れられないことはあります。無理に閉じ込めないでください。話して楽になるなら、私でよければいくらでも話してください」
「……なんだ、慰めてくれるのか? 英雄様はお優しいんだな」
「英雄だとか、そういうのではなく、私がこうしたいのです。オルキヌス卿が辛いなら、抱きしめて慰めてあげたい……。私もそうしてもらったから……」
「本当に……お前の個人的な望み……なのか? あいつの、ファルコンのことが好きなんだろう?」
口にしながらどんな言葉が返ってくるのか想像して、オルキヌスの胸は痛んだ。
自分の気持ちなんてとっくに分かっている。
けれど、はっきりさせてどうなるものでもない。
ルキオラは自分を見てはくれないし、奪うつもりだったからだ。
ルキオラはオルキヌスから少し体を離して、目線を合わせてきた。そして、ゆっくり首を振った。
「憧れと、尊敬、そして淡い恋心はありましたが、それはもう消えました。今はただ、優しかった幼馴染、その記憶だけを変えることなくいたいと思っています」
オルキヌスは大きく目を開いた。
どんなひどいことをされても、ルキオラの心はずっとファルコンにあると思ってきた。
無理矢理にでも奪って振り向かせてやるつもりだった。
それなのに、ルキオラは自分から手を離した。
ルキオラが今見ているのは……
ルキオラの瞳には、オルキヌスの顔が映っていた。
「私は怖くて眠れない時、誰かが一緒に寝てくれたらいいなと思っていました。よかったら、一緒に寝ませんか? ベッドは広いし」
「へ?」
ルキオラの提案に流れていた汗はすっかり止まった。
先ほどあんなことをして、自分のことを怖がっていると思い込んでいたのに、ルキオラは無邪気にベッドに誘ってきた。
純真無垢、優しい心を持ったルキオラは、怖い夢を見た自分を、本気で慰めるつもりで誘っているのだろう。
オルキヌスはしっかりしろと、頭の中で自分を叱った。
「手を繋いで寝ましょう」
硬い寝床から起こされて、手を引かれてベッドまで連れてこられてしまった。
二人で寝るには狭いが、ルキオラはオルキヌスを寝かせたあと、本当に隣に寝転んできた。
そして手を繋いで、気持ち良さそうに目を閉じた。
「おい……本当に……」
すぐに寝息の音が聞こえてきて、ルキオラは眠ってしまったのだと分かった。
「……ったく、人の気も知らないで……」
あまりに無邪気なルキオラの行動に、オルキヌスは息を吐いて頭をかいた。
しかし、人の温もりというのは不思議なもので、じんわり温かさが伝わってくると、兄と押し入れで寝ていた時を思い出した。
気がついたら、夢のことなど忘れて、視界がぼんやりとして眠くなってしまった。
わずかに開いた目で見たのは、ルキオラの寝顔だった。
心が、胸が満たされていくのを感じた。
胸の奥から溢れてくるこの気持ちを、人はなんと呼ぶのだろう。
そう思いながら、オルキヌスは重くなった目蓋を閉じた。
⬜︎⬜︎⬜︎
オルキヌスは地面に座り込んで頭を抱えた。
何とか平静を保って歩いてきたが、外へ出て部下に引き継いだ後、木の陰まで来たらガクンと崩れてしまった。
人手不足で下っ端として忙しいウルガの代わりに、自分がルキオラの世話をするからと申し出て、ウルガにはくれぐれもよろしくお願いしますと言われていた。
服を着替えさせるくらい、いざとなったら目をつぶってしまえばできると思っていた。
しかし、ルキオラのソコが反応している姿を見たら、プチンと糸が切れてしまった。
ルキオラの衣の下は想像以上の美しさだった。
絹のように白く透き通った肌に、下生えはないと言っていいほど無垢な体だった。
それでいて、ソコはしっかりと主張していて、あれを見て冷静でいられるほど自分は人間ができていなかった。
欲望に負けて手を出してしまったことに後悔していた。
あれでは強引な男だと嫌われても仕方ない。
今まで女性相手では紳士に遊んできたつもりだった。
経験してきたものなんて全く意味がなかった。
ただ、夢中で夢中になって、求めてしまった。
今でもルキオラに触れた手の熱が冷めなくて、深く息を吐いた時、地面を踏むわずな音を感じて、オルキヌスは顔を上げた。
「どうかされましたか? そんなところで……」
「少し休んでいただけだ。報告は?」
明らかにおかしい様子のオルキヌスを見たからか、何か言いたそうな顔をして現れたのはウルガだった。
一瞬難しそうな顔をしたが、時間がないのか、辺りを確認してすぐ横に腰を下ろしてきた。
「ゴングルから連絡が来ました。やはりマクベス家とアーバン家は繋がっていました。反政府組織を立ち上げて秘密裏に活動を……、と言っても暴力的なものはなく、同盟者が集まっての会合ぐらいですね。政に対しての批判や矛盾を報告し合って、皇帝への不信感を募らせているようです」
「さすが諜報部隊出身だ。確実に集めてくるな」
「苦労したようですよ。上手くアーバン家に入り込んで、信用されるために、だいぶ酒を飲み交わしたとか……。公爵が酒好きでよかったです」
「酔わせて聞き出すのはアイツの得意分野だ。全面的に協力はできないだろうが、いざという時、動いてもらう必要がある。線は作っておけと伝えてくれ」
分かりましたと言ってウルガが頷いたので、オルキヌスは立ち上がって、体についた葉や土を払った。
「ジェントの方はどうした?」
「皇帝に動きはないようです。相変わらず、皇帝宮に閉じこもったまま出てこないそうです。担当のメイドは、時々奇声が聞こえると言って怯えているようです。まだか、まだか、早く寄越せと……」
「なるほど……ついに気でも狂ったか」
「結局、ファルコン殿下の企みは皇帝に一喝されて終わったようです。英雄様の成人の儀を前にして、戦争などしている場合ではないと」
「頭が働く時はあるようだな。いずれにせよ、その状態なら、この国の制度だと、ファルコンに皇位を譲るのも早そうだな。ヤツもそう思って退いたんだろう」
「私もそう思います」
その時、バチバチっと音が聞こえて、火柱が大きくなったのが見えた。
火はすぐに小さくなったので、どうやら部下が薪をくべる量を間違えたらしい。
何事もなさそうなので、オルキヌスはホッとして焚き火のある方角を見ていた。
「後、一山越えると海に出ますね。エイレンに寄る予定ですが、大丈夫ですか?」
「……もう昔の話だ」
大丈夫だと口にしながら、オルキヌスはどこか遠くを見る目をしていた。
ウルガは静かに頷いた後、先に戻りますと言って去って行った。
帝国唯一の港町エイレン。
閉鎖的な貴族の集まる首都とは違い、海の玄関口であるため、さまざまな国の者たちが集まる場所。
活気ある町には、やはり男達の長旅を癒すための場所もある。
母が幼い兄を抱いてエイレンに降り立った時、オルキヌスはまだ母の腹の中にいた。
敵国である帝国に逃げたのは、あの頃の母からしたら最善の選択だったのだろう。
しかし、活気ある港町とはいえ、身重の女が働ける場所などなかった。
空腹と寒さで倒れていた母子を助けてくれたのは、歓楽街にある娼館の主人だった。
母はとにかく器量が良かったので、主人は目をつけたのだろう。
動けるようになったら働くことを条件に、母子に部屋を与えて世話をしてくれることになった。
こうして、オルキヌスはその娼館で生まれた。
兄とオルキヌスは母に似て整った顔をしていたので、姉さん方からもたいそう可愛がられた。
やがて生きていくために、母が客を取るようになった。
母が客と過ごす夜は、物置部屋に入れられたが、兄と二人、押し入れの中に入って肩を寄せ合って眠った。
二十年前のあの日もそうだった……
当時、オルキヌスは七歳、兄は一つ上の八歳だった。
二人とも体が大きくなって、押し入れの中は狭かったけれど、二人で背中を合わせながら寝ていた。
真夜中、兄に揺り起こされた時、誰かが叫ぶ声が聞こえて、焦げくさい臭いがした。
母はよく言っていた。
いつもと違う時、何かおかしい時、自分のことはいいから二人で外へ逃げろと。
兄は外へ行こうと言った。
母の言いつけを守り、オルキヌスの手を引いた。
しかしオルキヌスはいやだと言って首を振った。
母のいる部屋は分かっている。
二階の一番奥が母に与えられた仕事部屋だった。
オルキヌスは兄の制止を聞かずに押し入れから飛び出した。
しかし物置部屋を出ると、世界は真っ赤になっていた。
至る所から火が上がっていて、人々は叫び逃げ回っていた。
だめだ、オルキヌス!
兄が叫ぶ声が聞こえたが、母のことしか頭にないオルキヌスは、逃げ惑う人々の間をすり抜けて階段に向かった。
すでに火はかなりの勢いで回っていた。
二人がいた物置部屋はかろうじて火の手から逃れていただけで、他の部屋からは火柱が上がり、木造の娼館は崩壊寸前だった。
崩れていく階段をオルキヌスは必死に上った。
その時、気づいておくべきだったかもしれない。
もし母が難を逃れていたら、必ず二人を助けに来たということを。
母が来なかったということは……
二階に上がったオルキヌスは、長い廊下の奥が大きな炎に包まれて崩れ落ちていくのを目にした。
そこはまさに母の部屋で、逃げ遅れた人達が炎に飲まれていく瞬間を目にしてしまった。
その中に母がいたのか、オルキヌスは今でも思い出そうとするが分からない。
オルキヌスは恐怖で固まってしまい、その場から一歩も動けなくなった。
炎は残った建物まで全て燃やし尽くそうと暴れ出した。
オルキヌスの足元まで迫ってきて、床が今にも抜けそうな音がして揺れた。
その時……
後ろから手を引かれて、オルキヌスは床の崩壊から間一髪逃れた。
兄が助けに来てくれた。
炎から守るように大丈夫かと言いながら、オルキヌスを抱きしめてくれた。
しかし二人はまだ、崩壊しながら燃え盛る建物の中にいた。
息を吸うと肺まで熱くなって、ゲホゲホとむせた。
一刻も早く逃げなくてはいけない。
兄に手を引かれながらオルキヌスは走った。
ほとんど崩れ落ちた階段を何とか降りて、火の中を走った。
ガラガラと壁が崩れていく。
火の粉を浴びながら、走れたのは兄のおかげだ。
兄が強く手を握っていてくれたから……。
あと少し、あと少しで外へ……
二人が娼館の出口まで差し掛かった時、今までで一番大きな音が響いて、一部残っていた二階部分と、一階の壁が崩れ落ちてきた。
このままだと間に合わない。
立ち止まった兄が、オルキヌスの後ろに回り強く背中を押した。
オルキヌスは転がりながら外に飛び出した。
背中の方で、ガラガラと音が鳴って、地面が揺れた。
地面に手をついて四つん這いになっていたオルキヌスが振り返ると、そこには崩壊した建物の残骸があった。
いまだ火が消えないその瓦礫の山に向かって、オルキヌスは叫んだ。
兄さん
兄さんと……
「オルキヌス卿?」
自分を見下ろす緑色の宝石のような瞳が見えて、オルキヌスは息を吸い込んだ。
額から汗が流れ落ちて、背中も濡れている感覚がした。
「起こしてごめんなさい。すごくうなされていたので……」
オルキヌスは、地面の上に適当に布を敷いて作った簡易的な寝床に寝ていた。
気がつくと、同じ天幕の中だが、奥のベッドで寝ているはずのルキオラが、自分の寝床に座っていたので体を起こした。
「……うるさかっただろう。悪かったな」
「いえ、私は……大丈夫です。それより、怖い夢でも見ましたか? すごい汗……」
ルキオラはオルキヌスの額に流れている汗を布で拭ってくれた。
健気なその姿に心を打たれて、抱きしめたくなってしまった。
「昔の記憶だ……。忘れようとしても忘れられなくて、いまだに苦しめられる時がある。……いや、ただの夢なのに、心が弱い証拠だ」
「……辛い経験をしたのですね」
抱きしめたかったのは自分だったのに、気がつけばルキオラに抱きしめられていた。
細い腕が自分の肩に回って、優しく背中を撫でられた。
オルキヌスはまるでこれも、夢かもしれないと思ってしまった。
「どうしたって忘れられないことはあります。無理に閉じ込めないでください。話して楽になるなら、私でよければいくらでも話してください」
「……なんだ、慰めてくれるのか? 英雄様はお優しいんだな」
「英雄だとか、そういうのではなく、私がこうしたいのです。オルキヌス卿が辛いなら、抱きしめて慰めてあげたい……。私もそうしてもらったから……」
「本当に……お前の個人的な望み……なのか? あいつの、ファルコンのことが好きなんだろう?」
口にしながらどんな言葉が返ってくるのか想像して、オルキヌスの胸は痛んだ。
自分の気持ちなんてとっくに分かっている。
けれど、はっきりさせてどうなるものでもない。
ルキオラは自分を見てはくれないし、奪うつもりだったからだ。
ルキオラはオルキヌスから少し体を離して、目線を合わせてきた。そして、ゆっくり首を振った。
「憧れと、尊敬、そして淡い恋心はありましたが、それはもう消えました。今はただ、優しかった幼馴染、その記憶だけを変えることなくいたいと思っています」
オルキヌスは大きく目を開いた。
どんなひどいことをされても、ルキオラの心はずっとファルコンにあると思ってきた。
無理矢理にでも奪って振り向かせてやるつもりだった。
それなのに、ルキオラは自分から手を離した。
ルキオラが今見ているのは……
ルキオラの瞳には、オルキヌスの顔が映っていた。
「私は怖くて眠れない時、誰かが一緒に寝てくれたらいいなと思っていました。よかったら、一緒に寝ませんか? ベッドは広いし」
「へ?」
ルキオラの提案に流れていた汗はすっかり止まった。
先ほどあんなことをして、自分のことを怖がっていると思い込んでいたのに、ルキオラは無邪気にベッドに誘ってきた。
純真無垢、優しい心を持ったルキオラは、怖い夢を見た自分を、本気で慰めるつもりで誘っているのだろう。
オルキヌスはしっかりしろと、頭の中で自分を叱った。
「手を繋いで寝ましょう」
硬い寝床から起こされて、手を引かれてベッドまで連れてこられてしまった。
二人で寝るには狭いが、ルキオラはオルキヌスを寝かせたあと、本当に隣に寝転んできた。
そして手を繋いで、気持ち良さそうに目を閉じた。
「おい……本当に……」
すぐに寝息の音が聞こえてきて、ルキオラは眠ってしまったのだと分かった。
「……ったく、人の気も知らないで……」
あまりに無邪気なルキオラの行動に、オルキヌスは息を吐いて頭をかいた。
しかし、人の温もりというのは不思議なもので、じんわり温かさが伝わってくると、兄と押し入れで寝ていた時を思い出した。
気がついたら、夢のことなど忘れて、視界がぼんやりとして眠くなってしまった。
わずかに開いた目で見たのは、ルキオラの寝顔だった。
心が、胸が満たされていくのを感じた。
胸の奥から溢れてくるこの気持ちを、人はなんと呼ぶのだろう。
そう思いながら、オルキヌスは重くなった目蓋を閉じた。
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