悪役令息はゾウの夢を見る

朝顔

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第一章 出会い編(十歳)

6、主人公の決意

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 最初に感じたのは、水の冷たさだった。
 音はしなかった。
 深い深い池の底に引き込まれるように落ちていった。
 明るく見える水面がどんどん遠ざかっていくのを見て、せっかくシリウスになれたのに、俺は全然だめだったと悲しくなった。

 ひとつ
 ふたつ

 肺に残った空気が泡になって水面に上っていった。



 道に迷いし子よ

 ごめんなさい。

 どうして謝るんだ?

 ここで、死んじゃったらシナリオが台無しになっちゃうから。

 大事なことはなにか
 それを思い出せばいい

 大事なこと……?

 目を開けてみろ
 世界をよく見るんだ




 また、ゾウの背中に乗っているような感覚がして、頭の中に神様の声が聞こえてきた。

 ゆっくりと目を開けるとそこには、水面から同じように落ちてきたアスランがいた。
 水中だとぼやけていて表情はわからなかったが、俺のことガッチリと掴んだ後、勢いよく水を蹴って水面に向かって浮上し始めた。

 俺は体の力がすっかり抜けていて、アスランに導かれるように光の中へ戻っていった。



「げっ、ごっほっっ、ごっっ……ハァハァ…ごっほっ……」

 幸い水はほとんど飲んでいなかったらしい。
 引き上げられた後。池のほとりまで這い出て、残っていた水を全部吐き出したらやっとまともに呼吸ができるようになった。

「シリ……シリウス様……ごめん、ごめんなさい」

 俺の背中を撫でながら、アスランは泣いていた。
 まさか後からアスランまで飛び込んでくるなんて思わなかった。
 しばらく無言で何も考えられず、深い呼吸を繰り返して胸を揺らしていた。

「どうして……どうして僕を助けてくれたの?」

 そんなの決まっている。
 アスランに死なれたら、今まで苦労していたことが全部水の泡になってしまう。
 シナリオを守らないといけない。
 それに、アスランがいなくなったら俺は悪役令息でもなんでもなく、ただの人になってしまう。

 そのことが一番怖かったのかもしれない。

「……お前に死なれたら、嫌だ。勝手に死ぬなよ……バカ」

 いなくなれなんて言っておいて、助けるなんて矛盾しているのは分かっている。
 だけど体が動いてしまった。
 アスランはそれ以上何も聞いてこなかった。
 ただ一言、うんと言って俺をぎゅっと抱きしめてきた。

 二人ともびしょ濡れで冷たかったけど、アスランに包まれて心はじんわりと温かくなった。




 濡れ鼠になった俺達はそれぞれ高熱が出て、俺は三日三晩熱にうなされることになった。

 先に回復したのはアスランだった。
 動けるようになったら俺の枕元に座ってずっと離れなかった。
 時々目を開けると、ルビー色の瞳がじっと俺を心配そうに見つめていた。
 前は少し怖いと思ったけど、不思議と安心した気分になってよく眠れることができた。

 一週間経ってやっとまともに歩けるようになった。
 アスランは金魚のフンのように俺に付いて回るようになり、俺ももううるさく言うのはやめた。

 呼び方もシリウスと呼ぶようになり、敬語をやめて話しかけてくるようになった。
 結局ますます困ったことになってしまった。
 アスランを助けたことで、強いつながりのようなものができてしまった気がする。

 大事なことは何か。
 水の中で意識が途絶えた時、ゾウの神様の声が聞こえてきて、そう言っていた。
 神様が言ってくれることはいつもぼんやりとしている。
 まるで俺が自分で見つけ出すのを促しているかのようだ。

 大事なこと、それはやはり完璧に作り上げられたこの世界を守ることだろう。
 しかし、よく考えたら、子供時代はゲームの舞台にはそれほど影響しないのではないかと思った。

 十五になったら、俺は皇子の婚約者(仮)に選ばれる。
 これは家柄から選別されるので、もうすでに生まれた時から決定されているようなものだ。

 そして十八になって貴族学校に入ったら、ゲームの舞台が始まるが、皇子はすぐにアスランに心を惹かれてしまう。
(仮)で効力もなく、書類上だけだった婚約はすぐに解消されることになり、アスランと皇子の恋が始まるのだ。
 そうなったら俺は予定通り、悪役令息としてアスランの恋を邪魔して動けばいい。
 何をどうするかは概要本に書かれているので、それ通りに行動すれば世界観を壊すことなく進められるはずだ。

 とにかく入学までの時間は、アスランのことはもう考えないようにした。
 今まで通り、周囲には悪役令息っぽく振る舞い続ける。
 ただアスランに関しては、敵意剥き出しに怒鳴ったり傷つけることをしても効果がないのが分かった。
 刺激すると池に飛び込んだりして、何をするか分からないので、反応せずに勝手にさせることにした。




「いつの間に仲良くなったのよ。貴方達」

 ぷっくり頬を膨らませながら、今日は長い髪を編んで可愛らしく垂らしているロティーナが腕を組んで立っていた。

 怒ってますという顔がなんとも可愛らしく見えて、クスッと笑ってしまった。

「何笑ってるのよ、シリウス! 意地悪な貴方がアスランに命令でもしているんでしょう」

 命令なんてしていない。
 ただ馬術のレッスンが終わって邸に戻ってきたところだが、アスランは俺にピッタリと寄り添って腕に掴まっている状態なだけだ。

 何度か振り払ったが、結局このスタイルに落ち着いてしまうので好きにさせていた。

「命令なんてないよ。シリウスと仲良くなったんだ」

 俺の腕に顔を引っ付けて、アスランは嬉しそうに笑った。
 花が咲いたような笑顔に、ロティーナの頬がポッと赤くなったのが見えた。

「ず……ずるい! 私だってアスランと仲良くなりたかったのに」

「べ……別に、それなら、一緒に遊べばいいだろう」

「えーー……」

 今度はアスランが不満そうな声を上げてムクれた顔になった。
 俺を挟んで変なやり取りをするのは勘弁して欲しい。

「アスラン、今日は私、帝都で人気の洋菓子を持ってきたのよ。一緒に食べましょうよ」

「……シリウスと一緒ならいい……」

 俺とセットじゃなければ動かないというアスランに、ロティーナは俺をキッと睨んできたが渋々という顔でじゃあ三人でと言った。

 ロティーナはロティーナで意地悪なところがあって、自慢話ばかりするくせに、俺に何かを持ってきてくれたことなどなかった。
 二人と過ごすなんて面倒だと思いながらも、お菓子に心が惹かれてしまい、ティータイムに参加することにした。



 テーブルの上に並んだ色とりどりのお菓子に、ロティーナの本気度が分かった。
 アスランは男女ともに好かれるとされている。
 この歳でもうすでにロティーナは恋する乙女の顔になっていた。

「ねぇ、アスラン。アスランが好きなタイプってどんな子?」

「え……タイプ?」

「ほら、好きな顔とか性格とか。もちろん恋愛対象としての意味よ」

 二歳年上で、心の成熟度が早い女の子らしく、ロティーナはそういうことに興味津々のようだった。
 アスランはそんなことを聞かれるなんてと、戸惑っている様子だった。
 俺は二人を横目にどうでもいいとケーキを夢中で平らげていた。

「シ……シリウスは? ロティーナみたいな子が好きなの?」

 なぜかアスランは矛先を急に俺に向けてきた。
 こいつ女の子の質問から逃げるために俺を使ったなと思った。

「なんで私!? いやよ、シリウスみたいな目つきの悪いいじめっ子なんて!」

「はあ!? 僕だって嫌だよ。ロティなんて全然タイプじゃないし!」

「じゃあ……シリウスはどんな子が好きなの?」

 ロティーナと睨み合っていたら、隣に座っていたアスランが俺の服の袖をちょんと引っ張って問いかけてきた。
 やけに真剣な顔で俺をじっと見てくるので、冗談で流せるような空気ではなくなってしまった。

 仕方なく俺は頭の中でぐるぐると考えた。
 シリウスの設定では、メインルートの皇子殿下を巡ってアスランと争うはずだ。
 ということは、シリウスの好みのタイプは皇子ということになる。
 俺は頭の中で、皇子のイラストを思い浮かべて口を開いた。

「ええと……、体が大きくて、筋肉質で逞しくて……腹が割れてて、太ももとか腕とかバキバキに硬そうな感じの……カッコいい男の中の男! みたいな感じの……」

「やぁね、ずいぶん具体的。シリウスの趣味ってムキムキのマッチョマンなの? うわぁ……」

「うるさい、悪いかよ」

 個人的には恋をするなら可愛い女の子が良いのはもちろんなのだが、あくまでシリウスが好きなタイプという設定だ。
 ドン引きしているロティーナにその辺の事情を説明することなどできない。
 何とでも思ってくれと思いながら顔を赤くしていると、ゴトンとカップが倒れる音がした。
 アスランの前にあるカップが横倒れになっていたが、幸い中身は溢れておらず空だったようだ。

 どうしたのかと思って見ると、アスランは手をプルプルさせながら呆然とした顔をしていた。

「も……もしかして、バーロック卿みたいな」

「あーそーそー、あんな感じ」

 いい例えが出たなと思って、つい明るく答えてしまったら、アスランはもっと悲痛な顔になった。
 悪口を言われたわけでもないのに、ひどい顔をして、まるでショックでも受けているみたいだなと首を傾げた。

「バーロック卿って、知ってるわよ。去年の剣闘大会で優勝した方じゃない! むさ苦しいのは嫌だけど。あの方なら私も良いかも。将来有望だし」

「……ロティーナって、結構計算高いんだね」

「何よ! シリウスは黙ってて!」

「シリウス!」

「は、はい」

 ロティーナと言い合っていたら、いきなりアスランが名前を呼んで俺の手を掴んできた。
 その迫力に思わず、素直にはいと答えてしまった。

「僕、頑張るから」

「へ? 何を?」

 なぜか急に気合が入ったのか、赤い瞳をもっと熱い炎で燃やして、ギラギラした目でアスランは俺のことを見てきた。

「頑張る」

 アスランはもう人の話なんて聞いちゃいない。
 拳を胸の前で突き上げて震わせているので、意味の分からない俺とロティーナはポカンとしてしまった。

 とりあえずよく分からないが、頑張れと声をかけたのだった。






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