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⑫ ホテル
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雲一つない青い空。
ビルが立ち並ぶ景色を見下ろして、何度目か分からないため息をついた。
今日のために新調したのは、佳純が選んでくれた紺色の浴衣によく似た色の光沢があるスーツだ。
ネクタイは佳純の瞳の色に近いものを選んだ。
これを選んだ時は、心が踊り出しそうなくらい幸せだと感じていた。
外の景色とは反対にどんよりとした分厚い雲が俺の周りだけかかっているようだ。
ついにこの日が来てしまった。
佳純は新幹線でこちらに向かっているはずだ。
着いたらすぐに会いたいと、ホテルの最上階のレストランを予約してくれていた。
そして俺の両親も交えて会食をして、その場で婚姻届を書くはずだった。
しかし、妹、玲香の帰国で全てが変わってしまった。
両親は結局、玲香に上手く説明できなかった。
今日はとりあえずの顔合わせのような食事会だと玲香は思っているだろう。
俺が間に入ったことで話が複雑になったのと、玲香の勢いが凄すぎて、何を言っても通じない状態だった。
連絡が行き違い、わざわざ帰国してきた玲香に、なんと言えばいいのか分からなくて、みんな口を閉じてしまった。
そう、今ならまだ間に合うのだ。
婚約は交わしたが、結婚したわけではない。
そもそも佳純が最初に望んでいたのは玲香で、俺と婚約したのは多少の気持ちは持ってくれていても、結婚を急いでいたという事情の方が大きいだろう。
父や母もそう思っている。
そして遅れてしまったが、やっと本命だった玲香が帰って来たのだ。
それも、独身主義だったのを変えて、結婚していいとまで言っている。
佳純は優しい人だから、ここまで進んだ話だからと、もしかしたら俺を選んでくれるかもしれない。
でもダメなのだ。
そんなことをしたら、きっと後悔する。
だってずっと好きだった人だ。
同情なんかに足を取られて俺と結婚したら、何年経ってもずっと玲香のことが頭から離れないだろう。
あの時、どうしてああしなかったのか。
きっと後悔して生きていくに違いない。
あんな優しい人に、そんな辛い思いはして欲しくない。
「そうだよ……引くべきなのは俺じゃないか」
今俺は、会食予定のレストランがあるホテルの一室にいる。
準備があるだろうからと、前泊してもいいように佳純が手配してくれた。
別の部屋では、玲香と母親が着物を着付けていて、父親は喫煙所へ行っている。
今がそのタイミングかもしれない。
それでも決心がつかずに、窓から道行く人をぼんやり眺めていた。
スマホが鳴った。
少し前なら心が躍るくらいの気持ちになったが、今は心臓が冷えてしまった。
息を呑んで画面を見ると、佳純から今駅に着いたところで、これからタクシーに乗りますとメッセージが入っていた。
今しかない。
俺は手が震えるのを必死に堪えて、佳純に電話をかけた。
数回のコールで、もしもしという佳純の声が聞こえた。
「諒さん、よかった。ちょうど着いたところです。今向かいますね。多分、十五分くらいで……」
「佳純さん、今、少し話をしたいのですがいいですか?」
「は、はい……どうかしましたか?」
すでに耳に馴染んだ佳純の優しい声に胸が熱くなる。
この声で耳元で愛を囁かれたら、どんなに幸せだろうと………。
「実は……、今週、玲香が帰国したんです」
「えっ………」
「こちらが送ったメッセージに返事をしたかったけど、連絡が取れない状況だったみたいです。それで、玲香ですが、気持ちが変わって佳純さんと結婚の意思があるそうです」
「…………」
俺の言葉に佳純は沈黙した。
緊張しているような息づかいの音だけが聞こえてきた。
「今、私はホテルまで来ていますが、このまま会食には参加しないつもりです」
「え…………」
「佳純さんは、ずっと玲香のことを好きだったんでしょう。私のことは………少しだけ、寄り道をしただけです。本来目指していた場所へ向かうべきです。本当に求めていた人の元に……」
「なっ、何を仰っているんですか! 私は今さら気持ちを変えるつもりなど……」
「後悔して欲しくないんです! 自分から俺にしておけなんて言って、今さらこんなことを言うなんて、俺だって……おかしいと思いますけど……、とにかく一度玲香に会ってみてください。間違っていなかったと気がつくはずです。それで……それが一番いいと思います」
「後悔なんてしません! もう私の中で過去のことはもういいのです。私が今見ているのは、私が一緒にいたいのは諒さんです」
本当に優しい人だ。
ここまで来ても、俺を否定せずに真っ直ぐに考えてくれている。
だからこそ、俺が引かないといけない。
「かすっ……佳純さ……」
「諒さん? 大丈夫ですか? 声が……もしかして泣いて……」
胸が熱くなって感情が込み上げてきて、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
喋ったら嗚咽を漏らしそうになるのを堪えながら、なんとか口を開いた。
「好き、佳純さんが好き」
「諒さん……」
「だから、幸せになって欲しい」
「待って、私の幸せは、諒さんと……」
佳純の声が聞こえていたが、電話を切って、そのまま電源も落としてしまった。
テーブルの上に、体調が優れないので家に帰りますとだけメモを残して部屋を出た。
玲香が帰って来たのにすぐに電話をせずに、当日になってここまで来てしまったのは、ずっと悩んで答えが出なかったからだ。
佳純と玲香の間に入って、佳純は俺のものだから誰にも渡さないと、泣いて叫んで暴れるところを何度も想像した。
その度に、想像の中の佳純はひどく悲しそうな顔をしていた。
俺が自分の気持ちを押し通したことで、この先の人生で佳純に本当にそんな顔をさせてしまったら……
エレベーターでロビーまで降りて、出入り口の様子を見ていると、タクシーから降りて走ってくる人影が見えた。
佳純だった。
今日はシルバーグレイのスーツを着ていた。
スーツ姿も痺れるほど美しかった。
柱の影から見ていたが、エレベーターに乗り込む様子まで見たらその場に崩れ落ちてしまった。
ひとりで何をしているのかと、虚しさと悲しさが込み上げてきて、頬を濡らした。
どれくらいそうしていたのだろう。
通り過ぎる人に体調が悪いのかと声をかけられる事もあったが、大丈夫ですと言ってその場から動けずにいた。
後はホテルに背を向けて、二人の幸せを祈りながら去るべきだとそう思うのにそれができない。
ずっと会いたくて会いたくてたまらなかった。
佳純の姿を目にしたら、気持ちはダメだと思うのに、体が動かなくなってしまった。
心臓の音がドクドクと速く鳴って、焦る気持ちが出てきてしまった。
引いたり押したりで暴走状態だ。
これじゃ完全に一人芝居なのに、焦る気持ちがどんどん湧いてくる。
本当に、本当にこれでいいのか。
自分は変わったと思っていたのに、これでは何一つ変わっていない。
今度もまた他人のせいにして、結局自分は手にできないと勝手にひとりで嘆いている。
どうにもできないんだと、最初から諦めて背を向けて逃げてきた。
このままだと、この先の人生でずっとこの繰り返しだ。
他のものはもうどうだっていい。
佳純は、初めて本気で好きだと思えた人だ。
諦めたくない。
ゆっくり呼吸を整えて、顔を上げてから足に力を込めた。
佳純が誰を選んでも、幸せな選択をしたならそれでいい。
……もし俺を選んだら、悲しい顔なんてさせるもんか! 後悔なんて言葉も出ないくらい、俺が愛して愛して、お腹いっぱいになるくらい、幸せにしてあげるんだ!
力強く立ち上がった俺はエレベーターに向かった。
降りたり上がったり忙しいが、もう逃げたりしない。
ドアが開いたら飛び乗って、最上階のボタンを押した。
ドアが閉まったら、スマホの電源を入れた。
起動中の画面を見ながら、ふと、先ほど自分が考えた言葉が頭に残っていることに気がついた。
お腹いっぱい、幸せ
なんとなく、俺は昔、その言葉を使ったことがあるような気がした。
脳裏にぽちゃぽちゃの柔らかそうなほっぺが浮かんだ。
口の周りについたアイスクリーム。
ウルウルと潤んだ瞳。
ふわふわの髪の毛が風に吹かれて空に広がった。
あれは……
いつの思い出だろう……
スマホの電源が回復した途端、ブルブルと鳴り出したので、驚いて落としそうになってしまった。
画面に表示されているのは佳純の名前だった。
もしかして、ずっとかけていてくれたのかもしれない。
ドキドキしながら通話ボタンを押した。
「やっと繋がった! 諒さん! どこにいるんですか!?」
「突然切ってしまって、ごめんなさい。すごく、混乱していて……」
「外ですか? 迎えに行きます! 教えてください! 私は、諒さんに会わないと……今すぐ会いたいんです!」
佳純はいつも落ち着いていて、穏やかで優しい人だ。
そんな人が、ぜーぜーと息を切らしながら、まるで懇願するように泣きそうな声をしていた。
俺は佳純の言葉を信じられず、勝手に結論付けて飛び出してしまった。
会いたい
俺も会いたい
なんて愚かだったのかと胸が痛くなった時、チンと鈴の音が鳴ってエレベーターのドアが開いた。
「諒さん! 私が一緒にいたいのは諒さんです! お願い……どこにいるんですか! どこにも、いかないで……」
「あの……ここ、です」
電話越しに聞こえていた声は、エレベーターのドアが開いた向こうから直に聞こえてきた。
こちらに背を向けて頭を抱えながらうずくまっている佳純と、その周りに困った顔で立ち尽くしているうちの家族の面々がいた。
なんて光景なんだと、目を疑ってしまった。
「佳純さん、すみません……、今ちょうど上ってきて……」
「諒!!」
佳純は声をかけているのにやっと気がついてくれた。
バっと顔を上げると、泣き腫らした目をして鼻の頭まで真っ赤になっていた。
そんな顔でも美しいのだが、さすがにボロボロに泣いている顔にビックリしてしまった。
そして俺の姿を確認した佳純は、勢いよく立ち上がって、その勢いのまま俺に向かって走って飛びついて抱き締めてきた。
「わっ、佳純さ……」
「諒、諒さ……お願いです。どこにも行かないで。私が愛しているのは諒さんです。他にはもう、何もいらないから……お願い……」
初めて会った時は感情の起伏の少ない人だと思った。優しいけど、どこか冷たくて、一線を引かれているような気さえした。
それから少しずつ打ち解けていって、大きな口を開けて笑うところや、悪戯っぽく微笑む顔、色々な佳純の姿を見てきた。
そして今、子供のように泣きじゃくっている姿を見て、驚きと共に、こんなに自分を求めてくれていたなんてと胸が熱くなってきた。
「ごめんなさ……、俺が悪いんです。勇気が出なくて、好きって言えなかった。初恋の相手が現れたって分かったら……怖くなって、逃げてしまったんです。でも、佳純さんが好きだから、やっぱりどこにもいけない……、後悔なんてさせないくらい、俺が幸せにするんだって、やっと気がついて……」
「ああ、やっぱりそうだ。その言葉、諒さんこそが私がずっと好きで待ち続けた人です」
「え? ずっと好き? それは……」
涙がやっと止まって、佳純は俺を見て本当に嬉しそうな顔で笑った。
抱き合ったまま、まるでキスをするくらいの近い距離で見つめ合っていたら、ゴホンと咳払いをする声が聞こえてきた。
佳純の肩越しに、気まずそうに目元を手で隠している父親の姿を見てしまって、一気に現実に戻った。
「お二人さーん、好き好き言い合ってるのはいいけど、ここ、エレベーターホールだから、完全に邪魔。どうせなら、そこのレストランに入ってちゃんとお互いの話を合わせたらどうかしら? それに、私もうお腹がペコペコなんだけど!」
ピンクの着物を着て、くるくるの頭で豪華に着飾っている玲香が、いい加減にしてくれという顔でドスドス床を踏んできた。
佳純と顔を見合わせた後、二人で顔を赤くして急いでエレベーターの真ん前から移動した。
よく見れば、何をやっているのかと、他にもギャラリーが集まっていて、じろじろ見られてしまった。
完全に二人の世界に入っていたと恥ずかしくなったが、佳純と手を繋いだまま離すことはなかった。
「結論から言うと、私が探していた玲香さんは、諒さんでした」
予約していたレストランの個室に入って、みんなで乾杯が終わったら、すっかり貴公子のようなシュッとした美しさを取り戻した佳純がハッキリとそう言ってきた。
俺はその日本語の意味を噛み砕いても理解できなくて首を傾げた。
「と、君塚さんが仰ってますけど? 肝心の諒はまだ思い出さないワケ? いつの間に私の名前を騙ったのよ」
ムクれた顔で呆れた目をしながら玲香の冷たい視線が飛んできた。それでも腕を組んで唸っていたら、佳純は自分のポケットから何か取り出して俺の前に置いた。
「諒さんが思い出せないのも無理はないと思います。私にあの頃の面影はありませんから。これを見てください」
俺の前に置かれたのは一枚の写真だった。
それを手に取った俺は、アッと声を上げた。
幼き日、内緒で家を飛び出した大冒険の日を思い出した。
溶けるような夏の、たった一日の出会い。
それが俺と佳純の、本当の始まりの日だった。
□□□
ビルが立ち並ぶ景色を見下ろして、何度目か分からないため息をついた。
今日のために新調したのは、佳純が選んでくれた紺色の浴衣によく似た色の光沢があるスーツだ。
ネクタイは佳純の瞳の色に近いものを選んだ。
これを選んだ時は、心が踊り出しそうなくらい幸せだと感じていた。
外の景色とは反対にどんよりとした分厚い雲が俺の周りだけかかっているようだ。
ついにこの日が来てしまった。
佳純は新幹線でこちらに向かっているはずだ。
着いたらすぐに会いたいと、ホテルの最上階のレストランを予約してくれていた。
そして俺の両親も交えて会食をして、その場で婚姻届を書くはずだった。
しかし、妹、玲香の帰国で全てが変わってしまった。
両親は結局、玲香に上手く説明できなかった。
今日はとりあえずの顔合わせのような食事会だと玲香は思っているだろう。
俺が間に入ったことで話が複雑になったのと、玲香の勢いが凄すぎて、何を言っても通じない状態だった。
連絡が行き違い、わざわざ帰国してきた玲香に、なんと言えばいいのか分からなくて、みんな口を閉じてしまった。
そう、今ならまだ間に合うのだ。
婚約は交わしたが、結婚したわけではない。
そもそも佳純が最初に望んでいたのは玲香で、俺と婚約したのは多少の気持ちは持ってくれていても、結婚を急いでいたという事情の方が大きいだろう。
父や母もそう思っている。
そして遅れてしまったが、やっと本命だった玲香が帰って来たのだ。
それも、独身主義だったのを変えて、結婚していいとまで言っている。
佳純は優しい人だから、ここまで進んだ話だからと、もしかしたら俺を選んでくれるかもしれない。
でもダメなのだ。
そんなことをしたら、きっと後悔する。
だってずっと好きだった人だ。
同情なんかに足を取られて俺と結婚したら、何年経ってもずっと玲香のことが頭から離れないだろう。
あの時、どうしてああしなかったのか。
きっと後悔して生きていくに違いない。
あんな優しい人に、そんな辛い思いはして欲しくない。
「そうだよ……引くべきなのは俺じゃないか」
今俺は、会食予定のレストランがあるホテルの一室にいる。
準備があるだろうからと、前泊してもいいように佳純が手配してくれた。
別の部屋では、玲香と母親が着物を着付けていて、父親は喫煙所へ行っている。
今がそのタイミングかもしれない。
それでも決心がつかずに、窓から道行く人をぼんやり眺めていた。
スマホが鳴った。
少し前なら心が躍るくらいの気持ちになったが、今は心臓が冷えてしまった。
息を呑んで画面を見ると、佳純から今駅に着いたところで、これからタクシーに乗りますとメッセージが入っていた。
今しかない。
俺は手が震えるのを必死に堪えて、佳純に電話をかけた。
数回のコールで、もしもしという佳純の声が聞こえた。
「諒さん、よかった。ちょうど着いたところです。今向かいますね。多分、十五分くらいで……」
「佳純さん、今、少し話をしたいのですがいいですか?」
「は、はい……どうかしましたか?」
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この声で耳元で愛を囁かれたら、どんなに幸せだろうと………。
「実は……、今週、玲香が帰国したんです」
「えっ………」
「こちらが送ったメッセージに返事をしたかったけど、連絡が取れない状況だったみたいです。それで、玲香ですが、気持ちが変わって佳純さんと結婚の意思があるそうです」
「…………」
俺の言葉に佳純は沈黙した。
緊張しているような息づかいの音だけが聞こえてきた。
「今、私はホテルまで来ていますが、このまま会食には参加しないつもりです」
「え…………」
「佳純さんは、ずっと玲香のことを好きだったんでしょう。私のことは………少しだけ、寄り道をしただけです。本来目指していた場所へ向かうべきです。本当に求めていた人の元に……」
「なっ、何を仰っているんですか! 私は今さら気持ちを変えるつもりなど……」
「後悔して欲しくないんです! 自分から俺にしておけなんて言って、今さらこんなことを言うなんて、俺だって……おかしいと思いますけど……、とにかく一度玲香に会ってみてください。間違っていなかったと気がつくはずです。それで……それが一番いいと思います」
「後悔なんてしません! もう私の中で過去のことはもういいのです。私が今見ているのは、私が一緒にいたいのは諒さんです」
本当に優しい人だ。
ここまで来ても、俺を否定せずに真っ直ぐに考えてくれている。
だからこそ、俺が引かないといけない。
「かすっ……佳純さ……」
「諒さん? 大丈夫ですか? 声が……もしかして泣いて……」
胸が熱くなって感情が込み上げてきて、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
喋ったら嗚咽を漏らしそうになるのを堪えながら、なんとか口を開いた。
「好き、佳純さんが好き」
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玲香が帰って来たのにすぐに電話をせずに、当日になってここまで来てしまったのは、ずっと悩んで答えが出なかったからだ。
佳純と玲香の間に入って、佳純は俺のものだから誰にも渡さないと、泣いて叫んで暴れるところを何度も想像した。
その度に、想像の中の佳純はひどく悲しそうな顔をしていた。
俺が自分の気持ちを押し通したことで、この先の人生で佳純に本当にそんな顔をさせてしまったら……
エレベーターでロビーまで降りて、出入り口の様子を見ていると、タクシーから降りて走ってくる人影が見えた。
佳純だった。
今日はシルバーグレイのスーツを着ていた。
スーツ姿も痺れるほど美しかった。
柱の影から見ていたが、エレベーターに乗り込む様子まで見たらその場に崩れ落ちてしまった。
ひとりで何をしているのかと、虚しさと悲しさが込み上げてきて、頬を濡らした。
どれくらいそうしていたのだろう。
通り過ぎる人に体調が悪いのかと声をかけられる事もあったが、大丈夫ですと言ってその場から動けずにいた。
後はホテルに背を向けて、二人の幸せを祈りながら去るべきだとそう思うのにそれができない。
ずっと会いたくて会いたくてたまらなかった。
佳純の姿を目にしたら、気持ちはダメだと思うのに、体が動かなくなってしまった。
心臓の音がドクドクと速く鳴って、焦る気持ちが出てきてしまった。
引いたり押したりで暴走状態だ。
これじゃ完全に一人芝居なのに、焦る気持ちがどんどん湧いてくる。
本当に、本当にこれでいいのか。
自分は変わったと思っていたのに、これでは何一つ変わっていない。
今度もまた他人のせいにして、結局自分は手にできないと勝手にひとりで嘆いている。
どうにもできないんだと、最初から諦めて背を向けて逃げてきた。
このままだと、この先の人生でずっとこの繰り返しだ。
他のものはもうどうだっていい。
佳純は、初めて本気で好きだと思えた人だ。
諦めたくない。
ゆっくり呼吸を整えて、顔を上げてから足に力を込めた。
佳純が誰を選んでも、幸せな選択をしたならそれでいい。
……もし俺を選んだら、悲しい顔なんてさせるもんか! 後悔なんて言葉も出ないくらい、俺が愛して愛して、お腹いっぱいになるくらい、幸せにしてあげるんだ!
力強く立ち上がった俺はエレベーターに向かった。
降りたり上がったり忙しいが、もう逃げたりしない。
ドアが開いたら飛び乗って、最上階のボタンを押した。
ドアが閉まったら、スマホの電源を入れた。
起動中の画面を見ながら、ふと、先ほど自分が考えた言葉が頭に残っていることに気がついた。
お腹いっぱい、幸せ
なんとなく、俺は昔、その言葉を使ったことがあるような気がした。
脳裏にぽちゃぽちゃの柔らかそうなほっぺが浮かんだ。
口の周りについたアイスクリーム。
ウルウルと潤んだ瞳。
ふわふわの髪の毛が風に吹かれて空に広がった。
あれは……
いつの思い出だろう……
スマホの電源が回復した途端、ブルブルと鳴り出したので、驚いて落としそうになってしまった。
画面に表示されているのは佳純の名前だった。
もしかして、ずっとかけていてくれたのかもしれない。
ドキドキしながら通話ボタンを押した。
「やっと繋がった! 諒さん! どこにいるんですか!?」
「突然切ってしまって、ごめんなさい。すごく、混乱していて……」
「外ですか? 迎えに行きます! 教えてください! 私は、諒さんに会わないと……今すぐ会いたいんです!」
佳純はいつも落ち着いていて、穏やかで優しい人だ。
そんな人が、ぜーぜーと息を切らしながら、まるで懇願するように泣きそうな声をしていた。
俺は佳純の言葉を信じられず、勝手に結論付けて飛び出してしまった。
会いたい
俺も会いたい
なんて愚かだったのかと胸が痛くなった時、チンと鈴の音が鳴ってエレベーターのドアが開いた。
「諒さん! 私が一緒にいたいのは諒さんです! お願い……どこにいるんですか! どこにも、いかないで……」
「あの……ここ、です」
電話越しに聞こえていた声は、エレベーターのドアが開いた向こうから直に聞こえてきた。
こちらに背を向けて頭を抱えながらうずくまっている佳純と、その周りに困った顔で立ち尽くしているうちの家族の面々がいた。
なんて光景なんだと、目を疑ってしまった。
「佳純さん、すみません……、今ちょうど上ってきて……」
「諒!!」
佳純は声をかけているのにやっと気がついてくれた。
バっと顔を上げると、泣き腫らした目をして鼻の頭まで真っ赤になっていた。
そんな顔でも美しいのだが、さすがにボロボロに泣いている顔にビックリしてしまった。
そして俺の姿を確認した佳純は、勢いよく立ち上がって、その勢いのまま俺に向かって走って飛びついて抱き締めてきた。
「わっ、佳純さ……」
「諒、諒さ……お願いです。どこにも行かないで。私が愛しているのは諒さんです。他にはもう、何もいらないから……お願い……」
初めて会った時は感情の起伏の少ない人だと思った。優しいけど、どこか冷たくて、一線を引かれているような気さえした。
それから少しずつ打ち解けていって、大きな口を開けて笑うところや、悪戯っぽく微笑む顔、色々な佳純の姿を見てきた。
そして今、子供のように泣きじゃくっている姿を見て、驚きと共に、こんなに自分を求めてくれていたなんてと胸が熱くなってきた。
「ごめんなさ……、俺が悪いんです。勇気が出なくて、好きって言えなかった。初恋の相手が現れたって分かったら……怖くなって、逃げてしまったんです。でも、佳純さんが好きだから、やっぱりどこにもいけない……、後悔なんてさせないくらい、俺が幸せにするんだって、やっと気がついて……」
「ああ、やっぱりそうだ。その言葉、諒さんこそが私がずっと好きで待ち続けた人です」
「え? ずっと好き? それは……」
涙がやっと止まって、佳純は俺を見て本当に嬉しそうな顔で笑った。
抱き合ったまま、まるでキスをするくらいの近い距離で見つめ合っていたら、ゴホンと咳払いをする声が聞こえてきた。
佳純の肩越しに、気まずそうに目元を手で隠している父親の姿を見てしまって、一気に現実に戻った。
「お二人さーん、好き好き言い合ってるのはいいけど、ここ、エレベーターホールだから、完全に邪魔。どうせなら、そこのレストランに入ってちゃんとお互いの話を合わせたらどうかしら? それに、私もうお腹がペコペコなんだけど!」
ピンクの着物を着て、くるくるの頭で豪華に着飾っている玲香が、いい加減にしてくれという顔でドスドス床を踏んできた。
佳純と顔を見合わせた後、二人で顔を赤くして急いでエレベーターの真ん前から移動した。
よく見れば、何をやっているのかと、他にもギャラリーが集まっていて、じろじろ見られてしまった。
完全に二人の世界に入っていたと恥ずかしくなったが、佳純と手を繋いだまま離すことはなかった。
「結論から言うと、私が探していた玲香さんは、諒さんでした」
予約していたレストランの個室に入って、みんなで乾杯が終わったら、すっかり貴公子のようなシュッとした美しさを取り戻した佳純がハッキリとそう言ってきた。
俺はその日本語の意味を噛み砕いても理解できなくて首を傾げた。
「と、君塚さんが仰ってますけど? 肝心の諒はまだ思い出さないワケ? いつの間に私の名前を騙ったのよ」
ムクれた顔で呆れた目をしながら玲香の冷たい視線が飛んできた。それでも腕を組んで唸っていたら、佳純は自分のポケットから何か取り出して俺の前に置いた。
「諒さんが思い出せないのも無理はないと思います。私にあの頃の面影はありませんから。これを見てください」
俺の前に置かれたのは一枚の写真だった。
それを手に取った俺は、アッと声を上げた。
幼き日、内緒で家を飛び出した大冒険の日を思い出した。
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