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5、落ちた靴
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初めて発情した時のことはよく覚えていない。
母と買い物に出かけていたが、母が服が見たいと言い始めた。
さすがに中学生になって女物の服屋に入れないので、俺は一人で別の店に行くと言って母から離れた。
本屋にでも行くかと考えて歩いていたら、店先でうずくまっている人を見かけた。
見過ごせなくて声をかけたら、強く拒否された気がする。
母が一時期薬が合わなくて、副作用で目眩を起こすことがあって、その時の状態によく似ていた。
迷惑かもしれないが近寄って、背中をさすったり、安心するように声をかけた気がする。
そこからの記憶が曖昧だ。
その人を助けようとしていたのに、いつの間にか全身がカッと熱くなって、自分の中から何かがぶあっと放出された気がした。
怖くなってその場から走って離れたが、途中で足が動かなくなり転んでしまった。
全身の血が湧き立ちドクドクと流れるのを感じて、母から聞いていた発情だとすぐに理解した。
自分の身を守らないとと思ったが、フェロモンが出ているはずなのに、周りの人はあの子どうしたんだという顔で倒れている俺を遠巻きに見ていた。
助けて、微かにそう言葉を絞り出した後、強すぎる衝動にショック状態となり気絶した。
あの時なぜ急に発情したのか。
たまたまあのタイミングだったのか、よく分からない。
曖昧な苦い記憶として、俺の中にいつまでも残っていた。
コトンと小さく音を立てて、俺の前にマグカップが置かれた。
コーヒーの香ばしくていい香りが部屋の中に広がった。
「どうぞ、口に合うか分からないけど。こんなものしかなくてごめんね」
「お…おかまいなく……」
リビングと呼ぶには俺の想像を超える広すぎる部屋に置かれた小さなテーブル。
バランスがおかしいだろうという家具だが、住人は一人だからこれでちょうどいいのかもしれない。
そのテーブルを挟んで向かい側には龍崎が機嫌が良さそうな顔をして座っていた。
龍崎が淹れてくれたコーヒーを飲むためにカップを手に取った。
カップの中に入った黒い液体には、俺のアホ面が映っていた。
それを見ながら、なぜこんなところまで来てしまったのだろうかとぼんやりと思い返した。
定期検査のために病院を訪れた俺は、病院の正面ホールでばったり龍崎に会ってしまった。
何をしに来たのか聞かれたので、素直に定期検査で今終わって帰るところだと話した。
龍崎は自分もそうだと言って、今終わったところだからこれから家に遊びに来ないかと誘われた。
一人暮らしだし、誰も気にする人はいないからと言われた。
予定はあるのかと聞かれてないと答えてしまった。
どう断ろうとかとぐるぐる頭の中で考えたけれど、良さそうな文句が浮かんでこなくて、そのうちに手を取られ背中を押されてタクシーに乗せられてしまった。
「強引に連れてきてごめんね。どうしても二人でゆっくり話がしたくて」
「別に…い…いいけど。今日はウチも家族が泊まりだから……ひとりで暇だったし」
町の中心部にある高層マンション、その上層階で龍崎は聞いていた通り一人暮らしをしているようだった。
このだだっ広いリビングに着くまでに長い廊下を歩いた。途中何個も扉があったがどこも暗くて寒い気がした。
このリビングにもあるのはテーブルと椅子だけ、直結しているキッチンも、チラリと見たがほとんど何も置かれていなかった。
物を置くのが嫌いなタイプにしても、もう少し生活感があってもよさそうなのに、まるで作り物のような龍崎そのものを表しているかのようだった。
「弟くんまだ小さいんだっけ。いくつ?」
「五歳」
「ずいぶん離れてるね。でも、きっと倉橋くんに似ていて可愛いんだろうな」
「ばっ…………」
この男は時々普通の顔をして変な冗談を入れてくるのでどう反応していいか分からない。
混乱しながらも軽く咳をして持ち直した。
「俺とは似てないよ。母親が再婚した相手が連れてきた子だから」
「……そうなんだ。仲はいいの?」
「いい…方だと思う。懐いてくれているし、家にいる間は俺の膝の上に乗ってきてさ。夜も時々一緒に寝るんだ、本当に可愛いよ」
「へぇ………」
可愛い弟とのエピソードを思い出しながら話していたら、つい顔が綻んでしまった。
つい自慢してしまったからだろうか、気がつくとピリついた空気が流れていて俺は慌てた。
「……あっ、ごめん。なんか俺、ペラペラと……」
「え? 別に俺が聞いたんだからいいよ。複雑そうな環境に思えたけど、倉橋くんが幸せそうだから良かった」
龍崎は笑っていたけど、その笑顔は俺の苦手な作り物のみたいなやつで、俺の胸はツキンと痛んだ。
「龍崎は……ここに一人暮らしか……。いつからそうなの?」
「中学から」
「ええ!? 中学生から!? いくらなんでも……」
「もともと親は仕事で海外にいることが多くて、ほとんど顔を合わせることもなかったし、早くから親元を離れることが家の方針だったからね。自分からひとりで暮らしたいって言ったんだ」
きっとこの話をすると誰もが同じ顔をするからだろう。龍崎は慣れた様子で、通いで人が来てくれるし、自分が希望したことだから問題はないと言った。
そうは言われても、このなにもないガランとした部屋を見たら寂しそうに思えて胸が苦しくなった。
無言で部屋を見渡す俺を見て、龍崎はクスッと笑った。
「人を呼ぶこともないし、これくらいの方が落ち着くんだ」
「え!? てっきり週末は友人を呼んでパーティー三昧かと……」
「えー、何それ。俺に対してどんなイメージ持ってるの? 俺、騒がしいのとか、人が多いのとか嫌いだよ」
意外過ぎて言葉が出なかった。
学校での龍崎はいつも人に囲まれていて、輪の中心にいる男だった。
それが孤独を好むタイプだったとは、全く真逆のイメージに頭がこんがらがってしまった。
「意外だった? 倉橋くんが俺のこと、どう思っているのかすごく知りたい」
龍崎の目がパッと灯がついたみたいに明るくなった。机の上にぐいっと乗り出してきたので、俺はわずかに後ろに引いた。
「い…別に……、何も。真面目な生徒会長?」
「嘘……、それだけ? ここ最近、頑張って仲良くしようとアピールしてきたのにぃー」
整った顔を崩して、悔しそうな顔をする龍崎は、先ほどの家族の話をしている時と違って、生き生きとして見えた。
心の扉をノックして、やっと本人と話しているような感覚だった。
「あー、もう一つあった。すごい変なヤツ」
「そんなぁー、変なヤツはないよぅ」
机に突っ伏して残念そうにしている龍崎がおかしくて、俺はクスクスと声を上げて笑ってしまった。
この男は何個扉を持っているのだろう。
俺はもっと中が見たいと思ってしまう気持ちを、鎮めようと必死だった。
「龍崎は、俺がオメガだって気がついた初めてのやつだよ。小学校から幼馴染の和幸だって、最初は信じてくれなかった」
少しだけお互いのことに触れて仲良くなったように感じた俺は、つい自分の深い話をしてしまった。
軽く流されると思ったが、龍崎は急に真面目な顔になって俺のことを見てきた。
「それは……どういうこと?」
「俺は薬がよく効く体質なんだ。発情しても熱が出るくらいだし、フェロモンも弱いんだ。しかも、一般的な人が感じない特殊なフェロモンらしくて、おかげで今まで誰も俺の匂いに気が付かなかった。……り…龍崎が初めてだよ」
「俺………俺だけ?」
「そう。ほら、龍崎の家系ってアルファ性が濃いんだろう。鼻がいいって言ってたもんな。そういうこと……じゃないのかな」
医者だってよく分からないと匙を投げた話だ。
素人の俺が分かるはずがない。
変な風に思われたら嫌だなと龍崎の方を見たら、龍崎は手を口に当てて下を向いていた。
もしかしてこの話で笑っているのかと驚いた。
「龍崎……大丈夫か? 今の……笑える話だったかな……」
「……笑うとかじゃない……、嬉しくて……」
「ああ、嬉しいのか…………、って! ええ!?」
なぜ龍崎が喜ぶのか訳が分からなかった。
あーそうなんだで軽く流される話だと思っていた。
ゆっくり顔を上げた龍崎は、まだ口元から手を離していなかったが、その目元は赤くなっていて薄っすら潤んでいるようにすら見えた。
「やばい……。想像以上に嬉しくて……。まさか、俺が……俺だけが感じられる匂いだったなんて……」
「……えっ、でも家系的なものなら……龍崎の家族なら…きっと…」
「いや、俺だけだよ。だってあの日から、この匂いを忘れたことなんてなかった。世の中なんて汚いものや臭いものばかりだ。その中で……君の匂いだけが……俺に生きる希望を与えてくれた」
「は……えっ、ええ!? そ…そんなに!?」
「そうだよ。ねえ、せっかく二人きりなんだから、もっと側で嗅がしてよ」
ガタンと椅子を引いて立ち上がった龍崎は、真っ直ぐ俺の方に向かってきた。
いつもの優しい王子様はそこにはいなくて、仄暗い色に染まっているような気がした。
なに冗談言ってんだよ。
バカなことを言うな。
ダメだって、なに考えてんだ。
言わなきゃいけない言葉が口から出てこない。
王子様が探していたのはガラスの靴の持ち主のはずだ。
俺はシンデレラなんかじゃない。
そんなバカな言葉しか浮かんでこないなんて致命的だ。
「う……嘘……だろう」
すぐ目の前まで来た龍崎は、座っている俺の足元に跪いた。
「指を……一本でもいいから……」
何を言っているのか。
俺を見上げてくる龍崎も何もかも信じられなくて、呆然とその言葉の意味を頭の中で繰り返し考えた。
□□□
母と買い物に出かけていたが、母が服が見たいと言い始めた。
さすがに中学生になって女物の服屋に入れないので、俺は一人で別の店に行くと言って母から離れた。
本屋にでも行くかと考えて歩いていたら、店先でうずくまっている人を見かけた。
見過ごせなくて声をかけたら、強く拒否された気がする。
母が一時期薬が合わなくて、副作用で目眩を起こすことがあって、その時の状態によく似ていた。
迷惑かもしれないが近寄って、背中をさすったり、安心するように声をかけた気がする。
そこからの記憶が曖昧だ。
その人を助けようとしていたのに、いつの間にか全身がカッと熱くなって、自分の中から何かがぶあっと放出された気がした。
怖くなってその場から走って離れたが、途中で足が動かなくなり転んでしまった。
全身の血が湧き立ちドクドクと流れるのを感じて、母から聞いていた発情だとすぐに理解した。
自分の身を守らないとと思ったが、フェロモンが出ているはずなのに、周りの人はあの子どうしたんだという顔で倒れている俺を遠巻きに見ていた。
助けて、微かにそう言葉を絞り出した後、強すぎる衝動にショック状態となり気絶した。
あの時なぜ急に発情したのか。
たまたまあのタイミングだったのか、よく分からない。
曖昧な苦い記憶として、俺の中にいつまでも残っていた。
コトンと小さく音を立てて、俺の前にマグカップが置かれた。
コーヒーの香ばしくていい香りが部屋の中に広がった。
「どうぞ、口に合うか分からないけど。こんなものしかなくてごめんね」
「お…おかまいなく……」
リビングと呼ぶには俺の想像を超える広すぎる部屋に置かれた小さなテーブル。
バランスがおかしいだろうという家具だが、住人は一人だからこれでちょうどいいのかもしれない。
そのテーブルを挟んで向かい側には龍崎が機嫌が良さそうな顔をして座っていた。
龍崎が淹れてくれたコーヒーを飲むためにカップを手に取った。
カップの中に入った黒い液体には、俺のアホ面が映っていた。
それを見ながら、なぜこんなところまで来てしまったのだろうかとぼんやりと思い返した。
定期検査のために病院を訪れた俺は、病院の正面ホールでばったり龍崎に会ってしまった。
何をしに来たのか聞かれたので、素直に定期検査で今終わって帰るところだと話した。
龍崎は自分もそうだと言って、今終わったところだからこれから家に遊びに来ないかと誘われた。
一人暮らしだし、誰も気にする人はいないからと言われた。
予定はあるのかと聞かれてないと答えてしまった。
どう断ろうとかとぐるぐる頭の中で考えたけれど、良さそうな文句が浮かんでこなくて、そのうちに手を取られ背中を押されてタクシーに乗せられてしまった。
「強引に連れてきてごめんね。どうしても二人でゆっくり話がしたくて」
「別に…い…いいけど。今日はウチも家族が泊まりだから……ひとりで暇だったし」
町の中心部にある高層マンション、その上層階で龍崎は聞いていた通り一人暮らしをしているようだった。
このだだっ広いリビングに着くまでに長い廊下を歩いた。途中何個も扉があったがどこも暗くて寒い気がした。
このリビングにもあるのはテーブルと椅子だけ、直結しているキッチンも、チラリと見たがほとんど何も置かれていなかった。
物を置くのが嫌いなタイプにしても、もう少し生活感があってもよさそうなのに、まるで作り物のような龍崎そのものを表しているかのようだった。
「弟くんまだ小さいんだっけ。いくつ?」
「五歳」
「ずいぶん離れてるね。でも、きっと倉橋くんに似ていて可愛いんだろうな」
「ばっ…………」
この男は時々普通の顔をして変な冗談を入れてくるのでどう反応していいか分からない。
混乱しながらも軽く咳をして持ち直した。
「俺とは似てないよ。母親が再婚した相手が連れてきた子だから」
「……そうなんだ。仲はいいの?」
「いい…方だと思う。懐いてくれているし、家にいる間は俺の膝の上に乗ってきてさ。夜も時々一緒に寝るんだ、本当に可愛いよ」
「へぇ………」
可愛い弟とのエピソードを思い出しながら話していたら、つい顔が綻んでしまった。
つい自慢してしまったからだろうか、気がつくとピリついた空気が流れていて俺は慌てた。
「……あっ、ごめん。なんか俺、ペラペラと……」
「え? 別に俺が聞いたんだからいいよ。複雑そうな環境に思えたけど、倉橋くんが幸せそうだから良かった」
龍崎は笑っていたけど、その笑顔は俺の苦手な作り物のみたいなやつで、俺の胸はツキンと痛んだ。
「龍崎は……ここに一人暮らしか……。いつからそうなの?」
「中学から」
「ええ!? 中学生から!? いくらなんでも……」
「もともと親は仕事で海外にいることが多くて、ほとんど顔を合わせることもなかったし、早くから親元を離れることが家の方針だったからね。自分からひとりで暮らしたいって言ったんだ」
きっとこの話をすると誰もが同じ顔をするからだろう。龍崎は慣れた様子で、通いで人が来てくれるし、自分が希望したことだから問題はないと言った。
そうは言われても、このなにもないガランとした部屋を見たら寂しそうに思えて胸が苦しくなった。
無言で部屋を見渡す俺を見て、龍崎はクスッと笑った。
「人を呼ぶこともないし、これくらいの方が落ち着くんだ」
「え!? てっきり週末は友人を呼んでパーティー三昧かと……」
「えー、何それ。俺に対してどんなイメージ持ってるの? 俺、騒がしいのとか、人が多いのとか嫌いだよ」
意外過ぎて言葉が出なかった。
学校での龍崎はいつも人に囲まれていて、輪の中心にいる男だった。
それが孤独を好むタイプだったとは、全く真逆のイメージに頭がこんがらがってしまった。
「意外だった? 倉橋くんが俺のこと、どう思っているのかすごく知りたい」
龍崎の目がパッと灯がついたみたいに明るくなった。机の上にぐいっと乗り出してきたので、俺はわずかに後ろに引いた。
「い…別に……、何も。真面目な生徒会長?」
「嘘……、それだけ? ここ最近、頑張って仲良くしようとアピールしてきたのにぃー」
整った顔を崩して、悔しそうな顔をする龍崎は、先ほどの家族の話をしている時と違って、生き生きとして見えた。
心の扉をノックして、やっと本人と話しているような感覚だった。
「あー、もう一つあった。すごい変なヤツ」
「そんなぁー、変なヤツはないよぅ」
机に突っ伏して残念そうにしている龍崎がおかしくて、俺はクスクスと声を上げて笑ってしまった。
この男は何個扉を持っているのだろう。
俺はもっと中が見たいと思ってしまう気持ちを、鎮めようと必死だった。
「龍崎は、俺がオメガだって気がついた初めてのやつだよ。小学校から幼馴染の和幸だって、最初は信じてくれなかった」
少しだけお互いのことに触れて仲良くなったように感じた俺は、つい自分の深い話をしてしまった。
軽く流されると思ったが、龍崎は急に真面目な顔になって俺のことを見てきた。
「それは……どういうこと?」
「俺は薬がよく効く体質なんだ。発情しても熱が出るくらいだし、フェロモンも弱いんだ。しかも、一般的な人が感じない特殊なフェロモンらしくて、おかげで今まで誰も俺の匂いに気が付かなかった。……り…龍崎が初めてだよ」
「俺………俺だけ?」
「そう。ほら、龍崎の家系ってアルファ性が濃いんだろう。鼻がいいって言ってたもんな。そういうこと……じゃないのかな」
医者だってよく分からないと匙を投げた話だ。
素人の俺が分かるはずがない。
変な風に思われたら嫌だなと龍崎の方を見たら、龍崎は手を口に当てて下を向いていた。
もしかしてこの話で笑っているのかと驚いた。
「龍崎……大丈夫か? 今の……笑える話だったかな……」
「……笑うとかじゃない……、嬉しくて……」
「ああ、嬉しいのか…………、って! ええ!?」
なぜ龍崎が喜ぶのか訳が分からなかった。
あーそうなんだで軽く流される話だと思っていた。
ゆっくり顔を上げた龍崎は、まだ口元から手を離していなかったが、その目元は赤くなっていて薄っすら潤んでいるようにすら見えた。
「やばい……。想像以上に嬉しくて……。まさか、俺が……俺だけが感じられる匂いだったなんて……」
「……えっ、でも家系的なものなら……龍崎の家族なら…きっと…」
「いや、俺だけだよ。だってあの日から、この匂いを忘れたことなんてなかった。世の中なんて汚いものや臭いものばかりだ。その中で……君の匂いだけが……俺に生きる希望を与えてくれた」
「は……えっ、ええ!? そ…そんなに!?」
「そうだよ。ねえ、せっかく二人きりなんだから、もっと側で嗅がしてよ」
ガタンと椅子を引いて立ち上がった龍崎は、真っ直ぐ俺の方に向かってきた。
いつもの優しい王子様はそこにはいなくて、仄暗い色に染まっているような気がした。
なに冗談言ってんだよ。
バカなことを言うな。
ダメだって、なに考えてんだ。
言わなきゃいけない言葉が口から出てこない。
王子様が探していたのはガラスの靴の持ち主のはずだ。
俺はシンデレラなんかじゃない。
そんなバカな言葉しか浮かんでこないなんて致命的だ。
「う……嘘……だろう」
すぐ目の前まで来た龍崎は、座っている俺の足元に跪いた。
「指を……一本でもいいから……」
何を言っているのか。
俺を見上げてくる龍崎も何もかも信じられなくて、呆然とその言葉の意味を頭の中で繰り返し考えた。
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