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エピローグ 幸せを重ねて(ウェイン)
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手に力を入れると、ガシャッと嫌な音がして、小さなカップは粉々に砕けて割れた。
それを唖然とした顔で見ていたアリアは、口元にハンカチを当てて、どうかしているわと声を上げた。
「あなた、頭がおかしいんじゃない? カップを……素手で……やだ血が……」
「今、言ったことを訂正してください」
「何ですって?」
陶器の破片が手に刺さって、ポタポタと血が流れ出たが、怒りの方が強くて痛みは感じなかった。
「……まさか、ミランダのことをバカ女って言ったのを、怒っているの?」
「もう一度言いましたね。これであなたを許すことはなくなりました」
冷たい視線を向けて、キッパリと言い放つと、アリアは形のいい唇を歪めて、わなわなと震わせた。
「あなたいったい何なの!? 何様のつもり? 平民のくせに、そのカップだってローズベルト家の物を壊したのよ! お父様に言いつけてやるわ!」
胸を張って鼻息荒く睨みつけてきたアリアを、ウェインは鼻で笑った。
その態度にアリアは逆上したのか、顔が真っ赤になったのが見えた。
アリアが自分に目を付けることは分かっていた。
アリアは姉のミランダに対抗心を抱いていて、ここぞとばかりに自分が優位であると言っていた。
ミランダの方は気にしている様子はなかった。
むしろ完全に無視をしていて、アリアはその度に気に入らないという顔をしていた。
ミランダに関わるものを全て奪わないと気が済まない。
アリアの顔にはそう書いてあった。
あの男だけでは飽き足らず、自分にまで声をかけてきたかとウェインはうんざりしていた。
しつこくお茶に誘ってくるので、黙らせるつもりで同席したら、案の定、たっぷり色目を使って、あなたに好意があるのと言ってきた。
キッパリと断ったら、ミランダみたいなバカな女のどこがいいのよと言われたので、ウェインはそこでキレて、持っていたカップを握りつぶした。
ウェインにとってミランダは全てだ。
害虫のようにミランダに付きまとうアリアのことは前から気に入らなかったが、いつか使えると思って目をつぶってきた。
しかし、面と向かってミランダを侮辱してきたので、頭にきてしまった。
この辺で黙らせておこうと、ウェインは口を開いた。
「お前の両親は何も教えていないんだな。このカップも、その悪趣味なドレスも、全部、うちの商会からの借り物だよ」
「なっ……!」
「子爵はプライドだけは立派だが、事業に失敗して、家の財政は火の車だ。商会からの援助で何とか今の生活を維持している。つまりお前が吠えたところで、何の意味もない。それより、お前のせいでこの怪我をしたと訴えたら、子爵は何と言うかな?」
「うう嘘よ……、それに、それはだってあなたが勝手に………」
感情のない目で睨みつけると、アリアは肩をビクッと揺らして、怯えた目になった。
ウェインからすると、アリアはまだ赤ん坊のようなものだ。
少し揺らせば簡単に萎んでいく様子を見て、心の中で笑った。
次にこうなるのはお前だと言って、手の中にある、粉々になったカップを見せてやったら、アリアは真っ青な顔で立ち上がり、走って逃げて行った。
この一件以来、アリアはウェインを見ると、怯えて逃げ出すようになった。
手紙を読みながら、その時のことを思い出したウェインは忘れていた怒りがよみがえって、グシャリと手紙を握りつぶした。
「報告はそちらに書いた通りです。母子ともに、ラクーンの娼館行きに……。見た目は良いので主人が喜んでいました。暴れたので少し薬を使いましたが……」
「構わない。後は好きにしていいと伝えろ」
「はい、それと……」
「なんだ?」
「あ……あの、奥様がロビーに……」
「それを早く言え」
強い視線を向けられた部下は、身を縮こませて頭を下げていた。
ウェインは椅子から立ち上がり、風のような速さで執務室のドアを開けて廊下へ出た。
この時間からミランダに会える。
それだけで、胸にあった嫌な気持ちは、どこかへ飛んで行ってしまった。
ウェインはミランダと町の教会で結婚式を挙げた。
ミランダのドレスは母が作ってくれたものに手を加えた。
元々は薔薇の刺繍が入っていたが、ミランダが薔薇を嫌っていると聞いて、ウェインは刺繍の部分を取り除いた。
しかし、実際にドレスを見せると、ミランダは刺繍を薔薇にする言った。
驚いたが、結果的に良かったと思う。
ミランダには薔薇がよく似合う。
ドレスを着たミランダは、最高に美しかった。
時々思い出しては、一人で胸を高鳴らせてしまうくらい、忘れられない思い出になった。
長い廊下を走って階段まで来て、階上から下を覗くと、ウェインの事務所のあるロビーには、女性の姿があった。
薄手の小花柄のワンピースは、コルセットの必要ないもので、ミランダが経営する店の一番人気の商品だ。
それを誰よりも完璧に、美しく着こなせるのはミランダしかいない。
細くスッと伸びた背中のライン、まるで芸術品のように美しいと言うと、ミランダは恥ずかしいからやめてと言うが、ウェインはいつだってそう思っていた。
「ミランダ!」
ウェインが階上から声をかけると、緩く巻いたブラウンの髪が跳ねて、ミランダがくるりと振り向いた。
「ウェイン」
どこまでも眩しい。
胸がくすぐったくなる笑顔。
初めて会った時から変わらない。
ミランダの笑顔は、ウェインの凍った心を温めてくれる。
「突然事務所まで押しかけてごめんね。店の子達と、お菓子を作ったんだけど、たくさん作りすぎて余ってしまったの。よかったら、みなさんで食べてもらえないかな?」
「ミランダならいつでも大歓迎だよ。ありがとう。焼き菓子? いい香りだ」
ミランダが大きなバスケットを持ち上げると、ふわりと甘い香りがした。
バスケットを受け取ったウェインは、部下に配るように言って渡した。
「今日は遅くなる?」
「ん?」
押し迫った仕事はあるが、ミランダに見つめられると、ウェインはニコッと笑って首を振った。
「いつもより早く帰れるよ」
「本当! 嬉しい」
後ろで控えている部下が苦い顔をして首を振って知らせてくるが、ウェインは見ないようにして背を向けた後、ミランダの肩に腕を回した。
「私も今日は早く店を閉めるの。ウェインの好物を用意して待っているわ」
そう言って少女のような可憐さで、無邪気に笑うミランダを見て、ウェインは思わず薄紅色の頬に口付けた。
人目のある場所のなので、ミランダは真っ赤になって頬を押さえた。
一つ一つの仕草が、胸を揺らす。
愛らしくてたまらないと、ウェインは溶けてしまいそうな気持ちになった。
ウェインの母は、ウェインを産んで間もなく亡くなり、叔父に引き取られたが、叔父は忙しい人で一年中国内外を飛び回っていた。
結婚していたが子供はできず、家に寄りつかない夫に愛想をつかせた妻は、実家に帰ってしまった。
叔父はちょうど長い取引があって海外で暮らしていて、帰ってくるまでの間、ウェインは教会に預けられることになった。
ウェインは母に似て可愛らしい容姿をしていて、子供の頃からよく女の子に間違えられた。
教会で暮らすようになると、男の子達からは、オトコオンナと呼ばれてよくバカにされていた。
どれだけバカにされたり、ぶたれたりしても、ウェインは泣かなかった。
いつも平然として本を読み、他の子供達を冷たい目で見下ろしていた。
いつも優しい教会のシスターが亡くなった時、子供達はみんな泣いていたが、ウェインは少しも泣かずに、いつも通り本を読んでいた。
何が起きても一切表情を変える様子がないので、ウェインは気味悪がられるようになった。
ウェインにとって、この世の全てはどうでもいいことだった。
物心つく前に母を亡くし、父は誰とも分からない。
引き取ってくれたが、叔父は自由気ままに暮らしているし、叔父の妻は面倒を見たくないと言ってウェインを置いて行ってしまった。
ウェインの毎日は、砂でできた城のようだった。
望んだことは叶わず、何かを手にしてもあっという間に崩れ去る日々。
幼いながらに、ウェインは望むことをやめて、ただ空虚な毎日を送っていた。
ある時、教会の手伝いに貴族の子が参加すると聞かされた。
ウェインはウンザリした気持ちになった。
貴族は生きている人間の中でも、最も嫌いな連中だった。
気位が高く、いつも傲慢で、命令ばかりしてくる。
下等な生き物だと平民をバカにして、どう使ってやろうかと、いつもそういう目で見てくるのが、虫唾が走るほど嫌いだった。
案の定、お手伝いに来た貴族の子達は、汚れるのを嫌い、熱いだ冷たいだと我儘を言い放題で、人手は足りないのに、邪魔ばかりしてきた。
わたし、洗い物なんてやりたくない、ゴミなんて触りたくもない。
口々にそう言ってウェインに仕事を押し付けてきた。
早く帰って欲しかったので、ウェインは一人でたくさんの仕事を抱えて、ひたすら無言で手を動かしていた。
そこに現れたのが、ミランダだった。
黙々と手を真っ黒にして洗い物をしているウェインの横に、ミランダは座ってきた。
いつから座っていたのか、大きな目をパチパチとさせながら、ウェインの手元を見て、同じように洗い物を始めた。
貴族の子は、胸にリボンを付けていたのですぐに分かった。
ウェインは嫌な目で見て無視をして、黙々と仕事を続けたが、ミランダは手を真っ黒にして、一生懸命ウェインと同じ仕事をした。
気がつけば、ミランダの着ていたドレスも、柔らかそうな頬も真っ黒になっていたが、ミランダは気にする様子もなく、洗い物を続けた。
ねぇ、綺麗になった?
ミランダはそう話しかけてきて、汚れを落としたものを見せてきたが、ウェインは口をぎゅっと結んで答えなかった。
そこで終わりを知らせる鐘が鳴って、ミランダは立ち上がった。
その時、通りかかった他の貴族の子達から、ミランダは笑われたが、ミランダはもっと大きな笑顔を返していた。
これは頑張った証拠なの、立派でしょう!
そう言って胸を張っていたので、貴族の子達からはもっとバカにされて笑われていたが、顔を上げたウェインは、まじまじとその子を見てしまった。
どこにでもいる栗毛だが、目は特徴のある榛色をしていた。
可愛らしい顔をしているが、とびきり美人というわけではない。
だが、その人柄が体から滲み出てくるように優しい雰囲気のある女の子だった。
ミランダのおかげで、ウェインの仕事は早く終わったのに、ウェインはミランダに声をかけることができなかった。
そんなウェインのことなど、気にする様子もなく、ミランダはまたね、と言って帰って行ってしまった。
その日から、ミランダは度々教会の祭事に顔を出すようになった。
ある時は、大きく口を開けて誰よりも大きな声で歌を歌い、料理をすれば、指に傷を負いながらも、必死にスープ作りに参加していた。
何をするにも一生懸命、飛び抜けて才能があるわけでもなく、どちらかと言えば、下手で失敗ばかりしていたが、ミランダは明るい笑顔で周囲を包んでいた。
明るいミランダの周りにはたくさんの子が集まったが、気がつくとウェインもその集まりの中に入っていた。
少しでもミランダに近づきたいと思っていた。
ミランダの笑顔を見ると、凍って黒くなっていた心が洗い流されるような気持ちになった。
そして、初めて心から、欲しい、と思うようになった。
周囲にいる誰か。
ではない。
自分だけが、彼女の笑顔を独り占めにしたい。
少し膨らんだ頬に手を触れて、優しく撫でることができるのは、自分だけ……
そう思い始めたとき、ミランダは急に教会には来なくなった。
ミランダから聞いた話によると、気晴らしにと教会に連れて行ってくれた乳母が辞めてしまい、家から出られなくなってしまったそうだ。
そんなことを知る由もないウェインは、ミランダを恋しいと思う気持ちを募らせていった。
海外にいた叔父がやっと帰国して、ようやく叔父の邸での暮らしが始まり、子供のいない叔父は、ウェインを後継者にと育て始めた。
商会の仕事を学ぶ中、ウェインはミランダの名も、住む場所も、婚約者がいることも調べ上げた。
ミランダの家、ローズベルト家で、会議が行われると聞いて、どうしても付いて行きたいとウェインは叔父に頼み込んだ。
何事にも関心を示さない冷めた子供だったウェインが、急に火がついたように商売ごとに興味を持ったと、叔父は喜んで連れて行ってくれた。
こうしてウェインはローズベルト家に向かい、ミランダと再会することができた。
ミランダはウェインのことを覚えてはいなかった。
教会にはたくさん子供がいて、ウェインはミランダと話してもいなかったので、それは仕方がないことだった。
ウェインは初めて会った顔をして、ミランダと仲良くなった。
ミランダは一言で言うと変わった子だった。
それは悪い意味ではなく、ウェインが抱いていたイメージ通りの、貴族という毒に染まった子ではなかった。
むしろ暗いイメージを吹き飛ばすくらい明るくて、父親の強い支配にあった環境でも、自分を強く持って活き活きとしていた。
ミランダと再会して、二人で遊べるようになって、ますますウェインはミランダに恋をした。
しかし、二人の間には大きな壁がいくつもあった。
選民意識のかたまりのような父親、ミランダを蹴落とそうとする継母と妹、ミランダとアリア、二人の間で揺れる婚約者。
しかし、長い年月をかけて、ウェインは自らの実力を高めて、壁を一つ一つ壊していくことに成功した。
子爵の事業が傾くように仕向けて、多くの負債を負わせた後、救世主のように援助を申し出た。
おかげで子爵は、ウェインのことを完璧に信用して頼るようになった。
婚約者のフランシスも同じだ。
ミランダは元からフランシスのことを嫌っていた。
賭け事が好きなフランシスは、ウェインの経営する賭博場によく顔を出していたので、部下を使い、フランシスの友人として潜り込ませた。
フランシスは一見真面目な青年という顔をしていたが、仮面を剥がせば、ただの貴族のお坊ちゃんだった。
上手い話に乗せて借金を作らせて、家族と対立するようにした。
一方で友人として潜らせた部下には、どうすれば女が喜ぶのか助言させた。
お坊ちゃんだったフランシスは、遊び慣れた男達の言葉に、感心して頷き、その通りに実行した。
偽の手紙を使って誘導して、アリアを使い、二人の密会の場を子爵とミランダに見せたのもウェインだった。
フランシスを孤立させて、精神的に追い込めば、後は背中を押すだけだった。
簡単すぎるほど簡単に全て思う通りに転がってくれた。
しかし、一番欲しいミランダの心は、最後まで全く分からなかった。
ミランダが自分を好きだと言ってくれた時、夢かと疑うほどだった。
ミランダのためなら、怪我を負うことくらいなんとも思わなかった。
腕の一本くらいなくなってもいいと思っていた。
そうなれば、ミランダは自分のせいでと、離れることなど考えないだろうと思った。
事前にフランシスの暴走を考えて、部下に見張らせていた。
そのおかげで、警備隊にはすでに知らせていたので、少し早い段階で来てしまったので、軽い怪我で済んだ。
もう幻ではなく、本当のミランダを手に入れることができた。
ウェインはやっと掴んだ幸せに、これ以上なく溺れていた。
ふとミランダが自分を選んでくれなかった時、どうしていただろうと思う時がある。
思い出すのはまだ幼かったあの日、窓の下で、ミランダが出てくるのを待っていた時だ。
もしミランダが出てきてくれなければ……
嫌われてしまったと思うだろう。
そして、ミランダがフランシスを真剣に愛していたとしたら……
自分は諦めていただろうか……
いや違う、とウェインは思う。
きっとミランダが自分のことなどすっかり忘れていても、陰ながら想い続けるだらう。
ミランダの側にいられるなら、どんな形であっても………
瞼の裏に真っ赤な夕陽が浮かんできて、ウェインは目を開けて息を吸い込んだ。
色々と考えてしまうのは、自分の悪いクセだ。
今はこんなに幸せなのに、失ってばかりいたので、つい悪い方に考えてしまう。
ドアを開けようと手を伸ばしたままだったことに気がついて、軽く息を吐いたウェインは、ゆっくりとドアを押した。
「ただいま」
食堂に入ると、テーブルの上にはたくさんの、美味そうな料理が並んでいた。
ウェインの好物である魚料理がメインで、見ているだけでも楽しくなるような彩り豊かな食材が使われていた。
「これはすごいな……」
「お帰りなさい」
ワインの瓶を抱えて、ミランダが食堂に入ってきた。
いつものようにミランダを抱きしめたウェインは、ただいまと言ってミランダの頭に口付けた。
「お仕事、忙しかったんじゃないの? 商会の人達が来ていたから……」
「大丈夫。簡単な報告だよ。すぐに終わった。それより、冷めないうちに食べよう。せっかくの料理だ。たくさん用意してくれて、ありがとう」
そう言ってミランダの頭をポンポンと撫でると、ミランダはふわりと微笑んだ。
「今日は午前中から、ミランダの顔が見られて、嬉しかったよ。差し入れも、みんな喜んでいたよ」
「それはよかった。また持っていくわね」
満足げに微笑んでいるミランダだったが、いつもと違う行動にウェインは少しだけ違和感があった。
もしかしたら、何かあったのかもしれない。
ウェインはそう思って、午後はずっと落ち着かなかった。
ミランダの手料理を堪能した後、二人で外のテラスに出た。
食後はよく庭の椅子に座って、月を見ながらのんびり話して過ごす。
今日も空には月が浮かんでいて、月明かりを浴びたミランダは、いっそう美しく見えた。
「どうしたの?」
「え?」
「ウェインのことよ。時々、不安そうな顔をしているから……。気になっていたの」
ふとした時、ミランダが自分をよく見てくれていることに気がつく。
上手く隠しているつもりだったが、ミランダには透けて見えていたようだ。
「たまにね、悪夢を見るんだ」
ウェインには、子供の頃から繰り返し見る夢がある。
夢の中でウェインは、ミランダに嫌われてしまうが、ずっと想い続けて見守っている。
どんな形であってもミランダの側にいたいと思い、ウェインは母からもらったドレスを着て、ミランダに会いに行く。
女友達としてなら、ミランダの近くで支えることができるかもしれないと……
しかし、思い詰めた顔をしたミランダを見つけて追いかけると、ミランダを見失ってしまう。
町の時計塔を上るミランダを発見したウェインは、嫌な予感がして慌てて走り出す。
繰り返し、繰り返し、何度も見た。
ウェインは走った。
早く早くと、階段を駆け上がるが上手く走れない。
心にあるのは焦りと恐怖。
君が、手の届かないところへ行ってしまうと。
「悪夢? それはどんな夢なの?」
そう、それは……
君が死んでしまう夢
「ひどい夢だよ……無力で、何もできなくて終わってしまう……嫌な……夢」
恐ろしい夢だ。
真っ赤な夕陽に包まれた時計塔。
ウェインのドレスも夕陽の色に染まっていた。
ウェインが展望台まで上ると、そこには、手すりに座っているミランダの姿があった。
ウェインはミランダの名前を叫んで手を伸ばすが、ミランダはウェインの手をすり抜けて落ちていく。
ミランダは微笑んでいた。
悲しい、悲しい微笑みだった。
最後はいつも同じ。
君が微笑んで、落ちて消えていく夢。
「そう……」
失ってばかりの人生で、初めて心の底から欲しいと思った人。
だから不安になるのかもしれない。
好きだと言われても。
いつか君は、自分の元から消えてしまうのではないかと、不安に襲われる。
だからそんな、ひどい夢を見てしまう。
「でも夢は……夢よ」
ウェインが顔を上げると、横に座っているミランダはニコッと笑って、ウェインの頬に手を伸ばした。
「大丈夫。ずっとウェインのそばにいるわ」
「ミランダ……」
まるで胸の中まで見られてしまったような言葉に、ウェインは驚いて目を大きく開いた。
ミランダは全て知っているような穏やかな顔で、大丈夫と言って、また笑った。
人は欲深い生き物だ。
手に入れたと思っても、もっともっと。
そばにいるだけでいいと思っていたのに、もっと欲しくなる。
哀れな男を、ミランダは笑顔で抱きしめてくれた。
「今日ね、ウェインに元気になってもらいたくて、お菓子を届けに行ったのよ」
「そうだったのか……何かあったのかと思って……」
仕事では冷徹過ぎると言われるほどのウェインだが、ミランダの前では牙をなくした獣のようになってしまう。
ふわふわと頭を撫でられたら、途端に力が抜けて、ウェインはミランダの頭に顔を乗せた。
「私、幸せよ。ウェインと出会えたこと、結婚できたこと、何一つ後悔するものはない。これ以上ない、幸せな人生を生きているわ」
「ミランダ、それは俺も同じだよ」
「じゃあ、約束して。今度怖い夢を見たら、私を揺り起こして」
「……うん」
「もう、大丈夫だよって言って、抱きしめてあげる」
「うん」
「あなたはいつも私を助けてくれた。何度も、何度も。今度は私がウェインを助けたい。いつまでも、ずっと一緒よ」
月明かりに照らされて、抱き合ったまま、二人で手を繋ぎ指を絡めた。
やっと手に入れた幸せだから、どうしても揺れてしまう夜がある。
そんな時、嫌われたくないと我慢していたが、ウェインは素直にミランダに甘えることを決めた。
胸の中を覆い尽くしていた雲が、スッと消えて、青い空が見えたような気分になった。
何度生まれ変わったとしても、好きになるのはミランダだけ。
夢は夢。
夕日に儚く消えていく君はいない。
今、ここにいるミランダが、全てだ。
真っ暗な闇に囚われても、眩しいくらい明るい、君の笑顔を目指して、進んでいけばいい。
「ミランダ、愛している」
「私も」
そう言って抱き合ったまま、唇が重なると、頭は柔らかな熱に染まって、余計なことなど考えられなくなる。
何を不安になっていたんだと、ウェインは心の中で自分に声をかけた。
「あのね、……実は何かあったには、あったのよ」
「え!?」
「今日、あるところに行ってきたの……」
そう言って微笑んだミランダは、ウェインの耳に口を寄せた。
「え…………」
「今も幸せだけど、これからもっと、幸せが増えるわね」
「う……うぅ、ほ、本当に……」
感動で目を開いて、唇を震わせたウェインが、ミランダを見つめると、ミランダは、本当よと言って、ウェインの頭を撫でた。
すでに痛いくらい目に熱さが込み上げてきて、ウェインの目からは大粒の涙が溢れていた。
「ミランダーーー!」
「わわっ、重いって重いーー!」
思い余ってのし掛かってミランダを抱きしめると、ミランダは重いと言って肩を叩いたので、ウェインは慌てて体を起こした。
「そうと決まったら、こんな所にいてはいけない! 体が冷えたら、大変だ! すぐに湯を沸かそう! 毛布は厚手のものを明日買いに行くから……とりあえず今日は俺のを重ねて使って……」
「まだ寒い季節じゃ……」
「こうしてはいられない! 今から買っておくべきリストを作ろう! そっちの方面に詳しい部下がいるんだ。そいつを今から叩き起こして……」
立ち上がったウェインは、その場でウロウロしながら腕を組んで考え始めた。
それを見たミランダは、ふぅと息を吐いてから、ドレスの裾を持って立ち上がった。
「さぁ、もう寝ましょう。明日も早いんだから。一人で寝ちゃうわよ」
「ま、待って、ミランダー!」
「気が早いって。ウェイン、あなたきっと親バカになるわね」
「当たり前だよ。今からそうなるつもりだ」
もうやだ、と言って笑ったミランダは、先に一人で部屋の中に入ったが、くるりと振り向いて、ウェインに向けておいでと手招きをしていた。
まだまだ考え足りないウェインだったが、ミランダを追いかけて、優しく揺れていた手を掴んだ。
「今日は良い夢が見れそう」
そう言って笑ったウェインの頬に、ミランダは柔らかい唇を寄せてきた。
今日も明日も明後日も……
愛する人と手を繋いで生きていきたい
掴んだ手を、今度は決して離さないから
いつまでも、ずっと……
(終)
それを唖然とした顔で見ていたアリアは、口元にハンカチを当てて、どうかしているわと声を上げた。
「あなた、頭がおかしいんじゃない? カップを……素手で……やだ血が……」
「今、言ったことを訂正してください」
「何ですって?」
陶器の破片が手に刺さって、ポタポタと血が流れ出たが、怒りの方が強くて痛みは感じなかった。
「……まさか、ミランダのことをバカ女って言ったのを、怒っているの?」
「もう一度言いましたね。これであなたを許すことはなくなりました」
冷たい視線を向けて、キッパリと言い放つと、アリアは形のいい唇を歪めて、わなわなと震わせた。
「あなたいったい何なの!? 何様のつもり? 平民のくせに、そのカップだってローズベルト家の物を壊したのよ! お父様に言いつけてやるわ!」
胸を張って鼻息荒く睨みつけてきたアリアを、ウェインは鼻で笑った。
その態度にアリアは逆上したのか、顔が真っ赤になったのが見えた。
アリアが自分に目を付けることは分かっていた。
アリアは姉のミランダに対抗心を抱いていて、ここぞとばかりに自分が優位であると言っていた。
ミランダの方は気にしている様子はなかった。
むしろ完全に無視をしていて、アリアはその度に気に入らないという顔をしていた。
ミランダに関わるものを全て奪わないと気が済まない。
アリアの顔にはそう書いてあった。
あの男だけでは飽き足らず、自分にまで声をかけてきたかとウェインはうんざりしていた。
しつこくお茶に誘ってくるので、黙らせるつもりで同席したら、案の定、たっぷり色目を使って、あなたに好意があるのと言ってきた。
キッパリと断ったら、ミランダみたいなバカな女のどこがいいのよと言われたので、ウェインはそこでキレて、持っていたカップを握りつぶした。
ウェインにとってミランダは全てだ。
害虫のようにミランダに付きまとうアリアのことは前から気に入らなかったが、いつか使えると思って目をつぶってきた。
しかし、面と向かってミランダを侮辱してきたので、頭にきてしまった。
この辺で黙らせておこうと、ウェインは口を開いた。
「お前の両親は何も教えていないんだな。このカップも、その悪趣味なドレスも、全部、うちの商会からの借り物だよ」
「なっ……!」
「子爵はプライドだけは立派だが、事業に失敗して、家の財政は火の車だ。商会からの援助で何とか今の生活を維持している。つまりお前が吠えたところで、何の意味もない。それより、お前のせいでこの怪我をしたと訴えたら、子爵は何と言うかな?」
「うう嘘よ……、それに、それはだってあなたが勝手に………」
感情のない目で睨みつけると、アリアは肩をビクッと揺らして、怯えた目になった。
ウェインからすると、アリアはまだ赤ん坊のようなものだ。
少し揺らせば簡単に萎んでいく様子を見て、心の中で笑った。
次にこうなるのはお前だと言って、手の中にある、粉々になったカップを見せてやったら、アリアは真っ青な顔で立ち上がり、走って逃げて行った。
この一件以来、アリアはウェインを見ると、怯えて逃げ出すようになった。
手紙を読みながら、その時のことを思い出したウェインは忘れていた怒りがよみがえって、グシャリと手紙を握りつぶした。
「報告はそちらに書いた通りです。母子ともに、ラクーンの娼館行きに……。見た目は良いので主人が喜んでいました。暴れたので少し薬を使いましたが……」
「構わない。後は好きにしていいと伝えろ」
「はい、それと……」
「なんだ?」
「あ……あの、奥様がロビーに……」
「それを早く言え」
強い視線を向けられた部下は、身を縮こませて頭を下げていた。
ウェインは椅子から立ち上がり、風のような速さで執務室のドアを開けて廊下へ出た。
この時間からミランダに会える。
それだけで、胸にあった嫌な気持ちは、どこかへ飛んで行ってしまった。
ウェインはミランダと町の教会で結婚式を挙げた。
ミランダのドレスは母が作ってくれたものに手を加えた。
元々は薔薇の刺繍が入っていたが、ミランダが薔薇を嫌っていると聞いて、ウェインは刺繍の部分を取り除いた。
しかし、実際にドレスを見せると、ミランダは刺繍を薔薇にする言った。
驚いたが、結果的に良かったと思う。
ミランダには薔薇がよく似合う。
ドレスを着たミランダは、最高に美しかった。
時々思い出しては、一人で胸を高鳴らせてしまうくらい、忘れられない思い出になった。
長い廊下を走って階段まで来て、階上から下を覗くと、ウェインの事務所のあるロビーには、女性の姿があった。
薄手の小花柄のワンピースは、コルセットの必要ないもので、ミランダが経営する店の一番人気の商品だ。
それを誰よりも完璧に、美しく着こなせるのはミランダしかいない。
細くスッと伸びた背中のライン、まるで芸術品のように美しいと言うと、ミランダは恥ずかしいからやめてと言うが、ウェインはいつだってそう思っていた。
「ミランダ!」
ウェインが階上から声をかけると、緩く巻いたブラウンの髪が跳ねて、ミランダがくるりと振り向いた。
「ウェイン」
どこまでも眩しい。
胸がくすぐったくなる笑顔。
初めて会った時から変わらない。
ミランダの笑顔は、ウェインの凍った心を温めてくれる。
「突然事務所まで押しかけてごめんね。店の子達と、お菓子を作ったんだけど、たくさん作りすぎて余ってしまったの。よかったら、みなさんで食べてもらえないかな?」
「ミランダならいつでも大歓迎だよ。ありがとう。焼き菓子? いい香りだ」
ミランダが大きなバスケットを持ち上げると、ふわりと甘い香りがした。
バスケットを受け取ったウェインは、部下に配るように言って渡した。
「今日は遅くなる?」
「ん?」
押し迫った仕事はあるが、ミランダに見つめられると、ウェインはニコッと笑って首を振った。
「いつもより早く帰れるよ」
「本当! 嬉しい」
後ろで控えている部下が苦い顔をして首を振って知らせてくるが、ウェインは見ないようにして背を向けた後、ミランダの肩に腕を回した。
「私も今日は早く店を閉めるの。ウェインの好物を用意して待っているわ」
そう言って少女のような可憐さで、無邪気に笑うミランダを見て、ウェインは思わず薄紅色の頬に口付けた。
人目のある場所のなので、ミランダは真っ赤になって頬を押さえた。
一つ一つの仕草が、胸を揺らす。
愛らしくてたまらないと、ウェインは溶けてしまいそうな気持ちになった。
ウェインの母は、ウェインを産んで間もなく亡くなり、叔父に引き取られたが、叔父は忙しい人で一年中国内外を飛び回っていた。
結婚していたが子供はできず、家に寄りつかない夫に愛想をつかせた妻は、実家に帰ってしまった。
叔父はちょうど長い取引があって海外で暮らしていて、帰ってくるまでの間、ウェインは教会に預けられることになった。
ウェインは母に似て可愛らしい容姿をしていて、子供の頃からよく女の子に間違えられた。
教会で暮らすようになると、男の子達からは、オトコオンナと呼ばれてよくバカにされていた。
どれだけバカにされたり、ぶたれたりしても、ウェインは泣かなかった。
いつも平然として本を読み、他の子供達を冷たい目で見下ろしていた。
いつも優しい教会のシスターが亡くなった時、子供達はみんな泣いていたが、ウェインは少しも泣かずに、いつも通り本を読んでいた。
何が起きても一切表情を変える様子がないので、ウェインは気味悪がられるようになった。
ウェインにとって、この世の全てはどうでもいいことだった。
物心つく前に母を亡くし、父は誰とも分からない。
引き取ってくれたが、叔父は自由気ままに暮らしているし、叔父の妻は面倒を見たくないと言ってウェインを置いて行ってしまった。
ウェインの毎日は、砂でできた城のようだった。
望んだことは叶わず、何かを手にしてもあっという間に崩れ去る日々。
幼いながらに、ウェインは望むことをやめて、ただ空虚な毎日を送っていた。
ある時、教会の手伝いに貴族の子が参加すると聞かされた。
ウェインはウンザリした気持ちになった。
貴族は生きている人間の中でも、最も嫌いな連中だった。
気位が高く、いつも傲慢で、命令ばかりしてくる。
下等な生き物だと平民をバカにして、どう使ってやろうかと、いつもそういう目で見てくるのが、虫唾が走るほど嫌いだった。
案の定、お手伝いに来た貴族の子達は、汚れるのを嫌い、熱いだ冷たいだと我儘を言い放題で、人手は足りないのに、邪魔ばかりしてきた。
わたし、洗い物なんてやりたくない、ゴミなんて触りたくもない。
口々にそう言ってウェインに仕事を押し付けてきた。
早く帰って欲しかったので、ウェインは一人でたくさんの仕事を抱えて、ひたすら無言で手を動かしていた。
そこに現れたのが、ミランダだった。
黙々と手を真っ黒にして洗い物をしているウェインの横に、ミランダは座ってきた。
いつから座っていたのか、大きな目をパチパチとさせながら、ウェインの手元を見て、同じように洗い物を始めた。
貴族の子は、胸にリボンを付けていたのですぐに分かった。
ウェインは嫌な目で見て無視をして、黙々と仕事を続けたが、ミランダは手を真っ黒にして、一生懸命ウェインと同じ仕事をした。
気がつけば、ミランダの着ていたドレスも、柔らかそうな頬も真っ黒になっていたが、ミランダは気にする様子もなく、洗い物を続けた。
ねぇ、綺麗になった?
ミランダはそう話しかけてきて、汚れを落としたものを見せてきたが、ウェインは口をぎゅっと結んで答えなかった。
そこで終わりを知らせる鐘が鳴って、ミランダは立ち上がった。
その時、通りかかった他の貴族の子達から、ミランダは笑われたが、ミランダはもっと大きな笑顔を返していた。
これは頑張った証拠なの、立派でしょう!
そう言って胸を張っていたので、貴族の子達からはもっとバカにされて笑われていたが、顔を上げたウェインは、まじまじとその子を見てしまった。
どこにでもいる栗毛だが、目は特徴のある榛色をしていた。
可愛らしい顔をしているが、とびきり美人というわけではない。
だが、その人柄が体から滲み出てくるように優しい雰囲気のある女の子だった。
ミランダのおかげで、ウェインの仕事は早く終わったのに、ウェインはミランダに声をかけることができなかった。
そんなウェインのことなど、気にする様子もなく、ミランダはまたね、と言って帰って行ってしまった。
その日から、ミランダは度々教会の祭事に顔を出すようになった。
ある時は、大きく口を開けて誰よりも大きな声で歌を歌い、料理をすれば、指に傷を負いながらも、必死にスープ作りに参加していた。
何をするにも一生懸命、飛び抜けて才能があるわけでもなく、どちらかと言えば、下手で失敗ばかりしていたが、ミランダは明るい笑顔で周囲を包んでいた。
明るいミランダの周りにはたくさんの子が集まったが、気がつくとウェインもその集まりの中に入っていた。
少しでもミランダに近づきたいと思っていた。
ミランダの笑顔を見ると、凍って黒くなっていた心が洗い流されるような気持ちになった。
そして、初めて心から、欲しい、と思うようになった。
周囲にいる誰か。
ではない。
自分だけが、彼女の笑顔を独り占めにしたい。
少し膨らんだ頬に手を触れて、優しく撫でることができるのは、自分だけ……
そう思い始めたとき、ミランダは急に教会には来なくなった。
ミランダから聞いた話によると、気晴らしにと教会に連れて行ってくれた乳母が辞めてしまい、家から出られなくなってしまったそうだ。
そんなことを知る由もないウェインは、ミランダを恋しいと思う気持ちを募らせていった。
海外にいた叔父がやっと帰国して、ようやく叔父の邸での暮らしが始まり、子供のいない叔父は、ウェインを後継者にと育て始めた。
商会の仕事を学ぶ中、ウェインはミランダの名も、住む場所も、婚約者がいることも調べ上げた。
ミランダの家、ローズベルト家で、会議が行われると聞いて、どうしても付いて行きたいとウェインは叔父に頼み込んだ。
何事にも関心を示さない冷めた子供だったウェインが、急に火がついたように商売ごとに興味を持ったと、叔父は喜んで連れて行ってくれた。
こうしてウェインはローズベルト家に向かい、ミランダと再会することができた。
ミランダはウェインのことを覚えてはいなかった。
教会にはたくさん子供がいて、ウェインはミランダと話してもいなかったので、それは仕方がないことだった。
ウェインは初めて会った顔をして、ミランダと仲良くなった。
ミランダは一言で言うと変わった子だった。
それは悪い意味ではなく、ウェインが抱いていたイメージ通りの、貴族という毒に染まった子ではなかった。
むしろ暗いイメージを吹き飛ばすくらい明るくて、父親の強い支配にあった環境でも、自分を強く持って活き活きとしていた。
ミランダと再会して、二人で遊べるようになって、ますますウェインはミランダに恋をした。
しかし、二人の間には大きな壁がいくつもあった。
選民意識のかたまりのような父親、ミランダを蹴落とそうとする継母と妹、ミランダとアリア、二人の間で揺れる婚約者。
しかし、長い年月をかけて、ウェインは自らの実力を高めて、壁を一つ一つ壊していくことに成功した。
子爵の事業が傾くように仕向けて、多くの負債を負わせた後、救世主のように援助を申し出た。
おかげで子爵は、ウェインのことを完璧に信用して頼るようになった。
婚約者のフランシスも同じだ。
ミランダは元からフランシスのことを嫌っていた。
賭け事が好きなフランシスは、ウェインの経営する賭博場によく顔を出していたので、部下を使い、フランシスの友人として潜り込ませた。
フランシスは一見真面目な青年という顔をしていたが、仮面を剥がせば、ただの貴族のお坊ちゃんだった。
上手い話に乗せて借金を作らせて、家族と対立するようにした。
一方で友人として潜らせた部下には、どうすれば女が喜ぶのか助言させた。
お坊ちゃんだったフランシスは、遊び慣れた男達の言葉に、感心して頷き、その通りに実行した。
偽の手紙を使って誘導して、アリアを使い、二人の密会の場を子爵とミランダに見せたのもウェインだった。
フランシスを孤立させて、精神的に追い込めば、後は背中を押すだけだった。
簡単すぎるほど簡単に全て思う通りに転がってくれた。
しかし、一番欲しいミランダの心は、最後まで全く分からなかった。
ミランダが自分を好きだと言ってくれた時、夢かと疑うほどだった。
ミランダのためなら、怪我を負うことくらいなんとも思わなかった。
腕の一本くらいなくなってもいいと思っていた。
そうなれば、ミランダは自分のせいでと、離れることなど考えないだろうと思った。
事前にフランシスの暴走を考えて、部下に見張らせていた。
そのおかげで、警備隊にはすでに知らせていたので、少し早い段階で来てしまったので、軽い怪我で済んだ。
もう幻ではなく、本当のミランダを手に入れることができた。
ウェインはやっと掴んだ幸せに、これ以上なく溺れていた。
ふとミランダが自分を選んでくれなかった時、どうしていただろうと思う時がある。
思い出すのはまだ幼かったあの日、窓の下で、ミランダが出てくるのを待っていた時だ。
もしミランダが出てきてくれなければ……
嫌われてしまったと思うだろう。
そして、ミランダがフランシスを真剣に愛していたとしたら……
自分は諦めていただろうか……
いや違う、とウェインは思う。
きっとミランダが自分のことなどすっかり忘れていても、陰ながら想い続けるだらう。
ミランダの側にいられるなら、どんな形であっても………
瞼の裏に真っ赤な夕陽が浮かんできて、ウェインは目を開けて息を吸い込んだ。
色々と考えてしまうのは、自分の悪いクセだ。
今はこんなに幸せなのに、失ってばかりいたので、つい悪い方に考えてしまう。
ドアを開けようと手を伸ばしたままだったことに気がついて、軽く息を吐いたウェインは、ゆっくりとドアを押した。
「ただいま」
食堂に入ると、テーブルの上にはたくさんの、美味そうな料理が並んでいた。
ウェインの好物である魚料理がメインで、見ているだけでも楽しくなるような彩り豊かな食材が使われていた。
「これはすごいな……」
「お帰りなさい」
ワインの瓶を抱えて、ミランダが食堂に入ってきた。
いつものようにミランダを抱きしめたウェインは、ただいまと言ってミランダの頭に口付けた。
「お仕事、忙しかったんじゃないの? 商会の人達が来ていたから……」
「大丈夫。簡単な報告だよ。すぐに終わった。それより、冷めないうちに食べよう。せっかくの料理だ。たくさん用意してくれて、ありがとう」
そう言ってミランダの頭をポンポンと撫でると、ミランダはふわりと微笑んだ。
「今日は午前中から、ミランダの顔が見られて、嬉しかったよ。差し入れも、みんな喜んでいたよ」
「それはよかった。また持っていくわね」
満足げに微笑んでいるミランダだったが、いつもと違う行動にウェインは少しだけ違和感があった。
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ウェインはそう思って、午後はずっと落ち着かなかった。
ミランダの手料理を堪能した後、二人で外のテラスに出た。
食後はよく庭の椅子に座って、月を見ながらのんびり話して過ごす。
今日も空には月が浮かんでいて、月明かりを浴びたミランダは、いっそう美しく見えた。
「どうしたの?」
「え?」
「ウェインのことよ。時々、不安そうな顔をしているから……。気になっていたの」
ふとした時、ミランダが自分をよく見てくれていることに気がつく。
上手く隠しているつもりだったが、ミランダには透けて見えていたようだ。
「たまにね、悪夢を見るんだ」
ウェインには、子供の頃から繰り返し見る夢がある。
夢の中でウェインは、ミランダに嫌われてしまうが、ずっと想い続けて見守っている。
どんな形であってもミランダの側にいたいと思い、ウェインは母からもらったドレスを着て、ミランダに会いに行く。
女友達としてなら、ミランダの近くで支えることができるかもしれないと……
しかし、思い詰めた顔をしたミランダを見つけて追いかけると、ミランダを見失ってしまう。
町の時計塔を上るミランダを発見したウェインは、嫌な予感がして慌てて走り出す。
繰り返し、繰り返し、何度も見た。
ウェインは走った。
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心にあるのは焦りと恐怖。
君が、手の届かないところへ行ってしまうと。
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そう、それは……
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「ひどい夢だよ……無力で、何もできなくて終わってしまう……嫌な……夢」
恐ろしい夢だ。
真っ赤な夕陽に包まれた時計塔。
ウェインのドレスも夕陽の色に染まっていた。
ウェインが展望台まで上ると、そこには、手すりに座っているミランダの姿があった。
ウェインはミランダの名前を叫んで手を伸ばすが、ミランダはウェインの手をすり抜けて落ちていく。
ミランダは微笑んでいた。
悲しい、悲しい微笑みだった。
最後はいつも同じ。
君が微笑んで、落ちて消えていく夢。
「そう……」
失ってばかりの人生で、初めて心の底から欲しいと思った人。
だから不安になるのかもしれない。
好きだと言われても。
いつか君は、自分の元から消えてしまうのではないかと、不安に襲われる。
だからそんな、ひどい夢を見てしまう。
「でも夢は……夢よ」
ウェインが顔を上げると、横に座っているミランダはニコッと笑って、ウェインの頬に手を伸ばした。
「大丈夫。ずっとウェインのそばにいるわ」
「ミランダ……」
まるで胸の中まで見られてしまったような言葉に、ウェインは驚いて目を大きく開いた。
ミランダは全て知っているような穏やかな顔で、大丈夫と言って、また笑った。
人は欲深い生き物だ。
手に入れたと思っても、もっともっと。
そばにいるだけでいいと思っていたのに、もっと欲しくなる。
哀れな男を、ミランダは笑顔で抱きしめてくれた。
「今日ね、ウェインに元気になってもらいたくて、お菓子を届けに行ったのよ」
「そうだったのか……何かあったのかと思って……」
仕事では冷徹過ぎると言われるほどのウェインだが、ミランダの前では牙をなくした獣のようになってしまう。
ふわふわと頭を撫でられたら、途端に力が抜けて、ウェインはミランダの頭に顔を乗せた。
「私、幸せよ。ウェインと出会えたこと、結婚できたこと、何一つ後悔するものはない。これ以上ない、幸せな人生を生きているわ」
「ミランダ、それは俺も同じだよ」
「じゃあ、約束して。今度怖い夢を見たら、私を揺り起こして」
「……うん」
「もう、大丈夫だよって言って、抱きしめてあげる」
「うん」
「あなたはいつも私を助けてくれた。何度も、何度も。今度は私がウェインを助けたい。いつまでも、ずっと一緒よ」
月明かりに照らされて、抱き合ったまま、二人で手を繋ぎ指を絡めた。
やっと手に入れた幸せだから、どうしても揺れてしまう夜がある。
そんな時、嫌われたくないと我慢していたが、ウェインは素直にミランダに甘えることを決めた。
胸の中を覆い尽くしていた雲が、スッと消えて、青い空が見えたような気分になった。
何度生まれ変わったとしても、好きになるのはミランダだけ。
夢は夢。
夕日に儚く消えていく君はいない。
今、ここにいるミランダが、全てだ。
真っ暗な闇に囚われても、眩しいくらい明るい、君の笑顔を目指して、進んでいけばいい。
「ミランダ、愛している」
「私も」
そう言って抱き合ったまま、唇が重なると、頭は柔らかな熱に染まって、余計なことなど考えられなくなる。
何を不安になっていたんだと、ウェインは心の中で自分に声をかけた。
「あのね、……実は何かあったには、あったのよ」
「え!?」
「今日、あるところに行ってきたの……」
そう言って微笑んだミランダは、ウェインの耳に口を寄せた。
「え…………」
「今も幸せだけど、これからもっと、幸せが増えるわね」
「う……うぅ、ほ、本当に……」
感動で目を開いて、唇を震わせたウェインが、ミランダを見つめると、ミランダは、本当よと言って、ウェインの頭を撫でた。
すでに痛いくらい目に熱さが込み上げてきて、ウェインの目からは大粒の涙が溢れていた。
「ミランダーーー!」
「わわっ、重いって重いーー!」
思い余ってのし掛かってミランダを抱きしめると、ミランダは重いと言って肩を叩いたので、ウェインは慌てて体を起こした。
「そうと決まったら、こんな所にいてはいけない! 体が冷えたら、大変だ! すぐに湯を沸かそう! 毛布は厚手のものを明日買いに行くから……とりあえず今日は俺のを重ねて使って……」
「まだ寒い季節じゃ……」
「こうしてはいられない! 今から買っておくべきリストを作ろう! そっちの方面に詳しい部下がいるんだ。そいつを今から叩き起こして……」
立ち上がったウェインは、その場でウロウロしながら腕を組んで考え始めた。
それを見たミランダは、ふぅと息を吐いてから、ドレスの裾を持って立ち上がった。
「さぁ、もう寝ましょう。明日も早いんだから。一人で寝ちゃうわよ」
「ま、待って、ミランダー!」
「気が早いって。ウェイン、あなたきっと親バカになるわね」
「当たり前だよ。今からそうなるつもりだ」
もうやだ、と言って笑ったミランダは、先に一人で部屋の中に入ったが、くるりと振り向いて、ウェインに向けておいでと手招きをしていた。
まだまだ考え足りないウェインだったが、ミランダを追いかけて、優しく揺れていた手を掴んだ。
「今日は良い夢が見れそう」
そう言って笑ったウェインの頬に、ミランダは柔らかい唇を寄せてきた。
今日も明日も明後日も……
愛する人と手を繋いで生きていきたい
掴んだ手を、今度は決して離さないから
いつまでも、ずっと……
(終)
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精神的に惹かれていたので、いざなくなると分かると、惜しいと思ったのだと思います。
何か疑問点があれば、ぜひ教えていただけたらと存じます。
感想ありがとうございました。
金木犀様
続いてご感想いただきありがとうございます!
二回目の時間軸では、ミランダの抵抗もあり、向き合うようになって少し反省もしています。
破産寸前で首の皮一枚と、変な輩に絡まれて離婚辺りで留まりました。
一度目の方は、ミランダを失ったウェインが、パパも含め、追い込んだ人達に徹底的に復讐をしたと思います。
全て終わった後、ウェインはミランダともう一度会いたいと願いながら、孤独に幕を閉じたと想像しています。
たくさん読んでいただけて嬉しいです。
感想ありがとうございました☆☆
金木犀様
お読みいただきありがとうございました☆
修正後も読んでいただけて嬉しいです。
スッキリと言っていただけて良かったです。黙々と書いていると迷走しがちなので、ご意見いただけて修正できる機会があるのは、Web小説の良いところだなと思っています。
ミランダパパは、ミランダを追い詰めた一人ではありますが、親子のすれ違いの部分もあり、回帰後は少し改心した様子もあるので、痛手としては少なめですね。
ウェインが財政を握っているので、何かあればチクチクと痛手を負わせることもあるかと。