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「お疲れ、詩音」
「お疲れさま、三田くん」

 賑わっていた部屋に、二人だけの声が響く。時刻は十時。

「疲れてないか?」
「僕は大丈夫。それより、三田くんの方こそ疲れたんじゃない?駅まで送ってくれたんだし」

 淹れたばかりのコーヒーを両手に、惣一郎は首を振った。

「いや、大丈夫だ。三月さんに礼もしたかったし」
 と、込み上がる笑みを抑えきれずに言ったのは、例のサプライズが無事、成功した高揚感のせいでもある。
 というのも、成功するかどうか、かなり危ない局面だったせいもあるのだ。
 皿も洗い終わり、さてようやくというところで三月が本を詩音の前に出したのだが、なんと、詩音は嬉しいもがっかりもせずに無反応だった。

『し、詩音?』

 瞬間、嫌な想像が頭を巡った。記憶喪失は惣一郎と付き合った頃から始まっている。となると、あの本のことも作家のことも記憶にはないかもしれない。
 自分のことだけだと、失念していた。と、惣一郎が顔を真っ青にしていると、「うそ…」と声が聞こえた。

『なんで僕がこの作家さんの本好きだって、知ってたんですか?』

 目をキラキラさせて言う詩音は、どうやら嬉しすぎて言葉を失っていたようだった。涙を潤ませて言う姿に心底ほっとした。
 仕事のことにはあまり、触れて来なかったが三月はさり気なく、詩音の仕事のことにも触れてくれた。自分が出版社の編集であることから惣一郎と出会ったきっかけを、惣一郎と詩音が付き合っていたことは伏せて詩音に伝えてくれた。
 結果、詩音は三月に懐いたように見えた。詩音は以前、自分がライターをしているなんて信じられないと言っていたが、やはり文章を書くことや読むことが好きなのだろう。

 三月の話に食い入るように目を輝かせてのめり込む姿に、久しぶりに詩音が夢中になっていると惣一郎も嬉しくなった。

 その礼にと、送るついでに詩音の大好物のシュークリームを渡したかったのだ。もちろん、三月の恋人が心配にならないように送る意味もあったのだが。

 その帰り、駅に現れた長身の男性には驚いた。鈍感だと言われる惣一郎にもわかるほど、敵意をむき出しにして惣一郎を睨みつけていた。
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