水面に流れる星明り

善奈美

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拾章

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 玉響は意識が落ちていく感覚を味わっていた。不思議な玉が体内に吸収されるとすぐの事だ。その玉を玉響は知っていた。正確には感じていた。ゆっくりと落ちていく意識が何かを拾ってくる。遠く近く、その感覚は今でない生で知っていた感覚なのだ。
 
 急に開けてくる視界。その景色を玉響は確かに知っていた。知っていても、今の目で見たものではない。別の視界で見たものだ。
 
 傍を歩く白毛の狐。その瞳は血の色を映した紅色。何時からなのか。遠い場所から旅をしていた。一人と一匹で色々な場所に行った。その旅にいつの間にか四属性の聖獣が加わっていた。色々な体験をし、自分という存在の違和感。どこの街に行こうと、村に行こうと、人々の反応は同じだった。同じ場所に居続けるのはほぼ無理に近かった。留まっても、陸な事はなかった。大抵は嫌な思いをする。
 
 目的などない旅だった。付かず離れずの場所に金毛と黒毛の狐もいた。どうやら、白毛の狐の仲間であるようだったが、彼に近付いては来なかった。
 
 時には山に籠ることもあった。そんな時は大抵、人に疲れた時だ。だが、ある一定の期間が過ぎると一族に報告をしなくてはならなかった。それは旅に出た時に約束させられたことだ。何かがあった時、利用するために所在を明らかにしておきたかったのだろう。分かっていても、それが、旅に出るのを許された理由だ。所在報告をしなくては、無理矢理にでも連れ戻されただろう。特異な存在であり、また、特異な力を持っていたからだ。一族の誰もが欲した力だ。しかし、彼はそれを良しとはしなかった。誰かの手に落ちれば忽ち秩序は乱れる。それ程に危険を孕んだ力だった。だからこそ、彼は両親から旅に出ることを許された。誰のものにもならない、それが最大の禁止事項だった。報告と婚姻の禁止。彼に課せられた枷はその二つだった。その為、報告をすると、旅に必要な路銀は支給された。
 
 幾つもの山を川を街を超えて北上していた記憶がある。肌を刺す冷たい空気も覚えている。そして、あの禍々しい気配をはっきりと覚えていた。
 
 祀っている人間の欲望を満たし続けていた神。その行為は他の神々には奇異に映っていただろう。人間の欲には際限がない。一つが満たされれば、もう一つの欲を叶えたくなる。人の欲には穢れが含まれていた。それは悪意に他ならない。自分達が優位に立つ為に、ただ、それだけの為に神の力を利用していた。それは欲望そのものであり、他者を傷付ける行為だった。
 
「此処の空気は汚れているね」
 
 彼は眉根を顰めた。本当の意味で汚れているわけではない。それは力ある者が感知出来る。動物もまた、それらのことに敏感だ。町に近付くにつれ、野生の動物の姿が減っていく。あの時の感覚。覚えていた。あれは神が負った穢れが漏れ出していたのだ。本来なら静謐な場所である神の社。社から漏れ出る穢れは神が纏うには余りにも濃い濃度だった。何より、その社を祀る町は不自然な程、若い娘がいなかった。その理由を彼は正確に把握していた。神の穢れを祓う為だけに捧げられたのだろう。そんな状態の町で、娘を持つ者は町を離れた筈だ。美醜は問わなかっただろう。自分達の欲の為に穢れ続ける神。際限なく要求される無垢な娘。彼はそんな町の長に請われたが即座に願いを絶った。簡単な理屈だった。彼は確かに神職に在する者だ。だからこそ、その願いは叶えられない。自分達が願い神は穢れたのだ。それを祓うのは町の人達の問題だ。近隣の町が悉く寂れ、もう、人すら住まなくなっていた。それであるのに、この町は見た目だけは栄えていた。しかし、近い将来、この町は消える。次代を産む者がいなくなれば、その町から人は消えるのだ。当然、神は信仰そのものを得られなくなる。待っているのは忘れられた町と忘れられた神だ。しかも穢れが侵食している。それ程経たずに禍つ神となるのは分かりきったことだった。
 
「穢れはそれを与えた者達が解決すべきものです」
 
 彼は言い切る。神の穢れがここまでになるには、それ相応の報いを受ける行為を強いた結果だ。それであるのに、ただ、この町に立ち寄った彼に祓うようにと願い乞うのはおかしい。娘達がいないのなら、それに準ずることを成せば良いのだ。今までのように無体な願いはやめ、神が穢れから逃れるように日々祈る。どの程時間が掛かるのかは分からないが、少なくとも現状よりはマシである。
 
 だが、穢れた神は既に狂っていたのだろう。強い光と強い浄化の力を持つ彼を求めたのだ。それは、体内に宿した聖獣が暴れるほどのものだった。そして、傍の白狐に宿っていた聖獣も同調してしまった。四属性の力が穢れた神の力と拮抗する。押し押された力は渦を巻き、この地一帯を飲み込んでしまった。当然、命ある者はその命を刈り取られてしまう。争えば争うだけ、その力は際限なく命と力を飲み込んでいった。
 
「樹……」
 
 傍にいた白狐も例外ではなかった。その真っ白な肢体が赤い色に彩られていく。命が事切れるその様を、彼は見ていなくてはならなかった。そして、彼も命が儚くなるのだと実感した。虚に見開かれていた狐の紅の瞳に光が宿る。彼はその変化に驚き、そして、一つの神の気配を読み取った。そうなのだと、彼同様、白狐も彼の神に魅入られていたのだと理解した。だからこそ、出会い、だからこそ言葉はなくとも理解出来た。白狐の姿が朧気に解けていく。彼が事切れる寸前、白狐は幼い子狐へと変じていた。
 
 彼は瞳から涙を流す。理不尽に踏み躙られた命は妖に転じる場合がある。白狐はおそらく、多くの無念と恨みを抱いたのだろう。それは、彼と共に行動をした結果なのか。彼は心の中で贖罪する。一緒にいるのではなかったと。ただ、己の癒しのために。ただ、孤独を癒したいが為に。その為だけに、白狐を巻き込んだ。その後悔が、心を満たした。
 
 人も獣も魔も妖も、何より神さえも彼を陥れた。ただ、静かに生きていたかった彼を翻弄した。だから、彼は願ったのだ。次の世ではせめて、妖に転じたであろう白狐に謝りたい。巻き込んでしまった罪を贖いたい。しかし、同じ時間軸に生まれ変わったとして、彼が何に転生するのかは分からない。小さな虫かもしれない。名もない精霊や妖精かもしれない。それでも、彼は強く願う。どうか、白狐が穏やかに暮らせるように。妖となっても、人に理不尽に扱われませんように。ただ、それだけを願った。
 
 
      ⌘⌘⌘
 
 玉響はゆっくり瞼を開いた。一気に溢れたその記憶に、追い付いて行かない。ただ、分かるのはあの白狐は千樹だ。金狐は灯璃で黒狐は母である芙蓉。全ては玉響の前の生での応報であり、あの禍つ神は玉響と千樹に宿っていた聖獣に阻まれただけだったのだ。ただ、過去に得られなかったモノを取り戻そうとしただけ。
 
 玉響はゆっくりと身を起こすと両手で顔を覆った。全ては遠い過去から続いていた因縁だ。玉響も千樹も彼神に魅入られていた。その視線一つでその身を魂すらも変容させていた。おそらく、千樹はその記憶を封じていたのだろう。封じてなお、獣であった時の優しさを失っていなかったのだろう。では、玉響の父となった貴彬はどう言った存在であったのか。彼神にしてみれば、玉響の器を作り出すのに必要な力と魂を持っていたのだろう。母となった芙蓉は千樹と深い繋がりがあった。だからこそ、選ばれたに違いない。そこまで考え、玉響はギリっと奥歯を噛み締める。どう考えても始まりは玉響なのだ。母の体内で神に目をつけられ、その体だけではなく魂すらも変容していた。だからこそ、前の世でも今の世でも、普通の時間軸の中では生きにくい。ではどうすれば良かったのか。命を絶とうと、おそらく同じ事を繰り返すだろう。今回も人であるとは言い難いが、言葉を発する事が出来る存在として生を受けた。
 
「僕はどうしたら……」
 
 発端がどうであれ、ありとあらゆるモノを巻き込んだのは玉響自身。
 
「そのままでいればいい」
 
 玉響は弾かれたように顔を上げた。そして、声の主に顔ごと視線を向けた。そこにいるのは千樹だ。気配を感じていなかった事に玉響は驚愕する。
 
「忘れていたとは言え……」
 
 千樹は一旦言葉を切り、玉響が横になっていた褥の側に歩み寄ると腰を下ろした。
 
「手元から離さなかった理由が分からなかった」
「え?」
「普通であれば、住処になど連れ込まん」
 
 千樹の言葉に玉響は目を見開く。
 
「おそらく、お前の父親はそこまで読んでいた。だからこそ、記憶を封じてあの村の近くに捨て置いた」
 
 玉響は息を呑む。
 
「俺の記憶の中にお前の父親の姿はない。おそらくだが、あの存在を作り出したのは天照だ」
「どういう事ですか?」
「お前の魂の輝きを受け止めることが出来るのはほんのひと握りだ。ましてや人の身では育むこともままならん」
 
 芙蓉が母として選ばれたのは、おそらくだが前の生で関わりがあったからだ。しかも、千樹同様に妖となっていた。玉響の魂を受け入れる器はその時点で完成していたのだ。後はその半分。魂を受け入れる器の半分を満たす者の存在だ。
 
「お前は輪廻の輪の中に父親が入れなくなったのは知っているな?」
「はい」
「話を聞けば、妖狐の体を得られなくとも、輪廻の輪には入れなかったそうだ」
「どういう事ですか?!」
 
 千樹は天照から語られた話を玉響にした。玉響は当事者であり、知る権利があるからだ。四精霊も本来は聖獣である。そして、玉響が宿していた本来の聖獣は風と大地だった。
 
「では……」
「水と火の聖獣は俺が宿していたみたいだな。今は俺の中にいる」
 
 千樹は右手で自分の胸を押さえた。
 
「俺の記憶も戻った」
 
 遠い過去、ずっと離れずにそばにいると誓った。互いの存在が全てであったあの記憶。千樹は緩慢な動作で胸に置いていた手で玉響の頬に触れた。
 
「忘れていても心は覚えていたとは、おかしな話だ」
 
 玉響は千樹の手に擦り寄る。遠い過去からの縁ならば、離れ難いのは理解出来る。しかも、天照が関与していたとなれば、この先も彼神に振り回されるのだろう。
 
「……」
 
 千樹と玉響は互いの顔を見合わせる。襖の奥が騒がしい。否、それは正確ではない。騒がしい気がするのだ。つまり、今の二人の状況を固唾を呑んで聞き耳を立てているのだ。千樹は呆れたように息を吐き出した。気取られないように静かに立ち上がり、襖の側まで歩み寄ると勢いよく開く。雪崩れるように崩れてきたのは、屋敷で働いている妖達と灯璃と頗梨。何故か天照の姿まである。
 
「帰ったんじゃなかったのか?」
 
 千樹が言葉を投げかけたのは二人。灯璃と天照だ。屋敷で働いている妖達は仕方ないと溜め息を吐くしかない。何せ、散々、心配を掛けたのだ。しかし、灯璃と天照は別だ。
 
「気になるではないか!」
「ほら、くっつくならそれなりの奴等に知らせないと」
「ほう、誰に知らせるんだ?」
 
 千樹の妖力が膨れ上がる。これに慌てたのは屋敷で働いている妖達だ。蜘蛛の子を散らすように散り、残ったのは灯璃と頗梨、そして天照だ。
 
「これ以上の干渉は控えてもらいたいな。仮にもこの国の最高神が高々、齢千歳の妖狐と、妖狐と人間の混血に何の興味を持つ?」
「妾は二人の魂に興味がある。だからこそ、こうなってしまったのだ」
 
 天照は気を取り直して立ち上がる。
 
「ふん。この森は俺の縄張りだ。神だろうが何だろうが、干渉するならそれなりの報復はする」
「分かっておる。しっかり脅し掛けておこう」
「いや、それはやめてもらいたい」
「何故だ。妾が守ってやろうというのだ。遠慮はいらないぞ」
 
 千樹は本気で頭痛を覚えた。この国の最高神であり、太陽そのものの女神は何故に厄介事を増やすのか。千樹は千年前に獣が妖に変じた狐でしかない。膨大な妖力も、握り潰した禍つ神の神力を吸収したせいだろう。何より、今は元の力を取り出した聖獣すら体内に宿っている。妖である九尾狐と言い切るには異質に変化したことの自覚もある。
 
「俺は言った筈だが? 平穏に静かに暮らしたいとな。この国の最高神が出張ってきたら、平穏無事が遠退く! いい加減空気を読め!」
 
 最高神だろうが何だろうが知った事かと千樹は声を荒げた。
 
「怒りっぽいのう。もっと心穏やかにならねばな」
「それを貴様が言うのか?! こうなったのも元を辿れば貴様のせいだろうが!」
「それは否定せぬがな。元を辿ればと言うが、それを言うなら、妾に視線を向けられるだけの存在として生を受けた己を恨むが良い!」
 
 千樹はこれ見よがしに溜め息を吐く。天照のあまりの言いっぷりに、これが通常なのだと流石に気が付いた。この分だと、千樹と玉響の他にも不幸な存在が居るのではないかと疑いたくなる。
 
「もういい。好きにしろ。だが、結界は強化させてもらうぞ」
 
 千樹は唸り声のように声を漏らす。こうなれば、利用すると言う事に蓋をし、玉響と共に強固な結界を構築してやると本気で思うのだ。
 
「金輪際、神々とは関わり合わん! 俺は静かに暮らす!」
 
 千樹はほぼ、やけくそ気味に叫び声を上げた。流石の灯璃も苦笑いしかない。頗梨に至っては、千樹の気持ちが分かるのか頷いている。頗梨としても、ここ最近は大変な事の連続だった。
 
「神だろうが何だろうが顔も見たくない!」
「それは酷い言い草ではないか。茶飲み友達くらいにはなってくれぬと困る」
「ふざけるなよ」
「のう、吾子は妾の事を邪険にはせぬよな?」
 
 いきなり話題を振られた玉響は慌てる。最高神たる天照に敬意を払うの当たり前だろうが、今の玉響が何より大切なのは千樹だ。前世を思い出し、その思いは更に強くなった。
 
「……あの、僕は千樹様が一番なので、すみません!」
 
 玉響はガバッと平伏す。それを聞いた天照は若干衝撃を受けたようだ。まさか、拒絶されるとは思っていなかったらしい。巫山戯た考えである。
 
「妾と会いたくないと……」
 
 玉響はゆっくりと身を起こすと、千樹を伺い見る。千樹は明らかに疲れていた。精神的疲労なのがありありと分かる。何より玉響もずっととは言わなくても、少し休みたいのが本音だ。
 
「……少しの間で良いので、そっとしておいて貰えると嬉しいです」
 
 玉響は小さな声でぽそっと呟いた。記憶を封じられ一人小さな村に置いておかれた。飢饉で受け入れてくれた村から追い出され千樹に拾われた。そこで母である芙蓉と出会い、何があったのかの顛末も知りえた。短い期間で次々と問題が起こり振り回されたのだ。
 
「妾が迷惑だと……」
 
 天照は本当に衝撃を受けたようだった。心優しい玉響にすら実質拒絶されたのだ。
 
「迷惑以外あるのか?」
 
 千樹は腕を組み半眼になる。何処をどう考えて迷惑ではないとの考えに至るのか。天照はどんよりとした表情で暇を告げ、本当に帰っていった。
 
「まあ、暫くは帝の所に入り浸るんだろうけどな」
 
 千樹は帝と言うより、馨と葵に憐憫の情を向けた。振り回されるのは確実にあの二人だろう。
 
「いや、本当のところ、婚姻するんだよな?」
 
 灯璃は念を押すように確認する。これは本当の意味で厄介事を解決する方法なのだ。灯璃も記憶が完全ではないにしても戻っている。千樹と玉響は前世から仲が良く、こうなるのは分かり切っていたのだ。ただ、玉響の前世の家柄が神職であり、制約もあった。まず、人と獣では夫婦になるのは無理だ。では今はどうか。千樹は妖であり人化している。獣の姿になるのは本当に稀だ。そして、玉響は妖と人との混血だ。陰陽師の子ではあるが、その父親は今や妖狐である。ある意味、問題そのものは解決しているのだ。
 
「あ……」
「しないつもりか?! 厄介事が嫌いな千樹が否定するのか?!」
「そうじゃない。玉響はまだ状況を……」
「僕は千樹様と居たいです!」
 
 玉響は千樹の言葉に被せるように叫ぶ。中身は確かに子供だが、前世の記憶がある。周りが仕切りに婚姻を望む理由も理解している。そして、その時に何があるのかも理解していた。契りを交わし、契約するのだ。互いに互いの印をその身に刻み合う。一方的なものではなく、互いを対等に扱う為のものだ。
 
「分かって言っているのか?」
「はい」
「人には戻れなくなるぞ。今なら、人と暮らせばその身は人としての時を刻む」
「それが無理な事くらい千樹様は分かっていますよね? 僕は人の世には居られない。何より僕自身が千樹様と一緒にいたい。僕は……」
 
 玉響は一旦言葉を切ると、小さく首を振った。
 
「「僕達は千樹様と樹と共に居たい」」
 
 千樹は目を見開く。玉響は新たに器を得、生まれ変わっている。前世の響とは確実に違うのだ。しかし、千樹は獣のまま妖に変じた。つまり、過去そのままの存在なのだ。
 
「玉響?」
 
 千樹は困惑した。玉響は完全に生まれ変わっているのだ。過去の事など覚えている筈が無いのである。
 
「僕は前の世で千樹様を巻き込みました。消えゆくあの時、その事を実感したんです。前の世の僕が千樹様を巻き込んだ」
「それは違う」
「え?」
 
 玉響は困惑する。玉響は確実に千樹を巻き込んだ自覚があった。前世の自分はその悔いを残したまま、輪廻の輪に取り込まれたのだ。
 
「僕は千樹様が妖になる姿を確認して意識を失ったんですっ」
「まさか……、記憶が?」
 
 玉響は小さく微笑む。それは、子供がする表情ではない。
 
「あの玉が体内に飛び込んできた時に、全てを思い出しました。樹であった千樹様の慟哭も、全てを」
 
 一人と一匹で長い旅をした。北に向かい歩を進め、今考えれば人から逃げていたのだ。否、正確には生きとし生けるものから逃げていた。玉響の持つ特殊な力を誰の手にも渡さない為に。
 
「命が零れ落ちていく感覚の中で、僕は後悔しました。僕と出会わなければ千樹様は命を失う事も、妖に転じる事もなかったって」
 
 千樹は深い溜め息を吐いた。普通に考えるならそうだろう。だが、天照に目をつけられたのは確実に玉響の前の生であった響に会う前だ。その時点で逃れられなかった。
 
「それは違うだろうな」
 
 千樹の言葉に玉響は固まる。
 
「それは別問題じゃないのか」
 
 灯璃もぽつりと呟く。二人の言っている意味が理解出来なかった。
 
「いや、俺もまだ、若干、混乱してるが、千樹は逸れ者だったんだ。仲間とは打ち解けられなくてな。そこにほら、チビが現れたんだよ」
 
 灯璃が言うには千樹は過去も今も毛色が違ったようだ。見た目だけではない。内面すら獣のそれとは違っていた。他の狐は玉響を見た瞬間、逃げるか食い殺すかの二択ではあったようだ。一方、千樹は全く違う感覚を持ったらしい。穢してはならない、殺してはならない、ましてや、手に入れてはいけない。それは、普通の感覚ではない。
 
「チビの力を正確に見抜いていた。おそらく、チビの家族より正確に理解していただろうな」
 
 だから、千樹は玉響と共に仲間の元を離れた。それに付いて行ったのが灯璃と芙蓉であったのだ。
 
「強いて言うなら、神々の悪戯、だろうな」
 
 灯璃は一人納得するように頷く。神々の悪戯と言われた二人にしてみれば心外以外の何者でもない。
 
「それはまた違うだろう」
「何言ってんだ。神々を生み出した更に上位の存在の悪戯だろう。どうなるか楽しみくらいの感覚じゃないのか」
 
 灯璃の物言いに千樹は脱力した。天照が興味を持ったのだ。普通に自然的に発生した命ではあり得ない。
 
「更に上位?」
 
 玉響は疑問を投げかける。
 
「そうだ。俺も妖に転じなければ分からなかったが、今は理解してる。神と人々に言われる存在は更に上位の神をも超越した存在により作られたんだ。当然、神以外のものも作り出してるだろう。その際たるのがお前達だろうな。何せ、反発し合う属性の聖獣を体内で飼い慣らし、更に、普通に生活してたんだ。神々とて恐ろしいと思っただろうよ」
 
 千樹は眉間に皺を寄せ、右手で顔を覆うと俯き息を吐き出した。否定したいのだが否定出来ないのだから仕方ない。天照を前にして萎縮すらしなかった。他の神々からしたら、上位である天照に対して悪態さえ吐けた。それが全てなのだ。
 
「今後については玉響と相談する。急かすのはやめてくれ」
「だが……」
「しばらくは屋敷から出るつもりはない。神々だろうが何だろうが、入り込めない結界を構築してやるっ」
 
 千樹は小さく叫んだ。本当に穏やかに過ごしたいのだ。それは獣であった時込みの話である。千樹は色素欠乏の狐だった。その目立つ色彩は自然界では不利なのだ。平和であったことなどないのである。今は力をつけ、大抵のものは避けて通ってくれるようになった。が、言い換えるなら、力の強い存在には全くの無意味なのだ。中途半端に強い力が、逆に惹きつけてしまう。勘弁してもらいたいのだ。
 
「結界の構築は必要だろうな。チビにも手伝ってもらうんだろう?」
「本当なら利用するようで嫌なんだが。こうなったら仕方ない。玉響の特性を利用させてもらう。結果、穏やかな時間が手に入るんだ」
 
 千樹の言葉に玉響は頷いた。穏やかに過ごせるなら、幾らでも力を使ってもらって良い。千樹ならおかしな事に力は使わない筈だ。
 
「僕は協力します。ここに居ても良いのなら」
「……本来なら手放すべきだとは思ってる。だが、それは多分出来ない。諦めて欲しい」
「千樹様。僕は僕の意思でここに残ると決めました。だから、役に立つのなら使って欲しい。そう思ってます」
 
 賽は投げられたのだ。
 
 さて、その後どうなったかと言えば、千樹と玉響は本当に神々すら弾き返す結界を構築してしまった。それは自然を害することのない自然なものであったため、天照も弾き返されるまで気がつかなかったくらいの秀逸さだった。しかし、眷属である灯璃には全く効かないという特性を持っていた。これに関しては流石の千樹と玉響でもどうすることも出来なかった。魂に千樹の眷属として刻まれているために、無意識に受け入れてしまうらしい。
 
 数年、千樹と玉響はそのまま過ごしたが、流石にこのままでは不味いと考えた。ひっそりと屋敷の眷属の前で祝言を執り行い、契りを交わし合った。尚、その際、千樹は玉響の女性としての部分には触れていない。元々、力が強い二人なので早々に子供が出来ると言うことはないだろうが、千樹は可能性は排除したいと考えたからだ。
 
「どうして、呼んでくれなかったんだ?!」
「必要ないだろう。ほら、事実は今話した」
「いやいや、違うだろう?!」
 
 契りを交わし合って幾らも経たないうちに灯璃がやってきた。そして、結界の質が変わっていることに気が付き、千樹と玉響が契りを交わしたと気が付いた。千樹は灯璃を祝言に呼ばなかったのだ。当然、天照にも話してはいない。帝にすら秘密にしたのだ。
 
「基本、契約は本人同士が分かっていれば良い。触れ回る事でもない」
「二人は違うからな?! 周りがどれだけヤキモキしたと思ってるんだ?!」
「そんなのは周りの勝手だ」
 
 千樹は全く取り合わなかった。玉響はそれを静かに微笑みながら眺めていた。
 
 千樹と玉響の庇護下にある森だが、結局、人が踏み入れる事が困難な程、強い力を持つことになる。住処がある泉を中心に鬱蒼とした木々と植物が生え、多くの動物達がその庇護下で生活する。他の場所と比べて動物達は大きく育ち、食物連鎖もきちんと保たれている場所となる。
 
「いや、まあ、それは良いんだけど」
 
 時々、訪れる灯璃は千樹と玉響が必要だと思わなければ外に出ない生活に驚いていた。
 
「灯璃様は外を歩かれて危険を感じないのですか?」
 
 玉響の質問に灯璃は少し考える。人間は時を重ねる毎に妖や不思議なものを見る目を失いつつある。それは、本来、人が持つ能力を失い始めている事の証明でもあった。
 
「今の人に妖を見極める目を持つ者は稀だ」
「陰陽師は違うだろう?」
 
 千樹は首を傾げつつ問う。
 
「陰陽師も能力が落ちたな。俺くらいになると全く見付けてもくれないぞ」
 
 千樹と玉響は顔を見合わせた。
 
 今も木々の合間から泉に太陽と月の光、星の光が映り込む。それを二人は穏やかな気持ちで眺める。
 
「千樹様」
「なんだ?」
「僕は今幸せです」
 
 玉響は千樹を見上げながら微笑む。千樹と言えば、それにただ頷くだけだ。夜の闇の中に煌めく幾万の星が泉の水面に映し出される。それを二人は静かに見つめ続けた。
 
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