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Ⅶ 月響蝶
六章
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あの後、何事もなく作業を終えて帰って行ったセレジェイラだったが、ヴィオーラの様子が気になった。かと言って、仕事がなくなるわけでもない。作業には時間が掛かる。神経も使う。調律一つで音の良し悪しも決まる。少しの狂いも許されない、繊細な仕事なのだ。
一度、作業に没頭すれば、周りのことなど全く気にはならない。しかし、己の中に疑問がある場合、それは、没頭したところで集中出来るわけではない。
あの時の、ヴィオーラの表情がひっかかるのだ。
ヴィオーラは特殊な生まれだ。本来なら、男性でありながら、満月の光で女性となる、薔薇、と言う存在が母親だ。そのせいか、特別な目で見られることがあることも理解している。
セレジェイラは他の吸血族のように、ヴィオーラが満月の光で女性になるとは考えていない。それは、近くで育ったことも大きいと言っていい。ヴィオーラの父親と話すことがあるが、薔薇は歪んだ存在だと聞いたこともある。
月の強い魔力で強制的に性別を変化させる。それは、いくら魔族である吸血族でも異質なのだ。
当然、体にかかる負担も大きい。強い痛みを伴い、性別が変化する。その場面も、しっかり目撃していた。
ヴィオーラの母親のヴェルディラの変化を、幼い時に何度か目撃している。おそらく、ヴィオーラに見せるためだったのだろう。母親がどう性別を変化させ、その時、どのような感覚を持つのか。
だから、セレジェイラは薔薇を望んではいない。ただ、ヴィオーラを純粋に手に入れたいだけなのだ。しかし、ヴィオーラは直ぐに家業を持ち出す。それを言われると、胃がキリリと痛みを訴えた。
その理由が判らない程、子供ではない。吸血族の人口は他の魔族に比べて著しく少ない。それだけではない。男性人口と女性人口が釣り合っていない。今はそれ程ではないらしいが、各部族、各一族で囲う傾向が強い。
未婚の吸血族が両親より年上だという話など、珍しくもない。その中で現れた薔薇という存在は、吸血族にとって騒ぎの中心になってもおかしくない。男性が満月の光で女性となるのだ。
一時は薔薇の血族から薔薇が生まれると、本気で信じている者達もいたくらいだ。
「何に心を奪われてる」
「え……」
不意にかけられた言葉に振り返る。そこに居たのは父親だ。
「音は心の乱れを忠実に表す。今のお前では楽器は本来の音で歌えないぞ」
その指摘に、セレジェイラは作業の手を中断した。今、行っている作業は、調律ではない。古いピアノのクリーニング作業だ。いくら、魔力で古さを感じさせないように出来たとしても、中身はそうではない。少しずつ狂い、そのままでは扱えなくなってしまう。
手元にあるのは分解され、汚れを綺麗に落としているピアノの部品だ。かなりの時間と根気が必要な作業だ。だが、セレジェイラはこの作業が好きだった。埃にまみれ、それでも必死で歌おうとしている。それを手伝えるのだ。しかし、父親が言うように、いまのセレジェイラは作業に身が入っていなかった。
「何をそんなに気にしてる」
セレジェイラがヴィオーラの自宅で怪我をしたのは数週間も前だ。怪我も傷跡が残らない程に治っている。その、怪我をしていた左手の人差し指を凝視する。
「ヴィーラの様子がおかしかった……」
「何を言ってる」
父親は顔に疑問を貼り付けた。セレジェイラは怪我をした時のことを父親に話した。怪我をして帰ってきた息子に、当然両親は説明を求めた。その時に話した内容は、彼自身のミスで怪我したのだと説明したのだ。
「表情が強張った……」
父親は首を傾げる。吸血族が怪我をした場合、大抵は既婚者が行う。どんなことが起こるのか判らないからだ。セレジェイラの話には疑問と矛盾が垣間見える。
ヴィオーラの父親のファジュラは一族を継がないが、別の、薔薇の楽師、の称号を戴く。薔薇を妻に娶り、その関係の柵も実は実家の宮廷楽師の血筋より強い。
当然、求められるのは薔薇の血筋の後継者だ。だが、今回のことは、どう考えてもおかしい。大切な後継者の筈だ。その後継者を血に晒す。吸血族にとっては自殺行為の筈だ。怪我の手当てをしている過程で、体が他人の血液を摂取してしまう危険を考えなかったのだろうか。疑問ばかりが浮かんでくる。
あそこの一族は特殊だ。大抵は長い年月の間に、才能に恵まれない後継者が生まれてくる。そうなると、知らず一族としての技も業も失われていく。才能がものを言う家業を持つ一族の宿命だ。
調律師として長年楽師と関わりを持つ一族に生まれ、そんな話も多く耳にした。
その長い時間の中で廃れず唯一、王制時代、宮廷楽師の名を戴いた一族だ。ファジュラの弟のギアもかなりの才能の持ち主であると伝え聞いている。ヴィオーラも音楽の才能豊かであることは、父親の耳が知っていた。
ヴィオーラが吸血族の中でも、血液に関して厳しく躾けられている事は知っている。父親のファジュラから、その話も直接聞いていた。
どう考えてもおかし過ぎるのだ。
「本当にヴィーラから処置を受けたのか」
「どうしたんだ」
「どう考えても矛盾してる。あそこは薔薇の血族という特殊性に加えて、血液に関する事に異常なほど過敏だった。ヴィーラを預かった時もその事に関してかなり気を付けるように言われたくらいだ」
父親の言葉にセレジェイラは目を見開いた。
セレジェイラも流石におかしいと思い始める。ヴィオーラの一族は今、長期休暇の筈だ。館内にヴィオーラの他に両親がいる。何より、他種族の使用人達もいるのだ。何もヴィオーラが手当てをする必要はなかった筈だ。
「親交があったとしても、薔薇の一族に関して詳しい訳じゃない。薔薇の一族は族長一族よりも影響力がある。それに加えて、五族長からの庇護も得ている」
「何が言いたいんだ」
「水面下で何かが起こってる可能性があるってことだ」
水面下、と言われても、それは薔薇の血族間の話ではないのか。
ヴィオーラとは幼馴染みとはいえ、それはあくまで個人的なことだ。楽師と調律師として親密ではあるがそれだけなのだ。
「俺とは関係ないだろう」
セレジェイラは困惑気に呟く。
「……違う気がする。まあ、薔薇の一族は特殊だ。ただの吸血族でしかない俺達では考え及ばない何かがあるんだろう。とりあえず、今日の作業は中断しろ。また、怪我をしかねない」
作業の中断を言い渡され、セレジェイラは小さく息を吐き出す。焦っても仕方ない。
†††
セレジェイラが怪我をしてから三ヶ月程経ったある日、アレンが訪ねて来た。ヴィオーラに渡したい物があると言うのだ。
「辛くなってきたんじゃないか」
「……え」
呆れたような笑みを見せたアレンが、ヴィオーラに手渡してきたのは錠剤の入った小瓶だった。
「一回二錠だ」
「これって」
「擬似血液剤だよ。フィネイに頼んであった」
どう言う事だろうか。アレンと手渡された小瓶を交互に見詰め、ヴィオーラは困惑した。
「一日一回、何時飲むかはヴィーラが決めろ。ただ、自分で決めた時間に毎日飲むんだ。苦しみたくなかったらな」
ヴィオーラはアレンが言ったことに恐怖した。アレンは知っているのだ。ヴィオーラが他者の血液を体内に取り込んだことを。
「責めてるんじゃない。ヴィーラに非はないからな」
「でも……っ」
「全ては時が明らかにしてくれる。困ったことが起こったら両親に必ず助けを求めるんだ。一人で抱え込むなよ」
ヴィオーラは素直に頷いた。否、頷くしかなかった。
「全ては流れのままに」
「え……」
アレンはそう言うと右手を上げ、歩き去る。
「アレンさんっ」
ヴィオーラの叫びにアレンは振り返った。
「この後、まだ、用事があるんだよ」
「何を知ってるの」
ヴィオーラはギュッと小瓶を両手で握り締める。
「知ってることは言えないだろうが。そう言う類の話だ」
「でもっ、俺以外は知ってるんだろうっ」
「如何だろうな。ただ、これだけは言える」
アレンは一旦、言葉を切った。
「お前を知る全ての者が、お前を大切に思っているし、愛しているんだ。忘れるなよ」
ヴィオーラはただ立ち尽くし、呆然とアレンを見送った。
「相変わらず嵐だ」
隣から聞こえてきた声に、ヴィオーラは視線を向けた。そこに居たのは母親のヴェルディラだ。
「母さん……」
「でも、よく材料が集められたよな。この薬、材料が特殊すぎてなかなか作れないってフィネイが言っていたし」
後で薬代を請求されるかも、と苦笑交じりにヴェルディラは呟いた。
「この薬って……」
「擬似血液剤、言ってただろう」
「……聞いたけど、如何してこんな物があるの」
ヴェルディラは呆れたようにヴィオーラを見詰めた。
「必要だからじゃないか」
「そうじゃなくてっ。擬似血液剤があるなら、如何して今まで……」
「材料が特殊すぎるからだよ」
さっきも言っていたと、ヴィオーラは思い当たる。
「元々は吸血族の毒を研究している時にフィネイがシオンの為に考えた物なんだ」
シオンの為、とは如何いうことなのだろうか。
吸血族が複数の命を一度に体内に宿すと、一日に摂取する血液の食事の回数が増える。だが、シオンは薔薇である為、受け付ける血液はアレンの血液だけだ。そうなればシオンだけではなく、アレンの体にも負担になり、最悪、二人で共倒れになる。
シオンが双子を宿した時、フィネイが吸血族の毒について調べ始めた時だった。その時、一緒に採集した血液についても調べたのだ。少しでも二人の負担を軽くする為に、フィネイとトゥーイが作り出した特殊な薬だ。
「それに、吸血族の男性は毎日、血液を摂取すると中毒になるらしい」
「中毒っ」
ヴェルディラの言葉に、ヴィオーラは驚愕した。血液に対して多くの知識を与えられたヴィオーラだが、それについては聞いていなかった。
「出産後、貧血ではあったけど、元の性別に戻るとシオンが毎日血液の食事が出来なくなる。中毒になるのを防ぐのに、この薬を使ったんだよ」
ヴェルディラの話にヴィオーラは納得した。つまり、本来は貧血を起こしたままなのだろう。それを誤魔化す為の薬だと言う事だ。
「アレンに言われた事を守れよ。苦しみたくなかったら」
ヴィオーラは握り締めている小瓶に視線を落とす。少しずつ喉の渇きを覚えるようになっていた。元々、我慢強いヴィオーラだ。だから、今の状態ならばまだ、耐えられる。
「我慢は後々、辛くなる。薔薇の主治医の言葉を蔑ろにするな」
「そんなつもりは……っ」
ヴィオーラは慌てて視線をヴェルディラに戻した。
「みんな、お前の性格を理解してるんだ」
ヴィオーラはその言葉に、小さく頷いた。これからどうなるかなど、全く分かっていないのだ。
月が満ち欠けを繰り返し、アレンから薬を貰って二ヶ月程経った。ツキリと体に走った痛みに、ヴィオーラは息を飲んだ。満月を目前に控え、恐れていた体の準備が整った証拠だ。
絶対、変化するとは決まっていない。そう思うのに、ヴィオーラは薔薇に対する知識を持ち過ぎていた。母親が薔薇では、嫌でも情報は入ってくる。口外する事を禁止されはしても、彼の中に蓄積されている記憶の引き出しが、次々と薔薇となる者の特徴を引き出す。
変化は痛みと共にやって来る。
ヴィオーラは嫌という程耳にしたし、変化する過程もしっかりと視界に収めている。男の体から、完全な女の体に変化する。その過程で、最も目に見えた変化を遂げるのは髪だ。背を流れるように一気に伸びる。だが、満月が隠れると伸びた髪は霧のように消える。性別も元の性にもどる。
だが、変化を続けているうちに、完全に男性体には戻らなくなる。母親や他の薔薇達を見ているとよく判った。だんだんと中性的になっていく。
そして、最も重要なことを思い出す。アレンはヴィオーラに対して言っていた事がある。成人年齢に達し、ヴィオーラの姿を見た時に言ったのだ。
お前は華奢なまま成人したな。
吸血族は種族の特徴なのか、男性も女性も他種族に比べて華奢ではある。だが、あえて言ったからには意味があったのだ。母親を写し取ったような華奢な体つき。他の薔薇の息子たちは華奢ではあっても身長があった。ヴィオーラよりも頭一つ分大きいのだ。
その考えに思い至り、ヴィオーラは愕然とした。
黄薔薇の娘のシンシアと並んでも、身長的に大差はない。引っ込み思案なヴィオーラをシンシアは異性として見なかった。それどころか、女友達感覚だ。シンシア本人が言っていたので間違いない。
アレンはヴィオーラが変化することを知っていたのではないだろうか。あの日、ファジュラ一人が呼び出されたのは、変化することを教える為だったのではないか。だから、あの薬を事前に用意出来た。そうでなくてはおかしいのだ。
心臓がキュウっと絞られたような痛みを感じた。
何より、ファジュラはセレジェイラが怪我を負った時、ヴィオーラに手当をさせた。それは、事前に聞いていたからだ。本来ならば、相手のいる吸血族の大人か、使用人の他種族の者に任せただろう。
あえて、ヴィオーラに任せたのは、遅かれ早かれセレジェイラの血液を取り込むという確証があったからだ。
ギュッと体をきつく抱き締めた。どんなに否定したくとも、否定出来ない条件が揃い過ぎていた。もし、満月の光に変化しなければ、ただの渇きだと証明される。
そうであってもらいたいと、ヴィオーラは切実に願った。
月は満ち始め、着実に魔力を強くしていく。それに合わせるように、体が強い痛みをヴィオーラに与え始めた。ヴィオーラが取り込んだ血液は微量だ。勘違いで済ませたいと感じる程の、勘違いだと思い込みたいほどの量だ。
館内の空気が動き出す。太陽が姿を隠し、紫紺が空を覆ったのだ。光り輝く星々と、強い魔力を帯びた月が空を彩る。ゆっくりと緩慢に動き、何とか窓際まで移動する。
吸血族の館は、月が昇る方角に窓を作る。生まれたての月は強い魔力を持っており、それを取り込む事が重要だからだ。
だから、ヴィオーラは祈るような思いで、カーテンに手を掛けた。窺うようにゆっくりとカーテンを開ける。
月の淡い光が鋭く肌に突き刺さった。こんな感覚をヴィオーラは感じたことはなかった。月は何時も優しく淡い暖かな光を降り注いでくれた。それなのに、その光は痛みと熱をヴィオーラに与えた。痛いなどという感覚ではない。
正確には熱いだった。体の中に灼熱の棒を突っ込まれ、かき回されたような感覚だ。
耐えられず、足が力を失い、へたり込んだ。呼吸が整わない。体の中から不気味な音がする。本来なかったモノが強い魔力に反応しヴィオーラの中に作られる。痛さに苦しさに耐えるように強く体を掻き抱く。ドクリッと強い脈の音を耳の奥で聞き、瞬間起こった有り得ない劇的な変化。薔薇達の変化を見てきたヴィオーラには、それが当たり前の事であると判っていた。
波打つ紫色が視界いっぱいに広がる。恐る恐る、両手を視界に収めた。今までの筋張った手ではない。うっすら脂肪に覆われた、柔らかそうな肌。青白い事には変わらないが、肌だけで性別の変化を実感出来た。
そして、その変化が偽り続けていた想いを露呈させた。考えないようにしていた想いだ。
「ヴィー……」
その声に驚き、ヴィオーラは慌てて視線を声の方に向けた。フワリと流れる青銀髪。
「……母さ……っ」
ヴィオーラは両の眼に涙を浮かべた。
一度、作業に没頭すれば、周りのことなど全く気にはならない。しかし、己の中に疑問がある場合、それは、没頭したところで集中出来るわけではない。
あの時の、ヴィオーラの表情がひっかかるのだ。
ヴィオーラは特殊な生まれだ。本来なら、男性でありながら、満月の光で女性となる、薔薇、と言う存在が母親だ。そのせいか、特別な目で見られることがあることも理解している。
セレジェイラは他の吸血族のように、ヴィオーラが満月の光で女性になるとは考えていない。それは、近くで育ったことも大きいと言っていい。ヴィオーラの父親と話すことがあるが、薔薇は歪んだ存在だと聞いたこともある。
月の強い魔力で強制的に性別を変化させる。それは、いくら魔族である吸血族でも異質なのだ。
当然、体にかかる負担も大きい。強い痛みを伴い、性別が変化する。その場面も、しっかり目撃していた。
ヴィオーラの母親のヴェルディラの変化を、幼い時に何度か目撃している。おそらく、ヴィオーラに見せるためだったのだろう。母親がどう性別を変化させ、その時、どのような感覚を持つのか。
だから、セレジェイラは薔薇を望んではいない。ただ、ヴィオーラを純粋に手に入れたいだけなのだ。しかし、ヴィオーラは直ぐに家業を持ち出す。それを言われると、胃がキリリと痛みを訴えた。
その理由が判らない程、子供ではない。吸血族の人口は他の魔族に比べて著しく少ない。それだけではない。男性人口と女性人口が釣り合っていない。今はそれ程ではないらしいが、各部族、各一族で囲う傾向が強い。
未婚の吸血族が両親より年上だという話など、珍しくもない。その中で現れた薔薇という存在は、吸血族にとって騒ぎの中心になってもおかしくない。男性が満月の光で女性となるのだ。
一時は薔薇の血族から薔薇が生まれると、本気で信じている者達もいたくらいだ。
「何に心を奪われてる」
「え……」
不意にかけられた言葉に振り返る。そこに居たのは父親だ。
「音は心の乱れを忠実に表す。今のお前では楽器は本来の音で歌えないぞ」
その指摘に、セレジェイラは作業の手を中断した。今、行っている作業は、調律ではない。古いピアノのクリーニング作業だ。いくら、魔力で古さを感じさせないように出来たとしても、中身はそうではない。少しずつ狂い、そのままでは扱えなくなってしまう。
手元にあるのは分解され、汚れを綺麗に落としているピアノの部品だ。かなりの時間と根気が必要な作業だ。だが、セレジェイラはこの作業が好きだった。埃にまみれ、それでも必死で歌おうとしている。それを手伝えるのだ。しかし、父親が言うように、いまのセレジェイラは作業に身が入っていなかった。
「何をそんなに気にしてる」
セレジェイラがヴィオーラの自宅で怪我をしたのは数週間も前だ。怪我も傷跡が残らない程に治っている。その、怪我をしていた左手の人差し指を凝視する。
「ヴィーラの様子がおかしかった……」
「何を言ってる」
父親は顔に疑問を貼り付けた。セレジェイラは怪我をした時のことを父親に話した。怪我をして帰ってきた息子に、当然両親は説明を求めた。その時に話した内容は、彼自身のミスで怪我したのだと説明したのだ。
「表情が強張った……」
父親は首を傾げる。吸血族が怪我をした場合、大抵は既婚者が行う。どんなことが起こるのか判らないからだ。セレジェイラの話には疑問と矛盾が垣間見える。
ヴィオーラの父親のファジュラは一族を継がないが、別の、薔薇の楽師、の称号を戴く。薔薇を妻に娶り、その関係の柵も実は実家の宮廷楽師の血筋より強い。
当然、求められるのは薔薇の血筋の後継者だ。だが、今回のことは、どう考えてもおかしい。大切な後継者の筈だ。その後継者を血に晒す。吸血族にとっては自殺行為の筈だ。怪我の手当てをしている過程で、体が他人の血液を摂取してしまう危険を考えなかったのだろうか。疑問ばかりが浮かんでくる。
あそこの一族は特殊だ。大抵は長い年月の間に、才能に恵まれない後継者が生まれてくる。そうなると、知らず一族としての技も業も失われていく。才能がものを言う家業を持つ一族の宿命だ。
調律師として長年楽師と関わりを持つ一族に生まれ、そんな話も多く耳にした。
その長い時間の中で廃れず唯一、王制時代、宮廷楽師の名を戴いた一族だ。ファジュラの弟のギアもかなりの才能の持ち主であると伝え聞いている。ヴィオーラも音楽の才能豊かであることは、父親の耳が知っていた。
ヴィオーラが吸血族の中でも、血液に関して厳しく躾けられている事は知っている。父親のファジュラから、その話も直接聞いていた。
どう考えてもおかし過ぎるのだ。
「本当にヴィーラから処置を受けたのか」
「どうしたんだ」
「どう考えても矛盾してる。あそこは薔薇の血族という特殊性に加えて、血液に関する事に異常なほど過敏だった。ヴィーラを預かった時もその事に関してかなり気を付けるように言われたくらいだ」
父親の言葉にセレジェイラは目を見開いた。
セレジェイラも流石におかしいと思い始める。ヴィオーラの一族は今、長期休暇の筈だ。館内にヴィオーラの他に両親がいる。何より、他種族の使用人達もいるのだ。何もヴィオーラが手当てをする必要はなかった筈だ。
「親交があったとしても、薔薇の一族に関して詳しい訳じゃない。薔薇の一族は族長一族よりも影響力がある。それに加えて、五族長からの庇護も得ている」
「何が言いたいんだ」
「水面下で何かが起こってる可能性があるってことだ」
水面下、と言われても、それは薔薇の血族間の話ではないのか。
ヴィオーラとは幼馴染みとはいえ、それはあくまで個人的なことだ。楽師と調律師として親密ではあるがそれだけなのだ。
「俺とは関係ないだろう」
セレジェイラは困惑気に呟く。
「……違う気がする。まあ、薔薇の一族は特殊だ。ただの吸血族でしかない俺達では考え及ばない何かがあるんだろう。とりあえず、今日の作業は中断しろ。また、怪我をしかねない」
作業の中断を言い渡され、セレジェイラは小さく息を吐き出す。焦っても仕方ない。
†††
セレジェイラが怪我をしてから三ヶ月程経ったある日、アレンが訪ねて来た。ヴィオーラに渡したい物があると言うのだ。
「辛くなってきたんじゃないか」
「……え」
呆れたような笑みを見せたアレンが、ヴィオーラに手渡してきたのは錠剤の入った小瓶だった。
「一回二錠だ」
「これって」
「擬似血液剤だよ。フィネイに頼んであった」
どう言う事だろうか。アレンと手渡された小瓶を交互に見詰め、ヴィオーラは困惑した。
「一日一回、何時飲むかはヴィーラが決めろ。ただ、自分で決めた時間に毎日飲むんだ。苦しみたくなかったらな」
ヴィオーラはアレンが言ったことに恐怖した。アレンは知っているのだ。ヴィオーラが他者の血液を体内に取り込んだことを。
「責めてるんじゃない。ヴィーラに非はないからな」
「でも……っ」
「全ては時が明らかにしてくれる。困ったことが起こったら両親に必ず助けを求めるんだ。一人で抱え込むなよ」
ヴィオーラは素直に頷いた。否、頷くしかなかった。
「全ては流れのままに」
「え……」
アレンはそう言うと右手を上げ、歩き去る。
「アレンさんっ」
ヴィオーラの叫びにアレンは振り返った。
「この後、まだ、用事があるんだよ」
「何を知ってるの」
ヴィオーラはギュッと小瓶を両手で握り締める。
「知ってることは言えないだろうが。そう言う類の話だ」
「でもっ、俺以外は知ってるんだろうっ」
「如何だろうな。ただ、これだけは言える」
アレンは一旦、言葉を切った。
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「相変わらず嵐だ」
隣から聞こえてきた声に、ヴィオーラは視線を向けた。そこに居たのは母親のヴェルディラだ。
「母さん……」
「でも、よく材料が集められたよな。この薬、材料が特殊すぎてなかなか作れないってフィネイが言っていたし」
後で薬代を請求されるかも、と苦笑交じりにヴェルディラは呟いた。
「この薬って……」
「擬似血液剤、言ってただろう」
「……聞いたけど、如何してこんな物があるの」
ヴェルディラは呆れたようにヴィオーラを見詰めた。
「必要だからじゃないか」
「そうじゃなくてっ。擬似血液剤があるなら、如何して今まで……」
「材料が特殊すぎるからだよ」
さっきも言っていたと、ヴィオーラは思い当たる。
「元々は吸血族の毒を研究している時にフィネイがシオンの為に考えた物なんだ」
シオンの為、とは如何いうことなのだろうか。
吸血族が複数の命を一度に体内に宿すと、一日に摂取する血液の食事の回数が増える。だが、シオンは薔薇である為、受け付ける血液はアレンの血液だけだ。そうなればシオンだけではなく、アレンの体にも負担になり、最悪、二人で共倒れになる。
シオンが双子を宿した時、フィネイが吸血族の毒について調べ始めた時だった。その時、一緒に採集した血液についても調べたのだ。少しでも二人の負担を軽くする為に、フィネイとトゥーイが作り出した特殊な薬だ。
「それに、吸血族の男性は毎日、血液を摂取すると中毒になるらしい」
「中毒っ」
ヴェルディラの言葉に、ヴィオーラは驚愕した。血液に対して多くの知識を与えられたヴィオーラだが、それについては聞いていなかった。
「出産後、貧血ではあったけど、元の性別に戻るとシオンが毎日血液の食事が出来なくなる。中毒になるのを防ぐのに、この薬を使ったんだよ」
ヴェルディラの話にヴィオーラは納得した。つまり、本来は貧血を起こしたままなのだろう。それを誤魔化す為の薬だと言う事だ。
「アレンに言われた事を守れよ。苦しみたくなかったら」
ヴィオーラは握り締めている小瓶に視線を落とす。少しずつ喉の渇きを覚えるようになっていた。元々、我慢強いヴィオーラだ。だから、今の状態ならばまだ、耐えられる。
「我慢は後々、辛くなる。薔薇の主治医の言葉を蔑ろにするな」
「そんなつもりは……っ」
ヴィオーラは慌てて視線をヴェルディラに戻した。
「みんな、お前の性格を理解してるんだ」
ヴィオーラはその言葉に、小さく頷いた。これからどうなるかなど、全く分かっていないのだ。
月が満ち欠けを繰り返し、アレンから薬を貰って二ヶ月程経った。ツキリと体に走った痛みに、ヴィオーラは息を飲んだ。満月を目前に控え、恐れていた体の準備が整った証拠だ。
絶対、変化するとは決まっていない。そう思うのに、ヴィオーラは薔薇に対する知識を持ち過ぎていた。母親が薔薇では、嫌でも情報は入ってくる。口外する事を禁止されはしても、彼の中に蓄積されている記憶の引き出しが、次々と薔薇となる者の特徴を引き出す。
変化は痛みと共にやって来る。
ヴィオーラは嫌という程耳にしたし、変化する過程もしっかりと視界に収めている。男の体から、完全な女の体に変化する。その過程で、最も目に見えた変化を遂げるのは髪だ。背を流れるように一気に伸びる。だが、満月が隠れると伸びた髪は霧のように消える。性別も元の性にもどる。
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そして、最も重要なことを思い出す。アレンはヴィオーラに対して言っていた事がある。成人年齢に達し、ヴィオーラの姿を見た時に言ったのだ。
お前は華奢なまま成人したな。
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その考えに思い至り、ヴィオーラは愕然とした。
黄薔薇の娘のシンシアと並んでも、身長的に大差はない。引っ込み思案なヴィオーラをシンシアは異性として見なかった。それどころか、女友達感覚だ。シンシア本人が言っていたので間違いない。
アレンはヴィオーラが変化することを知っていたのではないだろうか。あの日、ファジュラ一人が呼び出されたのは、変化することを教える為だったのではないか。だから、あの薬を事前に用意出来た。そうでなくてはおかしいのだ。
心臓がキュウっと絞られたような痛みを感じた。
何より、ファジュラはセレジェイラが怪我を負った時、ヴィオーラに手当をさせた。それは、事前に聞いていたからだ。本来ならば、相手のいる吸血族の大人か、使用人の他種族の者に任せただろう。
あえて、ヴィオーラに任せたのは、遅かれ早かれセレジェイラの血液を取り込むという確証があったからだ。
ギュッと体をきつく抱き締めた。どんなに否定したくとも、否定出来ない条件が揃い過ぎていた。もし、満月の光に変化しなければ、ただの渇きだと証明される。
そうであってもらいたいと、ヴィオーラは切実に願った。
月は満ち始め、着実に魔力を強くしていく。それに合わせるように、体が強い痛みをヴィオーラに与え始めた。ヴィオーラが取り込んだ血液は微量だ。勘違いで済ませたいと感じる程の、勘違いだと思い込みたいほどの量だ。
館内の空気が動き出す。太陽が姿を隠し、紫紺が空を覆ったのだ。光り輝く星々と、強い魔力を帯びた月が空を彩る。ゆっくりと緩慢に動き、何とか窓際まで移動する。
吸血族の館は、月が昇る方角に窓を作る。生まれたての月は強い魔力を持っており、それを取り込む事が重要だからだ。
だから、ヴィオーラは祈るような思いで、カーテンに手を掛けた。窺うようにゆっくりとカーテンを開ける。
月の淡い光が鋭く肌に突き刺さった。こんな感覚をヴィオーラは感じたことはなかった。月は何時も優しく淡い暖かな光を降り注いでくれた。それなのに、その光は痛みと熱をヴィオーラに与えた。痛いなどという感覚ではない。
正確には熱いだった。体の中に灼熱の棒を突っ込まれ、かき回されたような感覚だ。
耐えられず、足が力を失い、へたり込んだ。呼吸が整わない。体の中から不気味な音がする。本来なかったモノが強い魔力に反応しヴィオーラの中に作られる。痛さに苦しさに耐えるように強く体を掻き抱く。ドクリッと強い脈の音を耳の奥で聞き、瞬間起こった有り得ない劇的な変化。薔薇達の変化を見てきたヴィオーラには、それが当たり前の事であると判っていた。
波打つ紫色が視界いっぱいに広がる。恐る恐る、両手を視界に収めた。今までの筋張った手ではない。うっすら脂肪に覆われた、柔らかそうな肌。青白い事には変わらないが、肌だけで性別の変化を実感出来た。
そして、その変化が偽り続けていた想いを露呈させた。考えないようにしていた想いだ。
「ヴィー……」
その声に驚き、ヴィオーラは慌てて視線を声の方に向けた。フワリと流れる青銀髪。
「……母さ……っ」
ヴィオーラは両の眼に涙を浮かべた。
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