6 / 40
Ⅱ 銀月蝶
一章
しおりを挟む
父親の使い魔が知らせてきたのは、叔父であるベンジャミンの《婚礼の儀》の招待だった。
薄暗いテントの中で、茶の髪を肩の辺りで切り揃え、琥珀の瞳をしたシアンが、小さく溜め息を吐いた。本当なら、夫であるゼインと出席したかったのだが、それは叶わないだろう。
今時期は色々と忙しいことを知っているし、何より、銀狼達がシアンとゼインが一緒にいることを嫌がっている節があるからだ。理由は判っている。
シアンとゼインは吸血族の中で育ち、しかも、ゼインの父親は銀狼の申し子と言われたゼロスだ。
加えて、ゼインの容姿は始祖であるレイの色を写し取っている。
銀狼族は皆、銀髪と碧の瞳で、肌は褐色。シアンのように、銀狼でありながら、茶髪と琥珀の瞳、白い肌の者は居ない。つまり、異質なのだ。
シアンは腹部に両手を添えた。一人でなら耐えていけただろう。だが、銀狼族のコロニーに居ては、宿った命を健やかに育むのは無理だ。
女性達の心無い言葉も、態度も、やり過ごせば何とかなるが、宿った命のせいなのか、神経が過敏になっているようだった。
ゼインに話せば、《婚礼の儀》ならば、側を離れることを許してくれるだろう。だが、シアンは決意した。両親の元に戻り、子供を産む。その後は、銀狼族のコロニーに戻っては来ない。
シアンが居なくなれば、ゼインも新たに妻となる者を娶るだろう。基本的に、族長一族は一夫多妻だ。血筋を確実に残すために。
だが、ゼインは頑なにシアン以外の妻を娶ろうとはしなかった。それが、更に、シアンを窮地に追い込んでいたのだ。
二代続けて、一人の妻しか持たない。
義父であるゼロスは特殊な存在で、その資質をゼインは色濃く継いでしまった。ゼインだけではなく、双子の弟のカルヴァスもそうだった。
一言で言えば、一途なのだと思う。
だが、何もない振りで居続けるのは困難だった。ゼインを想っているからこそ、何も言わずに離れるのだ。全てを隠し、ただ、我が儘を通したと思われるように。
全ては宿った命のため。ゼインから離れるのは、自分のためであり、銀狼族のためでもあった。銀狼族が異質な者を受け入れないのは、無意識の防衛本能なのだろう。
無事、子が生まれたら、銀狼族に託す。自分のような思いをさせたくない。
そして、願うこと……。
どうか、銀狼族の色で生まれますように。決して、自分の色を継ぎませんように。
何故、吸血族で育てられるようになったのか。その理由をシアンは知らない。通常であれば、銀狼として誕生した命は、銀狼族に託される。それなのに、シアンとゼインは吸血族の両親の元で育ったのだ。
もし、幼いときに、この仕打ちを受けたなら、耐えられなかっただろう。
多種多様な色を持つ吸血族ですら、色はからかいの対象になる。そう考えれば、銀狼族が確定してしまっている色以外の銀狼を、受け入れがたく感じるのは仕方ない。
せめて、銀狼族の女性が普通にこなす仕事を一つでもさせてもらえれば、まだ、希望ももてた。それすらも奪われ、ただ、与えられたテント内に居るだけの生活。食事もゼインが居るときだけ摂取出来るという、特殊な環境。
妊娠すれば、きちんと栄養を摂取しなければ大変なことになる。シアンだけの問題ではなく、体内の命も危険に晒す。
だから、離れるのだ。
父親であるアレンに連絡をいれるために、使い魔を送る。今思えば、銀狼族の元にゼインと赴くとき、アレンが言った言葉が理解出来る。
――辛かったら、帰ってきたらいい。無理をする必要はない。
周りの者を驚かせていたが、アレンは普通の存在ではない。その言葉に意味があることは理解出来ても、核心に迫る内容を口に乗せないので、結局は、理解するのにかなりの時間をようする場合が多い。
アレンがシアンに贈った言葉は、逃げ道だったのだ。
判っていたのだ。シアンが銀狼族の元に行った後の生活を。そうでなければ、言う筈はない。
シアンは俯き、一粒、涙が頬を伝った。遠く近く蘇る記憶。銀狼の始祖であったレイとの、束の間の時間。内に多くのモノを抱えてはいたが、優しい人だった。吸血族の姿を映した存在だった。
だから、安心してしまったのだ。レイの時代と、今は違うのだと。確定した色を持つ、今の銀狼と、色を持たなかった昔の銀狼。これは切っ掛けにすぎないのだろう。少しずつ変わっていくが、それは今ではない。
†††
「ベンジャミンが」
帰宅したゼインに、次の満月の日、ベンジャミンとルーチェンの《婚礼の儀》があることを告げた。勿論、出席したいのだと言った。
「俺も出席したいんだけど、今は時期的に無理だな」
予想通りの答えが返ってきた。
「ルーの成長が止まったんだな」
着替えを手伝いながら、相づちを打つ。シアンとゼインが銀狼族のコロニーに赴く少し前、ベンジャミンがルーチェンを拉致してきたことは記憶に新しい。
「駄目だとは言えないし、気持ちも判るしな」
ゼインはシアンに笑みを見せた。
「でも、次の満月って、早くないか」
「仮の婚約を十年前からしてるし、色々、ゴタゴタしてるから、黒の長様が収拾したいらしくて」
黒薔薇の主治医の後継者に、紅薔薇の娘では、周りが黙っていないのだろう。
「何時」
行くのだと、ゼインは訊いてきた。
「準備が大変だと思うから、明日にでも」
シアンは内心を隠しつつ、そう口にした。予定外に早い《婚礼の儀》はある意味、シアンにとって、都合がよかったのだ。
「少しの間、離れるのか」
ゼインが少し、寂しげに呟いた。だが、シアンは少しではないのだと、心の中で叫ぶ。余程のことがなければ、会うことも、姿を見ることもないだろう。
「どうかしたのか」
ぼんやりとしているシアンに、ゼインが首を傾げる。シアンは慌てて、取り繕った。
「何でもないの。両親や妹達に会うのも久し振りだし。祖父母も元気にしてるかなぁ、って」
ゼロスは定期的に銀狼のコロニーに来ているので会えるが、ゼインの母親のカイファスや幼馴染みに会えるのが楽しみで、少し意識が向こうに飛んだのだと。
†††
「本気で言っているのか」
シアンの口から発せられた言葉に、前族長は困惑を露わにした。
「もう、戻ってきません」
きっぱりと言い切った。流石に黙って居なくなるのは無責任だ。理由を告げておく必要はあったが、ゼインに言うわけにはいかなかった。
「……耐えられなかったのか」
銀狼族の女性達の仕打ちに、と前族長は顔を曇らせた。しかし、シアンは首を横に振った。違うというのだ。前族長は訝しんだ。
「私一人なら、ゼインの側に居続けたと思います」
そう言うと、徐に両手でお腹を包み込むように、自身を抱き締めた。前族長は目を見開く。
「私だけなら、一日一回の食事であったとしても問題ありません。でも、この子には栄養と、何より安らげる場所が必要なんです」
銀狼族の元にいては、シアンの気が休まらない。そうなれば、体内の命に負担を強いることになる。そんなことは、許せる筈もない。
「子供か」
シアンは頷いた。前族長は軽く腰を上げた。
前族長は溜め息を吐き、上げた腰を落ち着けた。シアンは吸血族の医者の家系。勘違いということはないだろう。
「何故、戻らない」
出産を終えた後、赤子と共に戻ってきてもよいではないか。前族長にとって、ゼイン同様、シアンは孫に匹敵する存在だ。それに、子供と共に戻れば、銀狼族全体の見方も変わるだろう。
「私が居ては、お祖父様にも小父様にも、負担をかけます」
銀狼族にとって、薔薇の血筋は族長一族のみと思っているのだ。来たばかりの頃、そう吐き捨てる銀狼達が居た。
「この子は生まれたら、ゼロスお義父さんに託します。手元で育てることはしませんから、安心して下さい」
憂いを帯びた表情が痛々しかった。
「ご両親は何と言うか」
「少なくとも父は、私が戻ることを前々から知っています」
そうでなくては、結婚し旅立つ娘に、帰ってきてもいいなど、言う筈はない。事前に視えていたからの言葉だったのだろう。
前族長は眉を顰めた。父親が娘が戻ることを知っている。その事実が、信じられなかった。アレンに月読みの力があることは秘密なのだから、当然の反応だ。
「ですから、満月が過ぎたら、ゼインに伝えて下さい。新たに妻を娶るように。私は、余程でない限り、この地に足を踏み入れることはありません」
前族長はシアンを凝視した。その姿は、銀狼達が身に着ける服ではない。シアンがこの地に赴いたときに身に着けていた物だった。
「彼奴はゼロスの息子だ。資質を受け継いでいるだろう。それでも、それを言うのか」
シアンは寂しげに微笑んだ。たとえそうだとして、銀狼族のコロニーに居続ければ、立場上、そうしなければならなくなるだろう。
お腹に宿った子が、もし、幸運にも銀狼特有の色を宿して生まれてきたら、シアンの子だとは伝えてもらいたくない。だから、祈っているのだ。ゼロスの色を受け継ぎ、生まれてきてほしいと。シアンの持つ、両親から受け継いだ色を宿していませんようにと。
それを聞いた前族長は眉を顰めた。そこまで、自分を消そうとしているのか。シアンの体内に宿っている子は、二つの薔薇の血筋だ。その事実も、秘密にしようとしているのだろうか。それは、あってはならないことだ。
「ゼインに伝えてはやる。だがな、その子の両親が誰なのかは、銀狼達に伝える」
シアンは目を見開いた。
「お前の両親、まあ、父親だが、お前は本来なら吸血族として生まれてくる筈だったと聞いている。我々のために種族を違え生まれてきてくれた存在を、蔑ろにしたのは、我が部族だ」
前族長はいったん言葉を切った。
「だが、俺にとって、お前は孫も同然。二度と足を踏み入れないなどと、言ってくれるな」
シアンは瞳が熱くなり、鼻に痛みが走った。
「もう、行くのか」
沈黙の後、前族長は言った。シアンは小さく頷く。ゼインには、今日、出発すると伝えてある。だから、当分は気が付かない筈だ。
「ゼインには、ベンジャミンとルーの《婚礼の儀》の準備を手伝いたいから、今日、出発すると伝えてあります」
これは嘘ではない。後で別口で確認されたとしても、同じ答えを得られる筈だ。
「こんな事を言うのは間違えているけれど、離れる口実が出来る。そう、思ってしまったんです」
離れたくないのが本音だ。
物心つく頃には、ゼインは何時も側にいた。引かれ合うのも自然だった。吸血族の中で、二人は銀狼であったが、差別的扱いを受けたことはない。
それは両親や祖父母、周りの大人達が気を使ってくれていたからなのだろう。負い目や、違和感を感じないように。
銀狼族の中に身を置き、如何に自分とゼインが特異な存在であったかを知った。銀狼として誕生した者は、親元を離なれ、銀狼の中で育つ。その事実を、シアンは知らなかったのだ。
シアンとゼインの違いは、その血筋だ。
ゼインは銀狼族長の一族で、父親であるゼロスは母親の元に婿養子に入っている。しかし、その血筋は祖を同じくする銀狼の始祖だ。つまり、直系の子孫になる。
シアンは吸血族の黒薔薇の部族の主治医の家系で、銀狼族に近い、月華を血筋に持つ。祖母であるジゼルも月華だ。
だが、銀狼族にとって、必要で大切なのは族長一族に脈々と受け継がれる薔薇の血筋。同じ薔薇の血筋でも、族長一族とその他では、銀狼達の感じ方も、扱いも変わってしまうのだろう。
†††
シアンが銀狼のコロニーを離れ、黒薔薇の部族の敷地内に着いたのは、夜になる少し前だった。太陽が赤い色を纏い、山間に沈んでいく。それに合わせるように、空が紫紺に染まり、太陽の光で霞んでいた星々が空を飾る。
ゆっくりと空から懐かしい館の玄関前に降り立った。
「戻ってきたんだな」
少し控え目の声が、シアンの耳に届いた。玄関前に居たのは父親のアレン。
「……怒らないの」
シアンは伺うように、問い掛けた。
「怒りたいところだが、仕方ないからな」
アレンは嘆息すると、シアンが持っていた荷物を手に取った。態度でついて来るように促す。
「体調は」
「大丈夫。気持ち悪くもないし」
アレンが入っていった部屋は、診察室を兼ねている、仕事部屋だった。そこにはファジールの姿がある。
「どうして、此処に来たかは判ってるな」
振り返り、シアンを見詰めたアレンの言葉に、小さく頷いた。父親と祖父が妊娠に対して、慎重になることは知っている。
一通り調べてもらい、問題がなかったのか、二人は安堵の息を吐き出した。
「お前のことだ。ゼインには内緒にして、ゼロスの親父さんに事情を説明して来たんだろうな」
アレンが呆れたように吐き出す。
「事前に知っていたんじゃないのか」
ファジールが驚いたように、アレンを見た。
「勘違いしているようだから訂正しておく。月読みの力は近しい者を正確には視れないんだよ」
あくまで、漠然としたものしか判らないと、アレンは言ったのだが、ファジールは半眼になる。
「今日来るのだって、事前に連絡があったから、判っただけだ」
アレンの力は意識して使えるものではない。無意識に情報を引き出しているのだ。
「本当に、戻らないんだな」
アレンはシアンを凝視し、確認してきた。シアンは小さく頷く。
「後悔はしないんだな」
「しないわ。するくらいなら、最初からゼインに話してる」
アレンとファジールは顔を見合わせ、溜め息を吐いた。ゼロスには聞いていたが、シアンの姿が銀狼族の中で、どういった扱いを受けていたのか、如実に表していたからだ。
最後に見た姿よりも、痩せた体。銀狼族なら、太陽が在るうちに行動している筈だ。それなのに、青白い肌。
「お母さん達は」
「薔薇園にいる」
ファジールは諦めたように小さく首を振った。
「行くのはいいが、無理はするなよ。後で食事を運ばせる」
アレンの言葉に、シアンは複雑な表情を見せた。喉元に右手を持って行き、軽く押さえたのだ。
「判ってる。体が驚かないように、徐々に量を増やしていく」
「シアンのためだけじゃない。判るな」
アレンとファジールに畳みかけるように言われ、頷くしかなかった。
「後、うちに帰ってきたからには、飛んでの移動は禁止だ。部屋は離れに前のまま残してある」
シアンは目を見開いた。部屋が残っていると、アレンが言ったからだ。
「荷物は運んでおくが、帰るときは声を掛けろ。連れて行ってやる」
シアンは頷くと、静かに部屋を出て行った。その姿を見送り、父親と祖父は脱力したように、体から力が抜けた。
「あそこまでとはな」
アレンは痛ましげに顔を歪めた。
「ゼロスから、か」
「そうだ」
ファジールはシアンが消えていった扉を凝視していた。
「ゼロスとカイファスに連絡するか」
後で五月蠅いと、アレンは肩を竦めた。
「そうしろ」
「判っていたとはいえ、複雑なもんだ」
アレンはシアンの荷物を片手に、部屋を出て行った。ファジールはアレンの言葉を思い出していた。シアンを銀狼族に送り出すときに、言っていた言葉だ。
もし、あの言葉がなければ、シアンは帰ってこなかっただろう。そして、気が付いたときには、手遅れになっていだだろう。
銀狼族の特殊性は理解していても、孫を思う祖父としては、許せる筈もなかった。
†††
シアンは久し振りに薔薇園に足を踏み入れた。懐かしい感覚。瑞々しい薔薇の香りと、水分を含んだ空気。しっとりとシアンを包み込んだ。
お腹の子は吃驚しているかもしれない。乾燥し、水分が乏しい地域でこの子は生まれた。太陽を味方に、月を揺りかごに眠る場所だった。
この場所は幻想的で、心が落ち着いた。幼いときは、薔薇園を遊び場にしていた。幼馴染み達と、ただ、飽きもせずに遊んだ。なんの憂いもなかった。ただ、大人達に見守られ、自由でいられた。
どうして、こんな事になったのだろう。何かを過剰に求めたつもりはない。銀狼族の元に身を置くことは、幼いときから決まっていた。定期的に、ゼロスに連れられ、銀狼族のコロニーにも行っていた。
それでも、銀狼族はシアンを受け入れてはくれなかった。ただ、見た目が銀狼ではないからと。
シアンが考えに没頭していると、不意に右手を誰かに掴まれた。驚き顔を向けると、そこにあるのは、独特の金の巻き髪と緑の瞳。
「……セイラ」
セイラは満面の笑みを、シアンへ向けた。
セイラに手を引かれるまま歩く。此処は何も変わっていない。時折、柔らかな風が吹く。悪戯に吹く風に、薔薇達が踊る。
「お帰り」
シアンが手を引かれて来るのを待っていたシオンが、穏やかに微笑みながら四阿のベンチに導いた。
「アレンもこうなるのが判っていたんなら、止めてくれたらよかったのに」
シオンは愚痴る。だが、シアンは首を横に振った。シアンだけならば、それも可能だっただろう。だが、ゼインはどうあっても、銀狼族に戻らなくてはならなかった。
「何時聞いたの」
「昨日だよ。シアンは帰らないから、部屋を使えるようにしておけ、って」
確かに少しおかしいとは思っていたようだ。普通なら、独身前に使っていた部屋は、片付けるだろう。だが、アレンは埃除けの布を被せるだけの指示をし、後はそのままにしておくように言ったのだ。
シオンとしては、理由を訊きたかったのだが、アレンは困ったような笑みを向けるだけで、答えてはくれなかった。
「今、何ヶ月」
ジゼルがシアンの顔をのぞき込んできた。
「……二ヶ月に入ったと思う」
「安定期前よ。よく無事だったわ」
それは、空を駆けてきたことを行っているようだ。確かに、不安はあったが、あの場所はお腹の子によくない。シアンが不安定になれば、影響が出るからだ。
「……それでも、離れなきゃって思ったの」
シオンとジゼルは顔を見合わせた。姿を見れば、正確にはどういった扱いを受けていたかは判らなくとも、漠然とは判るものだ。
青白い肌が異様なように思えた。此処で生活していた頃のような、健康的な肌色ではない。
「だから、赤は嫌っ」
本館の方から上がった声に、シオンとジゼルは苦笑いをした。何も事情を知らないシアンは怪訝な表情だ。
「……今の声って」
「ルーだよ」
シオンは嘆息する。
「長様達が、薔薇の子の衣装は、親の色に決めちゃったらしくって」
大騒ぎをしながら歩いてくるのは、ルーチェンとベンジャミンだ。
「素晴らしい衣装でしょう」
「素晴らしかろうが、私は黒薔薇の部族なのよっ」
どうにも、納得していないようだ。
「長達に逆らえないんでしょう」
「だから、ベンジャミンから黒の長様に言ってよっ」
ところが、ベンジャミンは害のなさそうな微笑み向けた。
「僕は赤で問題ないし、進言する必要もないでしょう」
面っと言ってのけた。相変わらずな二人のやりとりに、シアンは笑うしかない。ベンジャミンの微笑み攻撃に、ルーチェンが勝てる筈はない。
「シオンさん。何とか言ってよっ」
走り込みながら、ルーチェンはシオンに訴えるが、訴える者を間違えている。
「僕に相談されても無理」
何よりルビィがノリノリなのだ。
「おめでとう」
シアンはルーチェンを見上げ、そう、口にした。ルーチェンは驚いたように視線を向け、シアンが居ることに漸く気が付いたようだ。
「何時帰ってきたの」
「今さっき。赤でも良いんじゃない」
シアンの意見に、ルーチェンは眉間に皺を寄せる。色に違和感があるのもあるが、用意された衣装は、あまりにも凄い物だったからだ。ウエストからスカートがふんわりと広がる。それに文句があるのではない。
「衣装を見てないから、言えるのよっ」
ルーチェンは尚も言い募るが、後ろからベンジャミンが諦めるように諭している。此処は変わらない。変わってしまったのは自分なのだと、シアンは気付かれないように溜め息を吐いた。
銀狼族を離れ、ゼインから決別し、これから待っているのは一人の生活だ。無事、出産を終えたら、この場所からも出て行こう、と心に決めていた。
心配し、何かと心を砕いてくれる存在達に甘えてばかりはいられない。せめて、自立しなくてはと、シアンは身を引き締めた。
薄暗いテントの中で、茶の髪を肩の辺りで切り揃え、琥珀の瞳をしたシアンが、小さく溜め息を吐いた。本当なら、夫であるゼインと出席したかったのだが、それは叶わないだろう。
今時期は色々と忙しいことを知っているし、何より、銀狼達がシアンとゼインが一緒にいることを嫌がっている節があるからだ。理由は判っている。
シアンとゼインは吸血族の中で育ち、しかも、ゼインの父親は銀狼の申し子と言われたゼロスだ。
加えて、ゼインの容姿は始祖であるレイの色を写し取っている。
銀狼族は皆、銀髪と碧の瞳で、肌は褐色。シアンのように、銀狼でありながら、茶髪と琥珀の瞳、白い肌の者は居ない。つまり、異質なのだ。
シアンは腹部に両手を添えた。一人でなら耐えていけただろう。だが、銀狼族のコロニーに居ては、宿った命を健やかに育むのは無理だ。
女性達の心無い言葉も、態度も、やり過ごせば何とかなるが、宿った命のせいなのか、神経が過敏になっているようだった。
ゼインに話せば、《婚礼の儀》ならば、側を離れることを許してくれるだろう。だが、シアンは決意した。両親の元に戻り、子供を産む。その後は、銀狼族のコロニーに戻っては来ない。
シアンが居なくなれば、ゼインも新たに妻となる者を娶るだろう。基本的に、族長一族は一夫多妻だ。血筋を確実に残すために。
だが、ゼインは頑なにシアン以外の妻を娶ろうとはしなかった。それが、更に、シアンを窮地に追い込んでいたのだ。
二代続けて、一人の妻しか持たない。
義父であるゼロスは特殊な存在で、その資質をゼインは色濃く継いでしまった。ゼインだけではなく、双子の弟のカルヴァスもそうだった。
一言で言えば、一途なのだと思う。
だが、何もない振りで居続けるのは困難だった。ゼインを想っているからこそ、何も言わずに離れるのだ。全てを隠し、ただ、我が儘を通したと思われるように。
全ては宿った命のため。ゼインから離れるのは、自分のためであり、銀狼族のためでもあった。銀狼族が異質な者を受け入れないのは、無意識の防衛本能なのだろう。
無事、子が生まれたら、銀狼族に託す。自分のような思いをさせたくない。
そして、願うこと……。
どうか、銀狼族の色で生まれますように。決して、自分の色を継ぎませんように。
何故、吸血族で育てられるようになったのか。その理由をシアンは知らない。通常であれば、銀狼として誕生した命は、銀狼族に託される。それなのに、シアンとゼインは吸血族の両親の元で育ったのだ。
もし、幼いときに、この仕打ちを受けたなら、耐えられなかっただろう。
多種多様な色を持つ吸血族ですら、色はからかいの対象になる。そう考えれば、銀狼族が確定してしまっている色以外の銀狼を、受け入れがたく感じるのは仕方ない。
せめて、銀狼族の女性が普通にこなす仕事を一つでもさせてもらえれば、まだ、希望ももてた。それすらも奪われ、ただ、与えられたテント内に居るだけの生活。食事もゼインが居るときだけ摂取出来るという、特殊な環境。
妊娠すれば、きちんと栄養を摂取しなければ大変なことになる。シアンだけの問題ではなく、体内の命も危険に晒す。
だから、離れるのだ。
父親であるアレンに連絡をいれるために、使い魔を送る。今思えば、銀狼族の元にゼインと赴くとき、アレンが言った言葉が理解出来る。
――辛かったら、帰ってきたらいい。無理をする必要はない。
周りの者を驚かせていたが、アレンは普通の存在ではない。その言葉に意味があることは理解出来ても、核心に迫る内容を口に乗せないので、結局は、理解するのにかなりの時間をようする場合が多い。
アレンがシアンに贈った言葉は、逃げ道だったのだ。
判っていたのだ。シアンが銀狼族の元に行った後の生活を。そうでなければ、言う筈はない。
シアンは俯き、一粒、涙が頬を伝った。遠く近く蘇る記憶。銀狼の始祖であったレイとの、束の間の時間。内に多くのモノを抱えてはいたが、優しい人だった。吸血族の姿を映した存在だった。
だから、安心してしまったのだ。レイの時代と、今は違うのだと。確定した色を持つ、今の銀狼と、色を持たなかった昔の銀狼。これは切っ掛けにすぎないのだろう。少しずつ変わっていくが、それは今ではない。
†††
「ベンジャミンが」
帰宅したゼインに、次の満月の日、ベンジャミンとルーチェンの《婚礼の儀》があることを告げた。勿論、出席したいのだと言った。
「俺も出席したいんだけど、今は時期的に無理だな」
予想通りの答えが返ってきた。
「ルーの成長が止まったんだな」
着替えを手伝いながら、相づちを打つ。シアンとゼインが銀狼族のコロニーに赴く少し前、ベンジャミンがルーチェンを拉致してきたことは記憶に新しい。
「駄目だとは言えないし、気持ちも判るしな」
ゼインはシアンに笑みを見せた。
「でも、次の満月って、早くないか」
「仮の婚約を十年前からしてるし、色々、ゴタゴタしてるから、黒の長様が収拾したいらしくて」
黒薔薇の主治医の後継者に、紅薔薇の娘では、周りが黙っていないのだろう。
「何時」
行くのだと、ゼインは訊いてきた。
「準備が大変だと思うから、明日にでも」
シアンは内心を隠しつつ、そう口にした。予定外に早い《婚礼の儀》はある意味、シアンにとって、都合がよかったのだ。
「少しの間、離れるのか」
ゼインが少し、寂しげに呟いた。だが、シアンは少しではないのだと、心の中で叫ぶ。余程のことがなければ、会うことも、姿を見ることもないだろう。
「どうかしたのか」
ぼんやりとしているシアンに、ゼインが首を傾げる。シアンは慌てて、取り繕った。
「何でもないの。両親や妹達に会うのも久し振りだし。祖父母も元気にしてるかなぁ、って」
ゼロスは定期的に銀狼のコロニーに来ているので会えるが、ゼインの母親のカイファスや幼馴染みに会えるのが楽しみで、少し意識が向こうに飛んだのだと。
†††
「本気で言っているのか」
シアンの口から発せられた言葉に、前族長は困惑を露わにした。
「もう、戻ってきません」
きっぱりと言い切った。流石に黙って居なくなるのは無責任だ。理由を告げておく必要はあったが、ゼインに言うわけにはいかなかった。
「……耐えられなかったのか」
銀狼族の女性達の仕打ちに、と前族長は顔を曇らせた。しかし、シアンは首を横に振った。違うというのだ。前族長は訝しんだ。
「私一人なら、ゼインの側に居続けたと思います」
そう言うと、徐に両手でお腹を包み込むように、自身を抱き締めた。前族長は目を見開く。
「私だけなら、一日一回の食事であったとしても問題ありません。でも、この子には栄養と、何より安らげる場所が必要なんです」
銀狼族の元にいては、シアンの気が休まらない。そうなれば、体内の命に負担を強いることになる。そんなことは、許せる筈もない。
「子供か」
シアンは頷いた。前族長は軽く腰を上げた。
前族長は溜め息を吐き、上げた腰を落ち着けた。シアンは吸血族の医者の家系。勘違いということはないだろう。
「何故、戻らない」
出産を終えた後、赤子と共に戻ってきてもよいではないか。前族長にとって、ゼイン同様、シアンは孫に匹敵する存在だ。それに、子供と共に戻れば、銀狼族全体の見方も変わるだろう。
「私が居ては、お祖父様にも小父様にも、負担をかけます」
銀狼族にとって、薔薇の血筋は族長一族のみと思っているのだ。来たばかりの頃、そう吐き捨てる銀狼達が居た。
「この子は生まれたら、ゼロスお義父さんに託します。手元で育てることはしませんから、安心して下さい」
憂いを帯びた表情が痛々しかった。
「ご両親は何と言うか」
「少なくとも父は、私が戻ることを前々から知っています」
そうでなくては、結婚し旅立つ娘に、帰ってきてもいいなど、言う筈はない。事前に視えていたからの言葉だったのだろう。
前族長は眉を顰めた。父親が娘が戻ることを知っている。その事実が、信じられなかった。アレンに月読みの力があることは秘密なのだから、当然の反応だ。
「ですから、満月が過ぎたら、ゼインに伝えて下さい。新たに妻を娶るように。私は、余程でない限り、この地に足を踏み入れることはありません」
前族長はシアンを凝視した。その姿は、銀狼達が身に着ける服ではない。シアンがこの地に赴いたときに身に着けていた物だった。
「彼奴はゼロスの息子だ。資質を受け継いでいるだろう。それでも、それを言うのか」
シアンは寂しげに微笑んだ。たとえそうだとして、銀狼族のコロニーに居続ければ、立場上、そうしなければならなくなるだろう。
お腹に宿った子が、もし、幸運にも銀狼特有の色を宿して生まれてきたら、シアンの子だとは伝えてもらいたくない。だから、祈っているのだ。ゼロスの色を受け継ぎ、生まれてきてほしいと。シアンの持つ、両親から受け継いだ色を宿していませんようにと。
それを聞いた前族長は眉を顰めた。そこまで、自分を消そうとしているのか。シアンの体内に宿っている子は、二つの薔薇の血筋だ。その事実も、秘密にしようとしているのだろうか。それは、あってはならないことだ。
「ゼインに伝えてはやる。だがな、その子の両親が誰なのかは、銀狼達に伝える」
シアンは目を見開いた。
「お前の両親、まあ、父親だが、お前は本来なら吸血族として生まれてくる筈だったと聞いている。我々のために種族を違え生まれてきてくれた存在を、蔑ろにしたのは、我が部族だ」
前族長はいったん言葉を切った。
「だが、俺にとって、お前は孫も同然。二度と足を踏み入れないなどと、言ってくれるな」
シアンは瞳が熱くなり、鼻に痛みが走った。
「もう、行くのか」
沈黙の後、前族長は言った。シアンは小さく頷く。ゼインには、今日、出発すると伝えてある。だから、当分は気が付かない筈だ。
「ゼインには、ベンジャミンとルーの《婚礼の儀》の準備を手伝いたいから、今日、出発すると伝えてあります」
これは嘘ではない。後で別口で確認されたとしても、同じ答えを得られる筈だ。
「こんな事を言うのは間違えているけれど、離れる口実が出来る。そう、思ってしまったんです」
離れたくないのが本音だ。
物心つく頃には、ゼインは何時も側にいた。引かれ合うのも自然だった。吸血族の中で、二人は銀狼であったが、差別的扱いを受けたことはない。
それは両親や祖父母、周りの大人達が気を使ってくれていたからなのだろう。負い目や、違和感を感じないように。
銀狼族の中に身を置き、如何に自分とゼインが特異な存在であったかを知った。銀狼として誕生した者は、親元を離なれ、銀狼の中で育つ。その事実を、シアンは知らなかったのだ。
シアンとゼインの違いは、その血筋だ。
ゼインは銀狼族長の一族で、父親であるゼロスは母親の元に婿養子に入っている。しかし、その血筋は祖を同じくする銀狼の始祖だ。つまり、直系の子孫になる。
シアンは吸血族の黒薔薇の部族の主治医の家系で、銀狼族に近い、月華を血筋に持つ。祖母であるジゼルも月華だ。
だが、銀狼族にとって、必要で大切なのは族長一族に脈々と受け継がれる薔薇の血筋。同じ薔薇の血筋でも、族長一族とその他では、銀狼達の感じ方も、扱いも変わってしまうのだろう。
†††
シアンが銀狼のコロニーを離れ、黒薔薇の部族の敷地内に着いたのは、夜になる少し前だった。太陽が赤い色を纏い、山間に沈んでいく。それに合わせるように、空が紫紺に染まり、太陽の光で霞んでいた星々が空を飾る。
ゆっくりと空から懐かしい館の玄関前に降り立った。
「戻ってきたんだな」
少し控え目の声が、シアンの耳に届いた。玄関前に居たのは父親のアレン。
「……怒らないの」
シアンは伺うように、問い掛けた。
「怒りたいところだが、仕方ないからな」
アレンは嘆息すると、シアンが持っていた荷物を手に取った。態度でついて来るように促す。
「体調は」
「大丈夫。気持ち悪くもないし」
アレンが入っていった部屋は、診察室を兼ねている、仕事部屋だった。そこにはファジールの姿がある。
「どうして、此処に来たかは判ってるな」
振り返り、シアンを見詰めたアレンの言葉に、小さく頷いた。父親と祖父が妊娠に対して、慎重になることは知っている。
一通り調べてもらい、問題がなかったのか、二人は安堵の息を吐き出した。
「お前のことだ。ゼインには内緒にして、ゼロスの親父さんに事情を説明して来たんだろうな」
アレンが呆れたように吐き出す。
「事前に知っていたんじゃないのか」
ファジールが驚いたように、アレンを見た。
「勘違いしているようだから訂正しておく。月読みの力は近しい者を正確には視れないんだよ」
あくまで、漠然としたものしか判らないと、アレンは言ったのだが、ファジールは半眼になる。
「今日来るのだって、事前に連絡があったから、判っただけだ」
アレンの力は意識して使えるものではない。無意識に情報を引き出しているのだ。
「本当に、戻らないんだな」
アレンはシアンを凝視し、確認してきた。シアンは小さく頷く。
「後悔はしないんだな」
「しないわ。するくらいなら、最初からゼインに話してる」
アレンとファジールは顔を見合わせ、溜め息を吐いた。ゼロスには聞いていたが、シアンの姿が銀狼族の中で、どういった扱いを受けていたのか、如実に表していたからだ。
最後に見た姿よりも、痩せた体。銀狼族なら、太陽が在るうちに行動している筈だ。それなのに、青白い肌。
「お母さん達は」
「薔薇園にいる」
ファジールは諦めたように小さく首を振った。
「行くのはいいが、無理はするなよ。後で食事を運ばせる」
アレンの言葉に、シアンは複雑な表情を見せた。喉元に右手を持って行き、軽く押さえたのだ。
「判ってる。体が驚かないように、徐々に量を増やしていく」
「シアンのためだけじゃない。判るな」
アレンとファジールに畳みかけるように言われ、頷くしかなかった。
「後、うちに帰ってきたからには、飛んでの移動は禁止だ。部屋は離れに前のまま残してある」
シアンは目を見開いた。部屋が残っていると、アレンが言ったからだ。
「荷物は運んでおくが、帰るときは声を掛けろ。連れて行ってやる」
シアンは頷くと、静かに部屋を出て行った。その姿を見送り、父親と祖父は脱力したように、体から力が抜けた。
「あそこまでとはな」
アレンは痛ましげに顔を歪めた。
「ゼロスから、か」
「そうだ」
ファジールはシアンが消えていった扉を凝視していた。
「ゼロスとカイファスに連絡するか」
後で五月蠅いと、アレンは肩を竦めた。
「そうしろ」
「判っていたとはいえ、複雑なもんだ」
アレンはシアンの荷物を片手に、部屋を出て行った。ファジールはアレンの言葉を思い出していた。シアンを銀狼族に送り出すときに、言っていた言葉だ。
もし、あの言葉がなければ、シアンは帰ってこなかっただろう。そして、気が付いたときには、手遅れになっていだだろう。
銀狼族の特殊性は理解していても、孫を思う祖父としては、許せる筈もなかった。
†††
シアンは久し振りに薔薇園に足を踏み入れた。懐かしい感覚。瑞々しい薔薇の香りと、水分を含んだ空気。しっとりとシアンを包み込んだ。
お腹の子は吃驚しているかもしれない。乾燥し、水分が乏しい地域でこの子は生まれた。太陽を味方に、月を揺りかごに眠る場所だった。
この場所は幻想的で、心が落ち着いた。幼いときは、薔薇園を遊び場にしていた。幼馴染み達と、ただ、飽きもせずに遊んだ。なんの憂いもなかった。ただ、大人達に見守られ、自由でいられた。
どうして、こんな事になったのだろう。何かを過剰に求めたつもりはない。銀狼族の元に身を置くことは、幼いときから決まっていた。定期的に、ゼロスに連れられ、銀狼族のコロニーにも行っていた。
それでも、銀狼族はシアンを受け入れてはくれなかった。ただ、見た目が銀狼ではないからと。
シアンが考えに没頭していると、不意に右手を誰かに掴まれた。驚き顔を向けると、そこにあるのは、独特の金の巻き髪と緑の瞳。
「……セイラ」
セイラは満面の笑みを、シアンへ向けた。
セイラに手を引かれるまま歩く。此処は何も変わっていない。時折、柔らかな風が吹く。悪戯に吹く風に、薔薇達が踊る。
「お帰り」
シアンが手を引かれて来るのを待っていたシオンが、穏やかに微笑みながら四阿のベンチに導いた。
「アレンもこうなるのが判っていたんなら、止めてくれたらよかったのに」
シオンは愚痴る。だが、シアンは首を横に振った。シアンだけならば、それも可能だっただろう。だが、ゼインはどうあっても、銀狼族に戻らなくてはならなかった。
「何時聞いたの」
「昨日だよ。シアンは帰らないから、部屋を使えるようにしておけ、って」
確かに少しおかしいとは思っていたようだ。普通なら、独身前に使っていた部屋は、片付けるだろう。だが、アレンは埃除けの布を被せるだけの指示をし、後はそのままにしておくように言ったのだ。
シオンとしては、理由を訊きたかったのだが、アレンは困ったような笑みを向けるだけで、答えてはくれなかった。
「今、何ヶ月」
ジゼルがシアンの顔をのぞき込んできた。
「……二ヶ月に入ったと思う」
「安定期前よ。よく無事だったわ」
それは、空を駆けてきたことを行っているようだ。確かに、不安はあったが、あの場所はお腹の子によくない。シアンが不安定になれば、影響が出るからだ。
「……それでも、離れなきゃって思ったの」
シオンとジゼルは顔を見合わせた。姿を見れば、正確にはどういった扱いを受けていたかは判らなくとも、漠然とは判るものだ。
青白い肌が異様なように思えた。此処で生活していた頃のような、健康的な肌色ではない。
「だから、赤は嫌っ」
本館の方から上がった声に、シオンとジゼルは苦笑いをした。何も事情を知らないシアンは怪訝な表情だ。
「……今の声って」
「ルーだよ」
シオンは嘆息する。
「長様達が、薔薇の子の衣装は、親の色に決めちゃったらしくって」
大騒ぎをしながら歩いてくるのは、ルーチェンとベンジャミンだ。
「素晴らしい衣装でしょう」
「素晴らしかろうが、私は黒薔薇の部族なのよっ」
どうにも、納得していないようだ。
「長達に逆らえないんでしょう」
「だから、ベンジャミンから黒の長様に言ってよっ」
ところが、ベンジャミンは害のなさそうな微笑み向けた。
「僕は赤で問題ないし、進言する必要もないでしょう」
面っと言ってのけた。相変わらずな二人のやりとりに、シアンは笑うしかない。ベンジャミンの微笑み攻撃に、ルーチェンが勝てる筈はない。
「シオンさん。何とか言ってよっ」
走り込みながら、ルーチェンはシオンに訴えるが、訴える者を間違えている。
「僕に相談されても無理」
何よりルビィがノリノリなのだ。
「おめでとう」
シアンはルーチェンを見上げ、そう、口にした。ルーチェンは驚いたように視線を向け、シアンが居ることに漸く気が付いたようだ。
「何時帰ってきたの」
「今さっき。赤でも良いんじゃない」
シアンの意見に、ルーチェンは眉間に皺を寄せる。色に違和感があるのもあるが、用意された衣装は、あまりにも凄い物だったからだ。ウエストからスカートがふんわりと広がる。それに文句があるのではない。
「衣装を見てないから、言えるのよっ」
ルーチェンは尚も言い募るが、後ろからベンジャミンが諦めるように諭している。此処は変わらない。変わってしまったのは自分なのだと、シアンは気付かれないように溜め息を吐いた。
銀狼族を離れ、ゼインから決別し、これから待っているのは一人の生活だ。無事、出産を終えたら、この場所からも出て行こう、と心に決めていた。
心配し、何かと心を砕いてくれる存在達に甘えてばかりはいられない。せめて、自立しなくてはと、シアンは身を引き締めた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる