風KAZABANA花

善奈美

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風花 六

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 花也は新しくしつらえられた細長に袖を通した。何時ものように雪の下と呼ばれている、表が白く裏が紅の襲ね色目の細長だ。
 
「花也、よく似合いますよ」
 
 栞は精一杯明るく声をかけた。花也は栞の言葉に言葉を詰まらせ、堪えていた涙が頬を伝った。少女のままで一生を終えると思っていた花也にとって、今回の劇的変化はついていくのがやっとだった。 

 慌ただしく何もかもが進んでいく様は、当事者である花也にとっては歓迎できないものだった。今までの生活はゆっくりとした時の流れの中にあり、急激な変化を受け入れる余裕がなかった。
 
 決まってしまった以上、覆すことは困難だ。
 
「母様。一緒に来てはくださらないのですか」
 
 花也は呟いた。か細く呟かれた言葉に栞は言葉を詰まらせる。
 

 不安であることは判っていた。だが、栞の立場は危ういものだ。世間では存在しない者になっている。
 
 栞は花也の手を取り、軽く叩いた。ついていきたくとも、それを許してはくれない状況下に栞はいたのだ。
 
「馨様がおります。心配することなどないのですよ」
 
 その言葉が何一つ、慰めにならないことは判っていた。だが、言えることは少なかったのだ。 

「お見えになりましたよ」
 
 尼僧が声をかけた。花也は更に体を硬くした。行きたくはないがそれは許されない。
 
 足音が近付き、襖が開かれる。馨は花也の背中を認めると、表情を曇らせた。花也の背中は淋しげだった。帝の言葉が思い出された。
 
「母上、お話があるのですが」
 
 馨は栞にそう切り出した。栞は顔を上げる。 

 怪訝な表情を馨に向けた。今更、何を話したいというのか。
 
「二人で話したいのですが、差し支えありませんね」
 
 馨に問われ、栞は小さく頷いた。これ以上の心配事は起こる筈がなかったからだ。
 
「花也」
 
 栞は花也に視線を戻した。
 
「席をはずして頂戴」
「判りました」
 
 花也は振り返り、馨に視線を向け軽く頭を下げると部屋を出て行った。 

 花也の気配が完全に消えるのを待って、馨は口を開いた。
 
 栞は馨の言葉に耳を疑った。
 告げられた言葉は余りにも以外だったからだ。
 
「そのようなことが許される筈がありません」
 
 栞は呆然と呟いた。
 
「主上が考えなしにそのようなことは言いませんよ。手は打ってあります」
「どのような術を使ったのです」
 
 栞は釈然としなかった。 

「今は亡き上皇様に悪者になっていただきます」
 
 栞は両手で口を覆い、目を見開いた。馨の言葉が信じられなかった。
 
「許されませんよ」
 
 栞の声は震えていた。上皇は彼女の父親だ。
 
「花也の為だと言っても、許されませんか」
 
 馨の言葉が突き刺さった。花也は外の世界を知らない。まっさらな状態の赤子を放り出すのと同じだ。 

「主上は花也を一人にすることを良しとなさらなかった」
 
 馨は帝が真剣な表情で告げた言葉を思い出す。
 
「一人にするのかと、そう言われました」
 
 馨は俯いた。
 無垢な少女を孤独にすることは、心に傷を作ることになる。
 
「今上様は花也のことを考えて下さったのですね」
 
 栞は呟いた。
 ただ、求めただけではなく、花也の心を心配してくれたのだ。 

「彼女が懐妊したとき、左大臣邸は里内裏になります。母上の存在は大きい筈です」
 
 栞は小さく息を吐き出した。
 
 入内したとしても内裏では出産はしない。ある程度は生活をするが、時期がくると親元で出産に備える。
 
 出産は穢れとされているからだ。
 
「判りました。従いましょう」
 
 栞は内心を押し殺すように、抑揚のない声で言った。 

「準備は出来ているのですか」
 
 馨の問いに栞は頷いた。元々、準備をするだけの持ち物は無いのだ。尼寺では必要最低限の、生活に必要な物があればそれで事足りた。
 
「母上の準備はしていないと思いますが」
 
 馨の言葉に栞は小さく笑った。
 
「用意をする程の物は持ってはいませんよ。身一つで十分です」
 
 栞はきっぱりと言い切った。 

 馨は驚いたように目を見開いた。
 
 栞は皇族として華やかな生活をしていた。その、栞が質素な生活をしていた事実に馨は驚いたのだ。
 
 栞は目を細め小さく笑った。尼寺の生活は不自由ではあったが、生きていくのに贅沢は必要ではないと気付かせてくれた。
 
 何不自由なく育った栞にとって、新鮮な経験だった。しかし、花也にそれを強いたことを栞は後悔していた。 

 花也は華やかな世界を知らない。ましてや、内裏に渦巻く悪意など知る筈もない。
 
 これから降り懸かるであろうことは、花也をどの様な状態に導くか全くと言っていい程、判らなかった。
 
「今上様は他に何か言っておられましたか」
 
 栞は気になることを訊いてみた。彼女が知る帝は幼い少年でしかない。確実に成長している筈であるのに、時間は止まったままだ。 

 怪我を負った青年がいきなり現われ、変化をもたらしたことが信じられなかった。
 
「今夜、逢いに来ると言っておられました」
 
 馨はきっぱりと言い切った。帝の性格をよく知る馨だからこそ、言い切ることが出来た。
 
「話したいことがあると」
 
 栞は胸を撫で下ろした。帝は花也に対して、いい加減な思い付きで求めたのではないと確信出来たからだ。 

「時間がありませんね」
 
 栞は小さく呟いた。
 馨は頷く。時間は残されていない。
 
「この事は内大臣様と右大臣様は知りません。迅速に行動しなくては何時、横槍が入るか判らないのです」
 
 栞は馨に視線を向けた。おそらく、今回のことで一番苦労をしたのは馨の筈だ。
 
 帝と栞の板挟みになり、辛い思いをした筈だ。出生の秘密を知り、悩んだに違いない。 

 これ以上の苦労をかける訳にはいかなかった。
 
「行かれるのか」
 
 静かに開いた襖から穏やかな声が聞こえた。二人は視線を向ける。そこにいたのは尼寺の主だった。今は亡き上皇の妹であり、栞の叔母にあたる。
 
「行かねばならないようです」
 
 栞は落ち着いて答えた。双子を出産し、行くあてがなかった栞を温かく迎えてくれた人物だ。 

「時は流れます。人の心などお構い無しに。貴女はこの尼寺に居るべき方ではない」
 
 きっぱりと言い切られ栞は口を噤んだ。
 
「貴女の選択は間違ってはいなかったでしょう。二人の御子は立派に御育ちになり、御自分の意志で生きていくことが出来ましょう」
 
 穏やかに語られる言葉に、二人は耳を傾けた。その言葉は、大切な何かを伝えているようにも感じた。 

「けれど、標は必要です。人は誰しも間違いを犯すもの。若人には、先人の言葉や知恵が必要です」
 
 穏やかに微笑まれ、二人は静か頷いた。
 
「御行きなさい。御仏の御加護が有りますよう、御祈りしております」
 
 二人は静かに横を通り過ぎた。穏やかな微笑みに見送られながら、花也の元に向かう。日が高くなる前に、尼寺を出発しなくてはいけない。 

 花也は一人、佇んでいた。外を見やると幼い雪が積もっていた。朝日を浴び、銀色に輝いている。無心に雪を眺めていた花也の耳に、慌ただしい足音が近付いてくる。
 
 花也は驚き振り返った。そこにいたのは、栞と馨だった。迷いなく、花也を目指している。
 
「母様、兄様」
 
 小声で呟く。
 花也は小首を傾げ、二人の表情の真剣さに一瞬、身を引いた。 

「どうなさったの」
 
 目の前まで来た二人に問い掛けた。
 
「花也、急がねばならないようです」
 
 栞は口早に言った。花也は目を見開き馨に視線を向ける。
 
「時間がない。母上と共に御車に」
 
 そう促され、花也は驚きを隠せなかった。馨は慌てたように外へと向かった。
 
「母様」
「詳しい話は車の中で。急ぎなさい」
 
 栞に促される。 

 慌ただしく乗り込むと、牛車は動き出した。ゆっくりとした速度で慣れ親しんだ尼寺から遠ざかっていく。
 
 花也は小さく物見を開け、離れゆく尼寺に思いを馳せた。彼女の世界は尼寺が全てであった。外の世界へ出ていくなど、想像すらしていなかった。
 
「花也」
 
 栞の声に花也は振り返る。
 
「閉めなさい」
 
 穏やかではあったが、有無を言わせぬ響きがあった。 

「これからはみだりに外へ出ることは出来ないのですよ」
 
 栞のたしなめる言葉に花也は素直に従った。静かに物見を閉めると座り直す。
 
「花也、よくお聞きなさい」
 
 栞は改まったように、口火を切った。これから語ることは、花也本人がしっかり理解する必要がある。何故なら、理解せずにいては花也が窮地に立つことになる。世間知らずは理由にはならない。 
 
「貴女が左大臣邸で最初に行うことは、早急に裳着のお式を行うことです。これに関しては、準備が整っていることと思います」
 
 栞はしっかりと花也を見詰めた。花也は小さく頷く。
 
「その後、入内の運びとなります」
 
 花也は小さく息を飲み、口を噤んだ。聞いていること以外、出来ることがなかったからだ。栞は目を細めた。本当ならば後宮になど送り出したくはない。 

 あそこは魔の巣窟だ。ただ、お飾りの人形達の集まりではない。政治的に重要な場所であり、女達の戦場だ。
 
 帝の寵愛を受け御子を授かり、いかに存在を誇示するかに心血を注ぐ。
 
 その結果、自分の一族が繁栄するかが決まる。重要な場所であり、また、苦痛を伴う場所でもあった。
 
 栞は皇女であったので、降嫁する事が決まっていたが、女達の争いは凄まじいものだった。 

 貴族の姫として生まれた者は帝の妃として育てられる。
 
 それは一族繁栄のためであり、権力を手に入れるための足掛かりでもあった。
 
 愛情を求めれば潰される。
 
「内裏は恐ろしい場所です。何時、何が起こるか判りません」
 
 栞はあえて、陰湿な部分を語ることにした。そうすることで、注意を促した。
 
 花也は唇を軽く噛み締める。顔色は誰が見ても悪かった。 

「何故、私が尼寺から出たのか判りますか」
 
 栞に問われ花也は首を傾げた。判る筈がなかった。
 
 花也は見知らぬ場所に一人赴くのだと思っていた。それだけに、栞が来ると聞いたときは素直に嬉しかった。
 
 理由があるのだと、栞は示していた。
 
「貴女はよく物語を読んでいましたね。判ると思いますが、貴女が懐妊すると左大臣邸は里内裏になります」
 
 栞は続けた。 

「私が内裏について行くことは出来ませんが、左大臣邸にいることで貴女の助けになると今上様が判断なさいました」
 
 花也は目を見開いた。ただ一度、接触をした人物だ。
 
「あの方は私にとって甥に当たります。故に、貴女を見た瞬間に、何かを感じたのかもしれませんね」
 
 栞は苦笑した。賢い子供であったことは覚えていた。全て先を読み、隙を与えることがなかった。 

「入内当日はお供を致します。一通りの儀式の後、部屋を賜り、そこが貴女の生活の場となります」
 
 栞は具体的なことを話し出した。
 
 入内した者は身分で呼ばれ方が変わる。花也は左大臣の養女という扱いになり、身分的には女御になる。部屋の名前がそのまま、呼び名となる。
 
 花也といういままでの名で呼ばれることがなくなるのだ。
 
 花也は俯いた。 

 止まっていた涙が溢れてくる。唇を噛み締めても、止まることがなかった。
 
 真新しい絹の衣装が涙に濡れる。
 
「どうしても、行かねばならないのですか」
 
 花也は無駄と判りつつも口にせずにはいられなかった。
 
 栞は目を細める。
 
「決まってしまったことです。覆すことなど出来ないのですよ」
 
 栞は諭すように事実を述べた。 

「これは重要なことなのですが、今夜、今上様が貴女の元を訪れます」
 
 花也は弾かれたように顔を上げた。その表情は驚きに満ち、見開かれた瞳は涙に濡れていた。
 
「言いたいことがあるのなら、直接、今上様に話なさい。貴女の話なら、今上様も耳を傾けて下さるでしょう」
 
 栞は小さく溜め息を吐いた。言うべきことは花也に伝えた筈だ。 

 二人共、口を噤んだ。耳にはいるのは、牛に引かれる御車の軋む音だ。
 
 花也は俯き、唇を噛み締める。そして、両の手を握り締めていた。
 
 もう、後戻りは出来ず、全てを受け入れるほかに術は残されていなかった。
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