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風花 伍
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馨は何時ものように参内し、何事もなかったかのように仕事をこなした。それは、馨に与えられた仕事だからというのではなく、これから起こる混乱の為に出来ることはしておこうと思っていたにすぎない。
花也の事で奔走する事は判っていたし、帝に報告すれば嫌でも関わりが強くなる。
あの後、すぐに預かった手紙を父である左大臣に手渡したのだが、それに関する事も馨がする事になりそうだった。
ましてや、花也は裳着を済ませてはおらず、その式を行うことが先決である為、忙しくなるのは目に見えていた。
「馨」
振り返ればそこにいたのは内大臣家の葵少将だった。
「どうかしたのか」
その問いに馨は自虐的に笑い、否定した。一連の出来事を話す事は出来ない。それは左大臣家の進退にも関わってくる事であり、何より帝に報告を済ませていない。
「何でもないよ。ただ、主上に振り回されたので、疲れているだけです」
馨は溜め息混じりに言った。これは事実であるので嘘ではない。
「あの方は行動的だからな」
葵少将は苦笑した。彼は馨と同じ役目を言い渡されたのだが、脱落した者の一人だった。
馨はその言葉に肩を竦めた。
帝の行動は予測が出来ず、かと言って、行動を抑制することも出来なかった。
「これから主上に会わなければ」
馨は小さく呟いた。会いたくはなかったが、勅命を受けた以上、責務は全うしなくてはいけない。
葵少将は怪訝な表情をした。
「何か用でも」
馨は葵少将に顔を向けると問い掛けた。理由もなく声をかけたりはしないだろう。
「酒でもと思っていたんだが」
馨は破顔した。葵少将は酒好きなのだ。
「またの機会によばれるよ。今日は大事な用事があるので」
葵少将は肩を竦めた。
「面白いことが起こりそうだな」
葵少将の言葉に馨は顔が引きつった。彼は愚かではない。内大臣家の者だが、鋭い感覚を備えている。
この殿上で生き抜くには必要な能力だ。目敏いくらいでなければ上を目指すことは不可能だ。
葵少将は軽く右手をあげた。
「最近、退屈だったからな」
去り際に葵少将は物騒な言葉を呟いた。馨は何もない平和が一番だと、心の中で悪態をついた。
馨は内裏にある帝の居住区である清涼殿に向かった。薄暗くなり明かり取りのための松明が灯され、赤い炎が辺りを照らす。
馨は歩きながら帝が襲われた時の事を考えていた。うやむやになっているが、無視をするわけにはいかない。
帝は自分自身に降りかかる災厄を無視する傾向が強い。そのままにしておくことは、更なる混乱を招く。
「主上は」
目の前に現れた女房に馨は問い掛けた。
「お待ちです」
女房は素っ気なく一言言った。
馨は苦笑する。清涼殿の女房達は基本的に淡白な者が多い。
逆に言えば、気楽だとも言えた。内裏は馨にとって、近づきたくない場所だった。
内裏は女性達の住まいだ。帝の為だけに集められ次世代に繋ぐための任を担っている。
しかし、全員がそうではない。仕事として、男性同様、出仕している者もいる。そういう女性達にとって馨のような存在は放っておけない存在ということになる。
気に入られ、結婚することが出来たら彼女達にとっては内裏を去る事が可能になる。馨は溜め息を吐いた。
帝はいつものように待っていた。馨に約束したように、ここ数日は大人しくしているのが不気味だった。何時ものように正面に腰を下ろす。
「判ったのか」
馨が落ち着くとすぐ、帝は問い掛けてきた。馨は深々と頭を垂れる。帝は目を細めた。
「訊きたい事でもあるのか」
帝は馨の行動でそれを察した。馨は顔を上げる。
「はい。主上が襲われた件、どのようにお考えですか」
馨は率直に言った。
嘘偽りは自分の首を絞めることになる。
「やはりな」
帝は馨の問いに溜め息を吐いた。馨は帝の身辺を何よりも気にしていることを知っていたからだ。
「驚かないと約束するか。今まで通り振る舞うと」
帝は釘を差すように言った。馨は眉を顰め、怪訝な表情をした。
帝が釘を差すところを見ると、犯人が判っているようだった。つまり、表沙汰にしないのには理由がある。そうでなければ、帝が黙っている筈がない。
身内であろうと容赦を知らない人物だ。だからこそ、命の危険と隣り合わせであったとしても生きていられる。
基本的に宮家は殆どの貴族と血縁関係にあり、情けをかけていてはきりがないのが現状だった。
馨は小さく息を飲んだ。
「判りました」
馨は両手を握り締めた。帝がこう言う以上、手出しは出来ないことになる。
一歩間違えれば、火の粉が降り懸かるのは自分達であり、殿上どころか都からも追い出されかねない。ならば、おとなしくしている方が利口だ。
帝は更に目を細め、馨を凝視した。それは、表情から何かを読みとろうとしているように見えた。
「犯人は内大臣家の者だ」
帝は声を潜め事実のみを口にした。それは、完全に終わったことであり、蒸し返すことを許さないという感じさえ受けた。
馨は軽く目を見開いた。葵少将は面白くなりそうだと言っていた。なにに対しての言だったのか定かではなかったが、てっきり、花也がらみのことを言っているのだと思っていた。
「葵少将だ」
帝は続けた。
「父親の差し金だろうが、あれでは犯人を教えているようなものだ」
帝は襲われた時、何時ものように犯人の手掛かりを残さぬよう、ならず者達が襲ってきたのだと思っていた。
しかし、違うとすぐに気が付いた。
何故なら、彼等は躊躇していた。金で動く輩に躊躇いはない。ただ、依頼を実行することだけ考えていればいい。
帝は軽く目を閉じた。
「おそらく、わざとだろう。父親からの指示は違うものだったに違いないが、あえて自分から事を起こした。自分自身の手でな」
帝は溜め息混じりに言う。
考えようによっては、一連の暗殺騒ぎの首謀者は内大臣家の者と言うことになる。
帝の母親は内大臣家の姫だった。つまり、今の内大臣は叔父と言うことになる。
帝は莫迦にしたように笑った。
「幼い帝なら思い通りになると思ったのだろうが、俺は操り人形になるつもりなどなかった」
帝は馨を見据えた。
その瞳に映るのは孤独でしかなかった。
「後ろ盾は必要だが、命令されるつもりなどない」
帝はきっぱりと言い切った。
「もし、更に手を出してくるようなら、此方としても考えがあるが、今ではない」
帝は面白そうに笑った。
「その時には手を借りる」
帝は目を開き馨を見た。
「それで、判ったのか」
その問いに馨は少し青冷めた。これから告げる事実は左大臣家の進退に関わるだろう。
帝の考え一つで失脚する。
「母から聞いた話と、自分の目で見た事実をお話します」
顔を逸らし、馨は話し出した。母から聞いた話と、花也の存在についてだ。
帝は大人しく聞いていたが、表情があからさまに変わった。それは、嫌悪感からくるものではなく、明らかに面白がっている者の表情だった。
馨は気配で判り、帝を直視した。本来なら許されない行為であったが、帝は頓着していなかった。
「主上、面白い話などしていないのですが」
馨は心配をしていただけに、帝の態度に少なからず苛立ちを覚えた。
「判っている」
軽く右手を上げる。
「つまりは、お前の父親は実の娘である事実を知らないのだな」
馨は俯いた。
父親である左大臣に全てを話してしまったらどうなるのか見当すらつかない。
何より、政敵である内大臣と右大臣の耳に入ってしまえば更にややこしい事になる。馨としては避けたい事柄だった。たとえ父親でも、知らせるつもりはない。
「父には母が引き取った親戚筋の娘であると知らせました。事実を語る事に母は難色を示したので」
栞は花也を何時かは外の世界に戻そうとしていたのかもしれない。何故なら花也は立ち振る舞いに問題を感じなかった。内裏で育った栞だけに、作法などにうるさかったのかもしれない。
「何時、移る予定だ」
帝は率直に今後について訊いてきた。
「明日にでも。その後、裳着を行います。僕と誕生日が同じなら、早く済ませなくては」
馨が元服したのは十三の年だった。年が明ければ十六歳になる。
「無事に屋敷に着いたら知らせよ」
帝の言葉に馨は首を捻った。
「直接会って話したいことがある」
馨は息を整える。
「話したいこととは」
その問いに帝は肩を振るわせ笑った。
「お前には関係のない話だ。悪いようにはしない」
馨は引き下がるしかなかった。無理に訊き出したとしても、良いことは何一つない。
「叔母上もあの場所から連れ出すんだ。判ったな」
帝は釘を差す。
栞が存在しない者である事実を帝は知っている筈だ。
「お前は妹を孤独にしたいのか」
その言葉に馨は絶句した。
確かに外の世界を知らない花也にとって、栞の存在は大きいものだ。
「そのようなことは、ありません」
「俺は不幸にするために求めたのではない。判るな」
馨は深々と頭を垂れた。帝はその姿に目を細める。
「内密に会いに行く」
帝はそれだけ告げると奥に姿を消した。馨はただ、途方に暮れているだけであった。
花也の事で奔走する事は判っていたし、帝に報告すれば嫌でも関わりが強くなる。
あの後、すぐに預かった手紙を父である左大臣に手渡したのだが、それに関する事も馨がする事になりそうだった。
ましてや、花也は裳着を済ませてはおらず、その式を行うことが先決である為、忙しくなるのは目に見えていた。
「馨」
振り返ればそこにいたのは内大臣家の葵少将だった。
「どうかしたのか」
その問いに馨は自虐的に笑い、否定した。一連の出来事を話す事は出来ない。それは左大臣家の進退にも関わってくる事であり、何より帝に報告を済ませていない。
「何でもないよ。ただ、主上に振り回されたので、疲れているだけです」
馨は溜め息混じりに言った。これは事実であるので嘘ではない。
「あの方は行動的だからな」
葵少将は苦笑した。彼は馨と同じ役目を言い渡されたのだが、脱落した者の一人だった。
馨はその言葉に肩を竦めた。
帝の行動は予測が出来ず、かと言って、行動を抑制することも出来なかった。
「これから主上に会わなければ」
馨は小さく呟いた。会いたくはなかったが、勅命を受けた以上、責務は全うしなくてはいけない。
葵少将は怪訝な表情をした。
「何か用でも」
馨は葵少将に顔を向けると問い掛けた。理由もなく声をかけたりはしないだろう。
「酒でもと思っていたんだが」
馨は破顔した。葵少将は酒好きなのだ。
「またの機会によばれるよ。今日は大事な用事があるので」
葵少将は肩を竦めた。
「面白いことが起こりそうだな」
葵少将の言葉に馨は顔が引きつった。彼は愚かではない。内大臣家の者だが、鋭い感覚を備えている。
この殿上で生き抜くには必要な能力だ。目敏いくらいでなければ上を目指すことは不可能だ。
葵少将は軽く右手をあげた。
「最近、退屈だったからな」
去り際に葵少将は物騒な言葉を呟いた。馨は何もない平和が一番だと、心の中で悪態をついた。
馨は内裏にある帝の居住区である清涼殿に向かった。薄暗くなり明かり取りのための松明が灯され、赤い炎が辺りを照らす。
馨は歩きながら帝が襲われた時の事を考えていた。うやむやになっているが、無視をするわけにはいかない。
帝は自分自身に降りかかる災厄を無視する傾向が強い。そのままにしておくことは、更なる混乱を招く。
「主上は」
目の前に現れた女房に馨は問い掛けた。
「お待ちです」
女房は素っ気なく一言言った。
馨は苦笑する。清涼殿の女房達は基本的に淡白な者が多い。
逆に言えば、気楽だとも言えた。内裏は馨にとって、近づきたくない場所だった。
内裏は女性達の住まいだ。帝の為だけに集められ次世代に繋ぐための任を担っている。
しかし、全員がそうではない。仕事として、男性同様、出仕している者もいる。そういう女性達にとって馨のような存在は放っておけない存在ということになる。
気に入られ、結婚することが出来たら彼女達にとっては内裏を去る事が可能になる。馨は溜め息を吐いた。
帝はいつものように待っていた。馨に約束したように、ここ数日は大人しくしているのが不気味だった。何時ものように正面に腰を下ろす。
「判ったのか」
馨が落ち着くとすぐ、帝は問い掛けてきた。馨は深々と頭を垂れる。帝は目を細めた。
「訊きたい事でもあるのか」
帝は馨の行動でそれを察した。馨は顔を上げる。
「はい。主上が襲われた件、どのようにお考えですか」
馨は率直に言った。
嘘偽りは自分の首を絞めることになる。
「やはりな」
帝は馨の問いに溜め息を吐いた。馨は帝の身辺を何よりも気にしていることを知っていたからだ。
「驚かないと約束するか。今まで通り振る舞うと」
帝は釘を差すように言った。馨は眉を顰め、怪訝な表情をした。
帝が釘を差すところを見ると、犯人が判っているようだった。つまり、表沙汰にしないのには理由がある。そうでなければ、帝が黙っている筈がない。
身内であろうと容赦を知らない人物だ。だからこそ、命の危険と隣り合わせであったとしても生きていられる。
基本的に宮家は殆どの貴族と血縁関係にあり、情けをかけていてはきりがないのが現状だった。
馨は小さく息を飲んだ。
「判りました」
馨は両手を握り締めた。帝がこう言う以上、手出しは出来ないことになる。
一歩間違えれば、火の粉が降り懸かるのは自分達であり、殿上どころか都からも追い出されかねない。ならば、おとなしくしている方が利口だ。
帝は更に目を細め、馨を凝視した。それは、表情から何かを読みとろうとしているように見えた。
「犯人は内大臣家の者だ」
帝は声を潜め事実のみを口にした。それは、完全に終わったことであり、蒸し返すことを許さないという感じさえ受けた。
馨は軽く目を見開いた。葵少将は面白くなりそうだと言っていた。なにに対しての言だったのか定かではなかったが、てっきり、花也がらみのことを言っているのだと思っていた。
「葵少将だ」
帝は続けた。
「父親の差し金だろうが、あれでは犯人を教えているようなものだ」
帝は襲われた時、何時ものように犯人の手掛かりを残さぬよう、ならず者達が襲ってきたのだと思っていた。
しかし、違うとすぐに気が付いた。
何故なら、彼等は躊躇していた。金で動く輩に躊躇いはない。ただ、依頼を実行することだけ考えていればいい。
帝は軽く目を閉じた。
「おそらく、わざとだろう。父親からの指示は違うものだったに違いないが、あえて自分から事を起こした。自分自身の手でな」
帝は溜め息混じりに言う。
考えようによっては、一連の暗殺騒ぎの首謀者は内大臣家の者と言うことになる。
帝の母親は内大臣家の姫だった。つまり、今の内大臣は叔父と言うことになる。
帝は莫迦にしたように笑った。
「幼い帝なら思い通りになると思ったのだろうが、俺は操り人形になるつもりなどなかった」
帝は馨を見据えた。
その瞳に映るのは孤独でしかなかった。
「後ろ盾は必要だが、命令されるつもりなどない」
帝はきっぱりと言い切った。
「もし、更に手を出してくるようなら、此方としても考えがあるが、今ではない」
帝は面白そうに笑った。
「その時には手を借りる」
帝は目を開き馨を見た。
「それで、判ったのか」
その問いに馨は少し青冷めた。これから告げる事実は左大臣家の進退に関わるだろう。
帝の考え一つで失脚する。
「母から聞いた話と、自分の目で見た事実をお話します」
顔を逸らし、馨は話し出した。母から聞いた話と、花也の存在についてだ。
帝は大人しく聞いていたが、表情があからさまに変わった。それは、嫌悪感からくるものではなく、明らかに面白がっている者の表情だった。
馨は気配で判り、帝を直視した。本来なら許されない行為であったが、帝は頓着していなかった。
「主上、面白い話などしていないのですが」
馨は心配をしていただけに、帝の態度に少なからず苛立ちを覚えた。
「判っている」
軽く右手を上げる。
「つまりは、お前の父親は実の娘である事実を知らないのだな」
馨は俯いた。
父親である左大臣に全てを話してしまったらどうなるのか見当すらつかない。
何より、政敵である内大臣と右大臣の耳に入ってしまえば更にややこしい事になる。馨としては避けたい事柄だった。たとえ父親でも、知らせるつもりはない。
「父には母が引き取った親戚筋の娘であると知らせました。事実を語る事に母は難色を示したので」
栞は花也を何時かは外の世界に戻そうとしていたのかもしれない。何故なら花也は立ち振る舞いに問題を感じなかった。内裏で育った栞だけに、作法などにうるさかったのかもしれない。
「何時、移る予定だ」
帝は率直に今後について訊いてきた。
「明日にでも。その後、裳着を行います。僕と誕生日が同じなら、早く済ませなくては」
馨が元服したのは十三の年だった。年が明ければ十六歳になる。
「無事に屋敷に着いたら知らせよ」
帝の言葉に馨は首を捻った。
「直接会って話したいことがある」
馨は息を整える。
「話したいこととは」
その問いに帝は肩を振るわせ笑った。
「お前には関係のない話だ。悪いようにはしない」
馨は引き下がるしかなかった。無理に訊き出したとしても、良いことは何一つない。
「叔母上もあの場所から連れ出すんだ。判ったな」
帝は釘を差す。
栞が存在しない者である事実を帝は知っている筈だ。
「お前は妹を孤独にしたいのか」
その言葉に馨は絶句した。
確かに外の世界を知らない花也にとって、栞の存在は大きいものだ。
「そのようなことは、ありません」
「俺は不幸にするために求めたのではない。判るな」
馨は深々と頭を垂れた。帝はその姿に目を細める。
「内密に会いに行く」
帝はそれだけ告げると奥に姿を消した。馨はただ、途方に暮れているだけであった。
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