和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐

   『悪魔に差し伸べられた手』 2/4

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 あまり大きくなかったはずのその声は二人きりのフロアに不思議なくらいよく響いた。
「…………は?」
 ひづりは姉から目が離せなかった。何を言われたのか理解出来なかった。
「何、え、どういう事? 何の話してるの。天井花さんを……は……?」
 テーブルに身を乗り出してひづりは訊ねた。聞き違いか何かだと思いたかった。
 しかしちよこは座ったまま事も無げに答えた。
「言ったままの意味だよ。イナリちゃんを排除したかった。そのために必要だったのよ、今話したこのお店の特殊な事情がね。もっと言うと、凍原坂さんと《火庫》ちゃんと《フラウ》ちゃんとリコちゃんも、だけど」
 それは昔から姉が悪事を暴かれた際に発する、どこまでも人を人と思っていない、胸が凍るような冷たい声だった。
「凍原坂さん達が……?」
 ひづりはますます訳が分からなかった。今の《めいどぱにっく☆る~む》の事件と、凍原坂さん達、一体何の関係が──。
「あ……」
 ある一つの可能性に気づき、ひづりは体が硬直した。この二週間に《和菓子屋たぬきつね》周辺で起きた様々な出来事が脳裏を掠めていた。
 姉が《火庫》と夜不寝リコのために用意した特注のメイド服。
 突如メイド喫茶風に改装された《和菓子屋たぬきつね》。
 凍原坂春路と夜不寝リコの間柄。
 《フラウ》と凍原坂の《契約》という関係。
 そして──。
「…………」
 眩暈がして立っていられずひづりは倒れる様にソファに腰を下ろした。頭の中が真冬の風に吹かれたように冷え切っていた。
「ふふふ、やっぱりひづりはこれくらい言ったら分かるのね」
 ちよこは心の底から嬉しそうだった。
「……そういう事、だったんだ……」
 何故気づかなかったのだろう、とひづりは自身の鈍さに呆れ返るようだった。
 《契約印》を譲り受けたひづりが、天井花さん達と一緒に生きていきたい、と申し出たあの日、ちよこは迷わず《レメゲトン》をくれた。天井花イナリと和鼓たぬこ、二人の《悪魔》と生きていく事を認めてくれた。姉の表情で、妹の背中を押してくれた。
 だがそれはあくまでもあの時、あの時点までの話だった。《グラシャ・ラボラス》がひづりたちの前に現れ、《ベリアル》の一件は《天界》が計画しているであろう何らかの企ての始まりに過ぎない、と言い残した事で、その瞬間を以って姉の中の方針はまるごと変わっていたと気づくべきだったのだ。
 姉はこれまでも自分の害となる存在はいつだって消してきた。人の《弱み》を利用し、言葉巧みに騙して、自分が責任を負わない立場のまま、迷い無く敵を排除して来た。これまで一体何人がちよこに人生を壊されたのか、そのすべてを知る事は出来ないだろうが、それでもかつて同級生という距離に居た人間数人が被害者となったのをひづりは確かに見て聞いて知っていた。
 そんなちよこが、《天界》から狙われ《和菓子屋たぬきつね》に今後も被害を齎すかもしれない天井花イナリを、どうして黙って放っておくだろう。《天界》が彼女を狙っているのなら、彼女の戦闘能力を信じて一緒に戦うより、彼女を殺してその持ち物を《天界》に差し出す方が遥かに安全で確実だ、と、現実主義の吉備ちよこならそう判断するに決まっている。
 そして天井花イナリを殺せる可能性があるこちら側の手札は、《ナベリウス王》と接触が叶っていない現在、《フラウ》と《火庫》を措いて他にはいない。
 《フラウ》と《火庫》は共通の目的を持つなどして同調しなければ天井花イナリに敵わないうえ、彼女たちに命令を下せるのは凍原坂春路のみ。なら、凍原坂を脅して『フラウと火庫に天井花イナリを殺させろ』と命令すればいい。
 夜不寝リコは恰好の駒だった。彼女は去年飲食店のバイトを一週間で辞めてしまい、それ以来仕事に苦手意識が芽生えたのかどこにも勤めていない、という話だった。であれば、《和菓子屋たぬきつね》と官舎ひづりを疑う彼女の心情を利用して店に引き入れた後は、《火庫》と同じ高い特注のメイド服を買い与え、八方美人な彼女にとって働きやすい騒がしいノリの職場、つまりメイド喫茶風に《和菓子屋たぬきつね》を作り替えてしまえば、彼女に『自分はメイド喫茶ならちゃんと働けるんだ』と自信を与え、その身も心も《和菓子屋たぬきつね》で拘束できる。
 そしてそれと並行して、ちよこは夜不寝リコと官舎ひづりが仲違いする様な言葉を意図的に投じ、二人の関係を悪化させていく。メイド喫茶の店員として働く喜びを与えたうえで、元々不仲であったクラスメイトとはもう働きたくない、と夜不寝リコに思わせる。
 そうしたら後はもう店主のちよこが雑談の合間にでもそれとなく提案するだけで良い。



『──リコちゃんはメイドさんが得意みたいだし、一度本物のメイド喫茶で経験を積んでおくのはどう? うちで働く日数を少しだけ減らしてさ。新潟に引っ越したら実質一人暮らしみたいなものだし、自分で自分のお小遣いも稼げた方がいいでしょ? 私ね、良いメイド喫茶を知ってるのよ──』




「大正解!! さっすがひづり!! 私の妹~!」
 ひづりの推測を聞いたちよこはぱちぱちと盛大な拍手をした。何一つ嬉しくなく、ひづりは顔を上げられなかった。
「どうかしてる……夜不寝さんを犯罪者の店に……どんな目に遭うか分かった上で送り出そうとしてたなんて……!」
 睨みつけて責めたがちよこは相変わらず少しも動じなかった。
「別に死ぬ訳ではないわ。ただちょっとだけつらい目に遭って、このお店が検挙された際、違法薬物使用者になった事実を世間に知られるかもしれない、ってだけだわ。命が懸かってる私やひづりの状況とは比べられないでしょ? それに凍原坂さんがイナリちゃんを排除する計画に頷いてくれるなら、それを条件に私は『リコちゃんがこのお店で働いていたって事実を認識阻害魔術を使って誰の記憶にも残らないようにしてあげる』って提案するつもりだったんだし、本当にちょっとの我慢だわ」
「……ッ!」
 どん、とひづりは両手でテーブルを叩いた。感情に任せた行動だった。
 店で働き始めた《火庫》の事などもあり、先週の時点で凍原坂は天井花イナリに対して大きな恩義を感じている様子だった。だがこれらちよこの計画が実行に移されていた場合、凍原坂はきっとちよこの手を振り払えなかっただろう。《めいどぱにっく☆る~む》で起きていた事件が公表された際、店で働かされていた従業員の名簿を《誰か》がインターネット上にばら撒いてしまえば、その中に名前が記載されている夜不寝リコは周囲から白い目で見られるようになってしまう。卒業後の進学や就職はきっと厳しいものになるだろう。それは東京に残ろうと新潟へ引っ越そうと関係ない。いや、恐らく新潟へ行った場合の方がひどい事になる。人の弱みを握る事にのみ生き甲斐を感じるちよこの人脈である。薬物使用者、という最悪の噂を夜不寝リコが引っ越すより先に現地で流布するのだって訳は無いはずだ。法律上は夜不寝の名を持っているとしても、血縁上は夜不寝リコと夜不寝本家はなんの関係も無いのだから、そんな状況で夜不寝本家が果たして彼女に良くしてくれるのかどうか。かつての婚約者の実妹である夜不寝リコがそのような境遇に立たされるなど、凍原坂はきっと受け入れられないだろう。
 加えて『天井花イナリを殺せ』と《フラウ》と《火庫》に命令し、もし本当に天井花イナリの殺害に成功し、彼女がかつて《ソロモン王》から譲り受けたという例の宝物を《天界》に譲渡出来た場合、《天界》はもう《和菓子屋たぬきつね》に用は無くなる。そうなれば、恩人である官舎万里子の娘たちは危険から遠ざけられ、凍原坂の『官舎万里子に恩返ししたい』という願いも叶う。殺害にあたって《フラウ》と《火庫》だけでは戦力として足らなかったとしても、店主の立場にあるちよこには現在体調不良が続いている和鼓たぬこを人質にとって天井花イナリの自由を奪うという手もあるし、そもそも完全に仕留めきれなくても天井花イナリがある程度深手を負いさえすれば、今もこちらを遠くから監視しているであろう《天界》の兵士たちは《人間界》へ降りて来て弱った天井花イナリに直接止めを刺し、そうして彼女の持ち物を奪っていくはずなのだ。実際今回の襲撃では《主天使》たちを制圧し《指揮》に尋問を行っていたタイミングで《神のてのひら》の外から《神性施条弩砲》の矢を放ってきた連中が居た。きっと奴らこそがその『追い詰められた天井花イナリに止めを刺して持ち物を回収する役』だったのだろう。
 また、確かに天井花イナリも《認識阻害魔術》を使えるのだから、ちよこの代わりに彼女が夜不寝リコの周囲に流れる噂を消してあげる事も出来るはずだが、しかしその場合凍原坂は『吉備ちよこが差し伸べた協力の手を払い除ける』ことになり、以降ちよこから凍原坂家や夜不寝家へ向けられるかもしれない陰湿な悪意に対してはその都度天井花イナリの協力が必要になってしまう。そのうえ今後天井花イナリを《天界》から護るために《フラウ》と《火庫》が戦う際も、ちよこは一切の支援をしてくれないどころか、逆に天井花イナリを排除するのに邪魔な《フラウ》と《火庫》を殺すため、一時的に《天界》側につくかもしれないのだ。
 だからきっと選択肢は無い。ちよこの計画が実行に移されていたら、どうあがいても凍原坂は協力するしかなかったのだ。
「でも、話が変わっちゃったのよね。《フラウ》ちゃん、《フラウロス》としての本来の力、いつでも発揮出来るようになっちゃったんでしょ? 《認識阻害魔術》を含めた他の《魔術》も大体使えるようになったって聞いたわ。あーあ、《認識阻害》が使えるのが私とイナリちゃんだけだったからいけそうな計画だったのに、これじゃどうしようもないわ。イナリちゃんを殺せなきゃ《転移魔術の蔵》の中にあった母さんの遺産は貰えないし、新潟の夜不寝医院の周りにリコちゃんの悪~い噂が流せなきゃリコちゃんはやっぱり東京から出て行っちゃって一恵さん達からは謝礼を貰えなくなっちゃうし、使い道があると思ってた《めいどぱにっく☆る~む》もこうなったらもう麻取に眼をつけられてた各務がボロ出して捕まる前に先に捜査員の知り合いに情報を売るくらいしか出来る事はなかったし……。もうがっかり。《天界》ももうちょっと待っててくれたらよかったのになぁ。おかげで計画が根元の部分から狂っちゃった。やっぱり私達には情報が足りてないのね。特に、《天界》の情報が……」
 ちよこはぶつぶつ言いながらそれはもう残念そうに肩を落とした。
「……何で、今日、私にこんな話をしたの?」
 改めてひづりは訊ねた。ここまでの話は別に言わなければ言わなかったでちよこには何の損もない話に思えた。むしろ妹と天井花イナリから反感を買うだけである。姉の意図が分からなかった。
 するとちよこは顔を上げ、それからもったいぶった風にゆっくりと口元に手を当て、答えた。
「お姉ちゃんね、《ボティス王がソロモン王から貰った贈り物》って何なんだろう、って、ずっと調べたり考えたりしてたんだ。だけどやっぱりそんな事どんな本にも書き記されたりしてなくて。イナリちゃんが喋ってくれない限りはどこまでも想像する程度の事しか出来ないなーと思ってたんだけど、でも、今回の事で『それがどの程度重要な物なのか』は、大体分かったんだ」
 組んだ手をテーブルに乗せ、彼女は少し顎を上げた。
「最初、《天界》にとって《それ》はとっても大事なもので、三千年前の大戦ももしかして《それ》を巡って起きたんじゃないかな? って考えたりしたんだけど、でもそれだと《天使》がその《隔絶の門》ってのを建てたきりイナリちゃんに対して不干渉を続けてるのはおかしいじゃない? だって《それ》を《ボティス》が持ってるって《天界》が知ってるのなら、その後はもう自分達のものになっている《人間界》で人間の《召喚魔術師》に《ボティス》だけを召喚させて、皆で囲んで殺して奪っちゃえばいいだけなんだから。個体としてどれだけ《ボティス》が強くても、好きなだけ《人間界》に戦力を投入出来る《天界》は間違いなく物量の差で勝てるはず。なのに三千年もの間それをしないって事は──」
 ぴっ、とちよこは人差し指を立てて見せた。
「つまり『ボティス王が持っている宝物には、天界が大軍を投じてまで奪うほどの価値は無い』、あるいは、『ボティス王が持っている宝物については、天界でも一部の天使しか知らない』、ってことだと思うんだ。もしくはその両方か。だから、月曜日にひづりと病院から帰って来たイナリちゃんが父さんや紅葉さんの前で言った、『襲撃して来てる天使たちは小規模なのかもしれない』っていう推測には、お姉ちゃんも同意なんだ。《天界》はイナリちゃんの持ち物を狙ってるはずなのに、《願望召喚》っていうので送り出されたらしい《ベリアル》は何でか私の《契約印》を真っ先に壊してイナリちゃんを《魔界》に帰そうとした。それが矛盾で分からなかったんだけど、でもイナリちゃんが言う様にこの一連の『天界からボティス王へ向けられた攻撃』が《天界》の総意で始まった作戦じゃなく、例えば《天界の多数派》の体制を転覆させるために《天界の少数派》が《アウナス》と手を組んでクーデターのための手札を集めているだけであって……端から《少数派》には戦力が足りてなくて、《願望召喚》が可能な《悪魔》の数も知れているものだから、《ベリアル》みたいな制御出来ない手駒さえ使わなくちゃいけない状況にあった……っていう事なら、それなりに納得はいくのよね。実際、《ボティス》と《フラウロス》を仕留める、なんて今回大それた目標を掲げて来た割には、戦力は《下級天使》だけで、イナリちゃんを封じ込める《檻》だとか、《フラウ》ちゃんをなぶり殺しにするための根回しだとか、理屈の上での勝算は積み上げながら、結局は実際的な戦力である《上級悪魔》や《上級天使》は投じられなかった。件の《指揮》にしても、この推測を元にイナリちゃんがでまかせを囁いたら早々に《アウナス》の名を吐いたって言うし。……まぁ、どれもイナリちゃんが《魔界》で聞いたっていうその《アウナス》の情報が正しくて、ついでに《アウナス》が本当は十分な兵力を保有しているのにその使い方が分からず持て余しているだけの馬鹿じゃなければ、の話だけどね」
 ちよこはつまらなさそうにため息を吐きながらソファの背もたれにゆっくりと体を預けた。
 ひづりは姉から視線を外し、月曜日の事を思い出した。



『──数は少ないが、わしの《思い出》の中にもかつての《アウナス》の姿は残っておる』


 《主天使》の襲撃があったあの日の夜、父と紅葉とちよこに事情を説明するにあたり、天井花イナリは例の《アウナス》についてもひづり達に教えてくれた。
 《ソロモン王の七二柱の悪魔》にも《天界》を追放され《魔界》で《堕天使》となった者は多く居た。程度の差こそあれどほとんどの者は時の中で《魔界》に順応していったが、全くそうでなかった者も居た。《アウナス》もその一柱だった。
 《アウナス》は《魔界》に堕とされて以降、従えた軍勢と共に《人間界》へ現れては《天使》が統治する国や《ソロモン王》が治めるイスラエル国などに対し散発的な襲撃を繰り返していた。軍勢の中には他の王国の《堕天使》の姿も見られ、記録によると一時期その数は《魔界》に在籍する《堕天使》の約二割にも及び、国同士の距離があり昔から交流が希薄だった《ボティス国》にさえそうした噂は届くほどだった。
 しかし三千年前の大戦を機に《隔絶の門》が建てられ《人間界》への行き来が叶わなくなると《アウナス》たちの活動は一気に縮小を余儀なくされた。つるんでいた《堕天使》たちも《アウナス》の許を離れ、以降はもう《魔界》でも《アウナス》の名はとんと聞かれなくなっていった。
 だが。


『あやつの《天界》への憎悪は他の《堕天使》のそれとはいささか質が違っておるように思える。《ベリアル》のように自身の中に規範がある訳でもなく、狂うでもなく、ただただ反逆の意志を湛えた眼をしておった。わしの《持ち物》を狙った此度の《願望召喚》。現段階では不確定要素ばかりの行き当たりばったりにしか思えんこの計画が、何らかのタイミングで確実性のある状況へと移行する……そんな算段がもしあやつの中にあるのなら……。他の《堕天使》どものように正気を失わずこの活動をしておるのなら、太古より続くその執念、甘く見る訳にはいかん──』


 《天界》への反逆に憑りつかれた《堕天使》。《魔界》と《天界》の大戦が終わり《隔絶の門》が建てられ三千年もの時を経てなお燃え続けている復讐の炎。今もきっとこちらを観察している避け難い悪意……。
「でも、そうした状況を踏まえたら、少なくとも《天界》は今回の事でかなりざわついてるんじゃないかな、ってお姉ちゃん思うんだ」
 ちよこは俄かに声を高めた。ひづりは頭を切り替えて姉の顔を見た。
「七月に《ベリアル》を使って様子見をしてきた《天界》は、『現在のフラウロスはさほど脅威ではない』って分析をして、それを元にこの間まで動いていたはず。それがまさか、《契約者》が一回死んで、蘇って、それで以って《フラウロス》の弱体化が無かった事になる、なんて、きっと組織内に走った衝撃は相当だったと思うよ。話に聞く限り《天使》も人間と同じで目の前の問題に対し須らく一致団結出来るような頭を持ってないらしいし、きっと及び腰になる派閥も出て来る。『もしや次はボティスが魔性を取り戻して、神性を封じ込める封聖の鳥篭さえ効かなくなってしまうのでは?』とか、『ボティスの契約者はあんな枚数の防衛魔法陣術式は使えないという話だったじゃないか! 監視していた連中の仕事はどうなっているんだ!』とか、『お前達こそ一体いつになったらナベリウスを見つけられるんだ! ボティスが先に奴と接触してしまったら一体どう責任をとるんだ!』とか、そんな風に統率も怪しくなって、規模が大きければ大きいほど組織の方針の統括と計画の練り直しに結構な時間を使うんじゃないかな。だから、月曜日に《フラウ》ちゃんが本来の力を取り戻した事と、ひづりが母さんと同じ強力な《盾》を手に入れた事は、《天界》や《アウナス》に対して十分な揺さぶりになったって考えて良いとお姉ちゃんは思ってる。《天界》にイナリちゃんの命を差し出す、って方法に比べたらまだまだ弱いけど、でも現状の及第点ではあると思った。……という訳でおめでとう。今回はお姉ちゃんの負け。ひづりの勝ちだよ」
 ちよこは広げた手のひらを左右ともに頭の辺りまで持ち上げて「降参」の態度を見せた。
 しかしすぐにその手をぎゅっと握った。
「……ただ、逆を言えば《フラウ》ちゃんが力を取り戻さなければ、ひづりがあの《盾》を手に入れられなければ、たとえ《主天使》たちを退けられていたとしても、お姉ちゃんは今話したイナリちゃんを排除する計画を予定通り実行に移していたんだよ。襲撃を退けた上に今回は《天界》に対する新たな抑止力を二つも確保出来た訳だけど、これで《天界》や、イナリちゃんの言う通り件の《アウナス》が諦めたとは到底思えないし、今後も奴らはこっちの様子をじっと観察して対策を練って、また自分たちの一番都合が良いタイミングで襲って来るだろうね。一時的にあっちの事情を引っ掻き回すのには成功したけど、こっちの不利は変わってない。《天界》が次の襲撃の準備を整えるまでの暇が稼げたってだけ。だから、ひづりやイナリちゃんや凍原坂さん達には、今後も戦力を増やしていって欲しいんだ。《天界》がどれだけ対策を練ろうと関係ないくらいの速度で《天界》への対抗手段を手に入れていって欲しい。たとえば私たちの近くに居るっていう《ナベリウス王》みたいな《悪魔》を探し出して味方につける、とかね。もしそれが出来ないならお姉ちゃんはそのうちまたイナリちゃんを店から除くための計画をひづりに内緒で動かし始めないといけなくなる。そしてそのために必要なら凍原坂さんだろうとひづりのお友達だろうとお姉ちゃんは《使う》。それを伝えておきたかったんだよ、今日は」
 真っ直ぐに背筋を伸ばした姿勢で、姉は虚勢でも冗談でも無い本気の声音でひづりにそう言い終えた。
「…………」
 ひづりはテーブルの上に視線を下ろし、膝の上で両手を握りしめた。
 今回も誰一人として命を落とす事無く《天使》たちの襲撃を退けられた。それに関しては本当にこの上なく運が良かった、と思っていたが、しかし嫌な予感がしていた通り、姉が企てていた最悪の結末も、自分たちは知らない間に偶然、ぎりぎりの所で回避していたらしかった。
 もし何か一つでも違っていたら。ちよこの目論見通り凍原坂家も夜不寝家も取り返しのつかない事件に巻き込まれ、人生を狂わされ……天井花イナリは、ひづりの尊敬する職場の先輩は、もうすでにこの世から居なくなっていたかもしれない。
 細い細い綱渡りで辿り着いた崩れそうなほど小さな足場に自分達は立っていたのだ、とひづりは改めて自覚させられた。これからもこんな偶然の幸運が続いていくだなんて、それこそ馬鹿でもなければ思えないだろう。
 ……けれど。
「それでも、私はこれからも付き合いをする人は自分で決めるし、その人たちを護るために戦うよ」
 《ベリアル》との殺し合いを生き延びたあの日。ひづりは天井花イナリと和鼓たぬこの味方でいたいと思った。母が遺した唯一の繋がりだからというだけではない。自分が彼女達と一緒に生きていきたいと思ったから、あの日、そう決意したのだ。今の道を選んだのだ。
「姉さんが心配してくれてるのも、私に警告しておきたかった事も、今日ちゃんと話してくれて分かった。そのうえで私は天井花さん達との付き合いを続ける。《魔術》の勉強も続けるし、これからも《天界》に負けないための方法を探していく。私が働こうと思った《和菓子屋たぬきつね》は誰にも奪わせない。それに」
 一つ大きく息を吸い、ひづりは続けた。
「姉さん、本当は《フラウ》さんの力や私の《盾》が……って言うのは、ただの建前なんでしょ? 普段の姉さんだったら、問答無用で天井花さんを店から追い出してた。そうしなかったのは、私があの時天井花さんの責任を持ちたいって言ったから、だよね? 姉さんは悪い事も冷たい判断もするけど、私の可能性をいつも最後まで信じてくれてるって、私分かってるから。これからも姉さんの期待を裏切らないように頑張る。私はまだ折れてない。だから、大丈夫だよ」
 ひづりにはもう怒りも苛立ちも無かった。姉がどういう人か知っているから。
 店内が一瞬、しん、と静まり返った。説教をする事こそあれど、こんな風に真っ向から姉と意見がぶつかったのは本当に数年ぶりの事だった。
 ちよこはその顔から表情を消し、少しうつむいた。
 それから眼を閉じ、ふふっ、と笑った。
「……そうね。バレてしまってるなら、いいわ。分かった。これからもお姉ちゃん、ひづりに期待する。……はあー。言いたいこと言ったらお腹空いて来ちゃった。そういえばお昼もあんまり食べられてないのよね。お店の片付けがもう大変で大変で……」
 そう言ってちよこはお腹をさすりながら腕時計を確認した。重く感じるほどに張り詰めていたはずの店内の空気は彼女のその気の抜けた一声で一度に霧散したようだった。
「そうだわ。お姉ちゃんついこの間この近くに美味しい定食屋さん見つけたんだよ。ひづり、ちょっと早いけど、そこで一緒に晩御飯食べて行かない?」
 そのまま腰を上げ、鞄の紐も肩に掛け直すと、もう難しい話はこれでおしまい、とばかりにちよこはいつもの調子でひづりに訊ねた。
 ちょっと気後れはしたが朝から気がかりだったり驚いたり緊張したりが続いていたためかひづりも自身の胃が一気に空腹を訴え始めたのを自覚した。
「いいね。寒くなって来たし、温かいのが食べたい」
 店を出ると外はもうすっかり日が沈んでいた。二人は点々と灯る疎らな明かりを頼りに商店街を歩き、目的の定食屋を目指した。
 姉と一緒の外食はずいぶん久々で、また日の落ちた時間の外出という事もあり、ひづりは何だかほんのりと気持ちが浮かれ、《めいどぱにっく☆る~む》で交わしたのとは違う普通の姉妹の会話を歩きながらたくさんした。秋の風に肩を竦めながら二回ほど迷子になりつつ到着した定食屋は聞いていた通りとても美味しく、体を温めてくれた。
 定食屋を出た後ちよことは池袋駅で別れた。「まだちょっと用事があるから」との事だった。姉と交わした会話の一つ一つを思い出しながらひづりは一人電車に乗って帰宅した。







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