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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
『いつかまた、本の蔵で』
しおりを挟む二週間後、夏休みが明けた。最後に《認識阻害魔術》を掛けて行ったらしい、ラウラ・グラーシャは休みの間に転校した、という話になっていた。
夏休み前は学校中で話題になっていた彼女だったが、しかし人の興味なんて単純なもので、居なくなったスーパーガールの話よりも今は自分達が休暇中に得た体験談を語り合う方が楽しいらしく、2年C組でも彼女の事を口にする生徒はほとんど居なかった。
始業式の直前、九月十四日にはひづりの誕生日会が開かれていた。すでにラウラがもう日本に居ない事は話していたため、アサカもハナもひづりを元気付けようと買ってきた材料でケーキを手作りしてくれたり、家庭用ゲーム機をわざわざ家から持ってきたりしてくれた。そのおかげか、こうして誰もラウラの事を語らなくなった教室に居ても、ひづりはそこまでつらい気持ちにならなくて済んでいた。誕生日プレゼントにとハナがくれた下品な下着は心の底から要らなかったが。
午前中で授業が終わると生徒らは、そのまま帰る者、もう少しだけ久々に会った級友らと話がしたい者とで綺麗に二分していたが、しかし運の悪いことに登校初日が当番だったひづりと百合川はそのどちらでもない、図書室の大掃除を命じられていた。
先に帰ってて良いよと言ったのだが、アサカもハナも「すぐ終わるんでしょ。みんなまだ話し足りなくて教室に残ってるし、追い出されるまでは私たちもここで待ってるよ」と言ってくれた。なるべく早めに片付けて三人でお昼を食べに行きたいとひづりは思った。
掃除は大まかに埃を叩いて換気をしておく、という簡単なものだったが、もう一つ、ひづりには今日中に片付けておこうと思っていた問題があった。
割と深刻で、何より他人には知られる訳にはいかない、もしかしたらちょっと長引くかもしれない問題が。
「百合川、お前、なんのつもりなんだ」
それは彼のことだった。百合川は今日一日なぜか眼を合わせてくれず、また話しかけてもやけに他人行儀だった。なので放課後図書室で丁度二人きりになるとあって、ひづりはいよいよ以って指摘したのだった。
「な、なんでしょうかひづり様」
彼ははたきを手に背筋を伸ばした。その顔は緊張しており、やはり視線を合わせようとはしない。
ひづりは眼を細めてから盛大にため息を吐き、詰め寄った。
「そういうところをやめろって言ってるんだ。ラウラに私を守れって言われたのを実行してるつもりなのか? それともあの趣味を私に知られたのが今更恥ずかしくなって距離を置きたくなったのか?」
ネクタイを人差し指で突きながら睨みつけると、彼はちらりと一瞬ばかり視線を合わせた後また眼を泳がせ、脂汗を掻きながら言った。
「……りょ、両方です」
この野郎。あの時は散々人の事《百合ハーレム》だの好き放題言いやがったくせに。それを言うならこっちだって本当にお前が死ぬんだと思って、お別れのつもりで好きとか言っちまったんだぞ。
……とにかくこんな調子では困るのだ。特に「様付け」がまずい。ただでさえ中学時代の噂が一部で今も流れているらしいのに、夏休み中に百合川臨は官舎ひづりにシメられた、なんて話にでもなってみろ。一緒に図書委員してる私が何か悪い奴みたいだろうが。殴ったのは本当だけども。
なのでひづりは腕を組み、はっきりと言ってやった。
「あんたのバカな《契約》については、もうあの一発で許したんだ。許したんだから、許されたなりの行動してくれなきゃ困るよ。特にハナはこういうの感づきやすいんだ。もし問い詰められたらどうするのさ。そもそも、ラウラは私に迷惑掛けるなって言ってたんじゃなかったか? そこ、どう考えてるわけ?」
すると百合川はハッとした様子で眼を丸くした。それから眼を閉じて一つ深呼吸をすると、徐に頭を下げた。
「……すまん。官舎も、今まで通りにしよう、って思ってくれてるんだもんな……。俺がこんなんじゃ駄目だよな……」
趣味を知られた事などの気まずさは確かだろうが、あれからきっとまた彼なりにラウラや《願望召喚》について考えてみたのだろう。
ただやはり《魔術師》ではない普通の学生である彼に出来る事は一つしかない。果たせる約束は一つしかない。
「ああ、だからこれまで通り頼むよ、相棒さん」
右手を差し出すと、百合川は照れくさそうにしながらもちゃんと握手を返してくれた。
「……そういえば訊いてなかったけど、あの趣味については黙ってればいいの?」
分厚いカーテンを動かし、窓を開く。九月の半ばとは言えまだ俄然昼の太陽は高く、その眩い光は室内の埃をきらきらと浮かび上がらせた。
「あ、ああ。悪いけど頼むよ。味醂座や奈三野にも秘密にしててくれると助かる」
「分かったよ。私も二人に百合川が気持ち悪いやつだって知らせて、不快な思いさせたくないし」
「ぐふっ。何も言い返せねぇ……。でも友達想いな官舎、とても良い。とても良いぜ」
……こいつ、趣味がバレてから若干キモくなったな。いや、元々こんな感じだった気もするが。
カーテンを纏め終え全ての窓と出入り口の扉を開け放った図書室の中を、仄かに花の香りを連れた涼しい秋風が通り抜けて行った。
窓辺に立ったままひづりはそこから見える中庭と、そしてその向こうに広がる白んだ街並みを眺めた。
一ヶ月前、ここに一人の少女が居た。彼女は学校中の誰より聡明で、自由気ままで、人の紡いだ文字というものをどこまでも愛していた。
あの時、埠頭で「いつか必ず私があなたを召喚する」とひづりは言ったが、それがいつ頃になるかは正直分からなかった。天井花イナリの補助あってどうにか《防衛魔方陣術式》だけは扱えるに至ったが、しかしそもそもまだ《魔力》の操作さえちゃんとものにしていない。官舎ひづりが《ソロモン王の七二柱の悪魔》を呼び出せる程の立派な《召喚魔術師》になるには、まだまだ時間が掛かりそうだった。
けれどそれでも、きっと不可能ではないはずだ、という前向きな想いがひづりの胸にはあった。性格に難はあったが自分は三柱もの《悪魔》を従えていた女の娘であり、そしてその内の二柱からはこの上ないほどの期待を寄せられている。待っていてくれている。
だからきっと、いつの日か――。
「官舎、教室戻ろうか」
掃除道具を片付け終えた百合川が言った。ひづりも頷いて、机に乗せていた鞄を担いだ。
廊下に出た百合川に続いて受け付け台横の出入り口に立った時、ひづりはもう一度その陽光が差し込む図書室を振り返った。
……またね、ラウラ。
夏の終わりを告げる柔らかなそよ風がまた彼女の愛した本の蔵を流れて行った。
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