和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐

   『全部、私が貰ったから』

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 繰り返す……? ひづりはラウラと市郎の顔を交互に見比べた。市郎はうつむき、そんな彼をラウラは責め立てる様に険しい面持ちで睨みつけていた。
「先ほどのエドガーの話です。彼は自身が学び、しかし輝かせる事がついぞ出来なかったメレルズ家の血筋と《魔術》を、才能のある孫娘の万里子に託しました。それは結果的に万里子の人生を救い、ひづりを誕生させる未来へと繋がりこそしましたが、彼の主目的は自分の生きた証明を遺すことであり、その不完全な《魔術》の知識によって万里子が将来どうなるかなど、少しも考えてはいませんでした」
 一歩一歩、ラウラは市郎の元へと歩を進めた。
「エドガーはあまりに無責任でした。もし万里子が召喚したのが私以外の《悪魔》だったら、《契約》を果たしたその日を以ってあの子は殺されていたでしょう。当然、それはひづりの生まれて来ない《未来》です」
 ラウラの体から闇黒の影がふつふつと漏れ始めていた。その形を持った殺意が彼女の髪や頬を覆い、双眸をまるで燃え盛る炉の様に輝かせていた。
「万里子にとって、祖父としても、《魔術師》としても何もかもが中途半端で終わった男。導いてあげることも、守ってあげることもしなかった卑劣な男……。誰かに似ていませんか。ねぇ、花札市郎?」
 立ち止まったラウラの全身から溢れ出す暗闇は、もはや目の前の市郎を呑み込まんとする勢いだった。
「今のひづりの人生は、万里子がかつて置かれた環境と似てきています。《魔術》に触れ、《悪魔》と出逢い、そして彼女は自分自身の意思で《悪魔》たちと共に生きることを決めました。ただ万里子と違い、ひづりのそばには《ボティス》が居ます。《魔術》関連についてなら何も心配は要らないでしょう。ですが――」
 彼女は市郎の顎を乱暴に掴むとその顔を無理矢理上げさせた。
「二年前。ひづりの父方の祖父母、官舎治憲と官舎季夏子は交通事故で死にました。故に市郎、ひづりにとってもう祖父と呼べる人物はあなたしか居ません。しかし、それを知っていながらあなたはひづりを避けていますね」
 岩国の白蛇神社で見た《ボティス王》の本来の長身。それと同じくらいの背丈を持つラウラの腕も、やはり太く大きかった。掴み上げられた市郎の顎は今にも握り潰されそうで、傍らの千登勢は気が気でない様子だった。ひづりもそばで警戒を続けてくれている天井花イナリに思わず助けを求めようかと視線を向けたが、しかしそこでラウラが今言った事に一つ思い当たり、顔を上げた。
 初めて千登勢が《和菓子屋たぬきつね》に訪れた日、足をくじいた彼女を車で迎えに来た彼はひづりに「娘が世話になりました」と簡潔に述べ、頭を下げ、ただそれだけの会話で帰っていった。次に千登勢に頼んで岩国への旅行に誘った際、彼は仕事の都合で行けない、と返答した。旅が終わり、《ベリアル》の襲撃のせいで疲れ果てていた千登勢を駅へ迎えに来た際も、彼はその場の誰ともほとんど言葉を交わさなかった。
 何となく分かっていた。虐待を受けていた扇万里子を守れなかったその実の父親、花札市郎。お盆の最終日、家へ帰る車内でひづりが幸辰と話した事。複雑な事情から花札家は官舎家と長らく友好的な交流を持つことが出来なかった。
 加えて官舎ひづりは官舎万里子と顔立ちや体格がよく似ている。市郎が自分と顔を合わせるのが苦痛であろうことは、ひづりにも察せていた。
 けれど。
「顔を上げて、ちゃんとひづりの顔を見なさい。孫娘の顔を見なさい」
 ラウラは掴んだままの市郎の頭をぐいと引っ張り、その顔をひづりに向けさせた。眼が合い、ひづりは思わず背筋を伸ばした。
「万里子の葬式、本当は行きたくなかったんでしょう。何もしてあげられなかった、自分より先に死んだ長女の遺体と向き合う勇気が、あなたにはなかった。けれど、あなたは次女の千登勢のために、一緒に行ってあげた。それは褒めてあげます。ですが、先月のひづりや千登勢が行った岩国への旅行、あなたは嘘を吐きましたね。何の予定もなかったくせに、予定が合わないなどと抜かして、ひづりからの誘いを断った……。言いなさい、この場で。何故あの時ひづりからの誘いを断ったのか」
 背中を突き飛ばされ、市郎はひづりの前に倒れこんだ。
 悲鳴を上げた千登勢が彼のそばへ駆け寄ろうとしたが、ラウラの腕がそれを阻んだ。
 市郎は地面に手をついて力なく上体を起こすと、うつむいたままぽつりぽつりと言葉を零し始めた。
「あなたが、私に何をさせたいのか分からない……。あなたは万里子の友人で……私が万里子を扇家に置き去りにしたことが気に入らない、というなら、この場で私を殺せばいい……!」
 振り返り顔を上げ、彼はラウラに向かって吼えた。
「その角や爪は、人を殺すためにあるんだろう! 年寄り一人殺すなど訳もないんじゃないか!! どうした、やってみせろ!!」
 刹那、ひづりは息が出来なくなった。
「口を慎んでください……」
 ラウラの口から漏れたその低く這うような声は、まるで地震の如く空気を揺らがせ、広場と言わず近辺一帯のあらゆる音を潰したかの様だった。
 激怒している。これまでの会話でも彼女は憤怒の感情をその黒い影と共に何度も露にしていたが、これは度合いが違った。
「ラ、ラウラ……?」
 ひづりは思わず彼女の名を呼んだ。するとラウラはにわかに眼を微かに見開き、顔を上げてゆっくりとひづりを見た。
 彼女の体中を覆う殺意の影が、誰の眼にもはっきりと分かるほどに縮小した。
「……ふ、ふふふふふ。ええ、《約束》は違えません。忘れていません。守りますよ、ひづり。ラウラ・グラーシャは、あなたの気持ちを裏切ったりはしません」
 ラウラは一つ頭を振るとまたその顔に穏やかな笑みを浮かべ、減少した影を更に小さくしてついには消し去った。
 彼女は再び花札市郎を見下ろした。依然としてその眼差しには冷たさがあったが、ひづりの声掛けがあったゆえか、平静だけは保たれている様子だった。
「……良いでしょう。ひづりのためを想い、私がなるべく穏便な話し合いにしようと計らってあげていたというのに、せっかく気を遣ってやっていたのに、そうも駄々をこねるのなら、もう一切の遠慮はしません」
 ひく、と口角を上げてラウラは目を細めた。
「ひづり、ここで一つ問題です」
 彼女は胸を張り再度ひづりに向き直ると言った。
「仮にですが、来月辺り、この市郎が急に心不全なり脳出血なりを起こして死んだとして、その時、彼の遺産は誰のものになると思いますか?」
 出し抜けの、そして少々口にし辛い話題の問いを振られ、ひづりは面食らって言葉に詰まった。
 しかし、それにも意味はあるはずなのだ。この場で彼女が無駄な問いをする訳がないことは、もう充分に分かっていた。
「それは……やっぱり千登勢さん、じゃないの……?」
 答えつつ、ひづりは母方の叔母、市郎の次女である花札千登勢へと視線を向けた。母が死んだ際の手続き等々は父と姉が全てしてくれていたため、ひづりは遺産相続に関してちゃんとした知識は無かったが、それでもさすがにそれくらいは分かった。
 ラウラは腕を組んでうんうんと頷いた。
「そうです。市郎が死んだ場合、その娘である千登勢はもちろん相続人です。市郎は相続分配に関して遺言書に特に何も書いていませんからね。ただ……厳密に言うと、ひづりの答えは三分の一正解、というところです」
 人差し指をぴんと立て、彼女は得意げな顔をした。
「よせ……。やめろ……!」
「はい黙っててくださいね」
 市郎は地べたを這いずる様にラウラの元に寄ったが、しかし彼女は即座にその鋭い足の爪で土や砂を掘る様に蹴り上げて彼の顔にぶちまけた。彼はうなり声と共にまたうずくまった。
「人が死ぬと、その遺産の相続権はまず配偶者に与えられます。しかし市郎の妻だった億恵は私が殺しましたし、離婚後市郎は再婚していません。現在は恋人も居ませんし、千登勢以外の子供も居ません。なので配偶者枠に受け取り口がないのです。よって順位上、一番目の位置に居る娘の万里子と千登勢がその相続人になるのですが……言うまでも無く、万里子も故人です。被相続人が死ぬ以前に、その娘が先に死んでいる。となるとですね、万里子に与えられるはずだった相続権というのは、順位が一番目のまま、その子供に移るんですよ。つまりはちよことひづり、あなた達です。市郎が死んだ際の第一遺産相続者は、花札千登勢、吉備ちよこ、官舎ひづり、この三名となるんです」
 ちらと彼女は視線だけで市郎を見下ろした。
「市郎は現在負債を持っていませんし、それなりの財産もあります。大方、贖罪のつもりなのでしょう。万里子への罪悪感、孫のちよこやひづりに対して何も出来る自信がない……だからせめて有って困らない金を遺す…………。ハッ。全く以って気に食いませんね」
 ラウラは再び地面を蹴って市郎に砂を被せた。
「自分がひづりに遺してあげられるのが金銭だけだと? ハハァ、思い上がりもここまで来ると滑稽ですか。よく聴いてください、市郎。さっき《ボティス》に預けた財宝があればですね、ひづりはどの国でだって、一生遊んで暮らせるんですよ。あなたの遺産なんて所詮は端金。お呼びじゃあない、って事です」
 土埃に塗れた市郎の白髪を掴み上げ、ラウラはニヤリと笑って見せた。
「そんなことないわお爺ちゃん、お金はいくらあっても困らな」
 そこまで言ったちよこの口を、天井花イナリの髪がいつか《ベリアル》にしたようにばちっとまるで輪ゴムでとめる様に覆った。ありがとう、天井花さん。
「じゃあどうするんですか? 日本人男性の平均寿命を目前にした、余命いくらも無い花札市郎は、孫の官舎ひづりに対して、一体何をしてあげられるんでしょうね?」
 手を離し、ラウラはまた市郎の体を雑に地面に転がした。
「怖いんでしょう」
 締めくくるように発されたそれは重く鋭く、そして冷たい声だった。
「何も出来ずただ生きて来たこの四十五年間を、とても孫には見せられない無様な自分の人生を、万里子の子供であるひづりに叱責されることがあなたは怖かった。だからほとんど交流の無いひづりとの関係をこのままに、私に対し、この場で殺せ、なんて言い出した。恰好つけに遺産相続だけはしっかりとして。……甘ったれるんじゃありませんよ」
 広場の中央、砂埃の中で座り込む年老いた白髪の男にラウラは容赦なく叱咤の言葉を投げつけた。
「…………怖くて、何がいけないんだ……」
 顔を伏せたまま、市郎は地面についた両手を握り締めて言った。か細く震えた声だった。
「私は万里子に何もしてやれなかった。あの子が苦しんでいた時も、千登勢があの子のために何かしたいと言い出した時も、私は何もしなかった。離婚の日、扇家を出た日、私は自分と千登勢の命を守る事を決めた。万里子に恨まれてでも、せめて千登勢だけでもまっとうな暮らしをさせてやりたいと、私はあの子に背を向けた……。なのに、あの子はそれでも幸せになる事を願った。恋人と手を繋ぎ、想像もして無かった、千登勢と再び姉妹になって、千登勢に《ヒガンバナ》くんを寄越して……日本に帰って来るたび、あの子はどんどん明るくなっていった……。あの子の笑顔は私が与えたものじゃない。一つとして、私はあの笑顔のために何もして来なかった。あの子の幸せは、幸辰くんや千登勢、周りの人々の祝福のおかげだ。……そんな私が、どうしてあの子の娘の前で……一体、どの面を下げて、祖父を名乗れるというんだ……!」
 土に拳を叩き付けて彼は叫んだ。
「何もしてあげられはしない! 私は無力で、何も無い……無駄に年老いただけの卑怯者だ……! ……赤ん坊だった万里子を腕に抱いた、あの重さとぬくもりを忘れた事は一度だってない。……それでも、私はあの子を見捨てた……。あの子の悲鳴が忘れられない……。そうとも。私などがひづりちゃんにしてあげられることなど……君が端金と言った、わずかな遺産くらいしか無い……生きている価値すらない、ひづりちゃんに顔向け出来ない、無様な老人だ……。出来る訳がない……私にはもう……何も……」
 彼は丸めた背中をより小さくして嗚咽を漏らし始めた。
 そんなことはない、と、孫なら本来そんな言葉をかけるべきなのだろうが、しかしそれよりもひづりは今彼が口にした言葉についカチンと来てしまった。
 だから、言った。
「馬鹿なこと言わないでくれますか」
 ほぼ怒りに任せたその声音に、広場中の視線がひづりに集められた。びくりと肩を震わせて市郎はその泣きっ面を上げたが、ひづりは構わず続けた。
「無力だった? 何もしてやれなかった? 勘違いも甚だしいです。その認識は大間違いです。いいですか、何もしなかった親っていうのは、私の母みたいな人を言うんです。一年中ほとんど海外に居て、親戚付き合いも育児も何もかも父さんに任せっきり、それでいきなり帰って来たと思ったら、私達の都合も聞かずに攫うように旅行へ連れて行って、姉さんと揃って我侭三昧。旅先で母親と姉のために頭を下げさせられる気持ちが分かりますか!? 親子間の尊敬、なんて言葉とは死ぬまで無縁だった女です。それに比べれば市郎おじいちゃんなんてどんなものですか。あんな女が胸張って生きてたんですよ。あんな女が! 冗談じゃないです。千登勢さんをこんな素敵な人に育てた市郎おじいちゃんがあの女より下なんてこと、どう考えたってある訳ないでしょう」
 つらつらと胸に抱いたままの衝動をそのまま言葉にした。
 当然と言えば当然か、ろくに話もしたことがなかった孫娘に初めて怒鳴りつけられた市郎は眼を丸くして呆気に取られていた。
 少し落ち着いてきたところでひづりは一度深く息を吸い、冷静さを取り戻した声で続きを伝えた。
「あなたの長女は、生涯亘ってとても尊敬出来る人間じゃありませんでした。……でも、一つだけ、ちゃんと立派だったことがあります」
 ひづりは隣の父の腕を掴み、寄り添った。
「死ぬまで父さんの事を愛してました。帰って来るたび、歳を考えなさいよってくらい、家の中でも外でもイチャついてました。勘弁してもらいたかったですが、でも、おかげで分かりやす過ぎるくらい、私の両親は仲良しなんだな、ってことだけは、物心つく前からそうして教えてもらってきました。憧れるなんて言葉とは程遠い母でしたが、それでも、それだけは立派だったと思っています」
「ひづり……っ」
 感極まった様子の父を放り、ひづりは今度はつかつかと歩いて千登勢のそばへ立つと市郎の方を向いたまま、抱きしめ甲斐のある彼女の体をぎゅうと捕まえて見せた。
「母さんは千登勢さんと仲良しだったんでしょう。千登勢さんの顔を見れば分かります。母さんは、千登勢さんの姉で居られて幸せだったはずです。母さんにそんな恵まれた人生をあげたのは誰ですか。母さんに、千登勢さんっていう素敵な妹をあげたのは誰ですか。市郎おじいちゃんでしょう? 市郎おじいちゃんが扇億恵と離婚したから、千登勢さんを扇家から連れ出したから、この今があるんでしょう? 母さんが市郎おじいちゃんの事どう思ってたのか聞いてませんし知りません。でも千登勢さんのことに関してだけは、母さん、市郎おじいちゃんに感謝してたんじゃないんですか。どうですか千登勢さん。母さんは市郎おじいちゃんのこと、恨んでいる様子でしたか」
 抱きしめたまま訊ねると千登勢は依然困惑気味だったが、それでも父親に向き直るとひづりの言葉を肯定した。
「姉さんは、父さんへの恨み言なんて、一言も言っていませんでしたわ! ただ、ただ、わたくしのこと、ずっとずっと甘やかしてくれました!! それが十分な答えだとわたくしは思います!!」
 千登勢を解放するとひづりは再び市郎の前まで歩き、言った。
 一番、この人に伝えたいことを。
 伝えなくてはならないことを。
「……市郎おじいちゃん。母さんや千登勢さんから聞いてるかもしれませんが、私、すごく父さんに心配掛けてるんです。困らせてます。悲しませたりも、してます。良い娘になろうって思ってるんですけど……なかなか上手くいきません。けど、今の自分がどうにか真っ当に生きていられるのは、どう考えても父さんや紅葉さんや甘夏さん、それから良い友達が居てくれるからなんです。じゃないと、きっと今頃姉さんみたいなろくでもない人間になってました。周りの人が見守っててくれるから、今の私があるんです。だから……」
 思わず喉が詰まった。一際、勇気の必要なお願いに思えた。けれどふと視線が合った隣の天井花イナリのその朱の瞳に、ひづりの胸の緊張はにわかに晴れた。
 天井花イナリと和鼓たぬこ。二人が幸福な《今》を掴み取ったのは、他でもない天井花イナリの踏み出した一歩だった。
 なら、私もそうなりたい。誇らしい彼女の《契約者》として。
 どこまでも恵まれた家族を持って生まれた人間として。
「私のために、おじいちゃんをしてくれませんか」
 ラウラの言いたかったこと。これからの花札市郎に出来ること。
 あの日、花札千登勢と出会ってから、官舎ひづりがいつかそうなって欲しいと願っていたこと。
 ひづりの口はそれを言葉にした。
「私は、これからも千登勢さんと仲良くしていきたいって思ってます。それに《ヒガンバナ》さんは、天井花さんのそばで何か出来る事が幸せみたいですし、天井花さんも《ヒガンバナ》さんとお話するのは楽しいみたいです。二人が幸せそうなのは、私も嬉しいです。千登勢さんとも、《ヒガンバナ》さんとも、天井花さんとも、私はこれからも楽しくお話出来たらな、って思ってます。そして、そこに市郎おじいちゃんも居てくれたら……。そうしたら私、母さんの墓前で一つ、胸を張って言ってやれるんです」
 自然と柔らかな笑みがひづりの口元に浮かんでいた。
「『お前の可愛い妹も、その妹に贈った《悪魔》も、最期に人生懸けて召喚した強くてかっこよくて素敵な《悪魔》も、そして市郎おじいちゃんも、みんなみんな、今は私が独り占めしているぞ。どうだざまぁみろ』って」
 そうだ。そう言ってやりたかった。
 私は幸せだぞ、と。母さんが遺したもの、余す事無く全部私が貰ってやったぞ、と。
 だから後は私に任せて、安心して、もう痛いことも怖いことも無いそこで、静かに寝ていてくれ、と。
 ただ出来れば母が聞けるうちに、死ぬ前に、それを言ってやりたかった。日本から遠く離れたイギリスの家で独りぼっちで死ぬと分かっていたら。愛していた父に看取られることもなく、そんな寂しい死に方をするつもりでいたと分かっていたら。
 それくらいはしてやったんだ。あんな母でも。
 してやりたかったんだ。
「……私は……」
 その声からは拒絶の響きこそ消えたようだったが、けれど市郎はまだ受け入れられない様子で逃げる様に視線を逸らした。
「お父さん」
 するとにわかにひづりの背後で千登勢の声がした。はっきりとしたその声音に市郎は顔を上げ、ひづりも振り返った。
 制止の意図を以って突き出されていたラウラの手は下げられており、その隣で千登勢は眉根を寄せ、お腹の前では両手を握りしめて、口は一文字に結ばれていた。
「お願い。ひづりちゃんとちゃんと向き合ってください。ひづりちゃんは全部自分で決めて、今ここに居るんですのよ」
 座り込んだままの父とひづりの元へ、彼女は歩を進めた。
「……お父さん、今年で何歳ですの」
 柄にも無く険しくした目元で彼女は市郎に問いかけた。市郎は呆気に取られている様子で、丸くした眼で次女を見上げていた。
「な、ん、さ、い、で、す、の!!」
 腰に両手をつき、裸足の両足を肩幅より広げ、千登勢は全身を用いて怒った態度を見せ付けた。
「な……七十、三、だ……」
 彼は気圧されるように答えた。おそらくは父である彼をして、それでもまるで見慣れないものなのだろう、千登勢がこんな風に怒るのは。似合わないその様子からひづりにも分かった。
 千登勢は背筋を伸ばすと力強く声を張った。
「きっと、もうこんな機会は二度と来ません。突然に過ぎることでしたけれど、この《グラシャ・ラボラス》さんが作ってくれた、せっかくの話し合いの席なんですのよ。お父さんがそんな風に嫌がって帰りたいと言っても、わたくしはまだ絶対に帰りませんわ! だって――」
 彼女は出し抜けに悲しげな顔をしてうつむいたが、すぐにまた父の顔を真っ直ぐ見つめて言った。
「死んでしまったら……もう二度と会えないんですのよ」
 千登勢の眼と鼻は仄かに赤くなり、その声も震えていた。
「姉さんのことで、お父さんがずっと後悔してきたのは知っています。ずっと見て来たんですもの。その罪悪感が消える訳ないことだって、わたくしにも分かります……。……でも、でもね、お父さん……。ひづりちゃんは、姉さんの事で初めてわたくしとお話してくれた時、わたくしたちと仲良くしたいって、そう言ってくれたんですのよ」
 両手でスカートをぎゅっと握り、ぼろぼろと涙を零しながら千登勢は続けた。
「ひづりちゃんは、それでも良いって言ってくれたんですのよ。わたくしが、ひづりちゃんに姉さんの面影を見ても、それでも良いって……。迷惑を掛けたのに、それなのに、姉さんのことは姉さんのことだから、またお店に来てください、って、わたくしにそう言ってくれたんですのよ」
 ぐしりと涙を拭うと彼女は改めてその目元をキッと凄めた。
「ひづりちゃんが歩み寄ってくれたんですのよ。官舎ひづりちゃんが、花札のわたくし達に! それをどうして無下になんて出来ますの? わたくし達にそんなことをする資格があるんですの? お父さんは、そこをどう思っていますの!? これはお父さんのためでも、姉さんのためでもありません。ひづりちゃんのためです。お父さん、お願いです。ひづりちゃんのために、おじいちゃんをしてあげて欲しいんですの。後悔を抱えて生きる辛さはお父さんが一番知っているの、わたくしは知っています。だからわたくしはもう、それをひづりちゃんに背負わせたくないんですの……。お父さんも、ひづりちゃんに幸せになって欲しいんでしょう……?」
 千登勢の問いのあと、広場はしばらく静寂に包まれた。
「…………いいのか」
 やがて市郎が言葉を零した。
「許して、もらえるのか。私が、あの子の娘に、祖父と呼んでもらえるような……そんなことを、望んでもいいのか……」
 かすれた声で、彼はすがるようにラウラに訊ねた。
「馬鹿ですかあなたは。訊くのは私にではないでしょう。隣のひづりに、その無様な頭を下げて、お願いするんですよ」
 呆れた顔でラウラはひづりの方を顎で指した。
 まさに恐る恐るという具合に彼はひづりを振り返った。そして千登勢と《ヒガンバナ》に支えられ、よろよろと立ち上がった。
「ひづりちゃん……」
 母方の祖父、花札市郎が面と向かって名前を呼ぶ。
 けれどそこでひづりはにわかに片手を胸の辺りまで挙げ、「ちょっと、その前に」と声で遮った。市郎は面食らった様子だった。
「ごめんなさい、市郎おじいちゃん。その前にまだ少しだけ、私の話を聞いて欲しい」
 市郎は怯えたような眼のまま、けれど「ああ、ああ、分かった。聴くよ」と頷いてくれた。
 すうと深呼吸して、それからひづりは彼の隣の千登勢と《ヒガンバナ》を見て、微笑んだ。
「市郎おじいちゃん、初めて会った時も、その後も、今日も……全然私と眼を合わせてくれなかった。それってやっぱり、母さんと似てる私の顔を見るのがつらかったから……?」
 問うと、彼はやはり視線を背け、しかし小さくではあったが頷いた。
「うん……だよね。何となく分かってた。……でもね。千登勢さんが代わりに言ってくれたように、私は今、それでも良いんだ。私、母さんの事好きじゃなかったし、今も好きじゃないけど……でも最近は、別に母さんに似てるって思われても良いや、って、そんな風に思えるようになって来たんだ。それは千登勢さんと知り合って、色んな《悪魔》と知り合って、それから信じられない事に母さんが人助けをした、って話も聞いて……母さんがどんな事して、どんな風に生きて来たのか、それが少しだけ分かったからです。……だから、千登勢さんや市郎おじいちゃんからこの顔に母さんの面影を見られても、私はそれで全然構わないって、思うんです。今もあまり胸を張っては言えませんが、それでも私は母さんの娘だから。父さんと、あの人の血を分けられて、ここに生きているから」
 歩み寄って、祖父の両手を握る。しわだらけの手。初めて触れる人の手。
 けれど、その爪や指の形から一目で血縁者だと分かる手。
「そういうわけだから、私は母さんのことは結構どうでも良いの。それよりももっと大事なことがあって……今日は、それをラウラがこうして場を作って、促してくれたから……うん、ちゃんと話したいと思ったんだ。市郎おじいちゃんに、こうやって、ちゃんと」
 皺に埋もれた市郎の両眼を見て、それから隣の千登勢とも顔を合わせて、ひづりは伝えた。
「こんなに素敵で、とっても可愛い叔母の居る人生を私にくれて、ありがとう」
 彼は顔をぐしゃりと潰すように瞼をきつく閉じると嗚咽を漏らしながらひづりの両手を握り返した。市郎を支えたまま千登勢がまた泣き出してしまった。
「……さっきのお願い、改めて聞いても良い? これからは、私と姉さんのおじいちゃんをしてくれる……? 今度旅行に誘ったら、千登勢さんと一緒に来てくれる? 体に無理のないように近場で良いから、たまにどこか、一緒に出かけてくれる? 私に、おじいちゃんの孫として過ごす時間をくれる……?」
 市郎は咽び、息苦しそうにしながらもその顔を上げると何度も頷いて、言った。
「ごめんよ……ごめんよ……先月の旅行、行けないなんて嘘を吐いて……。ああ、ああ……! きっと行こう……! 美味しい物を食べに行こう……! ……ありがとう……ひづりちゃん……万里子の子供に生まれて来てくれて……ありがとう…………!」
 孫娘の手を握り、そして《ヒガンバナ》に支えられたまま、彼は千登勢と一緒になってしばらく泣き続けた。
 ひづりは千登勢のその子供っぽい泣き顔に、また母を想った。
 この結果を悔しがってくれるだろうか。きっと近く四人で墓参りに行く。その時に予定通り自慢をしよう。
 今、あんたの娘がどれだけ幸せで、どれだけ満ち足りているのかを。
 そしてどうせもう暇でやる事もないんだろうから、そこで指をくわえて見ていたらいい。
 あんたと同じように《悪魔》と一緒に生きていく、そしてあんたの分もずっとずっとみんなと幸せに生きていく。
 そんな私(むすめ)の人生を。





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