和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐

   『これからもお盆の日を』

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 二十一歳の夏前、父と弟が何か秘密にしている事に気づいた。男同士ちょっとした秘密、という具合ではない。口を閉ざす父の態度から、それは危険なことで、だから誰にも話せない、という感じだった。聞き出せない、はっきりと何なのか分からないながら、甘夏はそれだけは察していた。
 しかし幸辰が悪評の絶えない扇家の長女と親しくしている、という噂は、社会人となった甘夏の耳にも届いていた。単純に甘夏が人付き合いを広く浅くしていたためであったが、それであってもそんな話が聞こえてくる程に扇家というのは昔から一帯で問題視されていた一族だった。心配して、甘夏の友人が教えてくれたのだ。
 そんな扇家がついに娘への虐待と警察との贈収賄問題でニュースになった。父と、特に弟が、保護されたという扇万里子の元へ忙しく足を運ぶようになっていた。
 父と弟が何を秘密にしていたのか理解した甘夏は同時に背筋が一気に冷えた。扇万里子を助けたのが二人の助力によるものであるなら、必然的に近いうち、拘留された扇億恵からの指示で《猿舞組》が官舎家への報復に出る。扇万里子に関わった人間が《猿舞組》から襲撃されたという噂は有名だった。
 父親に問い詰めた甘夏は、そこで《猿舞組》と扇家の関係がすでに冷え切っている事を聞いた。しかしそれでも到底安心出来るものではなかった。何もせずとも直に没落するであろうとはいえ、まだ扇家には資産があるはずなのだ。当主の扇億恵は薬物中毒だと言う。であれば、すでに冷静な思考など出来ないのではないか。だから学校に乗り込んで逮捕されるような馬鹿をやらかしたのではないのか。なら、残り財産を投げ打って官舎家への報復に《猿舞組》を雇う可能性はまだ十分にあるのではないか。
 その時、甘夏は一人の同級生の顔を思い出した。
『最近、金持ちのオバサンと付き合ってるんだ』
 十ヶ月ほど前、甘夏は高校の知人たちと、同窓会というほど立派なものではないが、数十人で集まって年始の飲み会をした。その時に半沢章吾も居て、彼はそんな事を得意げに語っていた。
 その相手というのがまさに問題の扇家当主、扇億恵だった。危険なんじゃないか、と心配する同級生らの言葉も無視して、彼は良い気分で羽振りよくその日かなりの金を使っていた。
 甘夏はそういった情報を正確に記憶して忘れない性分だった。時にはそれら人の《弱み》というものを利用して人を騙したり自身の希望する行動を促すこともあった。だから甘夏は「いずれ使えるネタだろう」と思い、その時は一つの手として頭に入れていただけだった。
 しかし。
「家族を守るために、甘夏はその情報を使う事にしました。それが間接的な殺人であると覚悟した上で」
 時計が回り、映像が切り替わる。日付はその翌日、場所はやたらに大きな和式建築の豪邸の前だった。先ほどと同じく停止状態の映像の中、その門の前にはまるでお祭のように大勢の人間がカメラやマイクを手にして詰めかけていた。人垣の間から、門の横に貼られた『扇』という表札がどうにか窺えた。
 そしてその一角には二十一歳の官舎甘夏の姿があった。
「届いた手紙を億恵からの物だと勘違いした半沢が指示通り駅のロッカーで荷物を回収し、そのまま都内の空港へ行くのを確認したその翌日、甘夏は扇家の前へ足を運びました。目的はさっき言った通りです」
 半沢が沖縄へ逃げた後、甘夏はでっちあげた噂をこの場に集っていた人々の間に流した。

『実の娘を虐待していた母親、扇億恵には、内縁の夫とは別にもう一人、若いツバメが居た。その男は億恵から扇家の隠し資産を受け取っていて、扇家と長年良好な癒着関係にあった《猿舞組》、その商売敵である《犬祭組》の元へと逃げ込んだ。《犬祭組》は男を連れて北国へ逃げた』

「加えて、その日のうちに甘夏は匿名の情報提供者としてゴシップ雑誌数社にもこれを売り込んでいました。近辺に流れたその噂と雑誌社によって書かれた記事はすぐに《猿舞組》と《犬祭組》の元へと届きました。億恵が逮捕された時点でその経営する会社も倒産すると踏んでいた《猿舞組》はすでに扇家との関わりを絶つ判断をしていましたが、しかし億恵の不倫相手が、敵対する《犬祭組》に金を渡らせたと聞けば黙っていられません。数日後、ようやく面会が叶った億恵は《猿舞組》に官舎家への報復を申し出ましたが、すでに調べ上げていた半沢の名前を《猿舞組》が出し、更に『半沢は犬祭組と関係しているのか? 奴らに金を渡したのか?』と逆に一方的に質問をぶつけられました。当然億恵はそんなこと知りません。ですがそれを、口を閉ざした、と判断した《猿舞組》はその後、これも無意味に、獄中の構成員を使って億恵や兆、飯山に吐かせようとしました。億恵にとって、《猿舞組》はもはや味方でもなんでもなくなっていました」
 《猿舞組》は甘夏が流した嘘の噂を信じてしまっていた。何せ、実際に億恵には半沢という男が居て、しかも彼はこの数日前、東京のアパートから何もかもを残したまま姿をくらませていたのだから。
「《猿舞組》が空港周辺で集めた目撃情報には『それらしい男が沖縄行きの便に乗った』というものがありました。しかし広まっていた噂とゴシップ記事では、『北国へ行った』とある……。ですから《猿舞組》は東北と北海道、そして沖縄に多くの構成員を送りました。縮小気味だった《猿舞組》としては何十人もの構成員を北と南に派遣するのは中々の投資でしたが、三年前に匿名で送付されてきた扇家の経済状況を示す資料から、そうするだけの財産がまだ扇家には有ると睨んでいました。そして《猿舞組》が構成員を各地に大勢送り込んだ、という話はやはり《犬祭組》の耳にも届きました。《犬祭組》は当然半沢なんていう男を匿った事実はありませんでしたし、扇家の財産の事も知りません。しかし『《猿舞組》がこれほどやっきになって探しているという事は、その扇家の隠し資産とやらもおそらくは馬鹿に出来ない額のはずだ』と捉えた彼らは、遅れじと構成員を沖縄と北海道に配備しました。そうして《猿舞組》と《犬祭組》による、あるはずのない隠し財産の、命を懸けた壮絶で滑稽な奪い合いが始まりました」
 それからはずいぶんと愉快そうな口調で《グラシャ・ラボラス》はその顛末を語った。
 北国、という曖昧な範囲のために東北と北海道に配備された構成員はどちらの組もかなり多かった。しかし当時北海道は冬に入ったばかり。送り込まれた彼らは広すぎるその大地を、北国で過ごすための予備知識もろくにつけず、また計画性も無く、ただ『あちらの組に先を越されてはならない』という焦りからがむしゃらに駆けずり回り、結果、過労と慣れない環境で体を壊し、主要な都市を回って情報を集めていただけに関わらず、その冬だけで半数以上が病死した。多少暖かくなった春先では山への捜索も始めたが、当然山道は雪が溶けきってなどおらず、加えて冬眠から覚めた野生動物の危険性すら甘く見ていた彼らはこれでまた大勢行方不明となった。
 現地と東京とで、あまりにも大きな認識のずれがあった。東京から指示を出すだけの両組の組員達は北海道がどれだけ広く、そしてその冬というものがどれだけ過酷であるかを理解していなかった。
「そうして半沢も隠し財産も見つけられないまま、半年が過ぎた頃でした。東京で《犬祭組》の組長が《猿舞組》の鉄砲玉に殺されました。《猿舞組》の組長も今で言うアルツハイマーを患っていて、当時はほとんど若頭が取り仕切っていましたが、それでも組長が生きているのといないのとでは違います。勢い付いた《猿舞組》は青梅市をまるごと奪おうと《犬祭組》へ総攻撃を仕掛けました。とは言えこの時点で両組共にかなりの人員が北の地に居て、また失われていましたから、規模としてはそう大きい抗争にはなりませんでした。ですが可笑しい事に、その抗争は双方の若頭が死んで無様にも痛み分けで終わった上、都内で進められていた暴力団規制運動をより強める結果となり、《猿舞組》も《犬祭組》も活動が一気に縮小、今では互いに看板が下がっているだけのこじんまりとした事務所があるだけで、どちらの組も構成員は二桁と落ち込みました。未だに扇家の財産を信じて北海道と沖縄に数人居ますが、彼らも現在は帰化して現地での落ち着いた生活をしています。しかしながら……」
 《グラシャ・ラボラス》は一つ区切るように息を吸うと少しばかりその声を低くした。
「きっかけとして両組の抗争が元で東京都の暴力団規制運動に対する世論は強まりこそしましたが、そうでなくても警視庁では近々それに先立って都内各地の暴力団事務所を対象としたガサ入れが予定されていました。警察の一部は扇家と裏で癒着の関係にありましたが、《猿舞組》や《犬祭組》とは別に仲良くも、同盟を組んでいた訳でもありませんでしたからね。ただ半沢章吾の事で《猿舞組》と《犬祭組》の構成員が想定外なほど大勢他県に移ってしまっていたので、警察は様子見として踏み込みを延期してましたが、結局は翌年、両組の若頭が死んだその夏の抗争を以って摘発は行われるに至りました。……甘夏はその警察の動きを知りませんでしたね。だからこんな計画を実行に移した。そうですね?」
 問いかけに甘夏は静かに頷いた。
 事実だった。扇億恵の逮捕後に問い詰めた際、甘夏は父から、警察が近く暴力団組織に対し一斉摘発を予定していた、などという情報を聞かされていなかった。ただ当然と言えば当然だった。ガサ入れの日程など、家族と言えど話して良い内容ではない。
 しかし治憲がそれを話してくれてさえいれば、甘夏はこんな馬鹿なことをせずに済んだのも確かだった。億恵の逮捕後、何もしなくても近日中に警察が動いてくれて《猿舞組》が多くの逮捕者を出し縮小するであろう事を知っていれば、クラスメイトを生贄に大勢の人間が死ぬような未来をまだ二十一歳だった甘夏が背負い、この歳まで苦しむ事もなかった。
 だが現実はどうしようもないほどに甘夏の行動の結果で流れていった。半沢章吾は行方不明、《猿舞組》と《犬祭組》の眼は半沢へと向けられ続け、そして両組は半年でほぼ壊滅状態に陥った。扇億恵が逮捕された事で《猿舞組》から官舎家へ報復があるかもしれない、という可能性は、甘夏の思惑通り消え去っていた。全てが全て、思い通りに。
 ……だからだろう。二十七年前に官舎家の長女が企てたそれはあまりにも想像を超えていたらしく、幸辰も、ひづりも、紅葉も、みな呆然とした顔で甘夏の横顔を見つめていた。
「一つ、聞いてもいいかしら」
 映像の消えた星空の中、甘夏は徐に顔を上げて《グラシャ・ラボラス》に訊ねた。
「……章吾くんは、どうなったのかしら」
 《グラシャ・ラボラス》は何の気無しに答えた。
「死にましたよ。沖縄を出た後、彼は長崎の島原で漁船員として働いていましたが、逃避行から三年後の一九九二年、夏日の朝でした。《猿舞組》の構成員に見つかり、財産の隠し場所を聞き出すための尋問と拷問を受けている最中に絶命、その後、夜を待って海に捨てられました。最期まで彼は億恵が助けてくれると信じていましたし、手紙も指示通りとっくに処分していました。手紙が残っていればその筆跡から億恵のものではない、と、まぁその時にはもう手遅れでしたが、《猿舞組》も一応気づけたかもしれません。しかし人を探すならともかく、一人の人間が捨てた一通の手紙を東京から沖縄までの道中で見つけ出すことなど、人間にはまず無理です。……あなたの痕跡はどこにも残らず、誰に悟られることもなく、半沢章吾は死にましたよ」
 甘夏はうつむき、堪えきれない感情に苛まれた。
「そう……そうなのね……」
 悲しい訳ではなかった。むしろその逆だった。
 半沢が死んでいた。無事に死んでいた。甘夏の証拠を何一つ残さず、とっくの昔に死んでいた。
 このような悪魔めいた計画を立てこそすれ、しかし甘夏には当時、得られなかった警察の情報と同じく、二つの暴力団の内情や、半沢の消息を確認する手立てというものが何一つ無かった。
 だから甘夏は以降、毎日を怯えながら過ごす事になった。自分の行動が見咎められる日が来るのではないか、家族が暴力に晒される日が来るのではないか、と。毎日、毎夜、震えて過ごした。
 しかし。
「良かった……」
 あの日、甘夏が企てたその計画は全て、驚くほど理想的に達成されていた。それを今日ようやく知ることが出来た。まさかほぼ三十年越しに、本物の《悪魔》の口からその結末を聞く事となるとは思わなかったが。
 しかし半沢は死んでいた。ちゃんと死んでくれていた。甘夏にはそれだけが心配だった。安堵が胸のうちを埋め尽くしていた。
 甘夏はずっと、半沢が最期まで手紙の送り主が億恵でない事に気付かず、また何も知らずに殺される事を望んでいた。そして《猿舞組》か《犬祭組》のどちらかが、何も掴まずに半沢を殺す事を望んでいた。あるいは半沢が二つの組に発見されないままどこかで飢え死にしてくれていることを願っていた。
 半沢と甘夏の間に過去何かがあった、という訳ではない。彼はあまり人に好かれない性格ではあったが、甘夏はそういった相手とも適度な距離を保つ術をそれなりに持っていた。ただのクラスメイトで、普通の知人関係だった。だが計画を実行に移した後は、甘夏は家族のため、彼の死をひたすらに願って来た。
 そして同時に自覚していた。彼の末路をいつか知った時、自分はこんな風に、心の底から安心するであろう事を。
 もはや真っ当な人間の感性ではなかった。怯え続けたこの歳月によって自身の感情が酷く歪んでしまっている事を甘夏は一人、誰にも打ち明けることも出来ず受け止めるしかなかった。
 甘夏が想定していた恐怖は、つまり一つだけではなかったのだ。あまりに甘く見積もりすぎていた。半沢の人生を犠牲にして二つの暴力団を同士討ちさせ、大勢の人間を苦しんで死ぬ未来へ導く……その罪悪感を背負って生きていくことは最初から覚悟のうちだった。しかしそれだけでなく、もしいつか自分の犯した罪が全て明るみになった時、自分のその歪んだ感情も確実なものとなって、余す事無く親族に知られてしまう……。その二つだった。それが甘夏を畏懼させるようになっていた。
 だから甘夏は顔を上げることが出来なかった。過去を知るというこの《悪魔》によって、唯一の不安の種であった半沢の確実な死という情報を得た今、自分はきっと泣きながら幸せそうに笑っている。それが分かる。そんな醜悪な表情を浮かべた面様で、どうして愛する弟の顔を、真っ当に育ってくれた姪の顔を見る事など出来るだろうか。どうにもならないほどに胸を空くその強烈な感情と共に、真っ黒な喪失感が甘夏の心を埋めていっていた。
 にわかに一つの足音が甘夏の正面へ来て、止まった。うつむいたままの甘夏の眼が、スニーカーに通された少女の両足を映した。甘夏達は部屋で過ごしていた時に連れ去られて来たため、この場で靴を履いているのはひづりだけだった。
「……そんなことがあったんですか」
 普段よりずっと静かなその姪の声を、甘夏はほとんど放心状態の頭で呆然と聞いた。きっとこれが姪から掛けてもらえる最後の言葉なのだろう、と思いながら。
 ひづりはとても可愛いらしい声をしている。中学生になった頃から少し物ぐさな話し方をするようにはなったが、それでも父親に似たその柔らかな音の使い方はまるで変わっていない。
 これが最後。きっともう、彼女が自分の名前を呼んでくれることはない。甘夏さん、と、甘えるような声で呼んでくれることは、もう……。
「つらかった、ですね」
 その一言と共に、ぽたり、と何かがひづりの足元に落ちた。蛍光灯一つばかりの薄暗い公園の土に、二つほど小さな濃い点が描かれていた。と思っているとそれは三つ、四つ、と増える。
 甘夏は思わず顔を上げた。そして眼を見開いた。
 ひづりが泣いていた。美人さんのその顔を泣きっ面に歪め、真っ赤にした目元からはぼろぼろと涙を零しながら酷く儚げな佇まいで甘夏の眼前に立っていた。
「ありがとうございます……。父さんや、母さんや、私たちのために、今までずっとそんな大きなもの抱えて……。重かったでしょう、苦しかったでしょう。長い間……一人で……」
 ひづりはおもむろに甘夏の肩に両腕を回して抱き寄せた。
「つらかったですね。ずっと、つらかったですね……」
 そして自身の首元に甘夏の鼻先を押し付けた。
「ひづり……ちゃん……」
 ……駄目だ。
 こんな風に優しくされる資格など、自分にはない。
 そうだ。自分は人を死なせたのだ。大勢死ぬと分かっていて、そうした。その罪をずっと隠し続け、今日まで逃げ続けて来た。
 『つらかったね』なんて、そんなことを言ってもらうべき人間じゃない。
 優しくて、正しい行いを愛する姪に、そんな事を言わせてはいけない。
 ……そのはずなのに。
 甘夏は視界が一気に滲み、ひづりと同じくその両目からとめどない涙が溢れていた。鼻と目の奥がたまらなく熱く、何も考えられないままに姪の肩や襟を濡らしてしまっていた。
 この官舎ひづりという少女はとても優しいのだ。昔から人の悲しい気持ちを、痛みを、まるで自分の事のように感じ取っては涙を流す、そんな子だった。
 それが堪えられないほどに胸を打つ。甘夏の心を解かしてしまう。感情を曝け出させてしまう。
「……甘夏さんは、私達に嫌われるのを心配していましたね」
 鼻をすすりながらひづりが言う。
「でも、やっぱりそんなことないですよ。私達のために甘夏さんがしたことを、甘夏さんがそのせいでこんなに苦しんでた事を、どうして責められますか。どうして見捨てられますか。こんなに追い詰められていた甘夏さんを、どうして……」
 甘夏を抱きしめる彼女の腕にまた少し力が込められた。
「私が本を好きになったのは、甘夏さんが幼かった私に、何度も本を読んで聞かせてくれたからです。たくさん、本や文字について教えてくれたからです。かっこよくて、優しくて、頭が良くて……そんな甘夏さんに私は数え切れないほど大切なものを貰って、そうやって今の私があるんです。ずっとずっと甘夏さんに憧れて来たんです。これくらいの事で嫌いになるわけないですよ」
 震えた声で息を漏らしながらひづりは優しく甘夏の頭を撫でた。
「それに、甘夏さんのしたことを私は責める立場にはありません。私や父さん、紅葉さんを守るためにした事なら、初めから私たちも共犯です。甘夏さんが怖かったことも、頑張ってきたことも、きっと消えないその罪悪感も、これまで抱えてきたもの全部、私、憶えてます。この先ずっと、憶えていますから……」
 甘夏にはもう何も分からなかった。揺れすぎた感情の波のせいで脳がちゃんとした思考を果たせずにいた。
 今、《悪魔》によって官舎甘夏の犯した罪の暴露が、家族の前で成された。甘夏はそれを、特にひづりに知られる事を恐れて生きて来た。
 けれど彼女は、それでも良いと言う。父親譲りの優しい声で、そんな事を言ってくれる。
 ……良いの、だろうか。どちらにせよ甘夏にとっては予想外の事態に違いなかった。己の犯した罪が家族に知られる事と、世間に明るみになる事、それは同時に行われる事象であろうと甘夏はずっと考えて生きて来た。けれど今成されたのはただの片方のみなのだ。
 なら、甘夏は現時点でその行いを世界から罰される事はない。この場の誰かが通報しない限り、官舎甘夏の犯した罪は白日の下に晒される事は無い。官舎の名に傷がつき、親族の生活が危ぶまれる事もない。生き残りの《猿舞組》や《犬祭組》からの報復を恐れる必要も無い。
 甘夏の罪は罪のまま、ただその事実だけが、この場の親族に明らかにされただけ。
 断罪ではない。そして甘夏が知る事が叶わなかった事実を明るみにしただけ。
 抱え続けたその恐怖が除かれただけ……。
 甘夏は《グラシャ・ラボラス》を振り返った。彼女は得意げな顔で眼を細め、語った。
「最初に言ったはずです。ひづりはあなたを嫌ったりはしません、と。ここは裁判所でもなければ、純然たる《人間界》でもありません。そしてひづりは今、あなたに対しその思いの丈を全て打ち明けました。であれば、あなたが口にするべき答えは一つでしょう。次は、あなたがひづりに対しどうしたいのか、それを語る番なのですよ」
 暗がりの広場を映していた甘夏の眼がにわかに無数の光の帯を見た。それは複雑に入り組んで連なり合い、視界いっぱいに六角形の羅列を描いた後、それぞれの内側にあのデジタル時計を浮かび上がらせた。加速していた時刻表示は全て異なる日付と時間で止まると、やがてゆっくりと正しい速度で動き始めた。
「これは……」
 捉えきれないほどに広げられたその六角形の窓の群れを広場の誰もが顔を上げ眺めた。何百という数の《過去》を流すそれらのモニターには今、ただ二人の登場人物だけが映し出されていた。
 ひづりと共にその膨大な映像の数々を見上げた甘夏は思わずその口唇から息を漏らした。
 一つは、ひづりが十歳くらいの夏の午後。彼女は少々ふらつきながらも上手に自転車に乗っていて、それを少し離れたところで眺める甘夏はとても嬉しそうな顔で拍手を送っている。
 一つは、ひづりが千歳烏山の官舎宅で真新しい中学の制服を着ている映像。成長を実感するその姪の姿に甘夏は思わず涙を零し、ひづりが驚いている。
 一つは、ひづりが五歳くらいの雪景色。初めて見る降り積もった雪に彼女はおっかなびっくりしながら、それを手に取り、甘夏に見せている。
 一つは、去年の九月十四日、ひづりの十六歳の誕生日。南新宿の官舎宅へお呼ばれした甘夏が毎年の様に泣くのをひづりはもう慣れた様子で、しかしそれでもつられてその目を少し潤ませ、鼻も赤くしながら困ったように笑っている。
 そして。
 その数え切れない映像の窓の中、やけに似通った物がいくつも認められ、甘夏は気づいた。
 お盆の飾りつけをする甘夏とひづりを映した景色。中学生くらいのひづりがそこに映っている物もあれば、隣のはもっと幼かったり、少し離れた所に置かれたものはほとんど今と歳の変わらないものであったりした。
「ひづりは、あなたと一緒にお盆のお飾りを仕上げるのを、毎年楽しみにしながら帰省しています。あなたと二人きりで行うこの作業が、ひづりにはとって年に一度の特別な時間なのです。甘夏、あなたはどうなのですか。ここに映っているのは今年の分までです。今月の十日、二〇一七年のあなたとひづりを映したのが最新で、現段階では最後の物です。ひづりはこれが来年には一つ増え、再来年には二つ増え……そうしてこれからもずっと増え続けていくことを望んでいます。もう一度言いますよ。此処は《悪魔(わたし)》が差配する、あなた達の告白の場です。間違っても人間の罪を裁く法廷などではありません。故に甘夏、あなたが望んでいることをちゃんと言葉にしてひづりに教えてあげてください。あなたにはその責任があります。伯母として、ひづりから深く愛されている人間として」
 はっきりと力強く、過去を知るその《悪魔》は甘夏へ厳かに言い渡した。
 甘夏は呼吸が定まらなかった。この十七年間見続けた、見守り続けた、愛しい姪との思い出。
 自分は、彼女のそばでこんなにも幸せそうな顔をしていたのか。
 前が見えないほどに涙が零れ、嗚咽を漏らしながら甘夏はひづりの体にすがりついた。
 この二十七年間、毎日を慌しくしていないと駄目だった。常に予定を入れて意識を何かに向けていないと、背負った罪の意識に押しつぶされそうで、とても正気を保てなかった。
 がむしゃらに仕事に打ち込み続けた。定期的な海外旅行や、更には家の改築という、金が掛かる上に際限の無い趣味を持つ事で、自身をいつも金策の必要がある状態に置き続けた。
 しかしそのせいで時間に余裕が出来るとすぐさまそのスケジュールを埋めてしまう癖がついてしまい、男女交際というものをまるで楽しめず、特定の相手と長続きする事が一度もなかった。三十路の当時、長女として両親の期待に応えなくては、という焦りは甘夏の心を酷く病ませた。
 けれど弟の次女、姪のひづりが生まれてから甘夏の世界は変わった。成長するにつれ弟に性格が似ていく可愛らしい彼女の笑顔は甘夏の一番の宝物となった。正月やお盆といった、娘を連れて弟が官舎本家へ帰省する期間、年に一ヶ月も無いその期間が、甘夏にとって一年で最も重要な時間となった。自分に結婚が望めそうに無いならば、両親になんと思われても良いから、この愛しい姪の幸せのために自分は全てを尽くして生きよう、と、そう思うようになった。
 半沢たちにした事を隠し通さなくてはいけない日々、扇家と《猿舞組》からの報復に怯える日々、自身の歪みと向き合わされ続ける日々……それらは長年苦痛として甘夏のそばに常にあり、一体何度人生を自らの手で終わらせようか考えたか分からない。けれど十七年前にひづりが生まれ、彼女にとっての良き伯母であろうと己を奮い立たせた日々は、その尊く輝かしい日々は、決して辛苦や懊悩などではなかった。
 幸せだった。最愛の姪、官舎ひづりと一緒に生きたいと思った。毎年お盆とお正月、そして彼女の誕生日に会えるその幸福な時間さえあれば、甘夏には他に何も要らなかった。
 自分はこれからもそれが欲しい。ずっとひづりちゃんの伯母で居たい。
 愛していたい。
 この子に、これからも愛されていたい。
「ひづりちゃんは……私のこと、まだ好きでいてくれるの……?」
 甘夏が零した涙声の問いに、ひづりは穏やかな笑みを、その母親似の顔に浮かべて見せた。
「もちろんですよ、甘夏さん」
 ……ああ、まだ君は私のことをそう呼んでくれるのか……。
 それなら……。
 甘夏はひづりをぎゅっと抱きしめ、心の底からの本音を吐露した。 
「私も……来年も再来年も、ひづりちゃんと一緒にお盆のお飾りの準備、したい……。これからも、ずっとずっと、ひづりちゃんのお姉さんで居たい……」
 それはあまりにも情けない告白だった。かつてのクラスメイトや名も顔も知らぬ人々を冷酷にも故郷から遠く離れた地で死に至らしめた女が、こんな人間じみた言葉を口にしている。
 けれど《グラシャ・ラボラス》が先ほど言った通り、これは官舎ひづりを愛し、そして愛されて生きて来た自分が、いつか必ずこうして伝えねばならない事だった。この先どうなるとしても、この愛しい姪のために伝えねばならない言葉だった。
「……あたしも、ひづりちゃんがそう言うなら共犯で良いよ」
 おもむろに隣の紅葉がそんな言葉を転がして来た。顔を上げた甘夏と眼が合うと彼女は眉間に深く皺を寄せて語気を荒げた。
「姉貴のためじゃねーからな。ひづりちゃんが姉貴のこと好きなの知ってるからだし……それにひづりちゃんこういう事では絶対引き下がらないタイプだってのも知ってるし。……何より、姉貴のやった事がバレたら、まだ生き残ってる《猿舞組》やら《犬祭組》やらに狙われることになるんだろ? そんなの御免被るよ。だったら、ひづりちゃんが共犯になるって言うなら、あたしも共犯で良い。さっきの話は誰にもしない。それだけ」
 そう言って唇を尖らせて腕を組むと彼女はそっぽを向いて黙り込んでしまった。
「姉さんがそんな事してたとは知らなかった。きっと父さんが聞いたら目を剥いていただろうね」
 続けて幸辰が静かに、少し冗談めかして言った。その顔は甘夏が思っていたよりもずっと涼しげで、迷いの色は僅かも見受けられなかった。
「ひづりは姉さんの事が大好きだ。それが俺は嬉しい。それに姉さんはあの頃、俺や万里ちゃんのために、そうしてくれたんだろう? なら、俺もひづりや紅葉と同意見だ」
 紅葉の肩にそっと手を乗せ、彼は頷いた。
「わ、わたくしたちも同意見ですわ! ね、お父さん!?」
 花札千登勢が叫ぶように言いながら隣の父親を振り返った。
「……甘夏さん。あなたがしてくれたことは、幸辰くんと交際していた万里子のためでもあったのでしょう……? なら、あの頃万里子のために何もしてやれなかった私が口を挟むことなど一つもありません」
 促された花札市郎もそう続けて瞼を伏せた。
「甘夏さんがひづりと疎遠になって心を病んで自首なんて馬鹿なことして投獄されて、そのせいでうちの店の評判まで悪くなったりしたら困りますし、私は最初からひづりと同意見でしたよ。ええ」
 最後に吉備ちよこが悪党の顔で微笑んだ。……幼い頃に素質を感じ、つい『人を使う術』なんてものを教え込んだのが間違いだっただろうか、と甘夏は思わずもう片方の姪への後悔を想った。
「ふふふふふ。どうやら命を捨ててでも甘夏の過去の罪を責め立てる様な正義の人間は、この場には一人も居ないようですね? ええ、《悪魔》と関わった人間の話し合いとしては実に真っ当な顛末です。まぁ、もしそんなバカが居たら望み通り殺してやるところでしたが。とにかく意見は一致しました。ねぇ、ひづり?」
 《グラシャ・ラボラス》が明るい声音で促すようにひづりに声を掛けた。それに頷き返すと彼女は改めて甘夏に向き直った。
「ごめんなさい、甘夏さん。とんでもなく今更ですけど、ラウラの言う通り、私も本当はすごく悪いやつなんです。《悪魔》と一緒に働いてたり、契約してたり、友達だったりするんですから。もしかしたら甘夏さんよりずっと酷い人間かもしれません。でも、私はやっぱり関わりをやめる気はないんです。天井花さんも、《ヒガンバナ》さんも、ラウラも、……ここには居ませんけど、あとの二人も、みんな素敵な人たちばかりなんです。ですから」
 ひづりは甘夏の両手をそっと握った。
「悪いことなんて、本当に今更なんです。私達みんなが共犯です。《悪魔》と関わった私達と一緒に生きていくことを、どうか受け入れて下さい。これからも私の甘夏さんで居て下さい」
 甘夏は《グラシャ・ラボラス》を見た。彼女は、もう結末を知っている、という顔で二人の事を見ていた。実際甘夏が出すべき答えなどたった一つだけで、他の選択肢などあるはずもなかった。
 甘夏はひづりの両手を握り返した。
「誰にも、譲ったりしないわ……。ええ、私はこれからも……ずっとずっと、ひづりちゃんだけの、なっちゃんお姉さんだもの……」
 そして泣き濡れた顔にどうにかの笑顔を浮かべて見せた。
 今日、親族と姪を共犯者にしたその罪が甘夏の背には加わった。けれど同時に甘夏の背に圧し掛かり続けていたそれらは今日を以ってひづりに、ちよこに、幸辰に、紅葉に、花札親子にも分け与えられる事となった。その罪は甘夏一人のものではなくなった。
 ひづりは『私が憶えている』と言ってくれた。そして『これからも私の甘夏さんで居て欲しい』と。
 これ以上に嬉しい告白が果たしてこの世にあるだろうか。
 今夜、この場の全員が法で裁かれるべき行いをした。悪魔の所業を受け入れ、秘密にした。
 それでも今、甘夏の心はまるで快晴の夏空の様に清々しい色で満たされていた。
 自分はこれからも人を死なせた罪悪感を償う事も無く、依然背負って生きていく。世に知られれば親族の身まで危うくなる以上、それ以外の道は無い。
 きっと間違っている。正しい行いからは程遠い。けれど。
 最愛の姪が、全てを知った上でそれでもまだ一緒に居て欲しいと言うのだ。一体どうして自分にそれを断ることなど出来るだろう。否定出来るだろう。逃げ出すことが出来るだろう。
 いつか命が尽きるその日まで、私は何としてもこの罪を隠し通し続けよう。抱えて生きる事を皆が許してくれるなら。もう一人じゃないのなら。
 これからも私は悪人として、そして全霊を以って、官舎ひづりの良き伯母でいよう。この子に願ってもらえる限り、いつまでも――。
「……私の姪に生まれて来てくれて、ありがとう……」
 甘夏はひづりの頭を抱き寄せて柔らかなその黒髪を優しく撫でた。
 揺るがない決意の想いが、二十七年ぶりに甘夏の胸に太い根を張っていた。



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